柳生宗矩
徳川三代家光は若い時分から柳生但馬守宗矩〔むねのり〕について剣術を学び、非常に優遇されていたが、世間の人は柳生はただ剣術だけで将軍家のお覚えがめでたいのだと皆思っていたが、その実は剣道によって政治を教えて居られたものと見え、家光は常におそばの人に、
「天下の政治は但馬守に学んで我れはその大体を得たのだ。」
と言ったそうである。
宗矩が老病重かった日、家光はわざわざその家に行って病気を見舞われたことがある。正保三年*三月、柳生が亡くなった時は、その頃にためしのない贈位の恩典があって、従四位下に叙せられた。宗矩が死んで後、家光は事に触れては、
「宗矩が世にあらば尋ね問うべきを。」
と、歎いて絶えずあとを慕っていたということである。
(常山紀談)
*1647年。