Danse

音楽と舞踏について

舞曲とバッハ

♪民衆の踊りと宮廷の踊りの要素を併せ持ちながらも、器楽作品として形式化され、洗練されていった舞曲というものを、バッハの「無伴奏チェロ組曲」第一番を構成する6つの舞曲を通して紹介しましょう。

舞曲とは

♪舞曲とは、舞踏のための音楽、舞踏のリズムや形式を借りた器楽作品です。したがって、踊りそのものに結びついているのは当然といえるでしょう。この舞い踊るという行為が太古にさかのぼるように、舞曲の歴史は古く、さまざまな地域や人間集団に応じた多様な形態をもっていました。しかし、ヨーロッパの歴史で舞曲が初めて楽譜として現れたのは、13世紀だったそうです。キリスト教会の力が強かった中世では、踊りは異教的なもの、非宗教的なものとみなされていて、記譜するという知的な作業を行う人はいなかったのだと思われます。きっと民衆は祭りやお祝いごとのたびに踊り歌っていたでしょうが、キリスト教会は信仰を忘れさせる人間的な官能を刺激する踊りを警戒していたのでしょう。

しかし、このようなキリスト教の圧倒的な支配の裏では、吟遊詩人であるトゥルバドール、トルヴェールの登場とともに世俗音楽が広まり、一定の形式をもつ輪舞や舞踏曲が誕生しました。やがて、踊りが宮廷生活に不可欠なものになると、舞曲は宮廷舞踏とともにめざましい発展を遂げます。

16世紀にはゆっくりしたパヴァーヌとか速いテンポのガイヤルドという舞曲が人気をあつめます。16世紀末には、踊りから離れて様式化された器楽音楽としての舞曲が現れました。17世紀に入ると、さらに舞曲を連ねて組形式とする習慣が発達し、組曲が誕生しました。クーラントという舞曲が新しい柱となり、アルマンド、サラバンド、シャコンヌ、加えてメヌエットやガボットという新しい舞曲も流行しました。

これらの舞曲が組み合わされて、バッハの「フランス組曲」や「管弦楽組曲」などの組曲となったんのです。この組曲は、異なる起源、速度、拍子、リズム、曲想の舞曲を同じ調性のもとに並べ、一貫した流れのなかに、対立と変化を作り出して楽しませるのが特徴でした。そして舞曲は見て楽しむ踊りから離れ、踊らずに音楽を聴くための様式化された器楽音楽へ変化していきました。

無伴奏チェロ組曲

♪さて無伴奏チェロ組曲全6曲は、一つの組曲ごとにハ長調、ト長調とかニ短調とかいう一つの調性調で統一で統一されています。取り上げる第一番ト長調は、前奏曲(プレリュード)で始まり、アルマンド、クーラント、サラバンド、メヌエット、ジーグの6曲で構成されます。

バッハの組曲は、とりわけ演奏者に自由な解釈の裁量を残すという特徴があります。楽譜上には、いかなるニュアンスもなければ、ほのめかしすらないそうです。唯一、弓使いの中で連続する異なった音を同じ方向の弓使いで弾いたり、あるいは逆に切ったりすることが指示されています。たとえばプレリュードでは、小節ごとに異なった弓使いが見られます。

このように楽譜に作曲者の指示がないだけに、演奏者にとっては作曲者の世界観やその時代の傾向に近づくために、どのような演奏方法を選ぶかという難しさがあります。ついでにいえば、当時、バッハの組曲は、ガット弦を張ったビオラ・ダ・ガンバという4弦か5弦の楽器で演奏されていました。また弓も現代の弓とはそり方が逆なバロック弓というものが使われていました。

さて、それぞれの舞曲について一般的な説明を記しておきましょう。

プレリュードというのは、他の曲への導入的役割をもった小さな器楽曲です。17世紀には組曲やフーガなどの冒頭に置かれ、次に来る曲の最初の部分に結びつくか、その曲の雰囲気を表すような曲でした。

アルマンドは、フランス語で「ドイツの」という意味で、中世ドイツにおける農民の踊りがフランスに伝わって発達した4分の4拍子の緩やかな速さの舞曲です。

クーラントは、16世紀フランスに起こった、走るような音形を特徴とするテンポの速い舞曲です。ルイ14世が好んだとされ、メヌエットとならんで宮廷音楽のなかで重要な位置を占めました。

サラバンドは、スペインあるいはイタリアの起源とされる重々しく厳かなダンスです。17~18世紀のヨーロッパで流行し、3拍子の緩やかなテンポで、2拍目にアクセントが置かれるのが特徴です。一般にクーラントとジーグの間に挿入されて舞曲の花形となりました。

メヌエットは、本来はフランスの農民による踊りでした。フランスで17世紀に現れ、一世紀にわたり人気を博し、宮廷を始め、街や劇場のオペラやバレエで演じられました。貴族の舞踏では、17世紀に栄えた舞曲が多く廃れていったなかで、メヌエットは生き残り、ソナタなどの第3楽章に用いられるようになり、テンポも一段と速くなって舞曲の性格を失っていきました。

ジーグは、イギリスで生まれ、17世紀前半頃からフランスやイタリアで発達した、8分の6や8分の9による速いテンポの軽快な舞曲です。アイルランドのジグという踊りに近いものです。バグパイプという羊の皮の袋をつかった笛がありますが、そのメロディーに似ています。

