七つの夜を渡る

3/12/2025




 運が良かった。紫鸞はそう思った。


 戦勝の酔いが覚め、皆が新しい日常を始めようとしている頃だった。紫鸞は遣いを頼まれた。片道三日ほどの目的地に、けれど自分ならばもう少し早く到着できると告げた時、周瑜は少し曖昧に笑った。あまりに早く到着すると事前より備えていたと疑われかねない、遅れる分には構わないが、必ず三日はかけてくれ、と告げられ、そういうものなのか、と思った。先に報せをやるので出立はすぐでなくてよいと言われて支度を整えている間に、たまたま、本当にたまたま白鸞が姿を見せた。これ幸いと同行を願い、断られてなお縋り、頼み、頼み、頼み込んで、何がお前をそうさせるのだと半ば呆れた白鸞からなんとか了承を得た。一度でも諾と言わせれば、白鸞は適当な理由でそれを反故にすることはしない。紫鸞は機嫌よく支度を整えた。目的地での滞在も二晩程度と短い旅の予定なので、元化は彼の弟子と一緒に留守を預かることとなった。もしかしたら休暇を与えられたのかもしれないと気づいたのは、馬を引いて城門を出て、山道が始まろうとしたあたりで白鸞が合流した時だった。二人ともが身軽で、けれど白鸞もさすがに馬を連れていた。どこの馬なのか、紫鸞には知る由もない。輝かしく整備されているとは言い難い旅路は、けれど毎晩屋根のある場所で寝られる予定になっている。屋根があるということは人があり、宿があるということは旅人も少なくないということだ。たとえ宿が無くとも食べられる木の実も野宿の方法も知っているし、もし貨幣が使えず物々交換が必要であれば、獣を狩って肉や皮を売ることもできる。旅慣れた二人は、難も苦もなく歩き出した。


 半日も歩くと、最初の街に到着してしまった。遅れても良いが、早いのはだめだと言い含められている。馬を預け、そのままふらりとどこかに消えそうになった白鸞を慌てて捕まえて宿を訪ねた。その頃には、白鸞は髪をまとめて頭巾を被っていた。見慣れなさはあるが、意図はわかる。できるだけ目立ちたくないのだ。何も気にせず戦場で暴れていた自分とは異なる数年間を送ってきたのだなと、紫鸞は思うだけ思って終わりにすることにした。過去はどうあっても変えることはできない。

 宿に荷物を落ち着けると、やることもないので連れ立って街中をぶらついた。買い求めた桃を齧っている時、走ってきた子供が白鸞にぶつかった。おっと、と言いながら体勢を崩し、そのあと子供を気遣う。避けることなど造作もないだろうに。すぐに足音を消してしまい元化に驚かれる自分とは違い、白鸞は常に気を張っている。もしかしたら、もうずっと、出会った頃からそうなのかもしれなかった。部下を持ち、彼らと話していて気づく事は多い。きっと、昔の白鸞がそうだったように。

 陽も落ちたので宿に戻り腹を満たすと、白鸞は少し出てくると言って姿を消した。着いて行きたかったが、白鸞にも白鸞の事情があるのかもしれない、とやめておいた。宿に、白鸞の荷物が残っていることだけは確認した。もし戻って来なかったら探しに行けばよい。近くにはいるのだろうから。紫鸞はそう考えて、いつもしているように適当な椅子に座って、あくびを噛み殺した。

「…紫鸞」

呼ばれた名に意識を掬い上げられ、眠っていたことに気づく。ぱちりと目を開けて顔を上げると、白鸞が腕を組んで立っていた。冷たい水の香りがする。どこかで水浴びでもしてきたのかもしれない。髪は、濡れてはいないようだった。

「牀がある。寝るならきちんと休め」

朱和のような事を言う、とは声には出さずに、白鸞が使うといいと言うと、白鸞は眉をしかめた。

「お前のために用意された宿だ。役目があるのもお前だ。きちんと休め」

白鸞の頑固さは知っている。紫鸞が立ち上がって伸びをすると、どこかがぽきりと鳴った。それみたことかと言いたげな白鸞に、では一緒に使おうと提案すると、あからさまに嫌そうな顔をされ、少し傷ついた。白鸞はいつも仏頂面だが、表情は豊かだ。特に紫鸞に対しては。

