キリスト教のなりたち
♪キリスト教とは、指導者イエスを救世主(キリストあるいはメシア)として認め、さらにその復活を事実として信じる集団です。
このイエスという人は、今から2000年余りの前のローマ帝国が支配するパレスチナのユダヤ教を信じる人々のあいだで、神の言葉が人を支配するような新しい時代としての「神の国」の到来という考えを中心に教えを広め、悔い改めて、この福音(良い知らせ)を信じるように説きました。
激しく攻撃されたユダヤ教の祭司たちはローマ総督にイエスを告発し、イエスは叛逆の罪で十字架刑に処せられました。しかし、イエスの処刑でいったんは離散した信者たちは復活の証言のもとに集まり、イエスをキリストとする教会を形成しました。イエスの死後に起こった弟子の運動(初期キリスト教運動)が、キリスト教の直接的な起源となったのです。
♪最初はユダヤ教の内部における改革運動の一つにすぎず、信者はユダヤ人だけでした。この時期のキリスト教徒はユダヤ教との分離の意識をもたなかったとされ、西暦70年のエルサレム神殿崩壊後、ユダヤ教から排除され、またキリスト教徒のほうでも独立を志向してキリスト教としての自覚をもつようになりました。さらにユダヤ人エリートとしての迫害する立場から復活のキリストに出会って回心した結果、キリスト教信者となったパウロによる宣教の後は、ユダヤ人以外への異邦人伝道が積極的に行われて世界へ広がりました。ローマ帝国治下でキリスト教は、既存のミトラ教などと相容れず、また皇帝崇拝を拒んだため社会の異分子とみなされ、国家に反逆する禁教とされ、パウロやペテロを初めとする使徒がローマで殉教し、信徒もまた何度かの弾圧を経験します。しかし4世紀初めにコンスタンティヌス1世により公認され、その後テオドシウス1世によりローマ帝国の国教とされ、キリスト教以外の他宗教(ミトラ教など)を圧倒し、ヨーロッパでも支配的な宗教となっていきます。
♪初期のキリスト教会では、監督・長老・執事などが、司牧という信者を導く仕事をしていました。2世紀初頭には都市に教会行政の長としての主教がおかれ、いくつかの教会を統括しました。また主教の祭式を助けるものとして執事が置かれました。そうして主教(司教)・司祭・輔祭(助祭)の三つからなる聖職者制度が成立しました。
後に司祭の牧会区を小教区と呼び、小教区がいくつか集まって主教が統括する区域を教区と呼ぶようになりました。さらにいくつかの教区をまとめる大教区や管区が置かれ、大主教や府主教が選ばれました。こうした教区制は、ローマ帝国の行政区分に応じていたのでローマ、アレキサンドリア、エルサレム、アンティオキア、コンスタンティノープルなど大都市の教会が大きな影響力を持つようになり、なかでもローマ教会はローマ帝国の首都教会として特別な地位を占めました。
♪キリスト教がこうした発展を続ける過程で、5回の大きな分裂を経験しています。
最初(1回目)分裂は4世紀半ばのアリウス派とアタナシウス派の分裂です。厳格な一神教論(唯一神教)に基づいて創造神である聖父のみ唯一神として神性を認めて被造物キリストの人性を主張したアリウス派は、神学・教義も強固だったうえ、最初のローマ皇帝の入信(コンスタンティヌス1世の受洗)やゲルマン人に多くの信徒を得るなど歴史的な意義も大きかったそうです。しかし325年第1ニカイア公会議で、三位一体論に基づいたアタナシウス派のキリストの両性(神性・人性)が正統教義とされアリウス派は異端とされました。その後もガリア地方などでゲルマン人の信徒を拡大して一時的に教勢は増したものの、やがてローマ教皇下でアタナシウス派が積極的な布教活動に出て、中世までにはゲルマン人がアリウス派からアタナシウス派(中世以降のローマ・カトリック教会)に改宗していったためアリウス派の教会・信徒は消滅してしまいました。
2回目分裂は、5世紀半ばのネストリウス派の排除です。ネストリウス派はキリストの両性を認めたものの神性・人性の区分を主張し、マリアは人性においての母であって、「キリストの母(クリストトコス)」とまでは認めても、「神の母(テオトコス)」というかたちでのマリア崇敬を拒否しました。431年エフェソス公会議でキリストの神性・人性は不可分という説が正統教義とされ、ネストリウス派は異端とされました。これは教義の問題だけでなく、むしろ政治的な事情により大きくよるものだそうです。ネストリウス派はローマ帝国を離れて、その後アジアで多くの信徒を獲得しました。ペルシア帝国内では、ゾロアスター教、マニ教に並ぶ大きな宗教勢力となり、中央アジアや中国(景教)にも伝道されました。一時は隆盛を誇りましたが、イスラム教の台頭により著しく衰退しました。今日、アッシリア東方教会等、中東を中心に少数の信徒がいるようです。
