1.地図で見る岡山平野の拡大
岡山平野は、三大河川の吉井川、旭川、高梁川とその他の中小河川(赤磐砂川、笹が瀬川、足守川など)の堆積作用によって形成された沖積平野である岡山平野は吉備高原南麓と児島の間に横たわる「吉備の穴海」と呼ばれた浅海が陸地化されたものである。
① 縄文時代前期(BC4000年頃)の岡山平野(図1-1)
・ この時期は縄文の海進期にあたり、吉備高原の南の縁から児島・連島の間は浅い海が広がっていた。
・ 海岸線は、縄文貝塚の分布、地盤高図、柱状図、河川の堆積作用を等を考慮して推定した。
・ 岡山平野は、吉備高原南部の谷底平野や氾濫原である総社平野などの総社低地が分布していたにすぎなかった。
図1-1 縄文時代前期の岡山平野
② 奈良時代の岡山平野(図1-2)
・ 海岸線は弥生遺跡の南限、条里制の南限、大安寺伽藍縁起并流記資財帳や和名類聚称に記載された地名、地形環境を考慮して推定した。
・ 海退期に土砂が堆積して、氾濫原(緩扇状地状)や三角州を形成していった。
・ 縄文晩期から人々が平野に生活の営みを求めて進出してくる。弥生後期になると、爆発的に水田化が進んでいったことが最近の発掘調査で判明している。
・ 古墳時代には生産力が一段と高まり、これを背景にして、古墳が作られていく。
・ 奈良時代の岡山平野の海岸付近に、海岸平野・三角州が形成され、平安時代には人々はここに進出して開発を進めていったものと思われる。
図1-2 奈良時代の岡山平野
③ 中世末の岡山平野(図1-3)
・ 分布がほぼ確定できる近世以降の干拓地を除いて推定した。
・ 奈良時代から約800年を経過した期間に拡大した平野は、主に吉井川・旭川・笹が瀬川下流にみられる海岸平野・三角州と高梁川下流平野の氾濫原である。
図1-3 中世末の岡山平野
④ 現在の岡山平野(近世以降の岡山平野の拡大、図1-4)
・ 三角州前縁の干潟が干拓され、氾濫原上の低湿地が開発されることにより、大規模な干拓平野、塩田、工業用地、港湾施設が現出した。
図1-4 現在の岡山平野(近世以降の岡山平野の拡大)
2.流域ごとの特徴
① 吉井川の下流平野
・ この頂部は、瀬戸町大内、備前市坂根であるが、西大寺市街地・射越・新地付近までが氾濫原である。
・ これらの下流側が三角州・海岸平野で、さらに下流側は干潟・干拓地と続いている。
② 旭川の下流平野
・ この頂部である、岡山市大原を中心に牟佐・玉柏で谷底平野を形成している。
・ この下流の中原を谷口として、扇状地の特質をもつ沖積平野が海抜5~4mの清水・雄町(扇状地の扇先の湧水帯)まで分布している。
・ 海抜1mまでは緩やかな氾濫原で。それ以下は干潟・干拓地(倉田新田、沖新田、福島新田、青江新田、当新田など)が分布する。
③ 高梁川の下流平野
・ 総社低地以南がそうであって、総社低地は谷底平野から続く氾濫原である。
・ 総社低地を南流した高梁川は、かって旧清音村古池付近で東西2本の河川に分流し水島灘へ注がれていた。
・ これらの川は、倉敷市酒津以南に高梁川低地を形成し、このうちの倉敷市街地付近までは氾濫原で、市街地以南は近世以降の新田と干潟・干拓地である。
文献4-1 池田村治山事業誌
1.山地荒廃の原因
① 本村地内の23.8平方キロの山林は、幕末頃まではかなり良好な林相を呈していたが、高梁川舟運の発達と、維新の変革による過渡期の林政の緩みに加え、土木建築の勃興による木材価格の暴騰を来したこと、慶応3年(1867年)正月、備前藩は備中松山城征討軍に、本村滞留中の「賄(まかない)」を荷せられたことが、そうでなくても苦しい村民の経済に最悪の重荷となった。
