ヨーロッパ音楽の歴史のなかでは、ふつうバッハに代表されるバロック時代が終わるとハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが代表する古典派、そしてシューマンやシューベルトなどのロマン派という流れになります。年代としては1750年頃にバッハの死をもってバロックが終わり、ハイドンによって古典派の蕾が開き、モーツァルト、ベートーヴェンが大輪の花を咲かせ、ヴェーバーをロマン派の先駆けとしてマーラー、シェーンベルクで幕を閉じるといわれます。歴史事件で見ると、1750年頃というのは、フランスではルイ15世のもとで、隆盛を誇ったブルボン王朝が次第に落日を迎えていく時代でした。中部ヨーロッパではハプスブルグ帝国のマリア・テレジアが権勢を誇り、そのハプスブルグ帝国に新興プロイセンのフリードリヒ大王が挑んでいました。権力者の争いのかたわらで、この時代には作曲者たちの逸話にも欠きません。モーツァルトに関して有名なのが、マリア・テレジアの宮廷でマリーアントワネットと遊んだという逸話です。本当でしょうかねえ。一方、ベートーヴェンは皇帝ナポレオンに交響曲を献呈するとかしないとかという逸話になります。さらにロマン派の時代が進むと、没落過程のハプスブルグ帝国の首都ウィーンの世紀末という色彩が濃くなります。マーラーなどは、精神分析のフロイトなどにも深い影響を受けているようです。こうした古典派からロマン派への移行期を、政体からみると絶対王政から国民国家へ移り変わる大きな変化の時代であり、社会思潮という点では、啓蒙主義からロマン主義への変化が特徴です。
古典派音楽というのは、一般にクラシック音楽の歴史において1730年代から1810年代まで続いた時期の芸術音楽の総称です。古典派音楽の始まりはバロック音楽の終焉と、古典派音楽の終わりはロマン派音楽の勃興と並行しています。したがって、古典派音楽の盛期はバロック音楽とロマン派音楽の間に位置するということになります。
古典派音楽の特徴としては、楽曲の均斉感と合理的な展開が重視され、ソナタ形式が発展しました。また機能和声法が確立され、調性が教会旋法から独立したことです。この時代の代表的な楽種として、交響曲や協奏曲、ピアノソナタや弦楽四重奏曲などが盛んに作られました。
盛期古典派音楽のうちウィーンを中心に活動した作曲家は「ウィーン古典派」の名前でも知られています。数多くの交響曲、弦楽四重奏曲を作曲し、交響曲の父、弦楽四重奏曲の父と呼ばれるヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)、古典派音楽を代表するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756- 1791)、バッハ等と並んで音楽史上極めて重大な作曲家の一人で「楽聖」とも呼ばれ、その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとなったルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)が有名です。
ハイドンとモーツァルトは、前古典派や古典派初期における音楽様式の発展の中心であったイタリアや、マンハイム楽派、ベルリン楽派などの各地の様式の影響を吸収しつつ、それらを集大成しました。それを土台にベートーヴェンがさらに豊かにその様式を発展させたとされます。彼ら自身や人脈の活躍、作品の流通を通じて、その様式は欧州各地に影響を与えました。古典派音楽は、作曲家らの国際的な活動のもとで確立され、ヨーロッパのほぼ全土に広まりました。
ロマン派の時代には、バロック音楽や古典派音楽から受け継がれた和声語法を言い表すために「調性」という概念が確立されました。バッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンらによって示された機能和声法を、ロマン主義の作曲家は自分たちの半音階的な新機軸に混ぜ合わせようとしたのです。それは、よりいっそうの動きのしなやかさとより大きなコントラストを実現するため、またより長大な作品の需要を満たすためでした。
半音階技法だけでなく、不協和音もいっそう多用されました。たとえば、ベートーヴェンや後のリヒャルト・ワーグナーは和声法を拡張し、以前は使われなかったような和音を用いたり、従来とは異なる方法で既存の和音を扱ったりしました。作曲家はますます遠隔調に転調するようになり、古典派の時期に比べると転調が頻繁になりました。時には転調の軸足となる和音に代わって音符一つで転調することさえありました。このような音符をエンハーモニック(異名同音、たとえば嬰ハ音を変ニ音)的に書き換えることによる遠い調への転調をフランツ・リストらの作曲家は試み、どの調にも移ることが可能になる減七和音のような仕掛けも積極的に研究されました。
また演奏会用作品の作曲や演奏のためのより体系化された基礎を彼らは創り出しました。ロマン主義の時代には、ソナタ形式など以前の習慣が規則化され、歌曲の作曲においては、旋律や主題にますます焦点が向けられました。多楽章の楽曲のなかで,同じ主題や動機が全楽章または二つ以上の楽章に現れる形式である循環形式が積極的に多用される中で、旋律が強調されました。当時ありがちだった長めの楽曲にとって、循環形式が重要な統一手段であることは明らかでした。
和声のよりいっそうの巧妙さや流麗さ、長大で力強い旋律、表現の基礎としての詩情、文学と音楽の混淆といった現象は、程度の差はあれロマン派音楽以前にも現れていました。しかし、ロマン主義の時代には、そういったものが中心的に追究されるべきものとされたことが特徴です。
またロマン派の作曲家は、技術の発達の恩恵も受けました。 たとえばオーケストラにも匹敵するほどの力強さや音域をピアノにもたらしたように、科学技術は重大な変化を音楽にもたらしたのです。
