Religion

キリスト教と音楽

グレゴリオ聖歌とカトリック

♪ ヨーロッパ中世音楽史でとくに重要視されるのは、グレゴリオ聖歌です。グレゴリオ聖歌というのは、時にラテン語で歌われる中世の単旋律、無伴奏の歌すべてを指すことがありますが、通常はカロリング朝によって標準化が図られたミサで使用される音楽(入祭唱、昇階誦、奉納唱など)や祈祷用聖歌を指して使います。他の中世の歌(続唱、トロープス、讃美歌など)は聖歌ではあってもグレゴリオ聖歌ではないようです。

グレゴリオとは

♪このグレゴリオという名称は、ローマ・カトリック教会の教皇グレゴリウス1世(在位590-604、生存540頃-604)に由来します。聖歌を編纂したとながらく信じられていましたが、実際にはローマやその周辺の典礼形式とフランク王国などガリアの典礼形式が掛け合わされて生まれたものだそうです。グレゴリウスの名を冠した理由としては、当時フランク王国に多く招聘されていたイングランドの聖職者がアングロ=サクソン教会の創立者であるグレゴリウス1世をたたえたものであるという説や、当時の教皇グレゴリウス2世(在位715-731)を讃えてこのように名付けられたものが、後に、彼よりはるかに有名なグレゴリウス1世に作を帰する伝説が生まれたとする説があります。いずれにせよ偉い人の名前が使われたのは、政治的権威を与えるためだったんでしょうね。

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聖歌と政治

♪さてグレゴリオ聖歌が生まれたとされる中世初期のヨーロッパは、ローマ帝国(西ローマ帝国)の衰微・滅亡(476)の流れの中で成立したフランク王国、ゴート王国、ロンバルディア王国、サクソン王国などが割拠する時代でした。5世紀から9世紀の間に聖歌がどのように展開したかについては、史料が乏しく、学説は定まっていません。410年頃には、アウグスティヌスがミサで昇階曲(第二朗読を読んだり歌ったりした後のアレルヤ唱の前に歌われるミサ曲)を独唱者と合唱の交互で歌うレスポンソリウムで歌っていることを記しています。678年ごろには、ヨークにおいてローマ聖歌が教えられていました。この頃の西方教会の地域では、ブリテン諸島(ケルト聖歌)、イベリア半島(モザラベ聖歌)、ガリア(ガリア聖歌)、イタリア半島(ローマ聖歌、古ローマ聖歌、アンブロジオ聖歌、ベネヴェント聖歌) などで各地に固有の聖歌が発展しました。これらの伝統は西ローマ帝国崩壊後に5世紀にあったと考えられている通年の聖歌集から発展したものかもしれないそうです。

これら多様な聖歌や典礼方式をローマ典礼に統一していくのが、フランク王国の国王カール大帝(在位768- 814)です。カール大帝というのはカール1世ともいいますが、フランク王国のメロヴィング朝を倒してカロリング朝をひらいた小ピピン(ピピン3世)の子です。800年には教皇による戴冠を受けて西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位800- 814)と自称しました。もちろんローマ帝国の正統な後継を誇る東ローマ帝国は、カール大帝のローマ皇帝位など承認せず、僭称とみなしていました。

教皇ステファヌス3世は752年頃ガリアを訪れた際に、ローマ聖歌を用いてミサをたてましたし、またカール大帝の父ピピン3世は、ローマとの関係を強化するためにガリア典礼を廃止してローマ典礼に変更したといいます。785年頃には、カール大帝の要望に応え、教皇ハドリアヌス1世が、ローマ聖歌を含んだ聖礼典式書をカロリング朝宮廷へ送っています。歴代教皇と皇帝は協力してローマ式の典礼方式を広めようとしたようです。その目的は群雄割拠したヨーロッパに一つの政治秩序を打ち立てるために、政治と宗教が協力しなくてはならないという了解があったからなのでしょう。各地の教会ごとに異なる儀式が行われると、全体の一体感が損なわれてしまいます。そこでカール大帝は、この目的遂行のためにヨーロッパ各地に教会や修道院の付属学校を設立し、音楽教育を行い、聖歌隊の訓練を行わせます。典礼方式を標準化すると同時に、言語の共通化も重要になります。そこで、それらの学校ではラテン語が教育に用いられました。いわばグローバライゼーションです。あるいは抑圧的一元化政策というべきでしょうか。現在の英語化、ITの標準化と似たところがありますね。