祖先伝来の森林愛護の念も、明日の糧には、他の産業を持たない村民の抗す術もなく、森林に入り、乱伐・暴採を敢えて行い、その日の命を繋いだ。
※この背景について詳細は下記の「戊辰戦争と松山藩の立場について」を参照してください。
② これら伐採された林産物は、現在の豪渓駅付近を積出港として、下流倉敷はもとより、玉島、下津井、宇野、岡山、遠くは高松、丸亀方面へまで販売された。
当時の積出港付近では、商況の殷賑さは格別であって、ここのみ村人の貧困をよそに、出入り商人、上り下りの船頭相手に、旅館料理の店では芸者や三味を相手に歌舞、俗曲の内に、商いの取引に日々の明け暮れを送っていた。
③ このように乱伐された村内の山地は、暴採跡地を放置していたので、降雨のたびごとに、裸山から莫大な土砂を流出するにおよび、年と共に裸山は禿山と化して以前は清流であった槇谷川は見る影もない白砂川となった。
① 明治年7月の洪水は最も甚だしく、当時の槇谷村、見延村、宍粟村住民に再起不能を憂慮される被害を与えた。
・ 流出 家屋数戸、牛2頭、耕地21町歩
・ 浸水 家屋30数戸、耕地10町歩
・ その他 用水路、橋梁、道路に甚大な被害
② その直後2回の水害を被り、村人たちに水害復興の機会を与えなかった。
→ この水害により、食に糧を失い、生活の元手を得る職もなく、賃金を得る仕事もない有様で、村民は仕方なく鍬を担いで伐採跡地の「採根」を行いこれを隣の町村に荷売りをして、細々ながらの日々を送る有様となった。
※採根すると、自然の緑化が難しく、根っこによる地盤の固定を損なうことになるので、治山からみると最悪の行為である。
③ 明治16年1月より「岡山県砂防施行規則」が発布されたので、村当局は、村民の窮状を訴え、山地の復旧と村民の救済を乞い、これが認められて同年より砂防工事の施行を見るに至り、村民はこれに喜んで従事した。
・ 明治16年頃:児島半島から、賀陽郡宍粟村、見延村、黒尾村、久米村、奥坂村の一区画が判然と望見できた。
当時を知る人(池田村民)をして、現在(昭和27年当時)の玉野市付近の山形(全国的にも知られていた禿山の実態)をはるかにしのぐと語らせた。
・ 降雨ごとに山地よりの土砂はものすごく流出して下流に堆積し、少雨でも堆積土砂は常に川床移動し、洪水に際しては忽ちにして氾濫しその被害は甚大だった。
・ 砂防の碑:賀陽郡見延宍粟日羽槇谷奥坂西阿曽久米黒尾諸村にまたがる山地に‥‥
発起人:見延宍粟日羽槇谷奥坂西阿曽久米黒尾から、各2人づつであるが、久米のみ4人である。
※砂防の碑が建立された時期等については、後述の、【砂防の碑が明治22年に建立されたことにつて】を参照してください。
3.治山事業施行の実績
〈県 営〉
県営砂防工事 合併前:(明治16~21年) 17町2反4畝 → 国庫補助なし
合併後:(明治22~30年) 19町9反4畝 → 国庫補助なし
県営指定地砂防工事 :(明治31~大正12年) 409町3反3畝 → 国庫補助あり
・従来施行した「砂防工事」は、昭和2年、農林省において各県の関係者会議を開き、「荒廃地復旧事業」に名称を改められた。
・昭和5年には砂防指定地も保安林に編入の上、同事業で施行されるようになった。請負は連帯または村であった。
県営荒廃地復旧事業:(昭和3~7年) 5.30 ha
県営時局匡救荒廃林地復旧事業:(昭和7~8年) 3.22 ha
県営荒廃林地復旧事業:(昭和12~21年) 3.03 ha
