1.製塩について
1-1.日本の塩づくり
・日本には岩塩もないし、塩湖もないので、海水から約3%の塩を採取していた。
・塩づくりの方法は時代とともに変化し進歩するが、海水を蒸発させて、より塩分濃度の高い塩水(鹹水:かんすい)をつくる方法と、鹹水(かんすい)を煮詰める(煎熬:せんごう)方法の進歩とに大別される。
①藻塩法・土器による製塩(6~10世紀)
・海藻(ホンダワラが最適)に海水をかけるかひたして乾燥させ、これを焼いて灰にし、ろ過して鹹水(かんすい)をつくる。
・これを専用の土器(旧牛窓町師楽から大量に出土したので師楽式土器と呼ばれる)で煮詰めて塩を採取する。
・この時代に防腐性が発見され、魚肉や鳥獣肉の貯蔵に用いられるようになって、需要が増え、不足が目に見えてきた。
②揚浜(あげはま)式塩田(8~18世紀)
・満潮時の海面より高い砂浜に塩田を造り、海水を人力でくみ上げ、敷いた砂にまき、塩分が付着した砂を集めてさらに海水をかけ、鹹水(かんすい)をつくる方式の塩田。
・日本海側でも行われ、江戸時代中ごろにかけての塩田の主流。
・土製の釜や鉄製の釜で煮詰めた。
③入浜式塩田(17~20世紀)
・堤防で塩田を囲み、汐の干満(満潮面と干潮面の中位に塩田面を築く)を利用して導入した海水を毛細管現象で砂の表面にしみ出させ、塩分を付着させる。以下の工程は揚浜式塩田と同じ。
・1645年に赤穂で始まり、立地条件の良い(晴天、汐の干満の差が大、遠浅の砂浜、大きな川がない)瀬戸内海沿岸の塩田が主流となり、昭和30年まで続いた。
④流下式塩田
・昭和27年に政府が入浜式塩田からの転換を決定した。生産量は2.5~3倍になり、労力は10分の1になった。
⑤イオン交換膜法
・広大な塩田を必要とせず、天候に関係なく効率よく生産できる工業製塩。
・外国塩との価格差が大きいことからこの方法の導入を前提に昭和45年から塩業整理を行い、日本の塩田はすべて姿を消した。
1-2.岡山(主に児島半島)の製塩の歴史
・西日本では弥生時代中期(約2000年前)に、児島半島の沿岸から始まり、瀬戸内海沿岸に広がったといわれている。
・この時期の主な遺跡:倉敷市下津井(大浜、釜島、六口島)、阿津(走出)、塩生(塩生)
・平城京遺跡から発掘された木簡から天平年間(729~748年)児島郡から調(律令制の租税制度)として塩が上納されたことが分かった。
・木簡に記載されていた地名:備前国児島郡三家郷(現在の玉野市胸上、番田、岡山市南区小串、郡)、加茂郷(玉野市宇野、日比、旧荘内村)
・799年(延暦18年)、「日本後記」によると児島の地の百姓たちは塩を焼くのを業とし、これを調庸(律令制の租税制度)ともに納めていたが、豪族の海浜略奪により民が疲弊したので豪族の略奪・兼併を禁止した。
・969年(安和2年)、仁和寺法勝院領の目録に備前国児島郡利生(おどう:現在の玉野市和田)庄に塩浜が二町あると記載されている。
・1445年(文安2年)、東大寺所管の「兵庫北関入船納帳」によると、兵庫北関を通過した瀬戸内塩およそ10万7千石のうち、児島塩が1万1千石を占めていると記載されている。児島が塩の生産地であったことを知ることができる。
・1708年(宝永5年)、岡山藩内の1年間の塩の出来高は、24万~25万俵(1俵4斗入り:当時の1俵は約30kg)で、領外市場へも移出されていた。
・1709年(宝永6年)、この頃、児島郡一帯に亘って、小規模な入浜式塩田が開発されたらしく、19の諸村で計44町歩余りの塩田が見られる。邑久郡は12町歩余りで、塩竃屋敷は児島郡で171軒、邑久郡100軒だった。