教会の音楽、民衆の音楽

♪さて、これから音楽と舞踏との関係を、教会や民衆という音楽の担い手と関連づけて考えてみたいと思います。このコラムで扱っているクラシック音楽の舞台である「ヨーロッパ」という地域は、なにかしら高級な感じがする響きをもっています。そこからは、近代以降、多くの物や事柄が、「普遍的」と称されて世界へ普及していきました。カトリックやプロテスタントなどというキリスト教もそうですし、クラシック音楽と呼ばれる西洋芸術音楽もまた、その普遍的性格が強調されつつ、世界中で受け入れられてきたものです。わが国でも、近代以降、クラシック音楽、そのなかでも、とくにドイツ、フランスの音楽を、普遍的で高尚な芸術音楽として真剣に学んできました。その結果、クラシック音楽受容の優秀な生徒として、今では数多くの音楽家をヨーロッパへ送り出すほどになっています。しかし、このクラシック音楽の根っこにあるヨーロッパ音楽というものは、古代ギリシャ・ローマ世界の音楽伝統を引き継ぎ、さらに中世ヨーロッパ世界の多様な伝統的文化、すなわち国王、貴族、聖職者などからなる宮廷文化とともに、大道芸人、職人、農民、商人、流浪する人びとを含んだ民衆文化のなかで発達したものでした。

♪中世ヨーロッパの宮廷というのは、カトリック教会と深く結びついていました。貴族が教会の高位聖職者になり、一般の王侯貴族も、自分の城や館に礼拝堂と司祭をもっていました。また音楽はといえば、典礼における聖書の朗誦に始まったグレゴリウス聖歌などが、カトリック教会で神を賛美する聖歌として整えられましたが、信者が歌うことよりも歌を聴くことによって浄化されるということが重要視されました。つまり、教会という機関、場所が大切なのですが、それは教会のなかにこそ救いがあって、個人は救いへの手段をもたないという教会観が強くあったのです。

近代にはいると、カトリック教会から離れ、聖書に基づいて神を賛美しようとしたルターが、神は音楽を喜び給うと考え、カトリック教会のグレゴリウス聖歌のような聖歌をプロテスタント教会にも求めました。そして、民衆的な調べとわかりやすい歌詞からなるコラールを作りました。そして、信者が主体的に積極的に歌うよう促しました。こうしたドイツ・プロテスタンティズムの流れのなかでバッハは、ヨハネ受難曲やマタイ受難曲、ロ短調ミサ曲などで厚い信仰心を表現したようにみえます。しかし、その音楽のなかには、「知的であると同時に原初的な性格、あるいはポリフォニーを支えている踊りの感覚」があるそうなのです。こうした宮廷文化が、やがて市民社会の文化へと変貌していく時代に、ハイドン、シューベルトが活躍したわけです。

♪その一方、太古の昔から、多様な神々とともに生きていた民衆の生命の躍動から発達した舞踏がありました。それは荒々しく、騒音のような雑多な音に満ちた、単純な身体の動きだったかもしれません。しかし、それが次第に一定の形式をもつようになり、宮廷文化に入り込んでいくと、洗練された社交的舞踏が生まれました。舞踏というものは、本質的に、自らの肉体を使った自己遊戯として踊られるか、超自然的存在との交流において自らを超越するために踊られるか、あるいは社会的な自己表現として踊られるか、という三つの大きな性格付けがあるようなのですが、社会的な自己表現という性格が強くみられるようになったといえるでしょう。

踊りの発達とともに、踊りに合わせて演奏される舞曲も発達しました。踊りはさらに複雑な展開をたどり、ウィーナーワルツとなってハプスブルグ帝国の首都ウィーンの社交界を彩り、一世を風靡しました。

しかし、宮廷文化と結びついた社会的な自己表現という性格をもった踊りだけではなく、現代でも世界のさまざまな地域で、さまざまな集団によってさまざまな形を取って踊りは維持されています。サンバ、タンゴ、フラメンコ、フラダンス、ベリーダンス、タップダンスなど、自らの肉体を使った自己遊戯としての人間の踊りというのも、ちょっと思いつくだけでもいろいろあります。つまり、踊りというものは、身体の運動とリズムに結びついて、人間の本質に根ざしたもののようです。

♪クラシック音楽の世界でも、民衆の歌と踊りの再発見がありました。バルトークやファリャは、ナショナリズムが高揚した時代に生まれました。さらに、晩年にはナチズムやファシズムなどの全体主義が席巻した時代状況となりました。その中で、バルトークやファリャは、自分が属する「民族」に固有の音楽やリズムを、名もなき民衆の生活文化のなかに捜し求めました。彼らが求めた「民族固有」という考えは幻想だったかもしれませんが、クラシック音楽の営みの中で「民俗音楽」、民衆の音楽を発見したことは、民衆の歌と踊りを再発見したことでもありました。

こうしてみると、クラシック音楽のなかでも、二つの文化の流れがひとつになって、混じりあっていたようです。作曲家たち彼ら一人ひとりの目指す方向は多様でしたが、すべては、人間が歌い、踊る存在であるということ、人間が他者と運命を共にする共同存在であることからくる共感の能力に基づいているように思われます。つまり、神を賛美する祈りと並んで、人びとの歌と踊りが表現する生の喜びが、音楽の源泉ではなかったかということです。

現在でもルーマニアや、バルトークの祖国ハンガリーをはじめとする東ヨーロッパの国々では、伝統的と称される農民の踊りが「民族」の歴史や文化と結び付けられて利用される一方で、政府お手盛りのフェスティバルだけでなく、生活のいろいろな機会に、たとえば家畜移動の開始される日や祝日のひとときなどに、人びとを楽しませ、活気づける営みとして生き続けています。

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