年 代
【縄文】
【有史~
江戸時代初期】
【江戸時代】
和 暦
事 項
・人間が、森を利用して暮らし共存している時代で、人為的な原因で山林は荒廃することはなかったと考えられます。
詳 細
【時代の背景】
・森林を水田などにする開発や建築物の増加に伴う木材の需要増加など樹木の伐採が進み、山林の荒廃が進んだ時代と言われています。(詳細2-1)
・山林の荒廃に伴う土砂の流出によって出来た特異な地形に、天井川(用語2-6)(文献4-2)
(文献4-4)と扇状地(用語2-7)があります。
総社市黒尾の砂川(写真2-1)
天井川の例1
倉敷市真備町箭田の末政川(写真2-2)
1650年
1655年
1666年
慶安3年
明暦元年
寛文6年
【岡山藩の対応】
・熊沢蕃山(人物3-1)が岡山藩主池田光政(人物3-2)に 「治山治水の要」を進言します。
・岡山周辺の禿山に、藩の費用で植林や山腹工事(用語3-5)をおこないました。(事例3-1)
・備前岡山藩が記録に残した、江戸時代のこれ以降の洪水は、承応3年の水位5.45m(旭川と思われる)より高い水位が1度、5.0m以上が8度、4.5m~5.0m未満が12度発生しているにもかかわらず、顕著な被災の記録が残っていません。(災害3-2) このことから砂防工事(用語3-3) (当時は山腹工事(用語3-5)が主な工事)が一定の効果を発揮したと思われます。
1721年
享保6年
【全国的な動き】
・幕府は山林の過剰な開発に歯止めをかけるため、「諸国山川掟(用語3-6)」という法令を出しました。
・江戸では何度も大火が起き、その度に木材が高騰したことを受けて、諸藩は経済振興のために木材生産を重視し、森林を保護する制度を整えていきました。
・村掟(用語3-7)などを制定し、入会林野(共有地)等のルール作りが進んだ結果、里山(用語1-3)が荒廃しなくなりました。
・川村瑞賢(人物3-3)は舟運(用語3-8)(詳細は産業-4)を念頭に置いて、治山(用語3-1)と治水(用語3-2)を一体的に整備すべきと認識していました。1683年(天和3年)、淀川河口埋塞の原因を調べるため水源地視察した結果、幕府に対し上流の砂防工事(用語3-3)が必要である旨を進言しています。
・これに対して幕府は翌年に内容をさらに厳しくした「山川の掟」を発令するとともに、近畿7カ国11諸侯に、はげ山に植林することを命じています。
・河道が土砂で埋没することで下流の治水(用語3-1)工事を繰り返さないようにする砂防(用語3-3)工事を「治水上砂防(用語3-4)」といいます。
【全国的な効果】
・この様な対策を講じた結果、日本列島の森林資源は回復に転じることになりました。
【備中大洪水】
・備中国宮内(現在の岡山市北区吉備津)に住む江国掃部(えくにかもん)なる人が、同年秋にこの地方を襲った大洪水について1つの記録を残している。
・内容は見聞したままを記した水害史であり、半紙15枚に細字を以て書き、題して「略日記」とある。
(災害3-3)
【対応の起源】
・和気郡福田村(現備前市福田)の宇野円圓郎(人物3-4)は、土砂が埋もれて川底が上がった旭川を見てこれを憂い、治水の要は土砂扞止の法を設けることを説いた「治水建言書(用語4-1)」を4月6日に岡山県令(現在の知事)高崎五六に対して提出しました。
・県令高崎五六は、「治水建言書(用語4-1)」を受け入れ、9月に臨時県議会を招集し、「岡山県砂防工施行規則(用語4-3)」を提出、満場一致で可決されました。
・11月25日付で宇野圓三郎(人物3-4)が県土木係雇という職名で県庁に採用され、砂防工事を担当することとなりました。この時圓三郎48歳であり、1907年(明治40年)3月、73歳で県を退職するまで砂防工事の指導にあたりました。
【岡山県の対応】
・1月に岡山県は「砂防工施行規則(用語4-3)」を公布し、地方税(県費)による砂防工事を開始することになりました。
・5月には「砂防工大概(用語4-4)」を公布し、砂防工事の材料、器械、工法等の基準を示しました。
【対策の内容】
・岡山県は、これらの諸制度(詳細4-2)を整え、最も緊急に砂防工事が必要な箇所を県が直接工事する箇所(事例4-2)(現在の総社市身延・久代、高梁市巨瀬町、岡山市北区建部町など)に決めて、砂防(用語3-3)工事として山腹工事(用語3-5)を実施しました。また、その他の箇所は郡の費用に県の補助金を併せて工事する郡工事として実施しました。
【効果】
・この事業を始めた当初、町村民の間には、広大な禿山(山林の荒廃状況の写真)に対して行った山腹工事が微々たる工事量であったため、疑問を持つ人も多かったようです。圓三郎は情熱的に誠実に町村民を説得し、村民の心を砂防工事に向けさせ工事も進捗するようになった。明治25年、26年に発生した大水害(災害4-2)でも砂防工事を行った総社市では、他に比べ被害も僅少だったことから、次第に砂防の功績が顕著である(山腹工施工後の写真)ことが認められてきました。
山林の荒廃状況(明治36年1月撮影:総社市槙谷)
山腹工施工後(明治42年11月撮影:総社市槙谷)
山林の荒廃状況(明治43年11月撮影:井原市美星町明治)
山腹工施工後(大正元年8月撮影:井原市美星町明治)
山林の荒廃状況(明治43年10月撮影:岡山市北区長野)
山腹工施工後(大正元年9月撮影:岡山市北区長野)
山林の荒廃状況(明治43年10月撮影:玉野市宇野)
山腹工施工後(大正元年8月撮影:玉野市宇野)
【対策】
・岡山県では、1月に「土砂扞止施行規則」を制定(大正7年廃止)し、砂防工施行規則(用語4-3) は廃止となりました。
【災害】
・10月の大風水害(災害4-4)は県下全域で被害が発生し、死者が415人、全壊家屋6,105戸、床上浸水50,100戸、山崩れ12,670箇所など、前年に続く甚大な被害となりました。特に、高梁川流域の西(成羽川より下流の高梁川沿い、小田川沿い、成羽川沿いなど)での被害が顕著でした。
【対策】
・明治25年、26年の大災害から対策工事の必要を痛感した県知事河野忠三は、明治29年から43年に至る15箇年計画を樹立し、砂防事業継続予算として42万2千円を予算化しその対策に備えました。
・岡山県議会は、内務大臣あてに「土砂扞止国庫補助建議書」を提出しました。
【国の動き】
・明治維新後、治山治水事業に対する組織の整備と、技術の習得及び実践に努めました。(詳細4-3)
・旧河川法(治水)が制定されました。