さらにロマン派の作曲家は、音楽を詩に見立てたり叙事詩や物語の構成に擬しました。そこで、音楽と音楽外の言葉や発想源との関係をめぐる論争も生じました。19世紀以前にも標題音楽(ある視点や標題による音楽)はありふれたものでしたが、音楽形式と音楽外の霊感をめぐる葛藤はロマン派音楽の時代を通じて重大な美学的命題となったのです。
論戦の発端は1830年代にエクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》でした。この作品には詳細な標題が副えられており、評論家や有識者に解釈の場を与えました。攻撃者の筆頭でブリュッセル音楽院の院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスは「この作品は音楽にあらず」と断じます。一方の擁護者の旗頭はローベルト・シューマンでした。ただし、シューマンも「すぐれた音楽はおかしな題名によって損われる。すぐれた題名があってもおかしな音楽の手助けにはならない」とも論じ、彼は標題そのものには否定的でした。音楽外の霊感という発想を擁護する役目は、フランツ・リストに委ねられます。
時間が経つにつれて両陣営から論争が仕掛けられ、亀裂はいっそう明白になりました。「絶対音楽」を信じる者は、音楽表現は形式の完成にかかっているとして、古い音楽で敷衍された見取り図に従います。そのころ公式化されつつあったソナタ形式が最も有名な形式です。標題音楽の信奉者にとって、詩など音楽外のテクストの叙事的な表現それ自体が形式でした。だから音楽形式を物語に従わせることが必要であるのだと、生活を創作に捧げる芸術家は論じていました。持論を発想したり正当化したりする過程で、両派はベートーヴェンへと遡ります。リヒャルト・ワーグナーとヨハネス・ブラームスのそれぞれの支持者の反目によって、この分裂は次のように見なされました。即ち、言葉などの音楽外に関連するものを持たない「絶対音楽」の最高峰がブラームスであり、詩的な「実体」こそが和声や旋律を充溢させた音楽を形作ると信じているのはワーグナーである、と。
「音楽外の霊感」の実例には次のようなものがあります。シューマンの《交響曲第3番「ライン」》、リストの《ファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》および数々の交響詩、チャイコフスキーの《マンフレッド交響曲》、リヒャルト・シュトラウスの交響詩、マーラーのいくつかの交響曲に加えて、ブラームス陣営から出発したツェムリンスキーやシェーンベルクですらも後には交響詩を手懸けました。
一方、リストなどのピアノのヴィルトゥオーソはオペラのアリアやシューベルトらの歌曲を編曲・改作して器楽曲へと仕立て直します。マーラーの交響曲では、自作歌曲と密接な関連を持つものも多く、しばしばオーケストラ伴奏歌曲やオラトリオ・カンタータと融合したような例も見られます。歌劇においては、バロック・オペラや古典派のオペラで確立されたさまざまな形式が緩められ、うち壊され、互いに溶け合う傾向にありました。ギリシャ神話のようなヨーロッパにとって普遍的な題材よりも、各民族の神話や民話・伝説・歴史に題材が求められました。ワーグナーの楽劇において、この傾向は頂点に達します。ワーグナーの作品では、アリアや合唱(重唱)、レチタティーヴォ、器楽曲を互いに切り離すことは出来ません。その代わりにあるのは連続した音楽の流れです。
別の変化も浮かび上がります。カストラートの衰退によってテノールを主役に配置することが定式となり、合唱はいっそう重要な役割を与えられます。また、のちには歴史的・神話的な題材よりも現実的な題材を好む傾向も生まれました。フランスでは、ビゼーの《カルメン》などが書かれ、イタリアでは1890年代になると「ヴェリズモ・オペラ」が創り出されます。ツェムリンスキーやシュレーカーらが世紀末のウィーンで現実的な題材に挑み、とりわけコルンゴルトの《死の都》は第一次世界大戦後のドイツ語圏で人気がありました。
さらにロマン主義の時代には、特定の国と特別の関係で結ばれた音楽を作曲したような「国民楽派」の作曲家が、現れてきました。たとえばミハイル・グリンカの歌劇がとりわけロシア的であるとすれば、ベドジフ・スメタナやアントニーン・ドヴォルジャークの歌劇はチェコの民族舞曲のリズムや民謡の主題を利用しています。19世紀後半には、ジャン・シベリウスがフィンランドの叙事詩『カレワラ』に基づく楽曲を遺したし、交響詩《フィンランディア》は、フィンランド民族主義の象徴的な楽曲となっています。
ロマン派音楽においては、楽器法の開発も重要でした。ベルリオーズのような作曲家はかつてない手法で管弦楽法を施し、改めて管楽器を目立たせます。従来は滅多に利用されなかったピッコロ、コーラングレ、オフィクレイド、チューバ、ハープのような楽器を取り入れて、標準的とされるオーケストラの規模は膨れ上がります。ワーグナーとブルックナーはワグナーチューバも重用します。より大編成のオーケストラの利用に加えて、ロマン派音楽の特色として挙げられる点は作品が長くなりがちだったことでした。ハイドンやモーツァルトの典型的な交響曲は演奏時間が25分程度しかありませんが、一般にロマン派音楽の開始に位置付けられるベートーヴェンの《交響曲第3番「英雄」》は40分程度の長さでした。とりわけブルックナーやマーラーの交響曲において大作化の傾向は頂点に達します。尚、マーラーの《交響曲第8番》では膨大な人数の合唱と演奏者が指定されたことにちなんで、「千人の交響曲」と呼ばれます。
ロマン派音楽の時代は、楽器演奏のヴィルトゥオーソ(名人)の台頭する時期でもありました。ヴァイオリニストのニコロ・パガニーニは19世紀初頭のスターのひとりでしたが、その名声は大抵の演奏技巧と同じくカリスマ的資質に由来するものです。リストは非常に有能な作曲家であっただけでなく、たいへん人気の高い名ピアニストでした。 このようなヴィルトゥオーソの出演する演奏会は、作曲家よりも大人数の聴衆を呼び込みがちになりました。