呼子の捕鯨文化
~現代に伝わる鯨信仰・鯨唄・鯨食文化~
~現代に伝わる鯨信仰・鯨唄・鯨食文化~
玄海における鯨捕りの始まりはあいまいだが、豊臣秀吉による命令で朝鮮出兵直後の小川島で行われた(1594~1596年頃)と言われる。更に活発化していったのは1704~1715年に中尾甚六が鯨とりを始めた頃からで、中尾家は捕鯨で発展していき個人経営の鯨組主として江戸時代に栄えていった。(中尾家は藩の財政をも潤していた。藩から捕鯨を任された別の家もあった)中尾甚六という名は当主に世襲されていったので当主の名は全て中尾甚六である。
始めは多数の船を使いモリやケンで鯨を突くという方法が一般的であり、かなり危険な漁なのではないかと推測される。
次に網代内に鯨を追い込み身動きが取れなくなった所でモリなどを使って仕留める安全性の高い方法が本州から伝わっている。
さらに時代が進むと捕鯨専用の砲を使っている。先端に返しと薬莢が入っており、それを大砲を使って鯨に撃つ。すると先端の薬莢が爆発して鯨は即死する。かえしのおかげで鯨をつなぎとめておきそのまま解体場(納屋)まで引っ張っていった。
クジラの種類としてはセミクジラ、ミンククジラ、マッコウクジラ、ナガスクジラなど様々な種が捕獲され、それぞれのクジラで主な取得部位は変わるようだが無駄にされる部位はほぼなかったと言える。
セミクジラは鯨油と鯨肉の摂取効率が良く、好奇心旺盛で沿岸部によく近づく。
さらに、動きが遅く脂肪分が多いため死んだ後も沈まないといった理由で世界的に捕鯨の対象になりやすかった。
その例に漏れず呼子でもよくセミクジラは取られていた。
↑中尾家屋敷の捕鯨砲
↑小川嶋鯨鯢合戦にある旧中尾家鳥瞰図
↑現在の呼子
全国的に鯨を捕っていた地域は少なからず鯨信仰があり、もちろん呼子にも残っている。これは鯨という大きな生き物を生身でとらえていた古人の考えが深く関わっていると考えられる。
あのように巨大な生物を命がけで捕らえる際、罪悪感や感謝の意や神罰のような不安感があったようだ。1796年の「鯨魚覧笑録」には漁業の苦しみが下記のように書かれていた
「とりわけザトウの子持などは、母親が網を破ったとしても子が殺されると思うと何kmも引き返して逆に人間に捕まることがある。また臨終の際に西に向かい息途絶える有様は、人間のほうが恥じ入ることもある。あわせて、漁をして売りさばくと、大いなる実入りになるのだがこのような霊魚を漁とすることを生業とし、妻子を養い何の弁えもなく金銭を浪費することはまずもって慎むべきであろう」
このような考えがあるからか呼子の龍昌寺では毎年多数の僧を招待して鯨鯢供養を営み、成仏を願っていた。また、捕らえた鯨一頭一頭に戒名をつけ記入した供養塔をつけたと言われている。実際この供養塔は呼子各地に残っている。
さらに呼子の港には今でも恵比寿神を祀った祠のようなものがいくつか設置されている。恵比寿というものは漁業の神であり、呼子にあるのは当然なのだがその恵比寿のモデルとなったのは鯨のような大魚が浜に打ちあがったものであると言われているからそう思うと面白い。 このような鯨を恐れ感謝する現れは神社や寺に顕著に出ている。
呼子でいうと小川島の田島神社はもちろん、呼子港近くの八幡神社、龍昌院、天満宮が捕鯨と関わりがあり、これらいずれも中尾家などの捕鯨関係者が多くお参りやお祓いを受けたり、寄進を行ったりしており当時の人々がいかに鯨に助けられているかが推測される。
龍昌院に残る鯨の供養塔
八幡宮の鳥居
鯨の解体場(納屋)があった加部島にも、田島神社という神社がある
かつての加部島にある解体場
←呼子の沿岸沿いに残る恵比寿像
捕鯨を行なってきた人間が残した民謡の一つで、鯨解体の際に歌う鯨骨切り唄、祝いの際等に歌う鯨お唄い等がある。これらの民謡は現在も桜呼会、小川島鯨骨切り唄子供保存会等が継承し保存活動に勤しんでいる。
彼らによる鯨唄は呼子のイベントで聞ける機会は少なくない。
下記の歌詞は「呼子歌綴り」から引用
思うことはソリャ叶うたよーの サーヨイヤサア、末は鶴亀 亀 ヨイヤナ
ヤーレ ソリャ祝いのソリャーものじゃようの
サーヨイサ ア、 鶴が舞う舞え舞うよー ヨイヤナ
ヤーレソリャ この屋のソリャー上でようの
サーヨイヤサ ア、 よかれよかれエー ヨーヨーイヤサ
ヤーレソリャ この先ゃソリャよかれよのサーヨイヤサ
明日は良い凪 なー凪 ヨイヤナ
ヤーレソリャ 沖まじゃーソリャ やらぬようのサー
〆 三国一じゃアー これから先は鯨も大獲れしょ
アーヨカホイ
アー、おやじ舟かや ソーライ
万崎沖に ジャイを振りあげて ソーライ ミト招く ヨー
(アー振りあげて アーエーイヨォ) ジャイを振りあげて
ソーライ ミト招く ヨー ハーヨイショ ヨイショ
アー 納屋のろくろに ソーライ
