砂防事務の変遷
砂防事業の歴史は相当古く、約350年前の江戸時代(1650年頃)の藩政時代から行われていた。岡山県政史によると、廃藩置県後明治14年6月29日に公布された岡山県土木事務章規定があり、その第4条により同日付で土木課が新設されており、土木課の事務として「水利に関する土砂扞止の事」とあって当時から治山治水対策としての砂防工事が県予算に基づいて開始されたことを明らかにしている。
翌15年には宇野圓三郎(人物)が時の県令高崎五六に対し治水建言書(用語)を提出した。県令は、氏の熱意に深く感動し同16年1月岡山県砂防規則の制定公布を行い、また、同年2月には課事務章規定の一部改訂を行い、「水利に係る土砂扞止及び治水修繕の為用地買い上げに関すること」と工事実施の為の用地買収事務を追加した。さらに明治18年2月にあっては、「山林禁伐」と言う事項が追加され、山林伐採対策の分掌が追加されている。
明治26年11月に至っては官制の改正により、土木掛が新設され、「土砂取締に関する事務」として専ら専門の「掛」が新設され、事業事務の組織強化がなされている。
しかしながら、明治44年に至り農商務省は森林法に基づいて荒廃復旧補助規則を公布し、その事務は山林課の所管として行うこととなったが、元来、砂防工事においても荒廃地復旧事業として異名同工の事業を実施していたことから、山林、土木両課の交渉は逐年密接となり、両課合併の気運が熟し、遂に大正9年分課分掌規定の改正が行われ、土木課土木係の砂防事務は山林課に合併された。
その後、昭和の初期にかけ経済課の不況に加わうるに災害等による土砂害の被害も多くなったため、農山村の不況打開を目的として、国は農村振興対策なるものを樹立し、砂防事業を時局匡救事業として施行することになり、これに即応して担当機構も再び山林課所掌事務から分離し土木課所管となった。
引き続き国にあっても一般住民の要望に応じて砂防事業補助率引上げ等を行い、治山治水計画が大いに促進されたのである。本県においてもこれに呼応して昭和14年4月11日岡山県事務処理規程の改正が行われ、従来の土木課を土木部に昇格し、砂防事業を行っていた係は一躍砂防課として独立し、さらに昭和15年5月には砂防事業指導監督と設備維持管理の強化を目的のもとに砂防事務処理規程が公布され、直営現場事務所を総社・成羽・小田・の三箇所に設置、所長と職員若干名を置くこととし、本格的な事業の推進に新発足することとなった。
以上のように事業の必要性に応じて機構、組織ともに整備強化されてきたが、終戦を旬日余に控えた昭和20年7月末日におよんでその砂防事務処理規程が廃止され、また昭和31年6月に至っては当時地方公共団体の人員整理と機構の縮小が全国的に問題となり、その結果自治庁の各府県に対する機構の合理化要請が出され、本県にあってもこれに基づいて機構改革が断行された。かくて砂防課は事業形態の最も類似しており事業の効率的効果が期待される河川課に合併され河川課防火として発足することとなった。
しかるに戦時中から戦後にわたって過伐乱伐された山地は逐年荒廃し、戦後特有の集中豪雨は従来に増して土砂害を人畜にもたらす現状となり、国においても国土保全と産業振興の一環として新治水10箇年計画等によりこれが万全の対策が樹立された。
このときにあたり、本県においても国土保全、民生安定および災害対策に万全を期すべく、昭和37年12月21日に至り機構改革を行い、再び指導係、技術係の二係から成る砂防課が設置された。
(以上ここまで、「岡山県の砂防(昭和41年3月)岡山県土木部砂防課」より引用)
平成22年3月まで砂防課として砂防事業をはじめとする土砂災害対策の推進を図ってきたが、土砂災害防止対策、危険箇所の情報提供、災害復旧対策、防災情報の提供など、土砂災害防止や防災関連施策の連携強化を図るため、砂防課と防災砂防課防災班を統合した防災砂防課が平成22年4月1日に発足し、現在に至っている。
砂防課の変遷
・昭和14年4月:従来の土木課を土木部に昇格し、砂防事業を行っていた係は砂防課となった。
・昭和31年6月:県の機構改革により、砂防課と河川課が合併し河川砂防課となった。
・昭和37年12月:災害対策に万全を期すべく、技術係と指導係の二係からなる砂防課が再び設置される。
・平成21年4月:47年間続いた技術係と指導係(当時は班)がなくなり、班なしの体制となった。
・平成22年4月:土砂災害防止と防災関連施策の連携強化を図るため、砂防課と河川課防災班を統合した防災砂防課が発足した。