私が今回調査したのは、佐賀市の呉服元町周辺。呉服元町は、佐賀市中心部に位置し、江戸時代佐賀城下町にあって長崎街道が通った。近世以降も中心市街地の商店通りとして賑わっていたが、現在はその面影が薄れ、空き家や駐車場が増えてきている。今回は、1番賑わいを見せていたであろう1963年から、活気がなくなってきた2001年、そして2018年までの住宅地図を元に、呉服元町の街並みの変遷やターニングポイントとなる出来事を探っていきたい。
地図を見やすくするために、簡略化したものを作成している。色による割り振りは画像の通り。実際の地図とともに並べてみていきたい。
1933年 玉屋が開業
1963年 呉服町名店街にアーケードを設置
1963年の地図を見ると、玉屋や窓の梅、南里本店などの大型店舗の周りには、様々な小売店舗がひしめき合っている。
特に、衣料品や靴屋が多く目立つ。
佐賀市史〜第5巻〜より
昭和33年作成の「白山銀座・元町銀座商店街診断報告書」によると、
買い物に来る客は現在の佐賀市周辺住民が多く、買い上げ商品は衣料、日用品雑貨が主であったそうだ。衣料品は佐賀市中心街で、食品・日用品は地元商店街で、という構造が出来上がっていたようだ。
昭和30年代末になると、「主婦の店・大洋ストア・佐賀デパート・スーパー佐賀・スーパー丸栄」と、スーパー形態の店が相次いで設立され、旧来からの小売店と競合するようになり、小売店はスーパー店に圧迫されるようになった。
1965 年 中央大通りの中の小路に佐賀玉屋移転
1970年 玉屋跡地に5階建て衣料品店「ミヤコ」が開業。
1974 年 南里本店新築開業
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「玉屋」が中央大通りに移転したが、のちに「ミヤコ」が開業したことで、地図上では1963年ごろとあまり変化はない。店の並びもあまり変化がなく、街並みも大幅に変化したということはないと見える。
佐賀市史〜第5巻〜より
昭和45年作成の「佐賀市商業近代化計画資料」によると
佐賀市中心部への目的別出向(佐賀市内居住者)は、買い物75%・仕事28%で買い物を目的に中心部を訪れる人々が多い。
しかし、買い物をする場所としては、スーパー40%・近くの商店街33%・デパート9%・佐賀市中心部商店街5%のようになっており、中心部商店街の吸引力が必ずしも強くないということがうかがえる。
ちなみに、中心部での買い物客は、洋服・服地・呉服・反物・時計眼鏡・靴鞄・レジャー用品・家具・贈答品を購入していることから、呉服元町にそのような店舗が多いこととの関連性があると考える。
1979年 明治後期から呉服町に商店を構えていた「窓乃梅」が「寿屋と共同で大型店を開業した。下層階に核店舗として寿屋のスーパー、上層階に窓乃梅の衣料品エリアが入居する形を採った。
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地図を見ると、駐車場が増えたように思えるが全体的には店舗数や密集度はあまり変化していない。
佐賀市史〜第5巻〜より
昭和50年代前半
大型店舗の進出と増改築、佐賀駅高架化に伴う駅前商店立地条件の変化が起こった。
玉屋、ダイエー佐賀店、日祐本店、ユニード、南里本店、窓の梅、などの大型店舗が佐賀市中心部に位置し、中心街に小売業の商業機能が集中した。
*佐賀駅の高架化
駅周辺の混雑緩和、貨物の入れ替え作業等に伴う国道263号の交通渋滞解消などを図るために、昭和46年から佐賀駅高架移転事業が起工され、新駅が昭和51年2月に完成した。旧駅は現在の新駅より南へ約200mの位置にあった。
駅の高架下にはバスセンター、佐賀デイトス(ショッピングセンター)などが設けられた。
昭和60年代に入ると小売業店舗の郊外への拡散が始まる。
1987年 紳士服店・家電販売店が郊外に次々とオープン
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地図を見ると、駐車場が増え始め、空き地も徐々に増えてきていることがうかがえる。
1991年(平成3年)の大規模小売店舗法(大店法)改正により、大規模店舗の郊外化が加速していくことになるのだが、その影響が出始めていると考えられる。
不動産のオーナーは、建物をテナントに貸すことで、収益を上げて、不動産を所有することでかかる経費(建物の維持管理費や固定資産税など)をまかなっている。ところが、インターネットの普及や都市の郊外への拡大とともにまちなかでの小売り業へのニーズが減少すると、次々とテナントが撤退。テナント収入がなくなってしまった不動産オーナーは、建物を維持することができなくなり、老朽化とともに解体して更地化、いちばん手っ取り早い駐車場にして、再び収益を得ようとするからである。
1999年(平成11年)に南里本店が閉店し、寿屋佐賀店が撤退・佐賀銀行呉服町支店移転
2000年「イオンショッピングタウン大和」開業。
2005 年 スーパー窓乃梅閉店
2006 年 ゆめタウン開業
2009年 呉服町のアーケードが撤去
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2000年に入ると、呉服元町商店街の核店舗となっていた、スーパー窓の梅や南里本店が閉店・撤退してしまう。地図上では、駐車場、そして空き地が目立つようになってくる。当時のブログなどから、店舗名が書いてあっても長期間シャッターが閉まっていて営業していないところがあることがわかり、街に活気がなくなっていったことがうかがえる。
アーケード撤去前後の同じ場所の写真比較
2008年10月
2009年6月
2020年11月
2013年 窓乃梅の跡地に佐賀県国保会館が誘致され、完成
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大型店舗は完全になくなり、小規模店舗もシャッターが降りているところが多い。
地図上でも、駐車場・空き地が格段に増えていることが見て取れる。
2011年ごろからは、株式会社ワークヴィジョンズを中心に再生計画が始まり「わいわいコンテナ」をはじめとして、さまざまな取り組みが行われている。
約60年間の、呉服元町付近の変遷を見てきた。個人商店が賑わっていた1960年代から、スーパーができたことで商業の構造が変わってきた1970年代。「呉服元町」という名前の通り、洋品店や靴鞄屋などが多く佐賀市内外から多くの人が訪れていた商店街だった。1980年代には、核店舗となっていた「窓の梅」の増改築があり、ますます発展を見せた。しかし、1990年代に入ると、大型店舗の郊外化とともに徐々に商店街にシャッターが増え始め、まちに空き地や駐車場が増え始め…2000年に入る頃には、寂れたまちが完成してしまっていた。しかしその後、街中再生計画とともに少しずつ呉服元町の日常に、昔とはまた違った活気が出てきているのではないかと思った。
調査をする前は、20年ほど前からの大型店舗の郊外化だけが衰退の大きな原因だと思っていたが、そうではなく、その前からもじわじわと街の様子が変わってきていたことがわかった。今回、「ターニングポイントを探る」という調査をしていたが、どの年代にもそれぞれ街の変化を感じるエピソードがあった。
これから、また何十年もかけて街は変わっていくと思う。今度は明るく活気があり、そしてそのまちに生きる人々が「このまちは、なんかいいよね。素晴らしいよね。」と思えるようなまちになるといいなと思う。そして、その街の変化に少しでも関わっていきたいと私自身も感じた。
PROFILE
福岡出身
歌うことが大好き♪
興味があることには飛びつくフッ軽ガール(笑)
キャッチコピーは
『あなたの心に愛咲かせます❣️ 』