・1826年(文政9年)3月6日、蘭医シーボルトが日比(玉野市)に上陸して入浜式塩田を見学し、詳細に観察した後、日本の製塩法が欧州に比べて優秀であると称賛した。
・同年に野崎武左衛門(塩田王)が塩田開発に乗り出し、1829年に味野(倉敷市)に12町歩余、1831年には日比(玉野市)に11町歩、赤崎(倉敷市)6町歩を完成させ、生涯の塩田づくりは151町歩、79塩戸に及んだ。1864年(文久4年)没。
・1838年(天保9年)、燃料として石炭の導入の記録(荻野家文書)が見られる。
・1876年(明治9年)、塩の生産過剰により、塩値が低落する。
・1884年(明治17年)、8月25日の台風による海嘯(高潮)で堤防が決壊し、殆どの塩田が荒れ地と化した。
・1905年(明治38年)、塩の専売法が公布され、6月には施行された。
1-3.喜兵衛島(香川県直島町)での調査
・1953年から、宇野港(玉野市)のすぐ東側に位置する喜兵衛島で、「無人島の古墳」調査に入ったところ、師楽式土器(製塩土器)の言語を絶する莫大な堆積に遭遇(この島には4つの浜があるが、どの浜にも土器の破片が無数に散乱していた)し、その解明に取り組んだ。
・喜兵衛島は、昔は島であった児島に隔たれて、高梁川、旭川、吉井川からの淡水の流入に鹹度(かんど:塩辛さ)が薄められることも無く、また讃岐の河川からは離れているので、淡水に影響されない製塩に恵まれた位置にあった。
・膨大な廃棄土器量に比べ、伴出漁労具が極端に乏しいことから、かなりの程度、専門的な塩生産が想定された。
・喜兵衛島古墳群は塩生産の増大を梃子とした製塩集団自立の一定の到達点として評価され、さらに時期的には畿内中枢の塩収奪システムの構築過程と理解されるようになった。
1-4.寄島の塩田
・1783年(天明3年)頃から、県外資本により、山際の低地を干陸化して新田開発する際、その一部を塩田にした。
・1868年(明治元年)、鴨方藩が港湾施設を整えた早崎港を築く。
・1884年(明治17年)、台風で大被害を受けた後、編成しなおし、26.07haの入浜式塩田が成立した。
・1905年(明治38年)、専売法の施行によって、各塩戸ごとの販売が無くなった。
1-5.燃料について
・野崎家の場合:1812年(文化9年)、味野塩田の燃料として、旭川、吉井川舟運を利用して作州(美作)及び備前奥地より薪、松葉が搬入された。
・寄島の場合:塩作りには大量の燃料が必要である。寄島の塩田が本格的に稼働するようになるのは、幕末(1850年頃)のころからで、約27町歩の塩田が使用する薪は、地元だけでは供給できないので、石炭が使われる前の約50年間は、高梁川流域の山間部から供給された。高梁、成羽から高瀬舟に積み込まれて、川を下り、船穂から高瀬通しを玉島の港へ、そこからは海を航行し、各塩戸に運ばれた。
2.たたら製鉄について
2-1語句の説明
・たたら:金属を溶かす炉のこと。鑪鞴(たたら)
・鉄穴(かんな):穴掘りをして砂鉄を採取した時代があるためこのように呼ばれた。
・鉄穴流し:砂鉄分の多い花崗岩の風化した山の斜面を削り、砂鉄を含んだ土砂を鉄穴井出(いで)と呼ぶ水路に一気に流し、比重の重い砂鉄だけを途中で沈殿させ採取、不要の土砂はさらに下流に流す。
・鈿(けら)押し:砂鉄から鋼(はがね)を造ること。その製品を和鋼と呼んだ。原料は真砂(まさ)砂鉄で、粒が大きく、光沢のある黒色で、島根県など山陰地方に多い。
・銑(ずく)押し:銑鉄を造ること。その製品を和鉄(わずく)と言った。原料は赤目(あかめ)砂鉄で粒が小さく黄褐色が混じった黒色で光沢が弱く、山陽路など、全国で採取できる。
・鉄坑場:砂鉄を含んだ土砂を採取する山の事。
