TOP‎ > ‎古武道書探訪‎ > ‎

「猫の妙術」現代語訳(上)

現代語訳 原文
勝軒という剣術者がいた。その家に大きなネズミが出て、真っ昼間に駆け回っていた。家の主人は戸やふすまを閉め切り、飼っていた猫にネズミを捕らせようとした。ところがこの大ネズミが、猫の顔に飛びかかって食いついたので、猫は鳴き声を挙げて逃げ去ってしまった。

これはいかん、と主人は思って、それから近郷近在の、ネズミ取りの名手と名が高い猫どもをたくさん捕まえてきて、ネズミがいる一部屋に追い込んだのだが、ネズミは床の隅に身を潜め、猫が来たなら飛びかかり、食いついてやろうとする殺気がすさまじく見えたので、猫どもはみんな尻込みして動かない。

主人は腹を立てて、自分で木刀を取り出して、ネズミを打ち殺そうと追いかけ回したが、斬りつけても抜けかわして木刀に当たらない。そこらの戸・障子・ふすまなどを叩き破るほど振り回しても、ネズミは空中を飛んで、その早さは稲妻が光るようなものである。どうかすると、主人の顔に飛びかかって、食いつこうとする勢いすらある。

勝軒は大汗を流し、下僕を呼んでこう命じた。「ここから六、七町(1町≒110m)先に、たぐいまれなすごい猫がいると聞いている、借りてこい。」というわけで、すぐさま人をやってその猫を連れてくると、見た目は役立ちそうにも見えず、それほどはきはきした猫にも見えない。

「そいつをまず、ネズミのいる部屋に追い込んでみよう」ということで、少し戸を開けて、その猫を入れたところ、ネズミはすくんで動かず、猫は何事もなく、のろのろと歩いて、ネズミを口にくわえて、引いて戻ってきた。
勝軒といふ剣術者あり。其家に大なる鼠出て、白昼にかけまはりける。亭主其間をたてきり、手飼の猫に執らしめんとす。彼鼠進て、猫のつらへ飛びかかり、喰付ければ、猫声を立て逃去りぬ。
此分にては叶まじとて、それより近辺にて、逸物の名を得たる猫ども、あまたかりよせ、彼一間へ追入ければ、鼠は床のすみにすまゐ居て、猫来れば飛びかかり喰付、其けしきすさまじく見へければ、猫どもみなしりごみして進まず。
亭主腹をたて、みづから木刀を提打殺さんと追まはしけれ共、手もとよりぬけ出て、木刀にあたらず、そこら戸障子からかみなどたたきやぶれ共、鼠は中を飛びて、其はやき事電光のうつるがごとし。ややもすれば亭主のつらへ飛かかり喰付べき勢ひあり。
勝軒大あせをながし、僕を呼て云、「是より六七町わきに、無類逸物の猫有と聞く。かりて来れ。」とて、則人をつかはし、彼猫をつれよせてみるに、其形利口げにもなく、さのみはきはきとも見へず。
「それ共に先追入て見よ。」とて、少戸をあけ、彼猫を入ければ、鼠すくみて、動かず。猫何の事もなく、のろのろとゆき、引くわへて来りけり。
その夜、ネズミを取り損なった例の猫どもが、勝軒の家に集まり、ネズミを捕った古猫を上座に招いて、いずれもお辞儀してこう言った。

「私どもはネズミ取りの名手と呼ばれ、その道に修練し、ネズミどころかイタチやカワウソでも取りひしいでやろうと、爪を研いでいたのですが、今だにこのような強いネズミがいたことを知りませんでした。あなた様は、いったいどのような術を使って、簡単にあのネズミを討ち取ったのでしょう。どうかおねがいです、惜しまず、あなた様の妙術をご教示下さい」と、神妙な顔つきで丁寧に申し上げた。