グレゴリオ聖歌は、フランク王国の支援を得てヨーロッパ全土に驚くほど均質な様式を保ちながら普及しました。カール大帝は神聖ローマ皇帝となると、聖職者にグレゴリオ聖歌を用いなければ死罪とすると脅迫し、積極的に帝国内にグレゴリオ聖歌を広めて、聖権力および世俗権力の強化を図りました。カール大帝は父の方針を受け継ぎ、現地のガリア式の伝統を捨て、ローマ式の典礼を好んだわけです。9世紀には、ガリア典礼およびガリア聖歌は実質的には廃止されましたが、これには地元の抵抗がありました。885年には、教皇ステファヌス2世が教会スラヴ語を用いた典礼を禁止し、これによりポーランド、モラヴィア、スロヴァキア、オーストリアなどを含む、東方のカトリック教会支配域でもグレゴリオ聖歌が優勢となりました。グレゴリオ聖歌は、やがて、ローマの固有の聖歌(今日では古ローマ聖歌と呼ばれる)にもとって代わりました。ローマ教皇たちは、10世紀から11世紀にかけて神聖ローマ皇帝からグレゴリオ聖歌を移入し続けました。聖グレゴリウスの伝説によって権威が高められたグレゴリオ聖歌は、ローマ固有の真正な聖歌とみなされるようになり、12世紀、13世紀には、西方キリスト教世界の他の聖歌を完全に凌ぎ、駆逐することになりました。

その後、このローマ聖歌は現地のガリア聖歌の影響を受けて改変されつつ記譜され、さらに8つの教会旋法へと整えられていきます。こうしてフランク・ローマ折衷のカロリング聖歌は、教会暦上不足していたものを新しい聖歌で補いながら、「グレゴリオ聖歌」として完成していくのです。グレゴリオ聖歌の誕生にも、ヨーロッパを統合していこうという皇帝・国王とローマ教皇との思惑の一致があったわけです。

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聖歌とは

♪では聖歌というのは、そもそもどんなものでしょう。キリスト教の基本である新約聖書では、イエスの最後の晩餐で賛美歌が歌われたと言及しています。「賛美の歌を歌ってから、彼らはオリーブ山へと出て行った」という文章です。また教皇クレメンス1世やテルトゥリアヌス、アレクサンドリアのアタナシオス、エゲリアなどの記録にも、初期のキリスト教で賛美歌が歌われていたことがみえますが、その言及は詩的もしくはあいまいなので、この時代の音楽が実際にどのようなものだったかはほとんどわかりません。3世紀成立のギリシア語のパピルス写本オクシュリンコス賛美歌には音楽的な記譜があるそうですが、この賛美歌とキリスト教の聖歌の伝統との関係は明らかでないようです。

後にローマ典礼で用いられることになる音楽的要素は、3世紀には出現しています。教皇ヒッポリュトスが著者とされる『使徒伝承』では、ヘブライ語の神をほめたたえるという意味のことばに由来し、歓喜の叫びとして特に装飾(メリスマ)的な旋律を与えられているミサ固有文聖歌のひとつアレルヤ(英・独ではハレルヤと発音)を繰返し唱えるハレル(詩篇に基づくユダヤ教の朗誦)を、初期キリスト教の愛餐(アガペー餐)と結びつけています。

毎日の決まった時間に祈りをささげる定時課に歌われる聖務日課の聖歌は、4世紀初頭、聖アントニウスに従って砂漠で修業を行った修道僧たちが始めた、毎週150の詩篇を一巡して歌う連誦に起源があります。375年頃には東方のキリスト教では、独唱と合唱の掛け合いからなるアンティフォナ的な賛美歌が流行し、386年アンブロジウスによってこれが西方にもたらされたとされます。