3回目分裂は東方教会におけるエジプトやシリアの教会といった非カルケドン派(東方諸教会、いわゆる単性論教会)の離脱でした。このなかには、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会などがあります。キリストにおいて人性は神性に吸収され一つの神性を持つという単性論は、451年カルケドン公会議で異端とされました。しかし、これらの教会は自らの教義を「単性論」とみなすことを否定しました。そういった事情から、現在では「互いに相違のない同じ信仰を、異なった表現で説明した為に起こった不幸な誤解と分裂」という認識が東方諸教会と両性説の教会の間で強くなってきているそうです。東方教会の分裂は、中近東地域でのキリスト教ひいては東ローマ帝国の弱体化につながり、やがて7世紀にはこの地方でイスラム教に勢力を奪われる結果となりました。
4回目分裂は東西教会の分裂(大シスマ)です。9世紀ごろから東西キリスト教会の対立が顕在化していましたが、1054年にローマ教皇とコンスタンディヌーポリ全地総主教がとうとう相互破門しあうことになりました。教義的には東方教会が聖霊の流出を「父から」とするのに対して、ローマ教会が「父と子から」と改変したこと(フィリオクェ問題)が原因とされますが、政治的な事情もあったようです。西方教会側からは分裂の主な要因を政治的・文化的な問題、つまり西ローマ帝国崩壊後に神聖ローマ皇帝の下に徐々に政治的に結集してきた西ヨーロッパ世界が、東ローマ帝国に独立・挑戦したこととみなす傾向が強いようですが、東方教会側は教皇首位説などについての教義的な要因を主なものと看做す傾向が強くみられます。
5回目の分裂は16世紀西方教会での宗教改革によるプロテスタント諸教会の誕生です。宗教改革によるプロテスタンティズムの誕生は、やがて近代ヨーロッパのヒューマニズム興隆や政教分離へと繋がっていきました。
こうして西・南ヨーロッパが使徒の後継者とみなされるローマ教皇を中心とするカトリック教会、東ヨーロッパはコンスタンティノープル(イスタンブル)総主教を権威としながら各教会が独立した東方正教会、中・北ヨーロッパでは聖書のみを権威として認めるプロテスタントが主流という大まかな地域分布となりました。
♪初期のキリスト教会では、監督・長老・執事などが司牧という信者を導く仕事をしていました。2世紀初頭には都市に教会行政の長としての主教がおかれ、いくつかの教会を統括しました。また主教の祭式を助けるものとして執事が置かれました。そうして主教(司教)・司祭・輔祭(助祭)の三つからなる聖職者制度が成立しました。
後に司祭の牧会区を小教区と呼び、小教区がいくつか集まって主教が統括する区域を教区と呼ぶようになりました。さらにいくつかの教区をまとめる大教区や管区が置かれ、大主教や府主教が選ばれました。こうした教区制は、ローマ帝国の行政区分に応じていたので大都市の教会が大きな影響力を持つようになり、なかでもローマ教会は帝国の首都教会として特別な地位を占めました。
♪カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に(広義の)福音主義を理念とするキリスト教の諸教派からなるプロテスタントは、1517年に贖宥状をめぐってマルティン・ルターが行ったローマ・カトリック教会批判から誕生しました。ルターはながらく罪や正しさ(義)の問題に苦しみ続けていましたが、ある時、行為によってではなく信仰によって人は義とされるという認識を得ました。いわゆる信仰義認です。カトリック教会の与える儀式や約束ではなく、神の恵みによってのみ人間は救われるのです。ですから、贖宥状という罪をお金であがなう行為は受け入れられなかったんですね。
ルターに続いて、スイス最初の宗教改革者としてスイス改革派教会の創始者で、チューリッヒに神聖政治を確立しようとしたツヴィングリが、「聖書のみ」を信仰の基準とし、信仰そのものが大事だと説き、万人祭司説を説きました。後に改革派とかカルヴィニズムで知られるカルヴァンが、ツヴィングリの後をついでさらに改革を進めました。
