・1654年(承応3年)の大洪水は時の岡山藩主池田光政(人物3-2)が「我等一代の大難」と嘆いたと伝えられている備前の国一帯を襲った大洪水である。
・旧暦7月19日から5日間豪雨が降り続き,旭川の増水は6mに達し、岡山城本丸のなかまで浸水したといわれる。
・被害状況 流失潰れ破損屋敷数 3,733軒
(内訳) 侍屋敷 439軒 徒士・足軽屋敷 573軒
町屋 473軒 農家 2,248軒
溺死者 156人
流死牛馬 210頭
その他、橋、池、井堰などの破壊したものの数はおびただしい。
・引き続いて起こった大飢饉では、餓死者が3,684人にものぼる未曽有のものであった。
・緊急対策として実施したもの
①藩の倉庫を開放して、全てのコメを飢人(4ヶ月間 延20万人)のための救済に使用した。
②復旧費として、銀1,000貫匁、金4万両を借用(天寿院:池田光政の妻の母で豊臣秀頼に嫁いだ千姫)してこれにあてた。
③医療対策として「郡医」10人を配置した。
備前岡山藩の災害記録一覧
※1721年(享保6年)から1826年(文政9年)の間約100年間は、災害記録がない。
※死者が5人以上の災害を列挙している。
注:これは備前岡山藩の記録であるため、その領域内での災害だけである。
・土砂災害関連の被害状況として、1802年(享和2年)以降、「田畑岸崩、山崩」の箇所数が記載されている。
・1852年(嘉永5年)の災害に、山抜山崩れ1,887ヵ所と山崩れ怪我死人15人と記載されている。
・1721年(享和6年)備中でも被害があり、死者47人、家屋の流壊3、180軒。
・1850年(嘉永3年)6月3日高梁市中井町で集中豪雨があって、津々川が氾濫し、定光寺奥で80ヶ所も山崩れがあり、市場付近は全く淵とかわり、流失家屋
21軒を数え、沿岸の損害は極めて大きかった。この時一家6人が死んでいる。(赤字:土砂災害関係)
「吉備地方史の研究」(藤井駿著)より引用
江国掃部(えくにかもん):
吉備津宮の「社家」で、この洪水のとき50歳で73歳で没している。彼は社家として相当の教養をもち、また吉備津宮の「御師(おし)」として国内(備中)に多数の旦那や知人を知っていたので、この大洪水のあと、ほとんど1か月にわたって見舞いがてら国内各地を旅行し、それぞれの各町村の洪水の状況や被害の程度などを書き留めたわけである。
閏7月十日:
備中地方で暴風が吹き荒れ、吉備津宮の鎮座する「吉備の中山」では松が160~170本も折れ倒れ、吉備津宮の門前町の宮内町(江国の住所)では人家が20軒あまりも倒壊したが、作物への被害は大したことはなかった。
閏7月十五日:
前日から降る雨が一向に止まず、洪水の恐怖が噂されるようになった正午ころ、足守川に架けられた土橋が十間ほど落ちて町は通交途絶、その下流は洪水との報が入った。日暮れになっても宮内の辺の小河川は増水するばかりで、今度は高梁川の堤防の決壊や足守川が賀陽郡三手村(現在の岡山市北区三手)の辺で、堤防が百間あまり決壊という悲報を聞かされた。
被害の状況:
足守川流域:高松、立田、津寺、加茂、板倉、宮内各村は家屋・田畑の被害は甚大で多くの家が床上まで浸水した。下流の庭瀬、撫川、平野、延友も同様で、ほとんど浸水した。二十日ごろになると、さすがの大洪水も峠を越えて人の移動ができるようになり、彼は九月初旬までの間、備中各地の水害地を訪ねて、知人や旦那の安否を問い、その状況を見聞して「江国掃部略日記」に誌している。
