心理学の観点からみた
異文化理解

パクジュナ・宇都木昭

このページは2023年度の名古屋大学文学部の授業「異文化理解」の第5回の授業資料として作成したものです。パクジュナ(名古屋商科大学)と宇都木昭(名古屋大学)が共同で作成しました。

はじめに

皆さんは一日に何回外国人と出会いますか? 一緒に授業を受ける友人、お店の店員さん、あなたの授業を担当している先生、地下鉄の隣の席に座っていた人、その他にも街中で出会う人など、私たちは意識的、無意識的に多くの外国人と接触しているのかもしれません。つまり、単一文化圏と言われがちな日本の中で、皆さんは日々、異文化接触を経験しているのです。

異文化接触とは、簡単に言えば、異なる文化圏の個人がオフライン、オンライン上で出会い、関係を築いていく過程を意味します。このような異文化接触は、言語の違いによる障壁も大きいですが、言語以外の面でも心理的に多くの忍耐と努力を必要とします。 あなたが日本社会で当たり前のように考えていた行動やマナーが相手の文化圏では別の意味を持つこともありますし、会話の中で現れる相手の態度や考え方があなたの予測とは大きく異なることに驚かされることもあります。もちろん、個々人で性格や傾向、価値観などの違いがあるため、他者との円満な関係を築くためには常に努力が必要ですが、異文化接触では、基本的な「個人差」に加えて、異なる文化圏が持つ「文化差」まで理解しなければならないため、より多くの努力が求められ、時には負担になることもあります。

ここでは文化差を心理学的な観点からみていきます。具体的には、オランダの文化心理学者であるヘールト・ホフステード(Geert Hofstede)と彼の研究チームによるモデルを見ていきます。このモデルは、文化差を6つの次元によって捉えるもので、文化心理学においてよく知られているものです。以下の説明の大半は、Hofstede et al. (2010)とその日本語訳のホフステード他(2013)をもとにしています。

文化心理学では、質問紙調査(アンケート調査)という手法がよく用いられます。心理学における質問紙は、統計学的な面を考慮しながら、人々の価値観や態度などを客観的に捉えられるように入念に作りこまれています。そして、多量のサンプルをとり、統計的に分析します。ここで扱うホフステードらの研究の場合、ヘールト・ホフステードが1970年代にIBMの各国の社員たちを対象として行った調査がもとになっており、それにホフステード自身の研究チームや他の研究チームによるその後の調査結果が適宜加えられ、考察されています。

なお、最近のデータをわかりやすく見ることができるウェブサイトとして、Hoftede InsightsというウェブサイトのThe Culture Factor Groupの中に、Country Comparison Toolというウェブページがあります。

https://www.hofstede-insights.com/country-comparison-tool

このページでは、各国で収集された最新のデータをもとに、複数の国を比較することができます。0から100点までのスケールを基準とし、50点が中間値です。比較対象国と10点以上の差がある場合、有意な差があると解釈できます。 各国の絶対的な数値も重要ですが、比較対象国との相対的な違いを考慮することが、異文化接触で起こる問題を理解するためにはより有意義です。ぜひ、The Culture Factor Groupのページで気になる国々のデータを対比させてみながら、以下の説明を読み進めてください。

文化の違いを捉える六つの次元

人間は社会的動物と言われ、この世に生まれた人間は、成長するにつれて、家族の一員として、学校の一員として、コミュニティの一員として、より大きな国家の一員としての自分を認識していきます。私たちは皆、非常に個人的な、一人の個人としての「自分」を認識しています。自分の好きなこと、自分の夢、自分の希望などが、自分自身に対する個人的なアイデンティティ(self-identity)を表しています。同時に、私たちは家族の中の自分、学校の中の自分、国の中の自分など、自分が属する集団の中の一員としてのアイデンティティも持っています。自分と集団の間の結びつきが強いほど、個人は自分を集団の中の一部として強く認識し、つまり強い内集団アイデンティティ(ingroup identity)を持つと言えます。アイデンティティの問題は私たちの生活の様々な面に影響を与えます。例えば、自己紹介をする時、ある人は自分の年齢、自分の趣味など、主に自分の固有の属性について話す一方で、ある人は自分の家族、自分の学校、自分の会社など、自分が属するグループの中の自分についてもっと多く紹介します。自分の利益とグループの利益が相反するとき、内集団アイデンティティを強く持っている個人は、集団の利益のために個人の利益は放棄する可能性が高いです。 また、そのような人たちは、集団の目標を個人の目標より優先する傾向があります。