「私はもう子供ではない。狭い」

そんな事を言うから、でも自分よりは細いから大丈夫、と手を取ると、まだ育つ、いずれ黄蓋ほどになると返ってきた。紫鸞は少しおもしろくなってしまって、小さく笑った。白鸞の機嫌はどんどん悪くなっていくが、幸か不幸か、紫鸞が手を掴んだ時点で白鸞に勝ち目はない。力ずくで寝台に押し込んで、さらに力づくで自分も入り込んだ。まだまだ育つそうなので、ならばと白鸞が子供の頃にしていたように抱き抱え、肩と腹をぽんぽんと叩いた。朱和が白鸞を寝かしつけるために刷り込んだ技だと聞いている。こうすれば、すぐに眠るはずだ。

「!待て、しらん…」

気づいた白鸞が文句を言い終わるより前に、その息は落ち着いた。恐ろしいほどすとんと眠った白鸞に少し驚いて、この秘密は絶対に漏らしてはいけないと思った。目の前で、腕の中で、白鸞はくたりと曲線になっていく。完全に寝入るまで肩と腹をぽんぽんと温めてやって、それから帯と襟元をゆるめてやった。自分の足を使ってなんとか靴も脱がせ、それから結った髪が紫鸞の鼻にぶつかるので髪紐も解く。起きたらどうせ怒られるのだから、好きにした。白鸞からは、わずかに水の香りがするだけだった。白鸞が生きるために気をつけている事がどれほど多いのか、紫鸞が知る事は、もしかしたらないのかもしれない。紫鸞は目を閉じて、静かに大きく息を吐いた。


 目覚めは唐突で、一瞬だった。咄嗟に身近な温もりを抱え込んで飛び起き、あたりを見回した。殺気には、何よりも先に身体が反応するようになっている。視界に入るのは平和な宿の一室で、しかし先ほど感じた棘は急速に大きくなっていった。顎の下に何かが飛んできて慌てて避けると、それは白鸞の掌底だった。抱き抱えられ、白鸞は静かに怒りを燃やしている。難しい姿勢から繰り出された鋭く重い一撃は、さすがとしか言いようがない。

「貴様…」

覚悟はしていたが、思い浮かべていたよりはるかにに怒髪天を突いている白鸞を、紫鸞は慌てて解放した。地を這うような声で、紫鸞の名を、血に濡れた忌まわしい仇敵であるかのように呼ばれ、紫鸞は気まずさを隠さずに謝罪した。それでも白鸞は震える拳を振り上げる事なく、常より赤くなった頬を固くして紫鸞を睨み、部屋を出て行った。足取りは軽かったので、よく眠れたのだなと知れた。ならば良いかと、紫鸞も伸びをして寝台から降りた。


 二日目は馬に乗って移動した。途中にあった川で休憩をしたり、適度に馬を休ませながら進み、陽が落ち切る前にその日の宿に着いた。城門らしい城門も無いような、街というよりは集落だった。耳をすませば聞こえてくるのは木々のざわめきで、人の気配はあっても喧騒は感じられなかった。それが少し、遠い昔の里の夜を思い起こさせて、紫鸞は静かに目を閉じる。白鸞は、夕食を食べた後はやはり外に出て行った。宿の壁のすぐ向こうはもう薮で、動物の囁きはあっても白鸞の気配を見つけることはできなかった。もしかしたら今夜は、どこか外で眠るのかもしれない。相当に怒らせてしまったからなと、紫鸞はため息をついた。この集落で、白鸞は頭巾を被らなかった。きっと彼にとって、大きな街よりは少し心が楽なのだろう。白鸞を待とうか、寝てしまおうかと考えていると、思いがけずすんなりと、白鸞は戻ってきた。ならば寝るか、と立ち上がると、名を呼ばれる。なんだと振り返れば、いつの間にか白鸞は目の前に立っていた。紫鸞が首を傾げるより早く、ふ、と何かを吹きかけられる。覚えがあるような、やはりないような、かすかな香りがして、紫鸞の瞼は閉じていく。何かを嗅がされたのだと気づいた時にはもう遅く、鉛のように重くなっていく体を支えられなかった。崩れ落ちる身体を白鸞が受け止める気配がした。何も言えないまま、もう目を開ける事ができない。目が覚めたら、白鸞はもういないのかもしれない。そう思うと少し怖かった。その恐怖を手懐ける暇は当然のように与えられず、紫鸞は意識を落とした。