県営治山施設事業:(昭和22~26年) 38.04 ha
小計 496.10 ha ※池田村治山事業誌には「県営工事に於いて493.08ha」と記述されている。
〈県費補助〉
県費補助砂防工事:連合協議費:(明治16~21年) 22町 5畝
村管理:(明治21~30年) 24町4反
県費補助地盤保護植樹:(昭和7~10年) 12町5反
小計 58.95 ha
〈そ の 他〉
施行年度不明 21.20 ha
〈農林省直轄工事〉
身延東谷地内(阿曽村境): (昭和14年以降) 26 ha
合 計 602.25 ha ※池田村治山事業誌には「599.23ha」と記述されている。
未施工面積:要禿山復旧施行面積 26 ha
要山地荒廃防止事業施行面積 65 ha
計 91 ha
【戊辰戦争と松山藩の立場について】
・ 1868年慶応4年(明治元年)1月14日 征討軍は「美袋村(松山藩領)」にいた。(藩城の南12km)
・ 鎮撫使側から謝罪書の要求があった。その草案の中に「大逆無道」の文字があり、これだけは絶対許せないと山田方谷が云い交渉の結果、「軽挙暴動」で折り合いがついた。最初は山田方谷の切腹も考えていたが、それを強行すると備中松山藩及び領民の反発が懸念されたのでこの話は出なかった。ただ、藩主に供をし、鳥羽伏見の戦いののち、藩主と別れて玉島まで帰ってきた約150名の藩士の代表の熊田某は切腹させられた。
・1月18日に、松山城は無血開城となる。
・ 藩主「板倉勝静(かつきよ)」は、この時老中首座兼会計総裁であり、15代将軍徳川慶喜から厚い信頼を受けており、鳥羽伏見の戦いの折、慶喜と同様に大阪城に降り、敗戦後、同じ船で江戸に帰った。その後奥羽越列藩同盟の参謀になり、函館まで転戦した。
・ 板倉勝静に登用された「山田方谷」は、部下をひそかに函館までやり、藩主を連れ帰させた。
・ 山田方谷は藩主が老中になることに賛成していない。農商出身の彼の考えは松山藩及びその領民が大事であって、藩政改革をすることで10万両の借金を10年で
返済し(実質は3年ほど)、10万両の貯蓄をした。(長州征伐に藩が参加したためそれにほとんどを費やされている。)
それも領民に過酷な年貢を要求せずにである。さらに、津山へ行って、西洋砲術を習い、大砲を購入し、後の長州藩の奇兵隊の前身にあたる農兵制度も確立して
いる。藩主の意向を確かめず(背いたことになるかもしれない)開城したことについては、後に藩主に申し訳ないと断りを入れている。なお、松山藩は、明治2年に5万石から2万石に減俸のうえで、板倉勝弻(かつすけ)が藩主になる。
・ 板倉勝静は、伊勢桑名藩からの養子であるが、優秀な人であったことは間違いない。勝海舟曰く、祖父の松平定信より優れていたが、時代が悪かった。出自の桑名藩の当主は松平定敬(さだあき)といい、彼も婿養子である。そして彼は京都町奉行をしており、同時期に京都所司代をしていた松平容保(会津藩主で彼も養子、会津藩は徳川初期の名君、保科正之[徳川家光の弟]の家系)は、実の兄である。このような関係で、板倉勝静は、徳川家に対し特別の思いを持っていた。優秀で藩自体に借金がなく、兵隊、兵器とも充実していたので、幕府としても頼りにしたようだ。
【砂防の碑が明治22年に建立されたことにつて】
・ 池田村は、藩政当時は岡山藩に属し、槇谷村、見延村、宍粟村の三村に分かれていたが、廃藩置県(明治4年)後は、深津県、小田県そして明治8年に岡山県に合併し、明治22年に町村制の実施に際し、三村を合併し池田村となった。