自分の固有のアイデンティティを内集団アイデンティティより重視し、集団の目標より個人の目標を優先する傾向を個人主義とすると、その逆の傾向は集団主義になります。このような傾向性は個人によっても違いがありますが、文化心理学者は様々なデータを通じて、文化圏によって個人主義と集団主義の程度に違いがあることを明らかにしてきました。 ここで重要なことは、どちらがより望ましいと評価することはできないということです。 例えば、個人主義的な価値観が浸透している文化圏では、個人が固有のアイデンティティを表現し、自分の思い通りに行動することができ、より自由な社会である可能性はあります。 しかし、同時に、すべての人が自分の関心と利益だけに合わせて行動すれば、グループ内の協力が必要なことをするときには、様々な葛藤が発生する可能性があります。他者への配慮がない社会を想像してみると、多くの個人が被害を受けることもあることは容易に想像できます。一方、集団主義的価値観が浸透している社会は、個々人が集団の目標と利益のために自分のアイデンティティや利益は放棄しなければならず、常に集団を意識しなければならず、自由がない社会と言えるでしょう。(ホフステード他, 2013: 第4章)

個人主義と集団主義は富と関係があると言われています。 個人差について言うならば、裕福な個人は貧しい個人に比べ、より個人主義の傾向が高いということです。 人間の生存の問題と関連して、経済的状況によって他人に依存しなければならない個人は、他人、つまり集団の他のメンバーとの円満な関係を気にしなければならず、それだけ集団のための生活をしなければならないでしょう。 一方、経済的に自立した個人は、より自由に自分の健康、自分の目標、自分の興味など、自分のための生活を送ることができます。(ホフステード他, 2013: 116-119)

<考えてみよう>

日本は個人主義的でしょうか?集団主義的でしょうか?日本を欧米諸国と比べるとどうでしょうか?また、日本を他の東アジア諸国と比べるとどうでしょうか?Hofstede InsightsのウェブサイトのCountry Comparison Toolを使って比較してみてください。

また、昔と今の日本では、個人主義・集団主義について違いがあると思いますか?もしあるとしたら、変化の要因として何があると思いますか?

2. 階層:権力格差 (Power distance) 

二人以上の個人が集まって行われるどの集団でも、比較的影響力の大きい個人やグループが存在することになります。 その影響力を権力と呼ぶならば、社会に影響力を行使するグループ(支配者グループ)と影響を受けるグループとの間にどれほど大きな差が存在するかを示すのが権力格差です。ホフステードは、権力格差を「それぞれの国の制度や組織において、権力の弱い成員が、権力が不平等に分布している状態を予期し、受け入れている程度」と定義しています(ホフステード他, 2013: 54)。簡単に言えば、権力格差が大きい社会ほど不平等な社会になるということです。権力格差が小さい社会では、個人が比較的平等な権利と義務を持つと認識されますが、権力格差が大きい社会では、地位の高低によって差を認めます。

権力格差は家庭、学校、職場など様々な社会的グループに存在します。例えば、権力格差が小さい家庭では、子供が親を自分と同等に扱います。学校では、生徒は教師を自分と同等に扱います。学校や職場で教師と生徒の間、上司と部下の間には常に双方向のコミュニケーションが可能です。権力格差が大きい社会の問題は、リーダーの独裁に現れます。 また、基本的に人間間の平等精神が抑圧され、社会の不公平をもたらします。権力格差が小さい社会は、リーダーの力が弱い社会と映ることもあります。迅速な対応を必要とする緊急事態や構成員間の大小の葛藤をマネジメントするためには、ある程度の力を備えたリーダーが必要かもしれません。 また、目上の人、年長者などに対する尊敬の美徳も、皆が平等な権力格差の小さい文化圏では見られないかもしれません。(ホフステード他, 2013: 第3章)