 窓から鳥の声が入ってきて、紫鸞は目を覚ました。陽の光が柔らかい。空気が湿っていて、朝なのだと分かった。意識ははっきりとして、不調はどこにも無い。きっと白鸞が、そういう調合をした。飛び起きて部屋の中を見回すと、白鸞の荷物があった。安心して寝台に腰を下ろすと、帯と襟元がくつろげられていた。急所をまさぐられた記憶は全く無い。紫鸞はあらためて恐怖を感じた。白鸞がああも激怒した理由を、今度こそ理解した。思えば、白鸞は怒らない子供だった。それこそ、無理矢理眠らされたとしても。それはひとえに、何が起きても安全だと思われていたからだ。だが今は違う。前置き無く意識を奪われる事は、小さくない恐怖であっただろう。しかも、まだまだ黄蓋のようにはなれていない白鸞は、純粋な腕力だけでは紫鸞には敵わないのだから。力の無い者は、奪われ、蹂躙されるだけなのだと、過日に投げられた言葉を思い出す。彼の言葉はきっと、間違いではなかった。けれど、優しさが足りない。諦めないことにも、諦めることにも、強さというものは必要とされるが、全ての者が強いわけではないのだ。

 反省して項垂れる紫鸞の耳には、相変わらず鳥の声が聞こえている。それが同じ音を繰り返しているように感じられて、紫鸞はそっと窓から外を覗き見た。窓から少し離れた場所で、白鸞が手に留めた数羽の小鳥相手に、何度も何かを囀っている。小鳥達はたまに首を傾げながらもそれを真似して鳴いた。あれは連絡用の小鳥だ。紫鸞がそれを教わる前に里が焼けてしまったから、内容まではわからない。けれど昔、里の者が鳥を使って簡単な連絡をしているのを見た事がある。事前に合図を決めておき、それを鳥たちに運ばせるのだ。もちろん複雑な連絡はできないが、人が動くよりも早く、そして目立たない。白鸞はしばらくして、小鳥達を放った。鳥の種類からして、長い距離を渡るものではない。きっとそう遠くない場所に、言付けの相手がいるのだ。その相手がどこの誰なのか、想像ならいくらでもできるが、確かな事はわからない。そういった思案は、紫鸞の不得意とする分野だった。紫鸞は窓から離れ、ため息をつきながら伸びをする。置かれていた水差しから水を飲もうとして、一応注意深く匂いを嗅いでみた。前の夜に白鸞が纏っていたような、冷たい水のかおりがした。特に冷えた水でもなかったが、喉が渇いていたこともあり、結局紫鸞は水を飲んだ。そうして身なりを整えていると、白鸞が部屋に戻ってきた。起きている紫鸞を見るなりフンと鼻を鳴らす。紫鸞は、改めて前の晩のことを謝罪した。

「わかればいい」

白鸞はそう言った。二度とするなとは言わなかった。必要な時以外はするなという事かと理解して、紫鸞は神妙に頷いた。白鸞はあまり先のことを話さない。それに気づいてはいた。けれど紫鸞はまだ、それを受け入れることができずにいる。


 三日目、馬を走らせるでもなくのんびりと進み、夜に近い頃に目的地に到着した。周瑜が遣いを送る程度には重要な役人の居る街は、少し大きかった。城門の手前で、白鸞は馬を止めた。少し用事があるから、お前は先に行けと言われ、紫鸞は素直に躊躇った。白鸞は呆れたように笑った。