・ 同時期に、近隣の日美村(日羽村、美袋村)、阿曽村(奥坂村、西阿曽村、久米村、黒尾村、東阿曽村)も合併した。
・ その後、池田村は阿曽村や総社町などと合併して総社市になり、日美村は、富山村(宇山、種井など)、対岸の下倉村、水内村(影、中尾、原)と合併して昭和町(役場は美袋)になる。
・ このような経緯からみても、砂防事業の恩恵の受け方が違う、美袋村、東阿曽村が加わる町村制施行の前に建立したものと思える。また、久米村からの発起人が他村より多いのは、砂川の「天井川としての規模拡大(田畑の減少)」の抑止や決壊に砂防工事が効果があったからではないかと思料する。(事例4-2 阿曽村)
文献4-2 阿曽村(天井川〈砂川、血吸川〉についての記載部)
この書籍は、昭和28年7月1日(総社町などと合併する直前の時期)に発行され、その内容を調査作成したのは「総社高校地歴班」で、教育の一環として行ったものです。
【天井川の沿革】
・ 文献によれば、血吸川の砂掘りが年々行われているから、既に江戸時代末期には山林も大分荒れていたと思われる。砂川も大体同様の状態とみてよかろう。ただし堤防は現在のように高いものではなかったらしい。
・ 古老の言によると、「昔は5月の田植えをしながら対岸の人と顔を見合わせて話ができたそうであるが、毎年の砂掘りのため、だんだん堤防が高められ、腰を伸ばしても話ができないようになり(5月節句の鯉のぼりは見える)、砂掘りが明治35頃まで続けられて現在のような高い堤防が出来た」とのことである。
【山林荒廃の理由】
① 地質及び気候が適さないこと。(花崗岩風化地帯で少雨)
当村砂防に従事した一古老は、「阿曽村の山で、総社付近からみて禿げている所はいくら植林しても用材になるようなものは出来ない」とさえ極言している。
② 林政の弛みと木材需要の増大による乱伐
隣接の池田村の状況からして、阿曽村も同様に木材の需要が増大して乱伐が行われたとみて差し支えあるまい。その上にこの頃は多事多難で林政も弛んだであろうし、特にその後、民有林に払い下げてからは相当の乱伐がなされたようである。また、古老の言によると、「村民の生活難による根掘り」も大きく影響した。
以下、一例として「久米地区」を取り上げる。
当時、久米(砂川中流部)の人たちは天井川の南の土地も耕しており、明治6年の地租改正以前は川北の土地と比較して税率が少なく、生活はそれなりに安定していたが、改正後は一律の課税で家計が苦しくなり、家屋の倒壊が相続き、明治10年頃が最も苦しい状態であったようで薪木にも困り、山の木を次々と切り、籠と鍬とを以てその根株まで掘り取って自家用とした状態である。このような徹底した根掘りもまたその原因の一つであろう。
〈その結果〉(被害)
・ 明治の初期には、両流域山地は243haの禿山が出現した。両川の川床が上がったため、35haの田んぼが二毛作乾田から、一毛作湿田に悪変した。
・ 明治17年8月の雨で、黒尾地区の天井川(砂川)の堤防が100m以上にわたって決壊し、流失家屋2戸半、半壊家屋6戸、埋没家屋7戸及び黒尾地区の総耕地の9割にあたる48haに土砂が流入し、免租地になった。
・ 下流の久米地区は2haが免租地になり、県費補助河川であった天井川も県費で復旧せられたほどの大規模な災害であったことを物語っている。
・ 明治25年には奥坂地区の天井川(血吸川)の堤防が約60m決壊して、7haの水田が埋没した。
〈対 策〉
・ そこで山林の保護取締りが強く叫ばれて、取り締まりが励行され、それと共に明治29年以降、土砂流出の甚だしい個所に砂防工事をなし、明治44年以降は、荒廃林地復旧事業が開始せられたのである。