歴史的背景とも関係しているとされています。過去に強大国に支配されていた国や文化圏の場合、権力格差が大きい傾向があります。例えば、ヨーロッパ内でも北欧に比べ、ローマ帝国の支配下にあった南欧諸国の場合、権力格差が大きいことがわかります。親など家庭内での目上の人に対する尊敬、師に対する尊敬、指導者に対する尊敬と服従などを強調した儒教も、東アジア文化圏が一般的に権力格差を高く保つことに影響を与えたと考えられます。(ホフステード他, 2013: 72-75)

異文化理解に関するビジネス書である『異文化理解力』(メイヤー, 2015)では、権力格差が組織内の意思決定方式に影響を与えると述べています。権力格差が大きい文化圏では、リーダーの権限が比較的高いため、リーダーによって意思決定が行われるトップダウンの意思決定方式が適用される一方、権力格差が小さい文化圏では、個々の意思決定権が比較的平等であるため、すべてのメンバーの意見を取り入れて、少しずつ大きな意思決定を行うボトムアップの意思決定方式が適用されるといいます。さらに、この本の中で、権力格差と意思決定方式に差を見せる例外的な国として、アメリカと日本のケースが挙げられています。まず、アメリカは権力格差が比較的小さい国であるにもかかわらず、意思決定方式はトップダウンです。社会の様々な組織でリーダーがファーストネームで呼ばれるのが一般的で、平等な社会を追求することが基本的な価値観ですが、アメリカの大統領は国家を統治する上で強い決定権を持っています。一方、日本は権力格差が大きい文化圏に属します。リーダーに対しては敬語が使われ、家庭、学校、職場で目上の人はより多くの権限を与えられます。 しかし、意思決定では、稟議制度に見られるように、個人の意見をもとに徐々に上に向かって決定が行われるボトムアップ方式が特徴的です。政治的にも首相一人で決定できることはほとんどありません。

<考えてみよう>

Country Comparison Toolを使って日本と他のいくつかの国の男性らしさの程度を比較してみましょう。そのデータに合致するような経験、合致しないような経験はありますか?

3. 競争と達成:男性らしさ・女性らしさ (Masculinity-Feminity or Motivations toward achievements and success) 

ホフステードのモデルにおける六つの次元のうちの一つに、男性らしさ/女性らしさという次元があります。ただし、この次元は、最近(2023年10月16日)更新された Hofstedes-insight.com では、「達成と成功に対する動機」(Motivations toward achievement and success)に修正されています。以前の名称が男性と女性の固定観念をさらに強めうるもので、新しく修正された名称がより望ましいように見えますが、これまで蓄積されてきた様々な研究で用いられてきた概念が前者であるため、ここでは男性らしさ・女性らしさという用語を用いて説明します。

競争に勝つこと、高い地位に上がること、成功することに大きな意味を置く個人がいる一方、ちょっとしたことに人生の意味と幸せを見つけ、隣人に優しさを与えることに価値を置き、激しい戦いの末の勝利よりも平和な生活に大きな価値を置く個人がいます。ホフステードのモデルにおいて、前者は男性らしさが強いと言われ、後者は女性らしさが強いと言われます。(ホフステード他, 2013: 第5章)

男性らしさが強い国は女性らしさが強い国に比べ、男女の役割の違いにも大きな違いが見られます。このことも、男性らしさ・女性らしさという次元の特徴です。男性らしさが強い国では、男性が収入を得て女性が家の中を仕切ることが標準的だと考えられがちです。(pp.136-140)

この次元の特徴は、教育にも現れます。 いくつかの例を挙げると、男性らしさが強い文化圏の教育では、優秀な学生になることを美徳と考え、教室内でも競争が一般的です。学校のスポーツでもチームの勝利が重要な目標です。(ホフステード他, 2013: 144-148)

男性らしさが強い文化圏では、大きな規模の組織が好まれ、専門職には女性が比較的少ないです。女性らしさが強い組織に比べて、攻撃的な経営スタイルを追求します。チーム間の葛藤がある場合、女性らしさが強い組織では妥協と交渉を重視するのに対し、男性らしさが強い組織では強いチームが勝つことを原則に葛藤を解決しようとする傾向があります。(ホフステード他, 2013: 150-154)