宗教改革の栄誉は彼らが担いましたが、それには、12世紀以来の教会改革の必要性や15世紀には聖書を重んじ、教会制度や聖餐を批判したウィクリフやヤン・フスの先駆者としての存在がありました。不幸にしてウィクリフやヤン・フスは、カトリック教会によって処刑されてしまいました。
♪ルターによる宗教改革は、ドイツに近いボヘミアにも伝わりました。具体的にはボヘミア兄弟団とウトラキズム信奉者が呼応したのです。それに対して、カトリックのハプスブルグ家はイエズス会を使った強引な弾圧を行いました。1618年から1648年にかけての30年戦争が拡大し、チェコ人のボヘミアはほぼ解体することとなりました。一方、もともとローマ教会との結びつきが強いポーランドでは、フス派運動の波及もなく、宗教的寛容の精神がゆきわたっていました。しかし、ドイツから波及するのは比較的遅かったものの宗教改革の影響が及び、中小貴族が反教権闘争の手段として利用しました。しかし、ボヘミアのような民衆レベルでの改革運動はありませんでした。そうじて、ボヘミア、ポーランドなど宗教改革が波及したスラヴ諸国では、大多数がカトリックへ引き戻され、プロテスタント的スラヴ圏と呼べるものは成立しなかったのが特徴です。
♪一方、同じくカトリックでハプスブルグ家の支配下にあったスロヴェニアにおいても、プロテスタント化は新約聖書のスロヴェニア語訳などとなって現れましたが、ハプスブルグ家とイエズス会による対抗改革によってプロテスタントは定着することはありませんでした。これと対照的なのがハンガリーです。16世紀に入ると宗教改革の波がとくにハンガリー領トランシルヴァニアに押し寄せ、ルーマニア人以外の民族にルター派が浸透しました。1560年代にはカルヴァン派が広がり、多数のハンガリー人信者を得ました。こうした状況のなかで、1564年トゥルダにおいて三民族の代表による議会が開かれ、カルヴァン派、ルター派に対してローマ・カトリックと同等の権利が与えられ、三民族に信教の自由が認められました。その後、単性論を唱えるユニテリアンがセケーイ人を中心として広がり、1571年にトゥルグ・ムレシュで開かれた議会でユニテリアンは4番目の「公認宗教」の地位を得ました。
♪宗教改革に対抗して、カトリック教会の側からも宗教改革が行われ、小教区を強化し、民衆信心を発達させ、教会にはびこった悪習を断ち切り、カトリック改革の原動力となった新しい修道会が創設されました。その中にはフランシスコ・ザビエルの来日や日本でも有数の大学をもつことで知られるイエズス会があります。バスク人イグナチオ・デ・ロヨラによって1534年に結成され、パウルス3世の認可を受けました。1545年から1563年まで三会期にわたっておこなわれたトリエント公会議の改革精神を体現するものでした。イエズス会を初めとする修道会は海外への宣教にとりくみ、おりからの植民地主義とともに世界へ進出しました。現在でもアフリカや南米などのかつての植民地では、カトリック教徒が多く存在しています。
この改革は16世紀のトリエント公会議を頂点とする教会内の改革刷新運動で、かつては「反宗教改革」という語が用いられていたが、近年、対抗宗教改革は宗教改革より以前に始まっていたとされ、カトリック改革とも呼ばれるようです。公会議ではプロテスタントの主張の一部が誤りであると定めて、中世教会が保持していた基本構造ともいえる秘跡の思想、修道会と特定の教義の重要性を再確認しました。教義ではプロテスタントに対して一切の歩み寄りをせず、従来の教義を再確認しました。公会議の決定で重要なことは救いにおける信仰と協働の関係を示し、伝承の重要性を認めたことでした。パンとワインの聖変化がシンボリックなものでなく、真にイエスの体と血に変化すると考える「実体変化」の思想が、秘跡とともに支持されました。また、宗教改革者が批判したカトリックの伝統的な信心である贖宥、巡礼、聖人や聖遺物への崇敬、聖母マリアへの信心などが霊的に意味のあるものとして再び認められ、この点でカトリック教会はプロテスタントにはっきりと一線を画すことになりました。
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