・製鉄燃料の木炭用材:ブナ、クヌギなどであるが、火力の強いナラ材も使用した。
・砂鉄七里に炭三里:砂鉄採取は遠くてもよいが、炭は近い方がよいと云う言葉が伝えられている。砂鉄は相当遠距離でも運べるが、砂鉄を焚く木炭は、なるべく近くの雑木林で生産した方が便利だ。
2-2歴史
・中国山地の砂鉄は、推古天皇時代(593~628年)に兵庫県千種川上流で砂鉄生産をはじめ、以後次第に西に下り、島根県にまで拡大していったといわれている。
・砂鉄採取の方法:山の表土を削るのがほとんどだったが、天平時代には穴掘りをしていたようだ。かなり大きく深いすり鉢型か、竪穴と思われる。このことから砂鉄を採取する場を「鉄穴」と書き、カンナと読むようになったのだろう。
・天平宝宇6年(762年)に、日本最初の事故が記載されている。1人が生き埋めになり、救出に6日間もかかったが、幸い観音様のお陰で助け出された。鉄穴は広さ2尺(約60cm)高さ5丈(約15m)とあるので相当深い穴であったようだ。その後竪穴式から露天掘りに変わったが、その時期は不明である。
・延長5年(927年)の延喜式をみると、美作、伯耆、備中、備後は鉄生産地に指定、朝廷へ鍬(しゅう:くわ)鉄を調(当時の税)として徴収されることになった。
・平安時代以後、鉄生産は大量生産となり企業化していった。野天で行われていた砂鉄精錬は次第になくなり、一定の場所に屋根つきの製鉄場(高殿または高殿たたらと呼ばれるようになる)でつくり、天候に関係無く一年中砂鉄精錬をするようになった。この高殿方式が始まったのは室町時代(1500年)だといわれる説がある。
・江戸時代から急速に企業化が進んだといわれている。昔は付近農家の副業として農閑期にしていたようだが、企業化されると年間営業となり、鉄穴師の専業が定着した。
2-3西粟倉村大茅にあった「永昌山鉄山」の場合
・約2トンの鈿(けら)を造るのに砂鉄が約10トン、木炭が約12トン必要であった。
・明治時代の土地台帳で雑木林が約270町歩以上ある。明治9年で炭焼き場が35ヶ所ある。
・明治9年で鉄坑場が6か所あり、鉄穴流しの長さは実に23.4kmに達する。水源は大沼といい、ここに水を溜めて流す。製品の輸送経路の一つに美作市林野から舟運で、吉野川を下っている。
・砂鉄を溶かす釜は一回ごとに壊してしまうが、一回の操業は鈿(けら)押し法で三昼夜、銑(ずく)押し法で四昼夜炉を焚くのが一般的でこれを一代(ひとよ)という。永昌山は一年に35代吹いているが、島根県の例では60~70代吹いたら良い方だったそうだから、やや小規模の鉄山と思われる。
2-4鉄の土砂公害問題
・津山・森藩時代の元禄年間(1688~1703年)、享保年間(1716~1735年)や安永9年(1780年)などで下流に被害が出ている。
・砂鉄採取にあたって、砂鉄を採取した残りの土砂は下流に流す。はじめは川沿いに堆積させて、田畑を造成(たたら新田)したようであるが、長い歳月にわたり流出する土砂は次第に川底を埋め、さらに下流へと続き、洪水などのたびに川沿いの田畑に流れ込み、被害を与え作物の減収となった。
2-5永昌山鉄山の場合(西粟倉村誌から)
・土砂の外、精錬中にできる鉄滓(かなくそ)の鉄分を含んだ川水は、下流の人馬の飲料水や酒造り・紺屋(染物業)の用水に被害を与えた。
・さらに川底が浅くなると、高瀬舟の航行も危険となり、舟の積み荷も減量しなければならなかった。(吉井川上流の加茂川や旭川上流では、御城米を80~90俵積めるのに、吉野川では50~60俵しか積めないと鉄山の稼業廃止を嘆願している。)