「用が済めばお前の宿へ行く。勝手に帰りはしない」

白鸞がそう言うのならば、そうなのだろう。紫鸞は渋々頷いて、白鸞を残して馬を進めた。


 屋敷に到着すると、翌日に訪う旨の連絡を頼み、紫鸞は宿に落ち着いた。確かに白鸞は、用事がいつ終わるのかは言わなかった。今夜こそ、白鸞とは別々に眠るのかもしれない。そんな事を考えながら、周瑜から預かった荷物を包み直したり、翌日に備えて沐浴を澄ませたりしていれば、夜はあっという間に更けた。多くの動物がすでに眠りについているのを感じて、紫鸞は諦めて眠ることにした。白鸞は、宿に来るのなら勝手に来るだろう。それこそ扉からだろうと、窓からだろうと。わずかな隙間さえあればなんとかなる。共に、朱和から習ったのだから。寝台に横になって、広いなと思った。それはこの三日間で一番大きな寝台であったからだろうし、それだけでもなかっただろう。紫鸞はもう一度だけ部屋の中を見回して、諦めて目を閉じた。

 夜中に一度、意識が浮上した。なぜだろうと目を開けようとして、誰かがそっと目元を撫でた。

「眠れ」

あなたがそう言うなら、と、紫鸞はそのまま眠りに戻った。声は、優しかった。


 人が多いからだろうか。朝の気配が押し寄せてきて、紫鸞は目を覚ました。白鸞は居なかったが、白鸞の荷物はあったので、少し安心した。どこかできちんと横になって休んだことを願うばかりだ。紫鸞は顔を洗って士官服に着替えた。周瑜に頼まれた遣いを、果たさなくてはならない。

 役所へ足を運んで挨拶を済ませると、不思議そうに一人かと訪ねられた。質問の意図が分からず紫鸞が首を傾げると、周瑜からの報せには「二人かもしれない」と書かれていたそうだ。かの周郎は何をどこまで見聞きしているのかうすら寒くはあるが、それを心強さだと思う事にして、紫鸞はどう答えようかと迷う。と、ささやかな食事の用意があるから聞いたのだと付け足された。食事の誘いは断らない紫鸞は、けれど白鸞はどうだろうかと思う。よくよく聞いてみればその席は翌日の夜だと言うので、分かり次第伝えるとだけ答えた。白鸞のことを、紫鸞はきっと、よくは知らない。その事に改めて気づいて、紫鸞は少し寂しかった。

 夕食を終えて宿に戻ると、白鸞が茶を飲んでいた。机の上には見たことのあったりなかったりする草花が置かれている。何かの材料なのだろう。もしかしたら、用事というのはそれだったのかもしれない。紫鸞は着替えながら、さりげなさを装うこともできずに食事の件を尋ねた。即座に否やを告げられると思っていたがなかなか返答がなく、不思議に思って帯を締めながら白鸞を見やると、急に目が合った。

「何故、同行してほしいのだ」

咎める音では無かったが、快諾の響きでもなかった。ただ純粋に投げかけられた好奇の心を、ひどく懐かしく感じる。誘われる時に出てくる食事は大抵おいしいから、一緒に食べられたら嬉しい、と、紫鸞も正直に答えた。取り繕う必要を感じなかった。誰かと食事を共にしたい時、考えるのはいつだって食べ物のことと、相手のことだけだ。白鸞は微かに目を細め、ふむ、と微かに唸った。

「いいだろう」

いいのか。断られる前提で声をかけたので、紫鸞は少し驚いた。白鸞はそれ以上何も言わず、草花の作業に戻った。元化が薬草を扱っている時もそうだが、紫鸞には、彼らが何をしているのかはよくわからない。わからないが、それが人を救うのだろう事を知っている。

「明日、ここで待とう。迎えに来い」

目的を持って動く指先から目を離さずに、白鸞が静かに言うので、紫鸞はうれしくなって頷いた。


 翌朝、目を覚ますとやはり白鸞は居なかったが、少し増えた白鸞の荷物は変わらずそこにあった。なんだかんだと寝台を分け合って眠ったはずではあるが、あまりに気配の名残が無いので自信が持てない。そんな気分のまま紫鸞は身なりを整えて役所へ赴き、頼まれていた用事を全て済ませた。白鸞を迎えに宿に戻ると、普段よりきちんとした服装の白鸞が待っていた。驚いて咄嗟に言葉の出ない紫鸞を、白鸞はいつものように腕を組んで少し睨んだ。

