笑うふたりに明日来たる
11/5/2017
終電も眠りについた深夜、駅の入り口のシャッターの前で、彼は座り込んでいた。その手足の、長さに似合わない滑らかな曲線を見ると、まだ学生だろう事がわかる。自転車を引いて歩いていた亀甲貞宗は、そのままキコキコと錆びた音を立てながら彼に近づいて行った。そうしてすぐそばに立ち止まってみても彼が顔を上げる事はなく、高い位置でくくられた長い髪は柳のように彼の背と顔を守っていた。
「どうしたの、大丈夫?」
もともと穏やかな人となりではあるが、亀甲は更に努めて柔らかく声を出した。座り込んでいた彼は、ただ、しっかりと頷いた。
「飲みすぎたの?気分悪い?」
そう尋ねれば、頭を左右に振る。
「始発で帰るの?」
その問いには、彼は何の反応も返さなかった。ふむ、と亀甲が姿勢を変えると、古い自転車はキイと鳴った。その音にか、彼はゆっくりと顔を上げる。泣きはらしたように、目元と鼻が赤かった。
「…振られちゃった?」
静かに静かにそう聞けば、彼は口元を震わせながら頷いた。亀甲は自転車をその場に立てて、再び俯いた彼の前にしゃがみ込んだ。そして彼の膝の間からその顔を覗き込む。
「さみしいね」
こくりと彼が頷くと、ほろりと彼の目から涙が落ちた。亀甲はぽんぽんと彼の肩を優しく叩くと、その腕を引いて立ち上がらせた。
「未成年?」
たずねると首を横に振るので、念のため免許証を見せてもらった。亀甲より二つ年下だったが、成人はしていた。
「さみしい夜のごまかし方、知ってるよ。うちにくるかい?」
亀甲がそう尋ねると、彼は顔を上げた。その駅は、繁華街の近くにあって、数分も歩けばいわゆるラブホ街になる。こんな時間に錆びついた自転車を引いて歩く亀甲がどのような人物なのかは、推して知るべきだろう。きっと彼は、そんなような事を考えたはずだった。しばらくの後、彼は諦めたように頷いた。自棄になったのかもしれなかったし、前に進もうとしたのかもしれなかった。
「名前は?」
「…青江」
初めて聞いた声は、涙に濡れたせいだけではなくしっとりとして、予想外に低かった。
「僕は亀甲。さ、行こう」
何も気にしない様子で再び自転車を手にした亀甲は、青江を連れて歩き出した。
それから亀甲は青江を連れて、数分歩いたところにある個人経営のレンタルDVDショップに赴いた。年末年始にやっている、笑うとバットで殴られる番組のDVDや、芸能人がおかしな目隠しをしてワインや肉を食べたり、音楽を聴いたりする番組のDVDをレンタルした。青江は何も言わずにそれを見ていた。
それから亀甲は青江を連れて、自宅へ戻った。自転車はひいたまま、少し長く歩いた。ぐらつく鉄製の階段をできるだけ静かに登って、冷たいアルミのドアを開けて、閉めた。
部屋の中は片付いていた。必要最低限の家具と家電に囲まれて、ちいさなちゃぶ台があった。青江はそこに座らされて、出された麦茶に口をつけた。
それから夜が明けるまで、二人は借りてきたDVDを並んで見た。いつの間にか二人で大笑いをして、それこそ涙を流しながら笑っているうちに、いつの間にか朝が来ていた。どことなくすっきりとした青江は、借りたコップを洗って、ぐしゃぐしゃになっていた髪を結い直して、顔を洗わせてもらって、それから帰る事にした。狭い玄関で靴を履いて顔を上げると、最初から最後までずっと笑っている亀甲と目が合った。亀甲がなぜ自分を連れて来たのかも、いつもこういう事をしているのか、そもそもどういう人間なのか、青江は何も知らなかった。
「ありがとう」
知らなかったけれど、さみしくてどうしようもない夜をなんとかしてくれた事は確かだったので、心から感謝をした。
「うん」
亀甲は相変わらず笑うだけで、早く帰れとも、まだ帰るなとも言わなかった。日光のせいですこし温まったドアを開けて、青江は一歩、外に出た。どこかでカラスが鳴いた。
「…また来てもいい?」
青江がそう尋ねると、亀甲は眉をハの字にして困ったように笑った。
「だめだよ」
「どうして」
「僕にはご主人様が居るんだ」
亀甲はそう言いながら、少しだけシャツの襟元を緩めた。ここに至るまで青江は全く気づかなかったが、彼は革製の何か、ベルトの複雑に組み合わさったようなものを、シャツの下に着ていた。
「そういうの、初めて見た」
素直にそう言うと、亀甲はまた少し笑った。
「また来るね」
青江はそう言って、亀甲の返事を待たずにアパートを後にした。帰り道はよくわからなかったが、スマートフォンの地図アプリのおかげでなんとかなったし、亀甲のアパートの場所を保存しておくことも忘れなかった。
少しずつ目を覚まし始める大通りが、路地裏を影へと追いやっていく。駅へたどり着くと、昨夜あんなにも青江を拒んでいたシャッターはすんなりと開いていた。さすがに眠い。青江は改札を通って、ホームに立った。もうすぐ、電車がやってくる。
二十四時間しない間に、色々な事が青江には起こったと思う。大好きだった人に振られて、知らない人に連れて行かれた。何が起こるかと思えばDVDを見てただひたすら笑って、その後その、知らなかった人のことを少しだけ知った。
電車がやってくるというアナウンスは、聞き慣れすぎて耳にも頭にも入ってこない。けれど、覚えたばかりの亀甲の顔は、簡単に脳裏をちらついた。ぶわりと風を引き連れて、電車は青江の前で止まった。シャッターの前で立ち止まった、亀甲のようだと思った。青江は迷うことなく電車に乗り込んで、空いた車内ですんなりと腰を下ろした。この電車は、青江を自宅の最寄駅までつれていってくれる。亀甲は、青江を今日という日まで連れて来てくれた。
また、会いに行こう。
そう心に決めて、青江は目を閉じる。
~おわり~