・明治13年9月の大水害で下流の大原、讃甘、大吉、吉野各村の17井堰が埋没し、関係農民が吉野郡長に閉鎖を陳情し、郡長も鉄山に閉鎖を通達した。→裁判になる。
・かってその繁栄を誇った永昌山鉄山も、外国からの洋鉄の輸入と土砂公害のため、明治20年代末期には閉山に追い込まれた。
3.製陶について
3-1備前焼(伊部焼)について
・陶磁器はセラミックの一種で、土を練り固め焼いて作ったものの総称。やきもの。陶磁器は釉薬(ゆうやく)の有無および焼成温度で四つに大別される。
①土器:素焼きのやきもの。粘土や窯を使わず、野焼きの状態で700~900度の温度で焼いたもの。釉薬はかけないが、彩色されているものもあり、歴史的には陶磁器の前身にあたる。
②炻器(せっき):窯を使い、焼成温度は1200~1300度。「焼き締め」ともいう。釉薬はかけないが焼成において自然釉がかかるものがある。
③陶器:粘土を原料として、釜で1100~1300度の温度で焼いたもの。釉薬を用いる。透光性はないが、吸水性がある。厚手で重く、叩いたときの音も鈍い。
④磁器:半透光性で、吸水性がほとんどない。陶磁器の中ではもっとも硬く、軽く弾くと金属音がする。粘土質物や石英、長石を原料として1300度程度で焼成する。
・備前焼は、昔ながらの登り窯で、松割木の燃料を用いて、釉薬を用いず、良質な陶土をじっくりと念入りに焼き締めて、炎の出会いと融合によって見事に変貌させ、素朴ながら単純な美、窯変の美を極度に高めながら、土の肌の温かみを伝えてくれる作風である。(炻器)
・備前焼の原土は熊山連峰から流れ出て堆積した泥土で、粒が小さく水に運ばれやすい。積み重なった粘土となり、田んぼの底にある粘土層(地下水面近くにあり、粘性のある土でヒヨセ[干寄せ]と云う)と、瀬戸内市長船町磯上の黒土を混合して陶土を作る。ヒヨセ・黒土(8対2の割合が一般的)とも粘りは強いが耐火度は低いので、240余時間かけてじっくりと焼き締める。また、鉄分が多いので釉薬を使う焼き物では釉薬の効果を妨げるが、備前焼は無釉だから心配なく、むしろ酸化鉄による発色を窯変に利用している。
・成形後、日陰干しして、白くなるまで乾燥する。これを窯に詰めて焼成するが、最初の三日間ほどは「もせとり」といって窯の湿気とりにLPガスか灯油を焚く。その後は松の割木を使い、7~8昼夜から10日ほど、大窯になると、15昼夜に及ぶものもある。硬質の炻器となる。
・備前焼の陶土は質が良くて、量が少なく高価であるため、大量生産する焼き物産業には育たなかった。備前の陶工は、質の良い陶土を生かして作品の個性美追求に活路を求めた。現在、量産(土づくりから成型、焼成、販売などを分業化し合理化して大衆向きの作品を作る)の窯元は約20業者、作家または作家を志している陶工は400人に近い。両者とも伝統を踏まえて制作された「雅味のある実用品」という点では共通するものがある。
3-2備前焼の歴史
・備前焼は、我が国の六古窯の中でも最も古い窯であり、須恵器に始まり、約1,000年の間連綿と窯の煙を昇り続け、伊部の里を包んでいた。
・須恵器系は、古墳時代末期に朝鮮から伝わった高温焼物で、焼成中に灰がかかって作品に付き、自然釉の役割を果たした。また、粘土に含まれた鉄分の作用で様々な窯変が現れ、これらは特徴的に備前焼に引き継がれている。
・一般に須恵器は堅くて、高級品として朝廷をはじめ支配階級の調度として用いられ、やがて朝廷の権威の没落とともに須恵器陶工は日用品雑貨を作るようになった。須恵器づくりの技術に改良を加え、さらに高度にしたのが備前焼で、鎌倉中期には完全な備前焼が誕生したといわれる。ただ、須恵器が盛んに焼かれたのは、伊部でなく、もっと南側の邑久郷である。陶工はこの時代にそこから熊山の南山麓に移動している。