つなくりかけて セミを巻くのにゃ ソーライ ひまもない ヨー
(アーまくのにゃ アーエーイヨォ) セミを巻くのにゃ ソーライ
ひまもない ヨー ハーヨイショ ヨイショ
アー明日は良い凪 ソーライ
沖まじゃ やらぬ 磯の藻際で ソーライ 子持ちとる ヨー
(アー藻際で アーエーイヨォ)磯の藻際で ソーライ
子持ちとる ヨー ハーヨイショ ヨイショ
アー漕がにゃ かなわぬ ソーライ
呼子の浦へ 今日は大漁の ソーライ 祝い酒 ヨー
(アー大漁の アーエーイヨォ) 今日は大漁の ソーライ
祝い酒 ヨー ハーヨイショ ヨイショ
ヤーレー 沖じゃ鯨取る浜ではさばく ヨーイヨイ
納屋のだんなさんなこりゃ金はかる
ヨーイ ヨーイ ヨイヤナー ドードー
エンヤ 巻いたエンヤ 巻い巻いた巻いた巻いた
ヤーレー 躑躅椿は野山を照らす ヨーイヨイ
背美の子持ちはこりゃ納屋照らす
ヨーイヨーイ ヨイヤナー ドードー
エンヤ 巻いたエンヤ 巻いた巻いた巻いた巻いた
ヤーレー 祝いめでたの若松様よ ヨーイヨイ
枝もさかえるこりゃ 葉もしげる
ヨーイ ヨーイ ヨイヤナー ドードー
エンヤ 巻いたエンヤ巻いた巻いた巻いた巻いた
その他の鯨唄
・呼子櫓漕ぎ唄
・呼子大橋音頭
・新呼子音頭
・呼子加部島ハイヤ
・呼子ハイヤ節
・呼子音頭
捕まえた鯨は余す所なく活用されるが、メインの部位は油だったようだ。
もちろん油以外の部位も食用や工芸用として用いられている。
食用となるのはヒゲクジラ類の場合が多い。
骨部分→杖や刀の模造品として、古代では皿として使われていた
ひげ →鯨のひげはからくりの一部だったり弦だったりに使われたり、髭絵という髭をキャンパスとした絵画もある
これらの調理法は「鯨肉調味方」という1832年に発刊された鯨肉料理専門書に記されている。
今となっては鯨肉は冷凍の赤身肉や加工品のベーコンなどが少量出回るだけである
黒皮(かわくじらともいう)→調味料
テイラ(尾羽)→尾の白い脂肪肉で湯煮して油を抜き、ゼラチン質のさらしくじらという料理となる→煮物、吸い物、和え物、古くは酢味噌をかける食べ方がある。
サヤ(サエズリ)→舌のことで野菜と共に鍋焼き、熱湯をくぐらせて三杯酢などにした。
小髭→歯茎のことで、非常に味が淡白である。薄く切って醤油で食べるか煎り酒をつけて焼いて食べる
デンヅル→顎の肉のことでとても固い。塩を抜いてから熱湯をかけて酢ヌタで食べる
尾の身→霜降り肉のようで最も美味で高価 さしみで食べられる事が多い
赤身→様々な調理方法があり、血抜きが必須。昔は大根おろしに漬け込んでいた
百ヒロ→くじらの小腸を洗い流し、またもとに戻して塩ゆでしたもの。天然の腸詰めのよう。長崎や伊万里では正月などの日に食べる。
ウネ→お腹側の肉で豚バラのよう。ベーコンなどに加工される
ウス→心臓のことで、天ぷらで食べる
丁字→胃袋で、揚げ物や水炊きで食べる
オオワタ→大腸のことで、良く洗い澄まし汁や煎り焼きで食べる。
豆腸→腎臓である。これは揚げ物で食べる
蕪骨→これをうすくきざみ、酒粕、みりん、とうがらしを混ぜた中に漬け込んだ松浦漬けが呼子の名産。クラッカーに乗せて洋酒のつまみとしての食し方がおすすめ。
呼子の名産品の一つである松浦漬け
鯨肉の赤身のブロック
鯨肉の竜田揚げ
まずその栄養素が優れていると言える。鯨と牛、豚、鶏の赤身肉の栄養素を比べてみて欲しい。
このように、栄養素が優れているにもかかわらず鯨肉は美味しい。
1697年という古い本ではあるが、「本朝食鑑」では、「毒がなく、最も人の体によくて美味しいものといえば、鯨肉」とも書かれているほどだ。
また、クジラ肉に多く含まれるバレニンという成分には筋肉持久や疲労予防に効果がある上にミネラルが多く美容にも良い。ダイエット中や筋トレ中のメインのタンパク源を(可能なら)鶏肉からクジラ肉に変更しても面白いかもしれない。
さらにクジラ肉にはアレルギーが出ない性質があり、アレルギーにより動物性タンパク質が摂れない人々への代替食品としても使える。
などといったさまざまな利点がある。
このように今ではイカのまちとして知られている呼子には、興味深い鯨にまつわる伝統文化が古くから残っています。海岸沿いにはもちろん、裏道に入ったところでもわずかに残った鯨信仰の文化を見つけることができ、かつて栄えた文化が垣間見えて非常に面白いです。
このサイトをご覧になった皆さんもぜひ、呼子に訪れたときにイカだけでなく鯨文化も頭の片隅に入れてまちを巡ってみてはいかがでしょうか。
引用
2010年発刊「鯨は国を助く」 著者 小泉武夫
1980年 「玄海のくじらとり」
2009年発刊「鯨取り絵物語」 著者 中園成生・安永浩
2017年発刊「日本人とくじら」 著者 小松正之
佐賀大学 芸術地域デザイン学部 3年
徳地疾風
福岡県 大牟田市出身
自然が好きです