「お前と違ってただの客人だ。あからさまに剣は持てない」

豊かな袖や裾を意味ありげに振って見せて、白鸞はフンと鼻を鳴らした。見慣れなさはあるが、意図はわかった。なるほど、と頷いて、紫鸞は白鸞を伴って宿を出た。

 そして今、豪華とまではいかないが、手の込んだ料理の数々を口に運びながら、紫鸞は目の前で笑う知らない男を眺めている。その男は名を白鸞と言うはずで、ついさっきまで顰めっ面で腕を組んでいたはずだ。それが、役所の門をくぐった途端に雰囲気をやわらげ、そつなく挨拶を交わし、紫鸞よりよほど流暢に社交をこなした。その豹変ぶりに怪訝な顔をしてしまった紫鸞を肘で小突き、白鸞はにこやかに礼をとった。白鸞の名乗った名は、紫鸞の知らないものだったが、合わせろと睨まれてそのように紹介した。口を開けば何かを間違えてしまいそうで、紫鸞はひたすらに料理で自らの口を封じた。白鸞の様子に気圧されて、味はよく分からなかった。白鸞は役人に上手く酒を飲ませ、ちょうど紫鸞も満腹になったあたりでその席はお開きとなった。

 宿への帰り道、月影を従えて、しかし二人は無言で歩いた。おいしかったか?と、紫鸞は絞り出すように尋ねた。白鸞は、白鸞らしく、けれど珍しく機嫌のよさそうに笑った。

「料理は美味しかったし、酒も悪くなかった。何より、色々な話が聞けてよかった」

役人に酒を飲ませて、白鸞は何を話していたのだろう。紫鸞は今更、白鸞を誘ってよかったのだろうかと心配になった。

「周瑜が良しとしたのだ。私が聞いて困る話でもないのだろう」

周瑜が白鸞の同行を事前に連絡していたのもおそろしかったが、それを知る白鸞のことも、少しおそろしかった。霊鳥の瞳で見えるものは戦場には多いが、人の中にはそれほど多くない。白鸞の眼は自分と同じものなのだろうと何となく思っていたが、違うのかもしれなかった。特に隠し事などないから、見透かされる事はそこまで怖くはない。けれど、白鸞の見ているものと同じものを、できるだけ自分も見ていたいとは紫鸞は思った。


 宿に着くなり、白鸞は頭巾と一緒に髪も解いて頭を振り、ため息を吐きながら服の中から武器を取り出していく。思いの外多いそれに紫鸞が目を丸くしている前で、いつもの動きやすい服装へと着替え始めた。紫鸞がぼんやりとそれを眺めていると、白鸞は急にすんすんと自分の匂いを嗅ぎ、髪を簡単に結い直す。脱ぎかけた服をゆるく着直して、着替えるはずだった衣類をまとめて抱えた。そのまま部屋を出て行こうとして紫鸞の視線に気づいたらしく、

「水を浴びてくる」

と短く言った。紫鸞は慌てて自分の服を掴んで、自分も行く、とその後を追った。

 宿を出て、街の中の暗いところを伝うように歩き、どのように知ったのか城壁の隙間から外に出て少し行くと、そこには小さな川があった。白鸞は本当に何でも知っているのだなと思いながら着いていき、二人して静かに川に踏み入った。水は冷たかったし、月が出ているとはいえあたりは暗い。浅瀬で全てを済ませることにして、身につけているものを脱いでいき、大きな音を立てないように身を清めた。白鸞ほどは念入りではない紫鸞は、適当なところで満足して、一足先に川から上がって火を起こした。少し体を温めながら何となく白鸞に目をやると、ちらりと見えた脇腹に、小さくない傷跡があった。少しひきつっている。子供の頃に負った火傷の痕だ。紫鸞の目の前で、火にくべた枝がぱちりと鳴って、紫鸞は視線を火に戻した。あの時、きっと、白鸞は。白鸞も―――。