男性らしさ・女性らしさは移民政策にも影響を与えます。男性らしさが強い国では少数民族が多数派の民族に吸収される同化主義が好まれる一方、女性らしさが強い国では民族間の優劣を問わない統合主義が好まれます。男性らしさが強い国々は成長と富を追求する一方、女性らしさが強い国々では、貧困なグループのためにより多くのお金を使うなど、福祉政策により積極的です。国際的な紛争において、男性らしさの強い国は戦闘によって解決する傾向があり、女性らしさの強い国は妥協と交渉よって解決する傾向があります。(ホフステード他, 2013: 154-159)

男性らしさ・女性らしさは宗教とも関係していま。キリスト教を見ると、旧約聖書は新約聖書に比べ、より荒々しく男性的な価値を重視する一方、新約聖書はより柔らかく女性的な価値の福音を伝えます。仏教でも、男性らしさの強い日本の仏教と女性らしさの強いタイの仏教は、教えや形式に多くの違いがあります。(ホフステード他, 2013: 159-163)

デンマーク、フィンランド、オランダ、ノルウェー、スウェーデンなどヨーロッパ北西部の国々は概ね女性らしさが強く現れます。伝統的にこれらの国の上流階級が従事した貿易や海運業は、良好な人間関係を維持し、船舶と物資をうまく管理することが重要な仕事だったようです。また、スカンジナビア諸国が バイキング時代だったとき(800-1000年)、女性たちは男性が長期間外に出ている間に村を管理する責務を担いました。 これらの国で比較的女性の社会的活動が活発な理由は、このような歴史的背景に隠れている可能性があります。(ホフステード他, 2013: 164-165)

<考えてみよう>

Country Comparison Toolを使って日本と他のいくつかの国の男性らしさの程度を比較してみましょう。

日本はジェンダーギャップ指数の世界ランキングで低く(2023年の報告で125位)、女性の社会進出が非常に難しい社会だと言われています。日本の男性性の程度と女性の社会進出の遅れとには関係があるでしょうか?

https://www.asahi.com/sdgs/article/14936739

4. 真実:不確実性の回避 (Uncertainty avoidance)

4つ目の問題は、明確でないこと、新しいことを受け入れることにどれだけ積極的であるかという問題です。ある人は、新しいことに挑戦することに慎重で、慣れ親しんだものや場所、人を好みます。ある問題に対して正解が決まっていると信じ、自分が間違っていないかどうか慎重になる一方、新しいことを簡単に受け入れ、新しいもの、人、場所を経験することにもっと積極的な人がいます。このような慎重さ、開放性などの個人的な特性は、文化圏によっても異なって現れます。どの時代、どの社会にも不確実性は存在しますが、それぞれの社会は、様々な方面に存在する不確実性を管理する様々な方法を発達させてきました。 ある社会は不確実性を回避して排斥する方法で、ある社会は不確実性を受け入れて融合させる方法で発達させてきたのです。 実際、不確実性というのは主観的な感覚です。そのため、ある社会の個々人が感じる不安に対して、他の社会のメンバーは非合理的だと思うかもしれません。(ホフステード他, 2013: 第6章)

不確実性の回避が大きい組織では、仕事を遂行する上でより多くのストレスが報告されています。国レベルの不安も高く報告されています。国別の不安度は、国別の自殺率、飲酒量、事故による死亡率と関係があると報告されています。アイルランドの心理学者Lynnは、不安度が高い国の場合には飲酒率が、低い国の場合にはカフェイン摂取率が高いという結果を発表しました。不安が低いと精神的な刺激が必要なのでコーヒーなどのカフェイン摂取を、不安(ストレス)が高いとそれを解消するために飲酒摂取率が上がるということです。(ホフステード他, 2013: 177-181)

