名古屋大学 人文学入門I(第7回) 2020年度(4/4)

講義題目:「音声学・音韻論からみた日本語のバリエーション」(4/4)


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9. 音声の音響分析

前のページに出たような有声破裂音のバリエーションは、微妙な違いです。その違いについて詳しく説明する前に、この手の違いを捉えるための調査・分析の話を、ここでしておきたいと思います。

音声の研究をするには、まず調査協力者を探し、調査を行います。学内で探し、学内の適当な場所で調査を行うこともあれば、どこか遠いところに赴いていって調査を行うこともあります。調査の際には、しばしば録音をとります。

そのようにして採取した録音データ(音声ファイル)は、次に、(たいていの場合はソフトウェアを用い)音響的に分析します。これは「音響分析」と呼ばれます。音響分析により、個々の音声の音響的な特徴を捉えることができます。耳で聞いてなんとなく違うという特徴を、客観的に捉えることができます。また、耳で聞いただけではよくわからないような微細な特徴も捉えることができます。

音響分析は、何十年も前には、高額な装置を用いて行われていました。しかし今日では、ソフトウェア上で行うことができます。そのソフトウェアも、無料のもので多くのことができます。例えば、アムステルダム大学の Paul BoersmaとDavid Weeninkが開発したPraatというソフトは、無料ですが様々な分析が可能で、世界中の音声学者が研究のために利用しています。

10. 再び、有声破裂音

さて、有声破裂音の話に戻します。「べろ」の「べ」を発音するとき、唇を閉じた状態から開く(閉鎖の開放)という段階があります。一方で、のどに声帯というものがあって、これを振動させます(喉仏に手を当てながら「あー」とか言ってみると、声帯の振動を感じることができます)。2種類の「べろ」の違いについて、ポイントを先に書いてしまうと、閉鎖の開放の時点を基準としたとき声帯振動がいつから始まるかに、両者の違いがあります。

話をちょっと変えて、2種類の有声破裂音を音響分析ソフトで分析するとどうなるか、見てみましょう。以下のような図が得られます。この図の上段は音声波形、下段はサウンドスペクトログラムと呼ばれるものです。

どちらの音声も、サウンドスペクトログラムの特徴をみると、最初の方に縦の筋状の特徴があります(赤の楕円)。これは閉鎖の開放を反映しています。左側のサンプルでは、この縦の筋に先立ち、下の方(低周波数域)に横方向に帯があらわれています(青の楕円)。これに対応する箇所の音声波形をみると、小さな波が見えます(青の楕円)。これは声帯振動を反映したものです。右側のサンプルでは、この特徴は観察されません。つまり、左側のサンプルでは、閉鎖の開放よりも前に声帯振動が始まっているのに対し、右側のサンプルはそうではないということです。

2種類の有声破裂音のうちのどちらが用いられるかについて、最近の研究(高田 2011)によれば、日本語の中で地域差および世代差があることが明らかにされています。簡単に要約すると、お年寄りの世代では、後者(閉鎖の開放に先立って声帯が振動しない)の発音は東北地方に多くみられ、若い世代では、それが日本全国に見られるようになっているということです。

11. おわりに

この授業では、発音にかかわる日本語のバリエーションをみてきました。その中には、誰でも聞いてすぐわかるような明瞭な特徴もあれば、聞いてもわかりにくく、音響分析のような手法を用いることでようやくその実態が明らかになるような特徴もありました。また、個々の音に関する特徴もあれば、音の規則に関する特徴もありました。今回取り上げた特徴に限らず、日本語の中には、世代、地域、その他さまざまな要因と関係した発音上のバリエーションがあります。皆さんにはこれから是非、発音の様々な特徴に関心を持ち、注意を傾けるようにしてもらえればと思います。ただし、発音が地域等によって違うがゆえに、ときとしてコンプレックスの原因になったり、差別の対象になったりすることも、世の中には残念ながらあります。しかし、言語学的にいって「正しい発音」「間違った発音」というものはありませんので、自分自身の発音に自信を持ち、また他人の発音をあざわらったりしないようにしましょう。

さて、この授業の題目は「音声学・音韻論からみた日本語のバリエーション」ですが、ここまで「音声学」「音韻論」とは何かについて説明してきませんでした。最後に少しだけ説明しておきたいと思います。

人間が言語コミュニケーションのために用いる音を「音声」といいます。音声の物理的側面は音声学(phonetics)の対象領域です。一方、音声には記号的な側面があり、そこには何らかの規則があると考えられます。そのような側面は、音韻論(phonology)の対象領域です。(ただし、細かいことを言い出すと、音声学と音韻論の分野としての境界がどこにあるかには研究者によって考えの相違があるのですが、ここでは細かい話はやめておきましょう。)

ここで扱ってきた内容に関して言うと、2種類の有声破裂音やその音響的特徴は、音声学的なトピックの典型と言えるでしょう。一方、複合語アクセントのようなアクセントの規則に関するトピックは、音韻論的なトピックの典型と言うことができます。

この授業では日本語のバリエーションという観点から音声学・音韻論の紹介をしてきたのですが、音声学・音韻論のトピックはもちろん、日本語のバリエーションに限定されるわけではありません。世界中の様々な言語について、音声学・音韻論的なトピックを見つけることができます。また、特定の言語に限定せず、そもそも人間はどのように音声を産出するのかとか、音韻論の規則には特定の言語によらない普遍性があるのだろうかとか、そういうのも音声学・音韻論の重要な研究対象です。さらに、今回の授業では「どう発音しているのか」(音声の産出)という観点のみ扱ってきましたが、「どう聞いているのか」(音声の知覚)もこの分野の射程に入っています。興味のある人のために、このページの末尾に「学習案内」として、参考となる書籍やウェブサイトを掲載しておきます。

この授業は以上で終わりです。最後にエンディングの動画があります。

担当教員(宇都木)によるエンディング動画

参照文献

高田三枝子(2011)『日本語の語頭閉鎖音の研究 ―VOTの共時的分布と通時的変化―』くろしお出版.

松森晶子・新田哲夫・木部暢子・中井幸比古(2012)『日本語アクセント入門』三省堂.

学習案内

書籍

  • 川原繁人(2015)『音とことばのふしぎな世界 ―メイド声から英語の達人まで』岩波書店.

岩波科学ライブラリーのシリーズで、手軽に読むことができます。副題があらわしているように、音声学の分野としての広さを知ることができます。(川原先生はこのほかにも書籍をいろいろ出版されています。)

  • 斎藤純男(2006)『日本語音声学入門 改訂版』三省堂.

私の音声学講義aで教科書として採用しているもの。(2021年度の教科書は未定ですが、たぶんまたこれになると思います。)

  • 松森晶子・新田哲夫・木部暢子・中井幸比古(2012)『日本語アクセント入門』三省堂.

今回の授業で取り上げた「アクセント」について、様々な方言の事例を取り上げて解説した入門書。

動画等

YouTube動画:「音声学入門」(前川喜久雄)[国立国語研究所言語学レクチャーシリーズより)

YouTube動画:「音韻構造と文法・意味構造」(窪薗晴夫)[国立国語研究所言語学レクチャーシリーズより)

ウェブサイト

  • Praat入門:今回の授業でも取り上げた音響分析ソフトウェアに関する、私(宇都木)の作成した解説ページ

  • ひるおびの報道について音声学者として思うこと:新型コロナウイルスの感染が拡大する中、「ひるおび」という番組で英語と日本語の発音の違いが感染状況の違いと関係しているという話が取り上げられ、その後ネット上で話題になりました。この件に関する川原繁人先生(慶応大)によるまとめです。