グレゴリオ聖歌の中世西洋音楽およびルネサンス音楽に与えた影響ははかりしれません。例えば、現代の記譜法はグレゴリオ聖歌のネウマ譜から直接発展したものです。また聖歌を記譜するために考案された四角ネウマは、他種の音楽の記譜にも転用されたし、ある種のネウマのまとまりは、ノートルダム楽派によって提唱されたリズム・モードというリズムの組み合わせを表現するのに使用されました。15世紀から16世紀にかけて、次第に丸みを帯びた音符が四角や菱形にとってかわったが、聖歌集では依然として四角ネウマが使用されていました。16世紀には5本目の線を追加した五線譜の使用が一般的になりました。またバス記号や、シャープ、フラット、ナチュラルの臨時記号はグレゴリオ聖歌の記譜法に直接由来するものだそうです。

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聖歌とミサ

♪カトリック教会で「ミサ」(聖体祭儀あるいは感謝の祭儀)と呼ばれる礼拝集会は、キリストの生涯、特にその死と復活を思い起こし、キリストをとおして実現した救いの恵みに感謝し、パンとぶどう酒のしるしによってキリスト信者がキリストと一つに結ばれるもので、カトリック信者にとってもっとも大切な秘跡(神の恵みのしるし)とされています。

なぜパンとブドウ酒なのかというと、キリストは最後の晩餐の席でパンを取り、「これはわたしの体である」と言い、またぶどう酒について「これはわたしの血」と言ったと聖書に記されていることから、パンとぶどう酒を食することでキリストとひとつになるという象徴的な意味が生じたのです。キリスト教徒は、イエス・キリストの最後の晩餐を記念してイエスが復活したという日曜日に集会を行うようになりました。そしてキリスト教はもともとユダヤ教の中から生まれたのでユダヤ教の習慣を引き継いでいますが、ミサはユダヤ教のシナゴーグで行われていた礼拝の形式(聖書の朗読と説教、祈り)も受け入れました。そこに聖体の典礼と会食が組み合われてミサの形式が出来たのです。

開祭の儀 :司祭が入堂し、祭壇についてミサを開始します。信徒・修道者など会衆がいる場合、ミサの初めには「入祭の歌」として聖歌が多く歌われます。入祭の歌は義務ではありませんが、歌わない場合は入祭唱を唱えなければなりません。初めに司祭と会衆の間で挨拶が交わされ、初めの祈りが唱えられる。次に悔い改めの祈りと司祭による「集会祈願」という短い祈り、続いて「あわれみの賛歌」(キリエ)が唱えられ、待降節及び四旬節以外の主日と祭日には「栄光の賛歌」(グローリア)が唱えられる。

ことばの典礼 :ここでは平日には2つ、主日と祝日には3つの聖書からの部分が朗読されます。それらの朗読は第一朗読、第二朗読(主日と祝日のみ)、福音朗読と呼ばれます。第一朗読では通常、旧約聖書が読まれますが、復活節に限って『使徒言行録』か『ヨハネの黙示録』が朗読されます。第二朗読は使徒の書簡(主にパウロの手紙)の朗読です。第一朗読の後には、「答唱詩編」という先唱者と会衆による章句の繰り返しと詩編の朗読が行われますが、通常のミサでは歌われることが多いようです。「アレルヤ唱」(四旬節の期間は「詠唱」)の後で行われる福音朗読はその名前の通り、福音書が朗読されます。第一朗読、第二朗読は信徒が朗読することが多いのですが、福音朗読は司祭もしくは助祭が行うことになっています。福音朗読の時、会衆は起立です。福音朗読に続いて、司祭(あるいは助祭)による説教が行われます。説教では通常、その日の福音や聖書朗読の解説がされます。主日と祭日には説教の後で「信仰宣言」が行われます。信仰宣言に続き、そのときに応じて意向で唱える「共同祈願」という祈りが唱えられます。

感謝の典礼 :ことばの典礼が終わると、パン(「ホスチア」と呼ばれる、小麦粉を薄く焼いた食べ物。これが聖体になる)とぶどう酒、そして水が祭壇へ準備されます(奉納)。ここから始まる「感謝の典礼」はキリストの最後の晩餐に由来するものとされ、ミサの中心的部分です。次に司祭によって「奉納祈願」と「叙唱」という祈りが唱えられ、会衆と共に『黙示録』に由来する賛美の祈り「感謝の賛歌」(サンクトゥス)が唱えられます。