社会の規範や制度面でも不確実性の回避が低い、つまり受容的な社会は、ルールや組織の構成を変更することに柔軟性があります。組織内では、必要なルールだけが存在し、不要なものは取り除いたり変更したりすることができるという考え方が共有されています。家庭や教育面では、不確実性の回避が大きい家庭では、子どもたちはしばしば正解と不正解が存在することを学んでいきます。 また、親は教師を教育の専門家と考え、教師と親が同時に積極的に子どもの教育に参加するのではなく、親は観察者の立場に立つことになります。(ホフステード他, 2013: 188-189)

不確実性の回避が大きい国は、移民や難民の受け入れに消極的だと言われています。新しい集団を受け入れることに慎重で、移民を差別し敬遠する傾向が大きいため、外国人としての定住に多くの困難が伴う社会です。(ホフステード他, 2013: 203-206)

不確実性の回避の国ごとの違いは、歴史的背景で説明することができます。過去にローマ帝国の支配下にあった文化圏の国々は概して不確実性回避性が高いのに対し、中国語圏の国々は不確実性回避性が低い傾向があります。ローマ帝国と中国の王朝はどちらも強力な中央集権の政府でしたが、統治方法には大きな違いがありました。ローマ帝国は一つの統合された法とシステムが出身に関係なくすべての市民に同じように適用されるようにしましたが(「法による政府」)、中国の王朝は儒教思想などより一般的で広い範囲の原則に基づいて統治しました(「人間の政府」)。 もう一つの不確実性の回避・受容性を説明できる重要な要因は戦争の経験です。不確実性に対する回避・受容性は比較的可変的な価値観で、戦争を直接経験した国家、特に敗戦国や自国の領土で戦争を経験した国家の場合は、回避性が大きい傾向が見られます。(ホフステード他, 2013: 211-213)

<考えてみよう>

コロナ禍における対応には、国によって違いがありました。例えば、水際対策、移動制限、ステイホーム、マスクの着用などです。政府による強制もあれば、人々の自主的な対応もありました。また、ワクチンの承認がいち早く下りた国もあれば、時間がかかった国もありました。国民のワクチン接種が進んだ国もあれば、そうでない国もありました。これらは不確実性の回避の次元とどのように関係するでしょうか?また、他の次元とも関係があるでしょうか?

5. 過去と現在、そして未来:短期志向-長期志向(Short-term or long-term orientation)

第五の問題は、過去と現在と未来のどれを重視するかということです。未来は可変的でより良くなりうるという考えを持ち、現在は未来のために一生懸命準備する時期と考え、焦点を未来に置く価値観を意味します。学習と勤勉、節約、忍耐を強調する儒教的価値観と深い関係があるため、東アジアの価値観の特徴として考えられており、実際にデータ上でも東アジア諸国の長期志向は最上位に属します。東アジア諸国が急速なスピードで経済成長を成し遂げることができた原動力も長期志向で説明することができます。比較的短期的な志向を持つ東アジア以外の人々が東アジア人に対して仕事中毒だと思うのも、この志向性と関係があります。長期志向は、過去・現在よりも未来を重視するため、自分(たち)が過去と現在に成し遂げ、備えていることそれ自体に満足し、誇りに思うのではなく、未来のために絶えず準備し、周囲や周辺諸国から学ぶことに価値を置きます。子供たちは幼い頃から、将来のために勉強し、計画を立て、忍耐し、貯蓄することを重要なこととして学びます。(ホフステード他, 2013: 第7章)

なお、長期志向は、研究者やプロジェクトによって社会の「柔軟性(flexibility)」(Minkov et al., 2017)「未来志向(future orientation)」(GLOBEプロジェクト)と呼ばれることもあります

ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は同じルーツを持つ宗教です。 これらの宗教の原理主義では、現在ではなく過去からの知恵の中に答えを見つけようとするという点で、短期志向と関連しています。(ホフステード他, 2013: 246-248)

<考えてみよう>

長期的な志向は、長期的な成長の原動力になるという点で、個人や社会の発展にポジティブな要素として作用します。 しかし、未来への過度の執着は、過度の教育熱や、過労、ワークライフバランスの欠如などの問題を引き起こすことはないでしょうか?

また、現在人類は、気候変動をはじめとする様々な環境問題に直面しています。自分や自国だけでなく、人類社会全体と生態系全体のためのグローバルな長期志向を目指していくことは可能でしょうか?

