① 移動生活から定住生活への移行に伴い、樹林を切り拓きました
② 縄文早期には、煮炊き用の土器が出現しているので、生活するための燃料としてまた土器を生産するための燃料として森の樹木を利用していたと考えられます。
③ 集落の周辺にブナ、ナラ、、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類(主食にした地域もある)を植林栽培していました。
④ 植林した区域は、「雑木林(用語1-1)」という新しい環境を創造したことで、安定した有用植物(ワラビ、ゼンマイ、クズ、ヤマイモなど)が繁茂しやすくなりました。
⑤ クリは、この時代の建築物や燃料材の大半であることが遺跡からわかっています。
⑥ 近辺の山林で、狩猟としてシカやイノシシなどの中小型哺乳動物を捕えていました。
⑦縄文後期には、焼畑農耕(用語1-4)が行われ、イネ(陸稲)、オオムギ、ソバなどが栽培されていました。
⑧ 縄文後期には、製塩(用語2-2) (産業-1)(天日で濃縮した海水を煮詰めるため燃料がいる)の為の集団がいたことが分かっています。
以上のように、「森」は生活の維持のため必要不可欠な存在であって、青森県の「三内丸山遺跡」の集落が1000年以上続いていることからしても「住民」と「森林」の間に良い関係が長く続いていたことは間違いありません。
⑨ 参考ですが、縄文時代の平均寿命は15歳程度(但し、15歳まで生き延びられた者は35歳頃までは可能性が高い)といわれ、大変酷烈な状態に人々は置かれていたことも事実です。鎌倉時代が25歳、江戸時代の後期で男性が40歳、女性が35歳といわれています。男女とも50歳を超えたのは昭和22年です。
詳細2-1 森林の荒廃
① 水田開発のために森林を乱伐するようになります。
② 水田が各地に広がるにつれ、刈敷(用語2-1)といって、水田耕作の肥料として森林内の落葉や草木などが使われるようになります。
③ 建築用の木材需要が増加しています(事例2-1)。
④瀬戸内海地方では、「製塩(用語2-2)」(産業-1)燃料として森の木が大量に使われました。(通説であって異論もある)
⑤中国山地では、「たたら製鉄(用語2-3)」などが盛んで、木炭生産のため森林の伐開が進みました。
⑥ 武家社会になっても、人口の増加(事例2-2)に伴い①~⑤の理由で、木材の需要は増加の一途をたどりました。また、新たな需要として刀剣や鉄砲などの武器製造の為の燃料、砦や城郭の建築材料として乱伐されたと考えられます。さらに、戦乱による山火事の多発なども考えると森林が荒廃するのは自明の理です。
⑦ 安土桃山時代の絢爛たる建築物、江戸時代当初の戦乱後の復興などで森林資源は使いつくされました。(事例2-3)
詳細2-2 吉備の穴海(陸地化の移行と原因)
① 概 略
・ 今から約6000年前~7000年前は、現在よりも温暖な気候で、縄文海進期と呼ばれ、海水面が数m高かったことが知られている。
・ 現在の岡山平野はその大部分が「吉備の穴海」と呼ばれる内海で覆われ、河口付近では扇状地になっていたが、その他の大部分は非常に軟弱なシルト層(粘土)が堆
積していた。その後、気候の寒冷化による海水面の低下と、古代からのたたら製鉄(6世紀頃から)による砂鉄採取のために、山を崩して土砂を川に流したことにより形
成された非常に緩い砂の堆積を利用した戦国時代以前の小規模な開墾と、江戸時代以降の大規模な干拓によって、現在の岡山平野が実現した。
※地形の変化については歴史地理が添付された(文献2)を参照してください。
② 縄文時代~弥生時代
・ 太古、岡山の三大河川は、坂根(吉井川)、玉柏(旭川)、湛井(高梁川)で海に注いでいたという。(縄文時代の貝塚の分布から想定)