次に司祭によって「奉献文」が唱えられ、この中で聖変化が行われます。ここでは司祭がパン(ホスチア)とぶどう酒を取って、キリストが最後の晩餐で唱えた言葉を繰り返します。これによってパンとぶどう酒がキリストの体(聖体)と血(御血)に変わる、というのが伝統的なカトリック教会の教義です。

交わりの儀 :奉献文に続いて、福音書の中でキリストが弟子たちに教えたとされる「主の祈り」が唱えられます。そして司祭の祈願に続いて「平和の挨拶」という司祭や会衆同士のあいさつが行われます。さらに「平和の賛歌」(アニュス・デイ)が続き、司祭はパン(聖体)を裂いて一部をぶどう酒(御血)に浸します。司祭が聖体を食べ、御血を飲みます。これを「聖体拝領」といいます。司祭(または助祭)は続いて聖体を信者に配り、信者も聖体拝領を行います。通常はパン(聖体)のみですが、場合によっては信者もぶどう酒(御血)を飲むこともあります。聖体拝領が終わると、司祭が拝領後の祈りを唱えて交わりの儀がおわります。この場合の「交わり」というのは、神と人との交わり、参加者同士が同じ聖体を受けて交わるという意味です。

閉祭の儀 :拝領後の祈りのあと、信徒・会衆への連絡などが行われることがあります。続いて司祭の祝福とミサからの派遣が行われます。ミサの終わりにも「閉祭の歌」として聖歌が歌われることが多いようです。なお、司祭と会衆との間に交わされる「最後の交唱」でミサは終わりなので、閉祭の歌そのものは義務ではありません。

コラールとプロテスタント

♪グレゴリオ聖歌に続いて、音楽史のなかで忘れてはならないジャンルがコラールです。コラールとはルター派教会で全会衆によって歌われるための賛美歌です。コラールの旋律は多くの場合単純で、歌うのが容易です。これはもともと専門の合唱団ではなく、教会に集まった会衆(信者)の人々が歌うものとして考えられていたからです。一般に韻を踏んだ詞を持ち、有節形式(同じ旋律に歌詞の違う節をあてて繰り返す形式)で書かれています。

コラールと宗教改革

♪このコラールがドイツで発達したのは、宗教改革と深く結びついています。宗教改革というのは、中世を通してローマを中心とするカトリック教会に対する改革運動の終着点といえる出来事でした。12世紀以来さまざまな改革が試みられ、それにカトリック教会が対抗してきましたが、とうとう1517年にドイツのマルティン・ルターが贖宥状という献金によって贖罪がなされることをめぐってカトリック教会の権威を完全に否定し、それをドイツにおける世俗権力者が支援したために、カトリック教会に対抗するプロテスタントという集団が成立することになりました。ルターはカトリック教会を教義の面で否定するばかりではなく、聖書をめぐるカトリック教会の支配を打破するためにラテン語聖書をドイツ語に翻訳しました。このドイツ語が近代ドイツ語の基礎となっていきます。

ルターはながらく罪や正しさ(義)の問題に苦しみ続けていましたが、ある時、行為によってではなく信仰によって人は義とされるという認識を得ました。いわゆる信仰義認です。カトリック教会の与える儀式や約束ではなく、神の恵みによってのみ人間は救われるのです。ですから、贖宥状という罪をお金であがなう行為は受け入れられなかったんですね。

ルターに続いて、スイス最初の宗教改革者としてスイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとしたツヴィングリが、「聖書のみ」を信仰の基準とし、信仰そのものが大事だと説き、万人祭司説を説きました。後に改革派とかカルヴィニズムで知られるカルヴァンが、ツヴィングリの後をついでさらに改革を進めました。