6. 幸福: 放縦と節制 (Indulgence or restraint)

最後の問題は幸福へのアプローチです。一般的に、富は個人の人生の満足度と幸福を決定する重要な要素です。 しかし、世界価値観調査(World Value Survey)で測定する国別の幸福度と富のレベルは相関が高くありませんでした。 むしろ、最も幸せな個人は西アフリカ(ナイジェリア、ガーナ)とラテンアメリカの北部(メキシコ、エルサルバドル、コロンビア、ベネズエラ)に最も多く分布していました。放縦と節制の側面がこの理由を説明しています。放縦(indulgence)と節制(restraint)は人類学で提示される「ルースな社会」と「タイトな社会」と似た概念ですが、放縦の高い社会が自分の人生に対する統制感を維持し、余暇生活を重視する一方、節制の高い社会は自分に起こることに対する統制感が低く、余暇時間をあまり重視しません。文化心理学者のMisho MinkovはWVSデータ分析を通じて、高い幸福感は人生に対するコントロール感と余暇生活を重視することが一つの要因であることを発見しました。 この放縦と節制の側面は、なぜ貧しいフィリピン人が裕福な香港人より幸せなのかを説明してくれます。フィリピン人は香港人に比べて、人生のコントロール感をより多く経験し、余暇をより重視するため、より高い幸福感を感じるのです。(ホフステード他, 2013: 第8章)

放縦と節制という次元は、社会の持続的な発展と関連した様々な現象を説明してくれます。放縦が高い社会の個人は、節制が高い社会の個人に比べ、家族や友人関係に満足し、個人的な連絡をより多く交わします。笑顔は社会の無意識の規範であり、発言の自由が重要視されます。また、放縦性の高い社会の個人は将来についてより楽観的で、これらの国は比較的高い出生率を示します。 また、心臓病などのストレスに関連する病気による死亡率も低いです。(ホフステード他, 2013: 269-275)

しかし、良いことばかりではありません。 放縦性の高い社会の個人は魚の摂取率が低く、飲料や酒の消費率が高いです。 経済的に豊かで放縦性の高い社会の個人は高い肥満率を示すというデータもあります。(ホフステード他, 2013: 271)

Minkovは、ユーラシア地域における集約的な農業の数千年にわたる歴史がかかわっており、放縦性の高い文化圏にはそのような歴史が存在しないと説明します。ユーラシア地域の集約的農業は、重労働、食糧の豊かさと飢餓が交互に訪れる変動性、抑圧的な国家と搾取、疫病、領土を占領するための果てしない戦争など、数多くの災害を経験させました。 すべての生命が苦しんでいるととく仏教や、真の幸福は来世でしか得られないと教えるユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、いずれもユーラシアから生まれたことも、この農業形態と関連付けられます。これに対し、狩猟採集社会と植物栽培社会は、集約型農業の悪影響を同じ程度受けなかったので、自由と幸福感がより強かったと考えられます。 また、集約型農業には、節制された規律、将来のための計画と貯蓄、余暇への無関心、緻密な社会管理が必要ですが、これらの条件は、狩猟採集や園芸社会ではあまり重要ではないでしょう。(ホフステード他, 2013: 275-276)

ホフステードのモデルへの批判

代表性の問題

ホフステードの研究チームは1970年頃、約40ヶ国のIBMの社員からデータを収集した後、他の国でデータを継続的に収集したり、専門家の推定を使用しました。 IBMの社員のデータが中心を占めているため、一企業の従業員のデータが一国の国民の価値観を代表できるのかという批判があります (Baskerville, 2003; McSweeney, 2002; Minkov, 2018). 貧富格差や教育格差が大きい社会であればあるほど、代表性の問題はより深刻になる可能性があります。例えば、発展途上国のIBMの従業員は、一般国民に比べて教育水準、社会経済的レベルが高い集団である可能性があります。 また、数十年前に発表された価値観が、現在の地球上の多様な価値観をよく反映できるのかについても疑問が提起されています。 