・ 考古学の立場からでは、岡山県と広島県東部にかけてのいわゆる「吉備の南部地帯」は、西日本でも有数の縄文貝塚の密集地として知られており、その縄文貝塚を連
ねてゆけば、縄文時代(紀元前5000年~前300年)の海岸線の大要が浮かぶといわれている。それは、高梁川では秦(はだ)、宍粟(しさわ)付近、旭川では、玉柏
(たまがし)付近、吉井川では万富(まんとみ)まで海が大きく入込み、吉備高原の山麓を海岸線とする大きな中海があったと想像される。そしてこの中海を「吉備の穴
海」と呼んでいたようである。
・ また、貝塚に含まれている貝の種類から「吉備の穴海の浅海化」の速度は、500~1000年という長い単位で徐々に変化していったことが推定される。
・ 縄文末期から弥生後期にかけての数百年の間に、吉井川、旭川、高梁川及び中小河川による沖積活動は、現在の山陽本線沿いまで陸地を南下、拡大させた。
③ 飛鳥時代~鎌倉時代
・ 「眞金吹く吉備の国」は、奈良時代の俗謡にも歌われている。真金は良質な鉄のことであり、中国山地が古代から明治に至るまで鉄の一大産地であったことを示して
いる。
・ 7世紀には確立されていた初期の「製鉄」の加工技術は、続く中世のたたら製鉄へと発展してゆく。
・ 発掘調査成果等から、古代吉備が鉄の大生産地であったことは明らかである。吉備で実施された古代製鉄遺跡は、56遺跡、191基で、7世紀以前については全国で
も群を抜く数と密度だ。
実例を下記に示す。
総社市新本地区 西団地製鉄遺跡群 80ha 7世紀がほとんどだが6世紀後半~8世紀前半 製鉄炉 62基 関連する炭窯 18基
総社市久米地区 ゴルフ場 約180ha 6世紀後半~8世紀前半 製鉄炉 20基 関連する炭窯 24基
総社市黒尾地区 鬼の城地 鍛冶炉 12基
・ 明確に本格的な製鉄が行われていたのと衆目が一致するところは、やはり6世紀後半以降の吉備である。もっと古い時代には、日本のどこかでごく小規模に製鉄が行
われていたかもしれない。このころ吉備では、燃料となる吉備高原の木材、集積された渡来系の鉄の技術、また、どこから調達したか未解明である採鉱容易な鉄鉱石
(川砂鉄、浜砂鉄=漂砂鉱床)が近くにあったであろうからこそ、吉備が古代日本で製鉄の一大拠点になった。しかし、資源はやがて枯渇していったから、8世紀末にか
けて、総社市域など、現在の岡山県南部で行われていた製鉄は終焉に向かう。ちなみに川砂鉄は、川を下るほど様々な種類が混じり下等になる。
・ 鉄の民は、次の材料、山砂鉄を求めて上流(中国山地)に向かい、山陰帯花崗岩の露頭にたどり着く。そこで年月をかけて我が国独特のたたら製鉄の技を発展させる。
・ たたら製鉄は、大量の木炭と薪を必要とし、さらに砂鉄の原料を採取するのに広大な山地の伐開が行われる。さらに純度を上げるために、脆い岩や土砂ごと破砕しつつ
水路に流し込み、泥や砂礫を洗い流す方法を用いた。鉄穴(かんな)流しと呼ばれるこの採鉱法の確立によって、多量で高純度な鉄原料が確保された。
・ 千年以上にわたって流出して海面に拡散した土砂は、干満の差が激しい瀬戸内海の奥部であったため、日々の干満によって移動を繰り返し、平坦な水中堆積を重ね、
やがて干潮時には干潟となって露出する。
・ 平安時代に大安寺の庄、鹿田の庄といった荘園名が見受けられるので、それまでに地元の土豪や農民による原始的な干拓が行われていたと思える。
・ 平安時代中期には陸地の南下は一段と進み、西大寺と早島を結ぶ線付近まで拡大した。当時のいろいろな記録から、内海航路のコースとして考えられるのは、 「牛
窓」から「穴海」に入り、「福泊まり」(岡山市福泊)・「平井湊」(岡山市湊)・荒野荘・鹿田荘」(岡山市平井・岡町・鹿田・浜野一帯)の沖合から「藤戸海峡」を抜けて、水
島灘の外海へ出ていたようである。それが、13世紀の鎌倉時代になると、穴海の浅海化が一段と進行して、大型の船の航行が不可能となったことから、牛窓・日比(玉