〈その結果〉(効果)
・ 昭和10年頃の観測によれば、砂川は4~5尺、血吸川は2.5~10尺程度低下し、湿田の乾田化(二毛作に復帰)、赤濁水の侵入防止につながった。
・ その後、特に血吸川は過度の浸食で護岸が危険になったが、昭和七年から両川河川敷に砂防法が適用され、砂防工事として堰堤、床固護岸工が施行せられたので荒廃林地からの土砂流出を防ぐとともに、川床の過度の浸食低下も免れるようになった。
〈最後に〉
・ この後、宇野圓三郎のことを記載して、以下のような(高校生の)感想が記載されている。
「このように吉備郡のみならず岡山県の治山治水はよく行われているが、宇野氏の燃ゆるが如き熱と不撓不屈の努力とによるところは極めて大である。不幸にして戦時中の乱伐であの明治初年頃に逆戻りしたが、我々は宇野氏の意を解し愛林の思想に、あの「青い羽根運動」に協力して微意を表したいものである。」
文献4-3 昭和町史
※昭和町の沿革は、文献4-1池田村治山事業誌【砂防の碑が明治22年に建立されたことについて】を参照してくださ。
江戸時代の村々の紛争には、山論、水論、猟論、境論、宗論、その他など多種多様で、妥結までには長年月を要した。当事者で解決できないときは、利害関係をもたない近隣の庄屋などに調停を依頼するが、それでも協定が得られない場合は、上訴して領主(幕・藩当局)の裁定を仰ぐことがたびたびあり、判決までには数年、時には10年以上かかることも珍しくなかった。
〈山論と境論〉
・ 慶長6年(1601年、関ヶ原の合戦の次の年)以降の検地においては、従来あまり明確でなかった村々の境界を定めたが、それでも山間部集落が点在する農山村などにあっては、なお隣村との境界の不分明なところが少なくなかった。ことに、広大な入会林野の中に境界を設定するようなことは技術的にも困難であり、またその必要もないところが多かった。
・ しかし年とともに柴草や薪が農民にとって生活上必要度を加えるにつれ、用益林野の占有意欲が村落内に高まり、しぜん帰属不明な入会地の争奪が激しくなり、各地に隣接村々との境界争い、または入会上の争いがしばしば発生し、その間、騒闘・妨害・仲裁・実地検証・越訴・上訴・愁訴な、まことに複雑な事件が繰り返され、いわゆる山問答が行われたのである。
・ 具体的な事例(日羽村の札山)
永正年中(1504年)以来の入会山は、日羽村の内、柳谷・方谷・日羽谷にわたる広範な野山に、日羽村他12ヵ村の村々が関係して、柴草・薪などの重要な供給源となっていた。降って元禄年中になって槇谷村・宍粟村も入会関係をもつようになり、その利害関係は一層複雑さを加えるに至った。慶長14年(1609年)に山論が起こり、上阪して出訴に及んだため、備中代官が自ら出張し、現地調査の結果、見取り図並びに分界証文をつくり関係村々に交付した。こうして決定した境界も、その後しばしば問題を蒸し返し、延宝8年(1680年)、元禄4年(1691年)、享保4年(1719年)、特に文化8年(1811年)より10年の騒動では、双方の百姓は鎌沙汰にまで及び怪我人や死者を出す有様だった。 → 山林荒廃を引き起こす根がある。
文献4-4 山本徳三郎
・ 明治19年(1886年)秋田県に生まれる
・ 明治42年(1909年)東京帝国大学農科大学林学実科(実科は1935年にのちの東京農工大学として独立)
・ 明治44年(1911念)岡山県内務部勧業課に努める
・ 大正4年(1915年)最初の論文を出す
