年 代
1898年
1900年頃
1911年
1920年
1923年
1925年
1930年
1929年~
1931年頃
1932年
1934年
1939年
1941年
和 暦
明治31年
明治33年頃
明治44年
大正9年
大正12年
大正14年
昭和5年
昭和4年~
昭和6年頃
昭和7年
昭和9年
昭和14年
昭和16年
事 項
詳 細
【県の対応】
・砂防法(用語4-5)に基づき、高梁川流域(吉備、川上、上房、小田の4郡中22町村)で砂防設備地が砂防指定地(事例4-3)に指定され、同時に国庫補助による砂防事業として指定地砂防工事(用語4-6)が開始されました。(詳細4-4)
・井風呂谷川(総社市見延)で空石積砂防堰堤(3号砂防堰堤)が築造される。築造当時は堤高7.3m、堤長約40mだったが、明治と大正末期の2度にわたり嵩上げされ堤高11.6m、全長72.5mとなっている。平成14年3月に登録有形文化財に登録されました。
現在の井風呂谷川3号堰堤
【県の動き】
・農商務省は、森林法に基づく荒廃地復旧補助規則を制定し、山地治山施設事業(用語3-5を参照)が開始されました。当時、岡山県の森林法関係の事務は勧業課山林係が所管していたが、土木課が所管する砂防事業と同様な工事であったことから、両課で協議を頻繁に行うようになり、合同する気運が高まって行きました。
・岡山県の各課分掌事項の改正が行われ、勧業課山林係と土木課砂防係を合同して山林課となり、同種事業の統一と事業の円滑化が図られました。
・高梁川流域の一部で実施していた指定地砂防工事(用語4-6)は、旭川、吉井川流域で追加拡張され実施することとなりました。
・明治29年に予算化した砂防事業継続予算は、施工区域の変動、工費の増加などにより予算の更正が13回行われ、期間も30年間に延長されました。大正14年に継続予算は終了することとなったが、臨時予算で工事は続けられることとなり、最終予算総額は、1,688千円となりました。
・内務省と農林省の権限整備により、砂防指定地を保安林に編入し県営荒廃地復旧事業が行われることとなり、明治31年から続いていた岡山県の指定地砂防工事(用語4-6)は昭和4年に終了しました。このため、岡山県の砂防工事は一時なくなることになりました。(昭和6年まで)
【禿山対策の実績】
・幕末からの乱伐と洪水による災害が累積し、明治初年頃の禿山の面積は、約8,000町歩(約8,000ヘクタール)でしたが、漸次増大し、ピーク時(明治15年頃)は10,000町歩(約10,000ヘクタール)を超えていたようです。
・これに対して、明治16年から昭和22年までの施行面積及び経費は、約7,200ヘクタール、約900万円となっています。65年間の施工面積は「岡山県総合グラウンド」敷地面積の約200倍の面積にあたります。
・当時の禿山対策は、明治16年に始まった県費負担砂防工事、国庫補助指定地砂防工事などの砂防工事と荒廃林地復旧事業など、造林とこれに伴う溪間工事を合わせたもので、現在の治山事業に引き継がれています。
【効果】
・施行地の大部分は極めて優良な林野を形成し、昭和30年代(燃料革命)までは、相当量の用材、薪炭の生産に役立ちました。
・土砂流出の根源を断ったので、下流河川に土砂が堆積しなくなり、河床の上昇を押さえることとなり、県下南部地帯に発達している天井川(用語2-6)の氾濫被害がほとんどなくなるなど、下流の耕地や溜池等の被災軽減に寄与しました。
【国の動き】
・世界恐慌の影響から昭和恐慌を招くことになり、特に農村部の不況が深刻となった時期です。
・国は、不況による農村の疲弊を助けるため、昭和7年から3年間経済対策として時局匡救事業(事例4-4)が行われることになりました。
・内務省は、昭和7年から山地を離れた渓流河川の一部に砂防法(用語4-5)を適用し、時局匡救事業(事例4-4)として砂防工事を行なうようにしました。これが渓流砂防工事(用語4-7) (事例4-5)です。
【県の対応】
・砂防工事は、他の土木工事と比べて労力費が工事費の大部分を占めており、砂防工事に携わる地元農民に賃金として渡ることから農村の救済に適切な工事であったため、岡山県でも「時局匡救事業(事例4-4)」として渓流砂防工事(用語4-7)を促進することになり、昭和5年以降ほとんど無くなっていた土木課所管の砂防工事が、渓流砂防工事(用語4-7)として実施されることになりました。
昭和20年代渓流砂防工事(岡山市北区建部町)滝谷川
昭和20年代渓流砂防工事(小田郡矢掛町)道々川
・この年から、山林の土地の地番を面的に砂防指定地に指定し、昭和4年まで山地と渓流で施工した指定地砂防工事(用語4-6)から、渓流の河川敷地とその周囲を砂防指定地に指定し、渓流保全工(用語4-8)を施工する渓流砂防工事(用語4-7)へと移行しました。砂防指定地についていえば、「面指定」から「線指定」に変わったことになります。
【災害】
・9月の室戸台風(災害4-5)、(災害4-6)により、県内で死者が145人(行方不明者を含む)となる大風水害となりました。
【対策】
・昭和9年以前には、渓流の砂防設備が少なく、流域の山腹崩壊などにより渓流河川に土砂礫が流出し、甚大な被害が発生しました。このため、災害対策的な渓流砂防工事(用語4-7)により流路工(用語4-8)の整備を昭和9年、10年に実施しています。
昭和9年の土砂礫流出状況(高梁市)肉谷川
昭和9年の土砂礫流出状況(高梁市)肉谷川
昭和10年流路工による復旧状況(高梁市)肉谷川
昭和10年流路工による復旧状況(高梁市)肉谷川
・岡山県では、昭和14年から土砂流出の防止と調節のため、山地の出口となる渓流下流部に貯砂用の砂防堰堤(事例4-6)、(用語4-9)とその下流に溪岸浸食防止の渓流保全工(用語4-8)を実施しすることとなり、昭和20年の7年間に砂防堰堤41箇所を施工しました。(詳細4-5)この時期の砂防堰堤(用語4-9)は、練石積により施工していました。
練石積堰堤(昭和29年)上流から
・砂防事業の必要性は重要視され、土木部の新設にあわせて砂防課も新設された。
・昭和9年の室戸台風により発生した崩壊地については、山林課の所管事業として、崩壊地復旧事業として開始し、昭和12,13,16,17,18,20年の災害で発生した崩壊地の復旧と合わせ、昭和22年までに約2,400町歩(約2,400ヘクタール)の山腹工事(用語3-5)と渓間工事(谷止工など)を行いました。
・太平洋戦争が始まり、砂防事業の国庫補助額も減少し、食糧増産と資材匡救のため過度の山林の伐採と開墾が促進されたことにより水害の原因が益々助長されることとなりました。
(効果)
・砂防堰堤、渓流砂防工事を実施したことにより、顕著な土砂災害は発生していません。
・当時は、砂防堰堤は土砂を貯留するだけでなく、洪水調節や貯水して灌漑用水、工業用水、飲料水の水源として活用している事例もあります。これは、昭和14、19年の干ばつにより、用水が不足したことや土砂貯留までを有効に利用する発想であったと思われます。
貯水の砂防堰堤(昭和初期に完成)
昭和16年島木川(高梁市)
昭和17年布瀬川(高梁市)