野市)・下津井の外海コースが本航路にと変化していったようである。
・ 倉敷市藤戸は、「平家物語」で名高い古戦場である。1184年、一の谷の戦いの後、藤戸海峡を挟んで対峙した。源氏方が馬が渡れる程度の浅瀬を通り、藤戸合戦に
勝利した。この後が屋島の合戦になる。
④ 戦国時代~安土桃山時代
・ 戦国時代の頃の海面古図:酒津山、生坂(倉敷IC付近)から南が海になっており、西から連島、笹沖山、大田山、倉敷、羽嶋、早島、箕島、天城、経島、児島が島として
描かれている。
・ 16世紀末の高梁川は酒津山(八幡山)のところで、西の流れは船穂又串付近で、東の流れは酒津付近でそれぞれ河口を作り、当時はすでに高梁川が吐き出す土砂に
よって干潟が広く広がっていた。
・ 宇喜多秀家(豊臣政権の五大老)は、天正9年(1581年)、早島の地に宇喜多堤といわれる潮止堤防を築き、天正12年(1584年)、岡山城主宇喜多秀家の家臣で庭
瀬城主岡利勝が、酒津より下へ浜村(鶴形山の南方)まで約2kmの堤防を築いて倉敷を陸続きにし、約450haを開発したと記録にある。
・ こうして高梁川の本流(東高梁川)この堤防沿いに向山のふもとを流れて藤戸海峡から吉備の穴海へと流れ込んでいたと考えられる。その後、川は土砂を堆積させなが
ら、次第に川筋を西へ移動させていったと想像される。
⑤ 江戸時代~現代
・ 江戸時代の初期の元和4年(1618年)に、岡山市南西部・早島町南部から倉敷市中東部にかけて、岡山藩の干拓により吉備児島は陸続きの半島になった。
・ 西の流れ(西高梁川)は、八幡山に連なる南方の沖合にできた三角州や、中洲の間を気ままに流れ抜けながら、干潟を次第に拡大して、ついには、八幡山と西阿知、連
島がつながり、大きな中の島となり、西高梁川が成立した。この川は西に大きく曲がりこんで、船穂・長尾地域の沿岸に沿って流れるようになった。
・ 現在の高梁川(旧西高梁川)以西については、川沿い(現在の船穂、長尾、玉島、阿賀崎地区から、乙島、柏島にかけて)は、松山(高梁)藩が、正保2年(1645)から
寛文12年(1672)にかけて干拓し、その西側(現在の占見、八重、上竹、道越、七島の各新田)は、岡山藩が寛文元年(1661年)から寛文10年(1670年)にかけて
干拓し、寛文12年(1672年)池田藩の分家としての鴨方藩領に組み入れられた。
・ その後、岡山藩は、南部から南東部にかけて干拓を進めた。泉田新田・米倉新田:寛永5年(1628年)、万倍新田:寛永14年(1637年)、当新田:承応3年(1654年
)、金岡新田:寛文4年(1664年)、平田・辰巳新田:寛文10年(1670年)、倉田新田:延宝7年(1679年)、幸島新田:貞享2年(1685年)、青江新田:元禄11年
(1698)、沖新田:宝永4年(1707年)と進み、ここで江戸時代初期の干拓が終わった。
・ その後、文政7年(1824年)に興除新田を干拓し、明治時代に入って藤田一区から七区(昭和39年完成)に至る。
詳細2-3 森林伐採の規制
① 日本書紀によると、676年(天武5年)、「奈良県飛鳥川上流の草木採取と畿内(用語2-4)山野の伐木を禁止する」という布達を、さらに、806年(大同元年)、「京都府桂川の流域の立ち入り禁止」をうたった勅(用語2-5)を発令しています。
② 室町時代に、静岡県「秋葉神社」や奈良県で杉などの植林が開始されました。これが、本格的な人工造林の最も古い記録とされています。
詳細3 江戸時代の森林伐採
① 全国的にもこの時期は爆発的に人口が増えています。(事例2-2)
② 岡山県には全国的にも優位な産業が発達していました。それは沿岸地域での「製塩(用語2-2)」、県中北部での「たたら製鉄(用語2-3)」、備前長船で知られる「刀剣(産業-5)」、さらに備前市伊部で盛んな備前焼(六古窯の一つ)の「製陶(産業-3)」で、いずれも燃料などで多くの木材を必要としていました。