「寝るなら宿へ戻れ」

ゆっくりと沈みそうになっていた意識を、鋭い声がその場へと縫い止めた。いつの間にか、焚き火の向こう側に白鸞が座っている。まだ寝ない。意地のようにそう言って、紫鸞は乾いた枝を火に足した。白鸞は何も言わずにそれを一瞥すると、夜に溶けるようにして川を眺めた。


 翌朝、紫鸞が目を覚ますと、白鸞が部屋にいた。部屋どころか、まだ寝台に居た。紫鸞に背中を向けて眠っていたが、紫鸞が目を覚ました途端に起きた気配がした。何事も無かったように身を起こし、呆けている紫鸞を見下ろす。舌打ちでもしそうな顔をして、静かに寝台から降りた。歩を進めながら身なりを正し、髪を整えながら部屋を出ていく。元気そうだったので、単に寝過ごしたのだなと思うことにして、紫鸞も伸びをした。

 最後にもう一度役所へ顔を出して挨拶をし、紫鸞と白鸞は街を出た。行きと帰りでは違う道を通るようにと周瑜から言われている。周辺地域の様子見も兼ねているらしい。のんびりと馬を歩かせていると、水の気配がした。昨夜身を清めた川と同じものかもしれないし、そうでないかもしれない。しばらく歩くと、その気配は遠くなった。のどかで、馬に揺られながらあくびが出た。白鸞からは呆れたような視線を送られたが、こうも平和で天気もいいのだ。馬は馬で紫鸞をよく知っているから、多少居眠りをしたところできちんと歩いてくれるだろう。二人は馬を休ませたり景色を眺めたりしながら、のんびりと移動した。

 夕を少しすぎたあたりで宿に着くと、窓に小鳥が数羽飛んできた。その鳥がしきりに鳴くのを聞いて、白鸞は懐から包みを出して、餌なのだろう、小さな実のようなものを与えた。小鳥たちはそれを食べると、窓から外へ出ていった。紫鸞には、それが連絡用の小鳥なのかそうでないのかは分からない。どちらにせよ、白鸞がいつも小鳥の食べ物を持ち歩いているのが、少し意外だった。ぼんやりとその様子を眺めていると、白鸞から咎めるような視線を送られた。自分も口数が多い方ではないが、白鸞ときたら、睨むだけで会話を始め、そして終わらせようとすることが多い。何故だかそれは、少しくすぐったかった。

 もうすっかり諦めた様子の白鸞をその日も寝台へ押し込んで、少し狭かったので白鸞を抱き込むようにして身を落ち着けると、白鸞の肩が少しだけ強張った。紫鸞は、白鸞の肩と腹からできるだけ離れたところに腕を置く。そのまま息をひそめていくと、しばらくして、白鸞の肩から力が抜けた。紫鸞は白鸞が寝入ったのかを窺うが、もしかしたら白鸞も同様に紫鸞が寝たのかどうかを探っているかもしれない。ここのところ毎晩のように訪れる緊張感に、紫鸞は慣れてきていた。慣れてきていたので、遠慮なく目を閉じた。そうして本当に、眠ってしまった。


 窓から入る光に目を覚ますと、白鸞は居なかった。短い旅も、もうすぐ終わろうとしている。紫鸞は、胸のうちにある寂しさに気づかないふりを、できなかった。何故白鸞が同行してくれたのかさえ、未だに紫鸞にはわからなかった。あれで案外、絆されただけなのかもしれないし、そうであればいいと思った。

 その日も、天気はよかった。道なりに馬を歩かせていると、ふいに白鸞が馬を止めた。どうしたのかと振り返ると、

「少し寄り道をしないか?」

と声をかけられる。何かを企んでいるとか、そういう気配はしなかったので、紫鸞は快く了承した。馬をよこせと言うので、紫鸞は手綱を離し、そのまま鞍の端をつかむ。白鸞はそれを見ると紫鸞の馬に向かって口笛を吹き、自分の馬を歩かせ始めた。紫鸞の馬は、おとなしくそれに着いてく。いつの間に仕込まれていたのだろうと思いながら、もう驚く事はしない。白鸞だから、そういうこともあるだろうと、ただそう思った。