これらの宗教改革では、礼拝に会衆がもっと積極的に参加すべきで、したがって聖歌隊の歌をただ聴くばかりでなく、みんなで声を合わせて歌うべきだとされました。そこでルター派ではコラール、カルヴァン派では詩篇歌が歌われました。カルヴァンは厳格で、聖歌隊を解散しオルガンを禁止して、会衆によって詩篇歌を無伴奏で斉唱することにしました。しかし、オルガンも礼拝外では黙認し、詩篇に伴奏をつけたりポリフォニーに歌うことは奨励していました。それに対して、ルターはあらゆる手段を用いて神を賛美すべきだと考え、聖歌隊やオルガンも残されました。その結果、会衆が歌う前にオルガンがコラール前奏曲をひいて気分を盛り上げたり、聖歌隊がコラールにもとづくカンタータを歌い、最後に会衆が立ち上がってコラールの最後の節を歌うというような曲が作られました。その結果、オルガンの独奏曲や器楽を伴う聖歌隊用の声楽曲がたくさん作られ、演奏されました。そのための曲種が「コラール編曲」と「教会コンチェルト(宗教コンチェルト)」でした。このコンチェルトという言葉は、現在では器楽曲とみなされていますが、当時は器楽を伴う礼拝用の声楽作品が教会コンチェルトと呼ばれていました。また教会カンタータというのは、宗教コンチェルト、教会音楽、教会作品などと呼ばれていた作品から共通した特徴をもつ作品を総括して学者が名づけたものです。

コラールの形態

♪ところが悲劇が音楽の歴史にも襲い掛かりました。ドイツ30年戦争です。カトリック勢力とプロテスタント勢力が長き渡って戦い続け、ドイツは荒廃の姿をさらすことになったのです。悲劇の終結後、復興をはじめたドイツ音楽のなかで重要であったのが、「コラール編曲」と「教会コンチェルト(宗教コンチェルト)」でした。コラール編曲はもともと有節形式をとり、教会コンチェルトは旧約聖書の詩篇を歌詞とするものが多く、構造は一連の節からなります。どちらも一曲がいくつかの部分に分かれる構造です。しかし、コラールは会衆が最後に全員で歌いおさめるためのものだったので、最後の節だけはもっとも単純にコラール旋律にハーモニーを付けただけの単純な形で演奏しなければなりませんでした。そこでドイツの教会カンタータは、それぞれの節でコラール旋律の特徴を生かしながら、聖歌隊の合唱、独唱、重唱などで返送しながら歌い、最後は全員で歌うための単純な和声づけによる最後の節で終わるという書法になりました。ところが、イタリアからの影響で、コラールを重視しながらも聖書にもとづく台本を書き足し、レスタティーヴォやアリアも含めた折衷様式カンタータが人気となりました。教会カンタータを200曲残したバッハも、その大部分は折衷様式でした。

ところで、ルターは聖書をドイツ語に翻訳したことからもわかりますが、教会でラテン語ではなくドイツ語を用いるべきであると主張しました。そのためには、新しいコラール作品が早急に、また大量に必要となったのです。ルターは、自分でも「神はわがやぐら」を代表とするいくつかのコラールを作曲しました。またカトリック教会で用いられていたグレゴリオ聖歌に、ドイツ語の新しい歌詞をあてた転用も行いました。

初期コラールはモノフォニー(単旋律)で書かれていましたが、1524年にはヨハン・ワルターによって4声もしくは5声に編曲されたコラール集が出版されました。教会の会衆はモノフォニーで旋律のみを歌い、聖歌隊はテノール声部にコラール旋律を置いて、他声部が対位旋律を歌いました。コラール旋律がソプラノ声部に移ったのは16世紀末頃です。また初期のコラールが複雑なリズムを持っていたのに対して、17世紀初頭の楽譜では、各音符が同じ長さに揃った形への変化が見られます。

今日では、多くのルター派のコラールがプロテスタントの教会で用いられる4声の賛美歌として親しまれています。その和声づけは、しばしばヨハン・ゼバスティアン・バッハのカンタータの最後に歌われるコラールからとられています。バッハの作品のうち、バッハが新しくコラールの旋律を作曲することは少なく、教会の会衆がすでになじんでいるコラールを用いてカンタータを作曲しました。ヨハン・ゼバスティアン・バッハの4声コラール集(BWV.253-438)が1765年から1787年にかけて発行されています。

コラールの旋律は賛美歌としてコラールが歌われる直前に、オルガン等によって演奏されるためのコラール前奏曲にも用いられています。コラール前奏曲にはコラールの旋律が登場し、そこに対旋律が加えられていきます。コラールは、ドイツバロック音楽を中心にさまざまな音楽の形式にて用いられ、アントン・ブルックナーは音楽の神学的要素に傾倒し、またバッハのコラール前奏曲に影響を受けて、交響曲、ミサ曲、モテットにコラールを多用しました。

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