③ 戦乱の復興で、城下町の発達や仏教の興隆などによる建築ラッシュがあったようです。
④ 一般民衆は経済的な困窮に置かれており、身近にある山の木を薪にして売ったり、根っこの部分は生活に必要な燃料に使用していました。
⑤ 熊沢蕃山(人物3-1)は、岡山藩内において、塩田や備前焼、神社造営のための森林伐採を厳しく戒めています。また、その著書「大学或門」にも、「山川は国の元なり。近年、山荒れ、川浅くなれり。これ国の大荒なり。」と述べています。
⑥ 植生の変化(アカマツの存在)から見た禿山の発生について
・ 魏志倭人伝には、日本の風物詩的景観を代表する「マツ」が記載されていません。
・ その後の森林破壊と里山(用語1-3)の形成という人為的な攪乱と収奪によって、痩せ地化することでやっとアカマツ(痩せ地でも他の樹種より成長が早い)が出現して
勢力をはっていくことになります。
・ アカマツは燃焼カロリーが高いので、製塩・製鉄・製陶などに利用されていました。
・ 江戸期に描かれた各地の名所図に登場する山の大半が局所的に松が茂る禿山として描写されています。
⑦ 岡山県の場合
・ 岡山県の中北部にアカマツが多い(松茸の生産地)のは、これは本来の植生(極相:用語1-2)である落葉・常緑広葉樹が、人為的痩せ地化によって消滅した(禿山の
出現)ためと思われます。
・ 岡山県沿岸の植生の極相(用語1-2)は、照葉樹林(常緑広葉樹が主体)ですが、アカマツが多いということは、同様に森林の荒廃で禿山になった履歴を示していま
す。
・ これらの地域は、花崗岩の真砂土地帯であるため、一度破壊すると腐食土がなくなり、アカマツ以外は繁茂しにくいのです。
詳細4-1 明治初期の森林状況
① 明治政府は、新しい国づくりを目指して産業の振興を図ったため、土木建築の資材として木材の需要が強まり、その価格の高騰とあいまって森林の乱伐過伐がいたるところで横行するようになりました。これは江戸時代後期の各藩の厳重な森林管理が、明治政府に円滑に移行されなかったためと考えられています。
② この世相を受けて、元々生活に困窮している地元住民は商品にならない根株を欠乏している燃料にするため掘りつくしてしまいました。
③ このため、県内のいたるところで山林が極度に荒廃し、雨が降るたびに土砂の流出が増加し、下流の河床は埋没が進み、河川の氾濫など土砂流出による洪水被害が、年を経るごとに多くなりました。
④ R・ムルデル : 明治32年から工事が始まった児島湾干拓地の1区と2区を策定したオランダの御雇い外国人技師
明治14年、ムルデルが日本政府の要請で児島湾干拓の調査を行った時、彼が最も驚き、かつ重要視したのは、この地方の「樹木すべて伐採せられ、もしくは株根のみわずかに存し、または全く禿裸(とうら)したる山」でした。彼は「警察官を置いてまで森林伐採を禁じ、砂防を行え」と強く主張しています。
⑤ 森林をなぜ乱伐したのか、その具体的な理由とその結果の荒廃状況や土砂流出の被害について詳細に書かれた書籍として、池田村治山事業誌(文献4-1)と阿曽村(文献4-2)があり、その頃の「山の管理等」については昭和町史(文献4-3)に書かれています。
⑥ 明治44年(宇野円三郎(人物3-4))が没した年) に、岡山県に奉職した山本徳三郎がその著書「岡山県の地質と住民の生活」に、天井川に関する事柄(岡山県の岩石と林況、天井川の成因、沿革)を詳しく記述しています。(文献4-4)
⑦ 総社市内で、隣接している3つの渓流(砂川、血吸川、槇谷川)からの流下土砂が下流のどのような影響を与えたか記述しています。(事例4-1)
詳細4-2 明治初期の岡山県の諸制度
