4月29日、第14回ポトラックコンサートが無事に終了しました。快晴の予報にもかかわらず、空は少し曇り気味。でも、涼しくて助かりました。
午前10時頃からリハーサルが始まりました。まずは小さい子供たちからです。そして伴奏の先生がいらしてからは大人たちのリハーサル。立ち位置を決めたり、曲の出だしやさわりを中心に中務先生が入念にチェックを入れてくださいました。12時過ぎにはリハーサルが終わって生徒たちはさあ昼食。思い思いに外に出て行ったり、2階の事務室でおにぎりを食べたり。
13時から第一部の開演です。小さな子供たちの一生懸命な音色が流れます。15時頃、第二部の始まりです。そして第三部はフルートの生徒さんたちがコンクールに備えて高度な演奏を聴かせてくれました。進行が早かったので、晴之先生からのサプライズ。コンサート後に指導する予定の学生たちといっしょに、フルートカルテットの演奏をしてくださいました。そして、いよいよ全体の合奏が始まりました。この日のために準備してきたグリーグのホルベルク組曲とカッチーニのアベマリア。大阪教育大学の卒業生さんたちの助っ人を得て、みんながんばりました。きれいに演奏できたでしょうか。
すべての予定が終わると、さあ来年の発表会への準備が始まります。来年は何を演奏することになるでしょうか。なかなか演奏は上達しませんが、それでも一曲一曲新しい曲を学んできました。一年、一年、積み重ねていくことの大切さを実感します。さあ、またがんばりましょう。
第14回 ポトラック・コンサートで演奏した曲と作曲家紹介
ドイツ・ロマン派の作曲家、ヴァイオリニスト。初心者用のヴァイオリン協奏曲の作者としてヴァイオリン学習者には有名。学生のためのヴァイオリン協奏曲5作品などが知られる。ザイツにヴァイオリンを師事していた人物として、ヴァイオリニストを目指していた若かりし日のマレーネ・ディートリッヒ。
ローマ生れ、イギリスのイヴシャムで没した作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者。
北ドイツ出身のハンガリーのヴァイオリニスト・指揮者。ロマン派音楽の作曲家。今日では初心者向けの易しいヴァイオリン協奏曲で名を遺している。1871年、ブダペストのオーケストラの指揮者に就任。ヴァイオリン協奏曲やサロン向けのヴァイオリン曲を大量に作曲。
フランスのヴァイオリニスト、作曲家。1835年からソリストとしてパリで活躍を始め、その後はパリ・オペラ座管弦楽団にも入団。学生用のヴァイオリン曲として、イタリア・オペラの旋律を主題にした変奏曲「6つのエア・ヴァリエ」、主にベルリーニの主題を用いた「6つのエア・ヴァリエ」。弟アルノー・ダンクラ(1819-1862)はチェリストでチェロ指南書の著作、同じく弟レオポルト・ダンクラ(1822-1895)は、ヴァイオリニストで室内楽の作曲。
西洋音楽史上、最も重要なバロック音楽の作曲家。多数の教会カンタータ、鍵盤音楽、室内楽。協奏曲や室内楽などではテレマンと同様に、当時のヨーロッパで流行していた様式に則った音楽を作った一方で、フーガに見られるような対位法へ強い傾倒。同時代人から時代遅れとみなされた。バッハはオペラを全く作曲せず。ドイツ中心の音楽史観の影響の下、数多くいるバロック時代の音楽家の中で、ともすると彼一人過大に評価されがち。初期バロックから彼の同時代へと至るバロック音楽の各時代の様式をバッハは熟知しており、それらを高度に駆使して自らの作品に反映させたという点では、バロック音楽を集大成。
イタリアの作曲家。1920年ごろ指揮者としてパリに行き、同地でバレエやオペレッタを作曲。マンドリン独奏またはヴァイオリン独奏のための有名な『チャールダーシュ』を除けば、実質的には無名の作曲家。たいていのジプシー楽団がモンティの『チャールダーシュ』をレパートリー。
チェロ演奏。ドイツの作曲家、音楽評論家。ロマン派音楽を代表する一人。ピアニスト、クララ・シューマンは妻。評論家としては、1834年に創刊された『新音楽雑誌』の編集を担当。その後、名ピアニスト、クララとの恋愛が進行。それまでピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲。
イタリア後期バロック音楽の作曲家・ヴァイオリニスト・音楽理論家。演奏家としてロンドンやダブリンで活躍。作曲家としてコレッリからヘンデルをつなぐ存在。全部で42曲の協奏曲のうち、《合奏協奏曲集》が最も有名。ジェミニアーニの合奏協奏曲は、コンチェルティーノにヴィオラを導入して、実質的な弦楽四重奏を形成。
オーストリアの作曲家、演奏家。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人。神聖ローマ帝国皇室宮廷作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを務めた。
バッハなどと並んで音楽史上重要な作曲家の一人、「楽聖」とも。その作品は古典派音楽の集大成でロマン派音楽の先駆け。1787年ベートーヴェンはウィーンに旅し、憧れを抱いていたモーツァルトを訪問したが、母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻る。1792年ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可されてウィーンに移り、まもなくピアノ即興演奏の名手として名声を得る。
ポーランドのヴァイオリニスト・作曲家。ルブリン出身。ユダヤ人家系だが、父の代にユダヤ教からカトリックに改宗。8歳でパリ音楽院に入学し、13歳で独立した演奏家として広く欧米を巡演し、モスクワで客死。1874年から1877年までブリュッセル王立音楽院教授として教育活動に従事。驚異的な技巧と情熱による華麗な演奏が知られ、その作品もまたスラヴ的情緒と名人芸的要素により今日なお愛される。弟ユゼフ・ヴィエニャフスキもピアニスト・作曲家として活躍、時には兄と共演。
スペイン・パンプローナ出身の作曲家、ヴァイオリン奏者。バスク人。1860年代ごろから演奏家としての活動を始め、1865年にはサン=サーンスと演奏旅行。サン=サーンスはサラサーテに「序奏とロンド・カプリチオーソ」、「ヴァイオリン協奏曲第3番」など献呈。サラサーテの華麗な名人芸はチャイコフスキーやブラームスなどにも影響。スペインの民謡や舞曲の要素を盛り込んだ国民楽派に位置付けられる。その代表がジプシー(ロマ)民謡による「ツィゴイネルワイゼン」。
イタリア・ルネサンス音楽の末期からバロック音楽の初期にかけての作曲家。世界で最初のオペラを発表したヤコポ・ペーリとならんで、モノディー様式の代表的な音楽家の一人として知られる。モノディというのは、16世紀終わりにフィレンツェやローマで、歌詞の言葉の意味をはっきりと表現し、また聞き取りたいという欲求から生まれた、独唱また少ない人数の重唱に伴奏楽器を伴う様式。作曲が自由に行えるので幅の広い音楽表現が可能になり、バロック音楽誕生の一つのきっかけ。
スウェーデン統治下のノルウェーで生まれ、旧首都ベルゲンの自然と海をこよなく愛した。ノルウェーの民族的な音楽を取り入れたロマン派時代の作曲家。ピアノソナタやヴァイオリンソナタ、交響曲などを残している。とても小柄なピアニストであり、演奏会ではあがらないように、ポケットの中に忍ばせたカエルの置物をそっと握りしめたそうである。
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