 白鸞の先導で山道とも呼べない獣道を進んでいくと、急に視界が開けた。広い空の下へ視線を移すと、遠くない位置に街がある。白鸞によると、今夜の宿がある場所らしかった。ところどころから上がっているのは、煮炊きの煙だろう。促されてその向こうを見れば、川がある。舟がちらほらと浮いていた。きっと、漁をしている。さらにその先を見ろと言われるが、そこから先は遠すぎて、はっきりとは見えなかった。なんとなく、畑と集落が見える、ような気がした。紫鸞は、街や田畑の様子をこのように遠くからじっくりと眺めたことがない。広いな、と思った。白鸞は、何も言わなかった。じっと、人々の暮らしを遠くから眺めていた。


 白鸞は、優しいのだと思う。広い寝台の上で、余裕を持って二人で横になりながら、紫鸞は思った。頼み込めばこうして共に旅をしてくれるし、宿では紫鸞に寝台を譲ろうとする。役人との食事に誘った時も、きっと紫鸞の顔を立てるために同席をしてくれた。無理矢理寝かしつけて激怒しても、こうして帰り道まで付き合ってくれる。それは紫鸞が、白鸞の慈しむ「人々」に含まれているからなのかもしれない。街の様子を、漁の成り行きを、畑の営みを眺める横顔は、酷く凪いでいた。

 紫鸞はごろんと、白鸞の方へ体を向ける。目を閉じている白鸞は、十中八九起きている。少しそちらに寄ってもいいか、と小さな声できいてみると、白鸞はめんどくさそうに薄目を開けた。拒否されなかったのを諾と受け取り、紫鸞は白鸞ににじりよった。どこまで許されるだろうかと、少しずつ、少しずつ近づいていって、そろりそろりと手を回した。白鸞が何も言わないのをいいことに、そっと、ゆっくり、腕の中に囲っていく。白鸞は、されるがままだった。明日にはまた、それぞれの場所へ戻る。それが、白鸞にとっても言い訳になっているのだと、紫鸞は思いたかった。

―――肩と腹を、さわっていいか?

ほとんど耳元で、紫鸞は尋ねた。白鸞は静かに目を開けて、ため息と共に閉じた。

―――許そう。

ため息の最後に、そう乗せた。紫鸞は衝動のままに白鸞を強く抱え、ゆっくりと、その肩と腹を叩いた。おやすみ、と、静かに落ちて行く白鸞の意識を手のひらであやした。


 何が起きようと起きまいと、朝は来る。来てしまう。宿を出る前に、白鸞は紫鸞に小さな包みを差し出し、元化に渡せと言った。紫鸞が世話になっているのだから、と、白鸞はこうして時折、珍しいのだか、元化がまだ知らないだかの薬草を元化に分け与えている。どういう関係なのだろうかと思いつつ、紫鸞は了承を伝えた。

 景色がだんだんと見慣れたものになっていき、昼を少しすぎたところで、白鸞が馬を止めた。

「もう、一人で行けるな?」

白鸞はまっすぐに紫鸞を見て、少し表情を緩めた。紫鸞は首を横に振りたかった。もし、「一人で帰れるか」と尋ねてくれれば、帰る場所はあなたのところだと言えたのに、とまで思った。きっと白鸞はそれを見越して言葉を選んでいる。いつだってそうだ。紫鸞と白鸞では、得意分野が違うのだから。紫鸞が何も言えずに口を引き結んでいると、白鸞は困ったように笑った。

「紫鸞」

白鸞は、ただ名前を呼んだ。期待も、諦めも、憎しみも、無関心も、そこには含まれていなかった。紫鸞がここで何を言おうと、それがお前だと受け入れてくれるだろうと思った。だから、紫鸞は白鸞の名を呼ぶことで、返事とした。白鸞はふと笑って、紫鸞に背を向けた。


 運が良かった。紫鸞はそう思う。


 自分が生き残ったことも、白鸞が生きていたことも。再会できたことも、こうしてまだ、白鸞の優しさに甘えられることも。


 紫鸞は、大きく息を吸って、吐いた。背筋を伸ばして顔を上げ、馬の頭を、元化の待つ宿へ向けた。





〜おわり〜