高梁川(現在の総社市地域):
井尻野で、二五〇間ほど堤が切れ、さらに下流の川辺、中島までで、七か所も決壊した。鍋坂付近の道はほとんど崩れ、槇谷川は荒れ果て、宍粟では、庄屋の家が倉以外すべて流れている。日羽は被害が少なかったが、美袋の惨状は目を覆うばかり。田園は一面の河原になっている。流出家屋が40軒もある。対岸の下倉、草田でも家屋は浸水し田畑の多くが流された。久代の被害は皆無であるが、高梁川東岸は田地の荒廃は筆につくしがたくという惨状である。
高梁川(高梁市):
鉄砲町二町、下町の横町の家屋が流出、南町・新町も腰まで浸水、紺屋町では土砂が二尺余り堆積し、広瀬では家屋が流出する。(伝聞)
成羽川(成羽町):
領主の屋敷が冠水し、家来の家屋や長屋も多く流された。阿部村や水内村で浸水や流出があった模様。(伝聞)
小田川(矢掛町):
町中が床上浸水で、崩壊した家が多く、田畑の被害も大。蔵の中に避難した男女七人が溺死した。(伝聞)
高梁川(倉敷市):
酒津の堤防が六〇〇間に及んで決壊する。西原村の家屋は一瞬にして過半が押し流され、水江村で氾濫し、西原の隣村である西阿知村では戸数360軒のうち、320軒が押し流された。(伝聞)
高梁川西岸:
船穂村の堤防が切れて、長尾、亀山、七島、船穂新田、上成、よし浦、玉島本町、新町は床上浸水で玉島より北の山際まで湖水満々たり。(伝聞)
豪雨から10日以上経たこの日、彼は勤仕する吉備津宮の裏山「吉備の中山」に登ってみた。眼下に開ける吉備の南部の平野は一面の湖水となっており、ただその湖水の中程に、小丘の松島集落だけが孤島のように浮かんでおり、松島へ通う小舟が見えた。
それから1か月ほど後の8月22日に、柏崎(倉敷市玉島)へ知人を見舞うために出発した。撫川(岡山市北区)では決壊した足守川の堤はほとんど修復済み。松島(倉敷市)、三田、平田、八王子、大内を経由して酒津につくと、堤は備前藩の手で目下修理中であった。
船で中洲の水江村にわたる。浸水したが田の稲は、かろうじて生きている。しかし西原、西阿知へ入ると一変する。水も引かず、実に荒涼としている。西原から船で西岸に渡る。そこからはるか南方を眺めると、遠く宮之浦、連島、茂浦方面は今も「湖水満々たり」という有様である。船穂村に入ると、玉島地区の上成、玉島、赤崎、長尾、七嶋、道口、亀島、金光地区八重を結ぶ地域が、まだ浸水のあとを残して淵のように見える。玉島南部の五明、宮地の農作物は全滅である。柏島、勇崎、赤崎一帯の被害は僅少だった。
続いて8月末に沙美の海岸を通って西におもむいた。南浦(玉島地区西南部)では、天神社の裏山の山崩れを見た。大島中島(笠岡市)では、山崩れが大小116か所起こったという。田畑の被害はない。浜中村(笠岡市)は被害はない。富岡の浦新田、西大島村で多少の被害があったようだ。
・明治13年6月下旬から連日にわたり、県内一円に降り続いた雨は、30日から翌月1日の朝にかけて俄かに豪雨となり、吉井川、旭川、高梁川共に水勢は激烈を極め、なかでも高梁川の水嵩は8m余に達した。
・吉備郡(現総社市)をはじめとして、高梁川の沿岸は濁流により、堤防が決壊し、氾濫し、橋梁が流失し、道路が決壊し、各村が浸水した吉井川、旭川、高梁川共に水勢は激烈を極め、なかでも高梁川の水嵩は8m余に達した。