・室町初期の古文書で日本の海運、経済を如実に物語る「兵庫北関入舩納帳」によると当時の京畿に流入する全焼物の85%を備前焼が占めていた。
・室町末期の茶の湯の流行で備前焼が急に愛好利用され、その”わび”、”さび”に通じる独特な肌と持ち味が発見されて、名だたる茶人にも認められ、茶器が盛んに作られて、備前の茶陶の地位が確立した。この時代に陶工は山麓から下りてきている。
・桃山時代以降になると窯の規模も大きくなり、長時間にわたって高温で焼き締めることのできる陶芸の研究が進み、いわゆるヒヨセ(干寄せ)が利用されるようになった。
・江戸元禄ころから、ひところの隆盛を失い、寛永13年(1636年)、備前藩が保護に乗り出したが、保護は一方で規制である為、活気を失った。
・明治、大正、昭和初期の備前焼は全体として低迷期であった。
・昭和29年に、9人の作家の製作技術が県無形文化財に指定され、昭和31年にはその一人金重陶陽が待望の人間国宝の認定を受けた。
・備前焼はふたたび日本の経済成長の歩みと共に脚光を浴び、国内はもちろん外国にも素朴で温かみのある中、厳しい風格を持った作品として評価され現在にいたっている。
3-3燃料について
・室町期の燃料は、基本的には雑木を使っていた。この時代、松はどちらかと云うと建築材料だった。窯焚きは、当時40日以上の長期間にわたって焚いていた。
・伊部焼の燃料は豊臣秀吉以来無料で払い下げられてきたが、江戸享保年間になって山役代のみ有料になった。
・昔は薪を自給できる山の中に備前焼の窯場があったが、焼き物を販売しやすい山陽道沿いに移り、町を形づくったのが今の伊部通りである。
・現在の備前窯で1回に使用する松割木は、約2,000貫から3,000貫必要で、備前焼は昔から燃料に松割木を用いている。
・明治6年以前の大窯では、1年間に1回焼き上げる決まりで、50日間も昼夜火を絶やさないことから、その間松割木は5万貫からの巨額に達したとの話もあるように、一窯分の燃料に数万貫の松割木を灰にしていた。
4.舟運について
4-1舟(高瀬舟)
・日本の舟は、当初は単材創船(丸木舟など)であったが、大型化していくに従って複雑創船となる。
・単材創船の耐用年数は100年のものはざらであったが、高瀬舟(複雑創船)は1年のものもあるが5年位が標準であったようである。
・高瀬舟は何枚もの板を合わすことで造船するので、小さい材で作れる(経済的である)ので、軽くすることも出来、上流への搬送も比較的楽であった。しかし岩とか杭とかの障害物には弱かった。
・1604年(慶長9年)、京の商人「角倉了以」が吉井川の舟を見て、慶長16年に京都の「高瀬川」と名付けた運河に浮かべて荷を運び、この舟を「高瀬舟」と呼んだ。
4-2運行形態
・高瀬舟には日舟(主として人を乗せる船で定員は40~60人位で、毎日の運航はなかった)と大舟(主に荷物を載せる船で、旭川の場合毎日5艘くらい出ていた)がある。
・日船は親方(日舟の持ち主)と2人の船頭が乗り、旭川では10艘もなかった。
・主な船着き場
旭川筋:勝山、久世、落合、法界寺、舞高、下見、旦土、西川、江与味、栃原、木谷、鶴田、福渡、建部、金川、京橋など
吉井川筋:津山、中須賀(旧久米町久米川合流点)、湯指(鏡野町中谷川合流点)、塔中(旧加茂町倉見川合流点)倉敷(美作市林野)、吉ヶ原、周匝、佐伯、和気、坂根、西大寺、金岡など
高梁川筋:新見、松山(高梁)、成羽、湛井、玉島など