・ 昭和17年(1942年)岡山県の職を辞す
・ 昭和20年4月歿す
※池田村治山事業誌によれば、徳三郎の名を知らずとも「砂防の山本技師」を知らない村民はいない。
徳三郎は、学窓を出ると直ちに岡山県に奉職し、先輩宇野氏の意をついで終始一貫、治山事業に32年間、席を置いた。(宇野氏の没年に県へ奉職している。)
その間、林業普及、経営指導、愛林思想の涵養を説き、さらには「山林雑著」「地質と住民の生活(岡山県の地質と住民の生活)」、「山の幸」「水源涵養論」「字名保存論」等の著書を出している。また、治山事業工法の創造と改良に尽力した。
著 書 : 地質と住民の生活(岡山県の地質と住民の生活)より
〈林地林況の良否〉
・ 岡山県の岩石は、古生層、石英粗面岩及び花崗岩が林地林況の上・中・下を代表している。
・ 花崗岩は、物理的に母岩から破壊剥離しても、壌質が少ない。解酸化、水酸化作用(湿度即ち降雨の多寡が影響)を受けないと壌質を帯びてこない。
故に、林相は瘠せ地に耐える松(内陸部は赤松)の疎林か禿山である。山上の台地とか中腹以下あると、風化土が他へ搬出されず長く定着しているから少しづつ
壌質を帯び、松の他に雑木や雑草がはいりこんで禿山になりにくい。
・ 石英粗面岩でも、和気郡南部のような少雨地では林況が、県北の花崗岩地帯は降雨恵まれているから、南部のような禿山になりにくい。
〈県南の主な場所(禿山への移行の危険性の観点から)の地質(岩石)〉 注)大正7年頃の景観
・ 岡山市の平原から南方児島半島の山岳を望めば、西方灘崎の辺から奥迫川常山を経て荘内村の小島地、木目それから八浜金甲山に至る山地は林相良好、下
草も密生している。しかし、金甲山以東の甲浦小串の山は、荒廃禿赭、山嶺に異彩を放っている。前者は水成岩に属する古生層の粘板岩で、後者は花崗岩である
からである。
・ 浅口郡里庄村新城濱中の大禿山(花崗岩)は有名であるが、すぐ南の大島の山(石英粗面岩)は相当林相を保っている。
・ 下道郡(総社市の高梁川以西)の大部分は花崗岩であるが、その北部、下倉、水内は古生層である。薪炭林の輪伐齢が10年内外とのこと。下倉村対岸の日美村美袋西北の山地は古生層で、日羽の花崗岩山地とは林相に雲泥の差がある。池田村は、花崗岩でもその北大和村の南部、富山村の大部分は石英斑岩であるから山は良い。
〈赤松興国〉
・ 少々の松を含む林地がある場合、「松(国)」は陽光の関係で列国と雁行が出来ず、それゆえ生存競争の場の弱者として、敗滅しようとしているときも乱伐放火を業とする人類の一隊が松軍の味方となり頑強な雑木陰樹の大軍を撃退すれば初めて松軍の進出を見るのである。
・ こうして松軍は占領できても、人類が手を引くと敵の雑卒草類がほどなく各地に蜂起し、次第に陽光を遮り「松家」の子孫を撲滅する。しかし人類が始終松の友軍と居るとさすがの雑木もその跡を絶つに至る。
・ これらの関係を母岩に結び付ければ、古生層その他の水成岩であれば、人類がいかに松に味方をしても容易に「松王国」にすることができない。
(松茸の産地 詳細3⑤⑥を参照)
〈天井川の成因〉
・ 山陽道の南部には俗に、「天井川」(用語2-6)と称する砂川が多い。その川床が、左右の耕地や民家の天井、屋根よりも高いものがある。
・ 堤防の外側、即ち平地に面した方と堤頂との高さを測れば、2、3間から7、8間(5m~15m)あるのに対して、堤防の内側、即ち川床から堤頂までの高さを測れば、僅か1間か2、3間(2m~5m)しかない。