① 1880年(明治13年)の大洪水(災害4-1)で、高梁川流域など大きな被害があったことを受け、1882年(明治15年)4月、宇野円三郎(人物3-4)は、治山治水の要は土砂扞止(砂防)である必要性を説いた、「治水建言書(用語4-1)」を岡山県令(当時でいう知事)高崎五六に対して提出しました。
② 県令は圓三郎の意見に感心し、1882年(明治15年)9月に県費支出による砂防工事や有害行為の取締を定めた「砂防工施行規則(用語4-3)」を議会に上程し、満場一致で可決されました。
③ 1883年(明治16年)1月、「砂防工施工規則」を公布し、さらに同年5月には、郡役所、町村役場に対して、砂防工事の工法や材料の基準を定めた「砂防工大概(用語4-4)」を通達しました。
④ 「砂防工施工規則」に基づく「地方税負担砂防工事(県費支出による県営工事)」を施行すると同時に、それ以外の土地に対して実地に応じて「県費補助町村砂防工事」も実施されました。
⑤ さらに、比較的規模の小さい工事として、複数の町村が連合した費用のみで実施する「町村連合協議費砂防工事」や、数件ではあるが、町村連合協議費に県が補助した「町村連合協議費補助砂防工事」が行われています。
詳細4-3 明治初期の国の対応など
① 1870年(明治3年)、民部省(のちに内務省となる)が淀川水系木津川流域で土砂留工事の調査を行い、翌年に「土砂溢漏防止」の通達を出しました。
この通達の2番目と3番目の文字を取って、以後「砂防」という言葉が使われ出しました。
② 1873年(明治6年)、内務省(戦後、一部は建設省になる)を設置し、その中に山林局砂防部門を設けました。
③ 1873年(明治6年)、オランダから「デ・レーケ」を招聘(しょうへい)し、全国各地で治山・治水事業を実践しつつ、砂防技術の習得を図りました。
④ 1877年(明治10年)、国土の荒廃地の緑化を目的として、山腹工(用語3-5)を主体とした事業を執行する体制を整備しました。
詳細4-4 砂防法(明治30年)の制定
① 1897年(明治30年)に、吉備郡、川上郡、上房郡、小田郡の4郡で、砂防設備に要する土地を指定(砂防指定地)し、同年度より国庫補助事業を施行しました。指定地以外についても、指定地の工法に準ずるやり方で、明治16年からの事業を引き続き実施しました。
② 森林法(明治30年制定)は、当初森林管理や木材生産が主眼で荒廃地対策はなかったので、岡山県では明治44年の農商務省「荒廃地復旧補助規則」が制定されるまでは、禿山対策の山腹工(用語3-5)などは全て砂防事業として実施されてきましたが、これ以降は異名同工の事業を二部門で執行するようになりました。
③ 大正9年に行われた岡山県の機構改革によって、砂防事業は山林課に吸収合併され、昭和5年以降は、砂防指定地も保安林に編入された上、森林法に基づく荒廃地復旧事業として行われたため、昭和初期の岡山県では砂防事業は一時期実施されなくなってしまいました。
④ 砂防法制定時には、高梁川流域の4郡で砂防指定地による砂防事業を、1923年には高梁川流域のほか、旭川、吉井川流域も砂防指定地が追加拡張され、砂防事業を実施しました。
詳細4-5 昭和初期の砂防事業
① 1934年(昭和9年)以前においては、森林からの土砂流出防止を目的に山腹工(用語3-5)を始めとする禿山対策を主体的に実施していたことから、渓流の砂防設備は少ない状況でした。渓流の砂防設備を充実させることになったのは、昭和7年~9年に時局匡救事業で実施した渓流砂防工事(用語4-7)(事例4-5)が最初となりました。
② 1934年(昭和9年)は「室戸台風」による未曾有の大災害(災害4-5)が発生しましたが、水源地域の山地崩壊やそれに伴う渓流河川からの土砂礫流出が災害の原因になったことが明らかになりました。