・日数:旭川筋は落合を白みかけた朝に出て、午後3時頃には岡山に付いた。日が短いときは、どんなに遅くなっても京橋まで行った。上りにかかる日数(大舟も日舟もだいたい同じ) 岡山~落合間は4日で途中金川、福渡、西川、落合で泊。勝山までは2日。吉井川筋は津山を朝早く出発して、晩には西大寺に付くのが普通で、帰りは3日を要した。
・積載量は旭川の場合、米穀で落合から上流は30石積(4.5t)、下流は50石積(7.5t)といわれた。真庭市落合垂水に荷が集まったのは、降雪量が久世、勝山と比べて少ないことと、備中川との合流した下流が山と山の間隔が狭くなり、水深が増え、大型の高瀬舟の運行に適していたためである。 吉井川では、和気町の田原井堰の上流が20石積、下流が30石積であった。
・舟止め:高瀬舟の特長の一つで、田植え期(5月中旬)から秋の彼岸の水落し(9月23日頃)の約100日間は稲作の井出を河川に作る為、舟止めになった。但し、岡山市福渡までは、夏舟といって高瀬舟は下ってきた。
・真庭市蒜山下長田から勝山・久世までの上り下りの荷物は1年間で数万個あり、その駄賃は陸上輸送で17,500両であるのに対し、船賃は8,750両といわれた。さらに米を馬で運搬する場合、途中で一部の乱俵や米の傷みが防げない事、日数も多くかかった。
・新見藩は、参勤交代に片道12~13万両の費用を要していたが、その内新見から総社市湛井まで、殿様を含めた73人とその荷を14艘の高瀬舟に乗船して、船賃としてわずか32両で済んでいる。なお、日程は1日で、全体では20~25日、人数は湛井までは73人、それ以降は126人の行列になる。
・高瀬舟の数:明治の最盛期で、旭川の勝山~牟佐間を300~350艘、別に飛船という小型の客船があった。高梁川は明治30年頃流域全体で350艘、吉井川は江戸寛政・文化の頃186艘と聞かされている。なお、作州における明治7年の調査によると、30石積が271艘、20石積が107艘、10石積が22艘の合計400艘となっている。
4-3舟運の歴史
・古墳時代後期(6~7世紀)、新見地方は「鉄」の一大産地であった。この鉄を下流に大量に運び、その見返りとして運ばれたのは「塩」であった。新見市哲西町西江遺跡では、6世紀の製塩用土器が大量に出土しており、これを運搬用具として利用された。運搬方法は人や馬も考えられるが、一方でその量から舟で運んだとも考えられる。
・真庭市下市瀬遺跡から出土した舟形木製品(忠実な模造品で明治までの高瀬舟の形とあまり変わらない)から、奈良時代~平安時代に小型の舟であろうが、高瀬舟の元形のようなものが旭川を上下していたと思える。
・1307年(徳治2年)に高梁川の支流成羽川では「笠神文字岩」の銘文が刻まれており、その書き出しは「笠神航路通事」とあり、10余ヶ所の瀬の石切を行って、航路を確保していた。
・吉井川の通舟の歴史は古く、赤松氏が備前・美作・播磨の三国の守護になった時(室町時代1,400年頃)からという説がある。
・寛永(1624~1644年)・正保(1644~1648年)年間に松山(高梁市)城主が新見市正田まで川普請(土木工事)を行い、承応元年(1652年)には新見まで開通させ、寛文年間(1661~1673年)には新見市下市まで通船している。
・1697年(元禄10年)に関氏が新見藩主になり、高瀬舟を参勤交代に利用した。宝暦3年(1753年)から明治2年(1869年)までの記録しか残されていない。
・1702年(元禄15年)、旭川流域では、勝山から上流へ高瀬舟で登らせることは、長い間の百姓の悲願であった。この年までに蒜山上徳山まで航路開発を行っている。
・明治3年10月22日に、勝山より蒜山下長田までの通船の工事が完成した。大変な工事であったが輸送賃には十分な見込みがあった。しかし、4艘の高瀬舟が勝山に下った翌日、旭川は洪水になり、一瞬にして巨石に埋まり、難工事は振り出しに戻った。