妥当性と信頼性の問題

モデルの各次元に対して繰り返し検証が行われてきたわけではないという点で、妥当性と信頼性に関する問題も提起されています (Minkov, 2018; Minkov & Kaasa, 2020). 例えば、個人主義・集団主義の項目の妥当性が低いという研究結果があり(Brewer & Venaik, 2011; Minkov et al., 2017)、不確実性の回避・受容と男性性・女性性についての概念的な問題が提起されることもあります(Minkov, 2018)。ホフステードの同僚の研究者だったミンコフは、個人主義・集団主義の測定項目を修正するとともに、柔軟性対記念碑主義(Flexibility-Monumentalism)という次元を提案しています(Minkov, 2018). 柔軟性は自分自身を変化と発展可能な存在として見て、絶え間ない自己開発に価値を置くことを意味し、記念碑主義的価値観は自分自身をそれ自体として高貴で素晴らしいと考え、後天的な努力を通じて変化を試みることに大きな意味を置かないことです。 この側面は、儒教文化圏である東アジア(高い柔軟性)とラテンアメリカやアフリカの文化(高い記念碑主義)の違いを説明することができます。 

おわりに

ホフステードのモデルへの是非はあるものの、文化圏によって価値観や考え方について何らかの傾向性の違いがあることは、疑いようがないように思われます。

それぞれの文化圏が異なる心理的な特徴を形成する過程には、それぞれの国・地域の地理的、自然的、歴史的、政治的要因が影響を与えたでしょう。そして、これらの特徴は、各文化圏の基本的な価値観として内在して維持され、次の世代に伝承されてきたのでしょう。

一つの文化圏の主要な価値観も産業化、グローバル化のような巨大な外部要因や戦争、パンデミックなどの国家、世界レベルの危機を経験しながら変化します。 しかし、その速度は非常に遅く、その変化に抵抗する個々人も内部には存在するため、順調ではありません。 例えば、経済成長ですべての文化圏が個人主義的な価値観を重視し、平等を追求する方向に進化していくという近代化仮説(modernization hypothesis)があります(Inglehart & Welzel, 2005)。これを裏付ける縦断的研究もありますが、結局は進化に限界があったり、その方向性が一貫していなかったりして、むしろ過去の価値観を重視する方向に戻ることもあるという主張を裏付ける研究もあります。例えば、最近日本で行われた研究では、コロナ禍以降、日本人の価値観は伝統性を重視し、男女差別を支持する方向に回帰したことを示唆しています (Akaliyski et al., 2023)。人間の進化のように、文化的価値観も人類社会が最も円滑に生存し、発展していけるような方法で進化していくでしょう。 しかし、これまで各文化圏が異なる方法で進化してきたように、今後も文化圏による価値観の違い・多様性は存在するでしょう。 したがって、私たちは異なる文化圏の価値観、つまり社会と個人にとって重要な問題に対する最も適切な解決方法を理解し、適応していく必要があります。私たち自身がその方法に従う必要はないとしても、その方法自体は理解しておく必要があります。

文化的価値観について考える際に、皆さんに一つお願いしたいのは、個人差に留意することです。 例えば、日本人が概して長期志向が高いからといって、すべての個人がそうであるとは限りません。 節制が美徳である日本文化圏においても、放縦的な価値観を高く持つ個人も存在します。 したがって、文化的特性によって、その中の個人に接する際に、文化的な固定観念で判断しようとするのは危険です。ただ、自分と異なる文化圏の個人と接触するとき、新しい文化圏を経験するときに、あらかじめその文化圏の一般的な価値観を知っておくことは、円滑な交流と適応をするために有用でしょう。 また、各文化圏の人々の一般的な傾向と一致する傾向を持っている個人ほど幸せであるという人・文化適合仮説(Person-culture match hypothesis, Fulmer et al., 2010)もあります。

どの価値観がより正しい、間違っていると判断することはできません。 私たち自身がすでに特定の文化圏のやり方を吸収し、偏った視点で相手の文化圏を眺めているからです。 望ましい異文化接触、異文化適応は、主観的な判断から離れ、まず相手の文化圏の視点を理解し、視点を変えて世界を見ようとする努力から始まるでしょう。