③ 室戸台風による被害から最初の5年間は、災害復旧の意味もあって、災害対策的性質を帯びた流路工「渓流保全工(用語4-8)」を主とした渓流工事をしました。(事例4-5)
④ 室戸台風の大災害から、砂防事業の必要性が改めて重視され事業費も増加していく中で、1939年(昭和14年)岡山県庁に土木部が新設され、それに合わせて砂防事業を所管する砂防課(岡山県砂防課の変遷)が新たに設置されました。
⑤ また、1939年(昭和14年)の大旱魃(だいかんばつ)を転機として、これ以後は、防災を主眼とした土砂流出を防止する砂防堰堤の設置を積極的に実施しています。これは、土砂を貯める機能に加えて、土砂が貯まるまでは溜池又は洪水調節池の機能を兼ね備えたものとして、堰堤の高さが高い高堰堤工(用語4-9)を設置するようになりました。
⑥ 砂防堰堤は、昭和初期には渓流の現地で採取できる石を利用した石積堰堤(写真5-1)が主流で、高さが高い砂防堰堤はコンクリートを利用した練石積(事例4-6
)により施工していました。終戦前後になると、材料となるセメントの不足から土を利用した土堰堤(事例5-1)が設置された時期もありましたが、砂防堰堤は、練石積堰堤から玉石コンクリートを用いたコンクリート砂防堰堤、生コンクリートを利用した現在の砂防堰堤の変遷をたどることとなりました。(写真5-1)
⑦ 1943年(昭和18年)になると戦争はいよいよ激しさを増し、国庫補助の砂防事業予算は減少の一途をたどり、さらには、森林の過伐が進み、食糧増産の目的で開拓が促進されるなど森林の荒廃が進むこととなり、土砂災害の原因が益々助長されたかたちで終戦を迎えています。
詳細4-6 岡山県の河川改修の優先順位について
① 明治26年の災害を受けて、高梁川(総社市より下流)が旭川に優先して河川改修を施工されることになった。
② その結果、昭和9年の災害(死者145人、負傷者348人)では、総社市上流の吉備郡(下道郡(高梁川右岸)と賀陽郡(高梁川左岸)が合併)の被害は、死者1人、負傷者2人で、倉敷市では死者、負傷者はなかった。(災害4-6 )
③ しかし、直上流の高梁川、成羽川(現在の高梁市)沿いでは、死者48人、負傷者55人で、旭川沿いの死者54人、負傷者206人と比べても甚大な被害である。
④ この災害で復旧した橋梁のタイプからも理解できる。即ち、総社市の旧豪渓秦橋(撤去済)(橋梁14-1)、水内橋(橋梁14-2)、高梁市の玉川橋(橋梁14-3)、落合橋、方谷橋(橋梁14-5)、田井橋(橋梁14-6)、新見市の正田橋(撤去済)(橋梁14-7)が下路橋(建設費が高いが、河積断面は取りやすい)であるのに対し、河川改修済みの倉敷市の川辺橋(橋梁14-8)、船穂橋(橋梁14-9)、霞橋(橋梁14-10)は上路橋である。
⑤ 旭川の改修は、江戸時代の名残である、岡山城の周囲に旭川を持ってきて、河川の中に後楽園を作ったこと、さらに河川沿いに住家が密集していたことから、市街地の河川の拡幅よりは、百間川(放水路)の改修と、上流でのダムの建設の方向になった。ダムは戦争も始まったことで、施行は戦後の旭川ダム(ダム15-1)、湯原ダム(ダム15-2)として実現した。
⑥ 高梁川中上流は、旭川ダムに倣い、高梁・新見間で検討したようだが、伯備線の移設に莫大な費用がかかるし、この地域は石灰岩地帯で、どこに空洞があるかわからない等で実現しなかったようだ。(噂話)
その後、昭和47年の災害でも被災したが、新見、高梁市街地の拡幅困難として、河本ダム(ダム15-3)、刑部ダム(ダム15-4)、千屋ダム(ダム15-5)、高瀬川ダム(ダム15-6)、三室川ダム(ダム15-7)を建設し現在に至っている。
⑦ 吉井川については、主に津山市街地を守るために苫田ダム(ダム15-8)が建設された。その他、津川ダム(ダム15-9)、八塔寺川ダム(ダム15-10)も建設されて現在に至っている。