熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)
・江戸時代初期の陽明学者(通説であるが異説もある)で、著書に「集義和書」「集義外書」「大学或問」などがある。
・この時代に対する強い危機感を持っていて、武士とりわけ君主の責務に対する深い洞察(儒学者として 「君を助けて仁政を行わしむ」)や治山・治水論などの具体的提言を述べている。
・無格の浪人であったが、池田光政(人物3-2)の抜擢を受け、立てた政策は多岐にわたっていたが、後代に影響を与えたのは、備前藩教学の確立(地方文教促進の先駆)と岡山における治水的施設の立案(治水の重要性を長く後世に伝える)である。
・主張
①山林の重要性は、経済的な価値だけでなく治山治水といった生活環境の保険として必要である。
②山林の荒廃は、製塩、製陶の増加、仏教隆盛による建築ラッシュ、民衆の困窮が原因である。
③当時、全国的に新田開発がブームになっていたが、森林の荒廃につながる箇所には反対している。
・実践
①藩内にマツを植えるように指導する。
②「大学或問」に禿山に対する植樹の方法を具体的かつ詳細に記載している。
③その他、百間川分水施設の建議や旱魃を防ぐための溜池の開削を奨励している。
※インターネットで「熊沢蕃山」を検索すればより詳しいことがわかります。
池田光政(いけだ みつまさ)
・備前岡山藩初代藩主で、幕藩体制初期、約50年に及ぶ啓蒙的事績を残し、その後の池田家に盤石の体制を築いた。
・この時代、各地の大名は、武力による統治から文治へ転換すべき時代であった。
・儒教を信奉し、陽明学者熊沢蕃山(人物3-1)を招聘し、陽明学に裏付けられた「仁政」を行い、特に農民政策に異様なまでの熱意を注いだ。
・全国初の藩学校「花畠教場」を開き、さらに日本最古の庶民の学校として「閑谷学校」を開いた。
・新田開発や産業の振興も奨励し、徳川光圀(水戸藩主)、保科正之(会津藩主)と並び江戸初期の三名君と称されている。
河村瑞賢(かわむら ずいけん)
・江戸時代初期の豪商で、江戸を中心とした東周り航路(1671年)と西回り航路(1762年)を開き、日本の海運に尽力した。
・この頃、河口付近の港では、上流から流入する土砂によりしばしば港が閉塞する問題が起きていた。
・瑞賢は、上流の治山〈用語3-1=砂防(用語3-3)工事〉と下流の治水(用語3-2=河川工事)を一体的に整備すべきと認識しており、1684年幕府の要請を受けて、淀川河口(大阪市)の治水工事を任せられることになる。
・こうした例は大なり小なり全国で行われたと思われる。
宇野円三郎(うの えんざぶろう)
宇野圓三郎
・1834年(天保5年)備前国和気郡福田村(現在の備前市福田)に生まれ、17歳の時から28年間名主を務める。
・熊沢蕃山の遺著「集義外書」「大学或問」を読み、治水と林政に熱心になるようになる。
・29歳のとき、福田村で土砂流出防止の工事を行い、効果があることを実証する。
・1880年(明治13年)の大洪水(災害4-1)で高梁川流域が悲惨な状況を呈したのを受けて、1882年(明治15年)当時の県令(現在の県知事)高崎五六に治山治水の重要性を説いた「治水建言書」(用語4-1)を提出した。
・明治15年11月25日付けで岡山県土木掛雇(この時48歳)になり、翌年から県費支出の県営砂防工事の先頭に立ち、田地子村(岡山市北区建部町)、久代村・見延村(総社市)、巨瀬村(高梁市)などで、石積堰堤、石巻谷止工、山腹工など、砂防工事を実施した。
・県が指定した重要箇所の砂防工事でも、先を見越した大きな事業であり、多くの労力を必要としたことから、村民の理解が得られなかったり、疑問を持つ人が出たりして、工事が順調に進まなかったが、福田村での経験や治山治水の大切さを説明し、次第に理解が得られるようになり、工事も順調に進み完成することになる。
・1885年(明治18年)には「治水再建言書」を県令千坂高雅に提出、1892年(明治25年)、1893年(明治26年)の大洪水の惨禍に対して「治水に関する愚見建言」を岡山県知事河野忠三あてに提出している。これらを受け、県も洪水の惨禍の甚大さに鑑み1896年(明治29年)以降の砂防継続予算を決定し、県営砂防工事費の基礎を確立することになった。
・砂防工事の実施により、荒廃した山林がよみがえることとなり、1889年(明治22年)、池田村・阿曽村・日美村(総社市)の地元有志により池田村大字宍粟(総社市宍粟)に「砂防工碑」を建立した。これは、圓三郎の功績を末代まで伝えようとする地元民の絶大な感謝の念が凝結したものである。この他、圓三郎の顕著碑として、1888年(明治21年)には津髙郡中田村(岡山市北区建部町中田)に「砂防工事ノ標」、1896年(明治29年)上房郡巨瀬村(高梁市巨瀬町)に「砂防工碑」が建立されている。
・以後、「治水本源砂防工大意」「風土治水歌」「水災歎歌」「治水に関する建言書」「治水植林本源論」などを出版して、町村職員や有志に無償で配布し、治山治水の啓蒙に努めている。
・県及び市町村の林政に対する取り組みもよかったが、一般住民の愛林思想と砂防施行の機運を助成した点で彼の功績は大きい。
・1907年(明治40年)73歳で、岡山県を退職し、1911年(明治44年)77歳で逝去する。岡山市石井山に葬られた。
・1956年(昭和31年)には、生家近くの神社(備前市福田)に「宇野圓三郎翁遺徳碑」が建立されている。