・ 岡山県においては吉備郡阿曽村大字黒尾の砂川がその典型的なものである。その他に同村血吸川、浅口郡の六条院川、小田郡の今立川、御津郡の笹ケ瀬川がその傾向を帯びている。
・ 天井川の直ぐ上流には渓床勾配の急な渓谷があり、その渓流沿いには必ず急傾斜の花崗岩質荒廃崩壊地がある。降雨の際、多量の水が流出するが、山腹や渓床の花崗岩質の粘質のごく少ない砂礫が水に混ざって流出するのは、荒廃地における一種の病的状態で比較的速やかに鎮静する。
・ 砂礫は急な渓床から緩傾斜の砂川に来ると漸次(ぜんじ)水力が弱り、大塊から順次に下流に沈積する。この作用により川床が高くなるが、これを放置すると、次回の降雨の際は、水流は隆起した前回の川床を避けて新たなる所に流心を造ろうとする。
・ こうなっては方々の地面に害をなして仕様がないから、両岸に堤防を造って、川床の移動を来さないようにする。こうすれば当分の被害は免れるものの、川床の隆起作用が何時も同一の川床に繰り返されると、間もなく 川床は堤頂に達するようになり、出水の際は堤防を超過して氾濫する恐れがある。
・ それで時々川床の土砂を浚渫してこれを両岸の堤頂に積み上げ、川床は低く堤防は高くなるような工面をする。
・ こういうことが年々歳々繰り返された川床は、漸次に向上してついには天井よりも高くなる。
〈天井川の沿革〉
・ 遊牧時代以後における農業時代の人類はまず流路の一定した河川の付近に部落を形成し、其処に田畑を開いたものと思われる。
・ 当時の住民はここが危険な土地であることを知らず、実際においても森林が水源山地を被っている間は危険はなかった。
しかし、人類がこの天然の被覆を破壊し出してから、山抜け、山崩れ、谷壊れが生じ、数千年以来森林の保護の下に生じた土砂を下流に押し出し、せっかくの水路も隆起して氾濫を見るようになり、耕地を荒らし人畜の傷害を来す恐れもあるので、水路の浚渫と同時に両岸に高い堤防を造ったに相違ない。
・ ところで、阿曽の砂川の堤防は昔はあんなに7、8間もある高いものではなかったそうである。
古老によると昔は対岸の人の顔と見合わせて話ができたのに、それが今のように丘陵が横たわったようになったとのことである。
・ 現在大禿山になっている吉備郡の池田村、阿曽村の山地でも、今の老人が若い時分には大きな樹木がたくさんあったと云っている。維新の政変とともに乱伐暴採し、ついには根株まで掘ったことが為に山が一時に荒れだしたと地元の人は云う。
・ したがってこの時期以降が天井川の出来様が早間ったことは相違ない。だが、維新以前にも港湾の付近で船舶の利便がよいところの山林は荒らされたものと思われる。
・ さらに熊沢蕃山(江戸初期の陽明学者 人物3-1)の著書などにも、以前は川床が平地より低かったが近来山林の荒廃と共に川床が高くなったといって大いに憤慨している文句があるのを見てもわかる。ただし、大体において藩時代には維新の当時よりは林相が備わっていたものらしい。
・ 徳川時代以前になると林相が幾度変わったか判らないが、ともかく天井川川床の高低は林相の興廃によって上下するものに違いない。
今日低下しつつある岡山県の天井川がどういう経過を踏んで来たものか古い歴史はわからないが、今より20年以前までは、年々川床が高まり、天井川が天の川まで昇るように思う人もあったかもしれない程だった。
・ 20年この方漸次に低下し、今日では過度の低下のために川床及び河岸に相当の設備を要するようになった。
・ 砂防界の恩人、宇野圓三郎(人物3-4)のことを詳しく著述している。この部分を参考にして真美高校の生徒が学習の一環としてレポートを作成したと思われる。