・特にこの災害で被害が大きかった地域は、高梁川流域の総社市久代・見延、高梁市巨瀬である。
1880年(明治13年)高梁川の大洪水の被害状況
注:高梁川流域を、高梁市より下流(川上、上房、下道、小田、賀陽、窪屋郡:災害4-4を参照)とした。
※山陽新報(山陽新聞の前身)の記載内容
明治13年7月4日:
岡山市街地での水防及び浸水の状況。
明治13年7月7日:
総社市湛井で15、6戸、中原で5、60戸流失、5、60名の生死不明。玉島署に届けがあった死亡者は30名。
明治13年7月8日:
高梁市広瀬で、流失17戸、半流失10数戸、死亡1名。
明治13年7月9日:
小田郡矢掛村での水害の模様を聞く。
明治13年7月10日:
浅口郡庁の人が高梁川の堤に行き、板や屋根にすがり流れてきた窪屋郡真賀部村の男女16名を救う。
明治13年7月11日:
都宇、窪屋、下道郡の洪水景況(探訪記事)で、岡山市庭瀬はさながら小湖のようで、中原恵地新田は50数戸が破堤の後、5戸を残すのみ。
24、5名は死亡した模様。川辺村は40戸ほどが流失し10名ばかり死亡。有井村では現地に行けず噂では30名ばかり死亡した。
明治13年7月18日:
備前国、御野・上道、備中国、賀陽・下道・窪屋・都宇・小田・後月・上房の10郡147村7町の水難戸数(住家)8,430戸。内訳は、全潰れ247戸、
流失家400戸、半潰れ家406戸、軒端以上浸かったもの741戸、床上398戸などで、死者は69人、不明は17人。
(参 考)
明治17年8月に県下沿岸部で海嘯(かいしょう)のため、655名の死者・行方不明者が出たが、これが岡山県の自然災害では最大の被害である。
主な被災地:
倉敷市水島地区:南畝 178名、中畝36名、北畝5名、鶴新田50名、東塚173名、松江144名、広江3名、呼松2名
玉島地区 :勇崎21名、乙島19名
※海嘯:高潮(台風や発達した低気圧が原因で海面が高まること)のこと。なお、津波は地震の発生に伴って起こる現象のこと。
・明治25年7月23日の夕刻から翌24日にかけて暴風雨となり、真庭市久世で降雨量が247ミリに達し、岡山市街地の大半が浸水するなど県内全般に大きな被害を残した。
・明治26年10月13日夜半から翌14日にかけて暴風雨となり、真庭市勝山で降雨量が383ミリに達し、特に高梁川、旭川の被害が甚だしい。
1892、93年(明治25、26年)、大風水害の被害状況
・水害の後、伝染病(赤痢、腸チフス、疱瘡、コレラ)が大流行して、明治26、27年の2年で、死者が5,697人、明治28年は2,852人が亡くなっている。
明治25年7月災害 被害の詳細
※被害が顕著な地区(赤字:土砂災害関係)
御野郡:
旭川、笹が瀬川の堤防が決壊し、濁水が南流して海岸の堤防を決壊させ、海水が流入する際高潮が発生したため、矢坂山周辺以外は水没した。
津高郡:
旭川沿いの富津、金川村の堤防が決壊し、鹿瀬、草生、金川、宇垣、野々口、下牧地区が水没した。宇甘川は水勢極めて猛烈で、下加茂、紙工、中泉、下田地区などで溺死者・負傷者が発生した。笹が瀬川は出水が甚だしく、白石、一宮、平津、横井、野谷の諸村で堤防が決壊し、下流の諸部落を水没させ、死傷者が発生した。
上道郡:
吉井川・砂川・百間川が決壊し、御野郡と同様に海岸も決壊して、南部の諸村は地盤が低いため被害が甚大になった。
賀陽郡:
