2022年度巻頭言 (第9回大会)

大会パンフレットより転載

レシテーションを体感しよう

常葉大学外国語学部長

戸田 裕司

 私はグローバルコミュニケーション学科で中国語や中国文化を教えているのだが、中国のあれこれについて「実はあんまりよくわかっていないな」と思うことがしばしばある。

 レシテーション(recitation)を中国語では〈朗誦〉と言う。「朗読」という言葉があるが、その意味は「文章・詩文などを声に出して読むこと」(1)である。中国語の〈朗誦〉は「大きな声で詩あるいは散文を朗読し、作品の感情を表現する(2)ことである。私も、(下線部を気にも留めぬまま)とりあえず辞書に書いてある通りに理解し(たような気になっ)ていた。

 2018年の3月、私は海外実習(「臨地実習C」開講前の試行プログラム)の引率で、協定校の閩南師範大学外国語学部を訪れていた。そこで知り合った先生(確か英文学の先生だったと思う)から「私の家」に遊びに来ないかと誘われた。

 てっきり彼が家族と生活している「家」かと思っていたのだが、行ってみると本や骨董が並べられた「サロン」のような部屋であった。しかも閩南師範大学の先生方や共産党の幹部など10名を超える人たちが集まっていた。

 これは一体何が始まるのだ?と不安な気持ちで、適当に雑談に合わせていたら、急に1人の先生が我々の円陣の真ん中に進み出て、身振り手振りを交えながら詩を朗々と唱えはじめた。直立不動で朗「読」するのではなく、時に身をよじり、手を天に突き上げながら、まさに朗「誦」していたのだ。

 その人の朗誦が終わると、順番に皆がそれぞれ思い思いの詩や文章の朗誦を披露するというのが、この集まりの趣旨であったのだ。別に古典に限らず、本人が好きなものでよいようだ。高尚なカラオケ…というと失礼にすぎるだろうか。日本のカラオケも苦手な私には、かなり精神を奮い立たせなければついていけないものではあったが、「ああ、これが中国のレシテーションか!」と腑に落ちたひと時でもあった。

 私たちがここで体験する「レシテーション」は、日本に住むわたしたちなりのレシテーションに過ぎない。しかし、特に出場者の皆さんは、課題文の語彙・文体・ロジックから文化の息吹を体感することができたと思う。そして出場者の熱演が、文化の魅力を聴衆にまで感染させてくれるものと信じている。

(1) 三省堂『新明解国語辞典』第2版。

(2) 商務印書館『現代漢語詞典』第6版。

「暗唱」、AI時代だからこその魅力

常葉大学外国語学部グローバルコミュニケーション学科長

谷 誠司

 本年度も「多言語レシテーション大会」を開催することができ、本当に嬉しく思っております。難しい状況下で参加を決めた出場者、引率者の高校の先生方、聴衆として参加する皆さん、そして実行委員の学生には心から御礼申し上げます。

 昨今、AI技術の発達により外国語学習の意義が問われています。海外でもスマホの翻訳アプリを使えば、大概のことは事足ります。そうした社会変化の中で外国語の詩や戯曲を暗唱することには、一見実利的な有用性はあまりないように思えるかもしれません。

 でも、本当にそうでしょうか?

 外国語の詩や戯曲を覚えること。それは、それぞれの言語が持つ、リズムや音の響き、ものの見方や大切にしていることを、無条件に自分のからだの中に取り込むことでもあります。自動翻訳がいくら便利になったとしても、それはただ眼鏡のようなものです。眼鏡は外してしまえば見えなくなります。でも、暗唱した詩や戯曲はからだに染み込んでいきます。暗唱することで母語以外の世界観や価値や思考などをからだの中に取り入れ、それによって皆さん自身の思考や行動も多様化し、複眼的にモノを見ることができるようになるのです。

 仕事でも生活でも、今後ますます「多様性を認める」ことが大切になります。その時、相手の文化的な背景を理解していることは、非常に有効です。暗唱した詩や戯曲の一節を披露するだけで、お互いの距離はグッと近くなるでしょう。外国語を学ぶことは単に「話せる」だけでなく、その言語が生まれた背景や使う人たちの文化や思考を理解し「共に生きる」ことが目的です。一見無駄に見えることが、皆さんの血や肉になると信じています。どうか日々の努力の成果を惜しみなく発揮できますように。

 聴衆の皆さんも大いにお楽しみになり、出場者に惜しみない拍手を送っていただければ幸いです。