・高瀬舟の衰退:
・明治末から大正初期には、汽車、自動車に押されて過去数百年にわたった交通運輸の王者高瀬舟も遂に滅亡する。
・明治23年に岡山~神戸間の山陽鉄道開通、明治31年に岡山~津山口間の中国鉄道開通、大正14年に津山口~勝山まで開通、昭和3年に伯備線全線が開通する。 昭和6年に和気~柵原間の片上鉄道開通で高瀬舟は姿を消した。
4-4舟運の維持管理
・江戸時代は、各藩が自分の藩内を責任を持って川掘りをしていた。費用は運上金(船一艘の運航に対し金額が決められてた)で賄われていた。
・高梁川の上流では、1652年(承応元年)の新見までの開通以降、年2回定期的に川堀を行ない、洪水後には臨時の川掘りがあった。特に被害(堆積)の大きい瀬を中心に人夫が割り当てられたが、対象となる瀬は51箇所にのぼった。
5.刀剣について
5-1古刀の部(備前篇)
・備前最古の刀工を「古備前刀工」といい、時期は平安中期から鎌倉初期までの約200年間にわたって隆盛を極めた。この間、銘鑑に記載しているものが60人にも及んでいる。
・古備前鍛冶の居住地については、吉井川(中国山地に産出した砂鉄が吉井川によって上古の官道の付近に運ばれる)を中心として、近郊にいただろうとしか判明していないが、和気町和気や瀬戸内市長船町長船、岡山市瀬戸町吉岡などの説がある。
・日本刀の黄金時代である鎌倉時代は、全国の刀匠がおおいに奮起したが、中でも「備前福岡一文字」が全国の刀工を凌駕していた。鎌倉期刀工の発達の中心は備前刀工に始まり、福岡一文字派は初期から中期にかけて、画期的な進歩を見せた。なお、鎌倉中期から長船刀工が起こり、室町末期まで栄えに栄えたことを忘れてはならない大事である。
・古記によれば、吉野期末期から室町初期頃、備前には千軒の鍛冶屋があり、全国より集まったように記しているが、歴史の古い吉備剣工の地であるから長船郡だけでも相当数の鍛冶屋があったろうと想像される。
・室町末期は、「応仁の乱」以来戦乱が相続いたために、刀剣の需要過多の結果は濫(みだれ)となり、火作り、焼き入れ、銘鐫(セン=のみ)等を分業でした事も考えられる。この時代のものを「末備前」という。
・真に戦場で鎬(しのぎ)をけずり合った刀は、応永年間(応永元年足利義満死去)以降の末備前物なのである。
5-2古刀の部(備中篇)
・青江鍛冶は、古備前とほぼ同時代の頃、刀工が倉敷市の子位、万寿を中心に栄えた。
・鎌倉時代は備前に次ぎ、山城・大和とならぶ刀工の本場であった。
・古歌に「真金吹く吉備の中山」と詠われていることで知られているように、古くから製鉄が行なわれていた。
・鎌倉中期文応年間(日蓮が立正安国論を幕府に上程)から吉野朝末期までを「中青江」、それ以前を「古青江」、室町時代を「備中物(末青江)」といい、室町期になって、青江刀工の伝統は廃り、名作はほとんどなく、作刀も実に僅少になった。
5-3新刀の部(備前篇)
・備前が刀剣王国として古刀時代、他に比類ない長期間にわたる隆盛を見せた原因の1つは吉井川の存在であった。
・しかし、天正12年(本能寺の変:天正10年)に至り、この吉井川の大氾濫に逢って、一瞬にして滅んでしまったのである。
・これ以降は、京、大阪、江戸等に繁栄を奪われ、微々たるものになってしまった。
5-4新刀の部(備中篇)
・古刀期に隆盛を極めた青江一門は、足利中期までに絶滅したが、慶長年間(関ヶ原の戦い:慶長3年)の頃から、水田一門が急激に発展し、刀匠は徳川の初期から中期にかけて、60数名に上っている。