豪雨により、足守川が決壊し、大井、足守、福谷、日近の諸村が浸水したが、特に大井村は溺死者10余人、負傷者数10人の発生を見た。下流では、血吸川も氾濫して、高松田中、福崎、高塚、下土田、高松、吉備津、庭瀬地区が浸水し、特に最下流の庭瀬の被害が大きかった。
眞島郡:
出水もひどかったが、山地の崩壊が六百余か所発生し、これが河川を埋没させ、道路を破壊し、橋梁を墜落させ、被害者の救難に困難を極めた。
大庭郡:
山峯の崩壊が四百余か所で発生したが、特に三阪山は数十か所が一度に崩れて、渓流を埋没させた。
西西條郡:
吉井川・羽出川・香々美川で出水し、奥津、羽出、泉、久田、中谷、小田、大野、芳野、郷、院庄、二宮の諸村の堤防が決壊し、被災した。山岳、丘の崩壊も甚だしく、特に奥津村長藤では、人家や田畑が埋没し、巨石が屋内に堆積し、まさに崩壊寸前の状態にあった。
※山陽新報(山陽新聞の前身)の記載内容(赤字:土砂災害関係)
明治25年7月26日:
岡山市今在家は堤防が破損して、30戸中、27戸が流失。
明治25年7月27日:
御野郡(岡山市)野殿、北長瀬、(大野)辻、西長瀬、田中、万倍、平田、辰巳、米倉、南新田の10ヶ村は今なお浸水しており、いずれも屋根または2階に上ってようやく生命を全うしている。伊島では一家7名が溺死、小田川では呉妹村以東の各村は湖水に変じた。津高郡馬屋下村(岡山市)池谷で、山崩れ1名死亡牛1頭死亡。同郡長田村(吉備中央町)下土井で山崩れ、田1町ばかり損した。
明治26年10月災害の詳細
被害が顕著な地区
岡山市:
京橋が墜落し、堤防も六ヶ所で決壊したが、特に出石町の決壊で、流失家屋112戸、倒壊家屋330余戸、死亡31名、行方不明も多く出た。
津高郡:
旭川沿いの富津、上建部、金川、宇垣、牧山、江与味の各村で、流潰戸数が各々30余、26、52、21、28、7戸の被害が出た。その他、宇甘川沿いの宇甘西・宇甘東・福山・加茂・金川、豊岡川沿いの新山・豊山・富津、笹が瀬川沿いの一宮・白石の諸村で被害が発生した。
浅口郡:
船穂村の高梁川堤防決壊で、長尾・乙島・玉島・池田・阿賀崎・占見が、東岸も決壊のため、西阿知・甲内・西浦・亀島・連島などの諸村で被害が発生した。
小田郡:
小田川沿いの北川・小田・中川・川面・矢掛・山田・三谷、美山川沿いの美山・宇戸・美川・川面の諸村で堤防が決壊し、被害が発生した。
後月郡:
小田川沿いの足次・芳水・井原・西江原・出部・木ノ子・東江原の諸村で堤防が決壊し、被害が発生した。
下道郡:
小田川沿いの呉妹・穂井田・薗・二萬・川辺、高梁川沿いの水内・下倉・秦・神在・川辺の諸村で堤防が決壊し、甚大な被害が発生した。
川上郡:
高梁川沿いの高倉・玉川、成羽川沿いの富家・手庄・成羽・東成羽・落合、坂本川沿いの湯野の諸村で堤防が決壊し、被害が発生した。高梁市成羽町坂本地区で、山腹崩壊により、圧死が20名、負傷が7名の被災者が発生した。また高倉村でも圧死者が3名出ている。 (赤字:土砂災害関係)
眞島郡:
旭川沿いの茅部・八幡・勝山・川南・天津・瀬田河・落合、新庄川沿いの新庄・美甘、川西、備中川沿いの美原、鹿田、下方の諸村で堤防が決壊し被害が発生した。
久米北條郡:
被害の顕著な諸村は、西川、垪和、鶴田であるが、特に鶴田村に於いては、死亡者が11名にも達した。
08災害 【4 明治時代~昭和初期】【5 昭和中期~現在】 岡山県内の主な土砂災害状況の写真