古猫が笑っていった。

「皆さんいずれもお若く、一生懸命にネズミ取りをなさったが、今だに正しいネズミ取りの法をお聞きになっていないから、思わぬネズミに出くわして、不覚をお取りになった。ま、それはそうと、まず皆さん方の、これまでの修業のほどをお伺いしましょう」と言う。
其夜件の猫ども、彼家にあつまり、彼古猫を、座上に請じ、何れも前に跪づき、「我々逸物の名を呼ばれ、其道に修練し、鼠とだにいはば、鼬獺なりとも、とりひしがむと、爪を研罷在候処に、いまだ、かかる強鼠ある事をしらず。御身何の術を以か、容易く是をしたがへ給ふ。願わくは、惜しむことなく、公の妙術を伝へ給へ。」と謹面申ける。
古猫笑て云、「何れも若き猫達、随分達者に働き給へども、いまだ正道の手筋をきき給はざる故に、思ひの外の事にあふて、不覚をとり給ふ。しかしながら、先各の修行の程をうけ給はらん。」と云。
猫どもの中から、鋭そうな黒猫が一匹進み出て、こう言った。

「私は代々ネズミ取りの家に生まれて、その道に心がけましたので、七尺の屏風を飛び越え、小さい穴もくぐり、子猫の頃より、早業・軽業で出来ないと言うことがありません。例えば寝たふりをしてだまし、あるいは不意に飛び起きて、家の梁・桁を走るネズミであろうとも、取り損なったことはありません。それなのに、今日は思いも寄らぬ強いネズミに出くわし、一生の後れを取ってしまい、心外の至りでございます。」

古猫はこういった。

「ああ、お前さんが修業したのは、技法だけだ。だから、今だにネズミを狙う欲心が抜けていない。昔の人が技法を教えたのは、勝とうとするその欲から自由になる道筋を、分からせてやろうとしたからだ。だから技法というものは、単純でやさしそうに見えても、その中に究極のことわりを含んでいるのだ。

それなのに後世になると、技法ばかり修業するようになって、どうかすると、色々余計なことをこしらえて、技の上手さを極めては昔の人を馬鹿にし、自分の技量にまかせてやりたい放題、はては技くらべということになり、その技巧がどこまでも進んで、どうしようもなくなっている。

つまらない者が技のうまさを極め、技法のみに頼るというのは、みなこのようなものだ。確かに技法は心の働きだから、心と技法は無関係ではない。しかし正しい道に基づかないまま、単に技巧をこらすばかりでは、偽物の道に陥るきっかけになってしまう。こういった技法の使いようは、却って害になることが多い。だから今言ったことをもとに反省し、よくよく工夫しなさい。」
其中にすすどき黒猫一疋すすみ出、「我鼠をとるの家に生れ、其道に心がけ、七尺の屏風を飛び越、ちいさき穴をくぐり、猫子の時より、早わざ軽わざ至らずと云所なし。或は、眠て表裏をくれ、或は不意におこつて、桁梁を走る鼠といへども、捕損じたる事なし。然るに今日思ひの外成強鼠に出合、一生のおくれをとり、心外の至りに侍る。」
古猫の云、「吁汝の修する所は、所作のみ。故にいまだ、ねらう心あることをまぬかれず。古人の所作を教るは、其道筋をしらしめんため也。故に其所作、易簡にして、其中に至理を含めり。
後世所作を専として、兎すれば角すると、色々の事をこしらへ、巧を極め、古人を不足とし、才覚を用ひ、はては所作くらべといふものになり、巧尽て、いかむともすることなし。
小人の巧を極め、才覚を専とする者、みなかくのごとし。才は心の用なりといへども、道にもとづかず、只巧を専とする時は、偽の端となり、向の才覚却而害に成事おほし。是を以かへりみ、よくよく工夫すべし。」
また虎毛の大きな猫が一匹まかり出て、こう言った。

「俺が思うに、武術は気を尊ぶから、長いこと気力を練ってきた。今やその気力は広々として力強く、天地に満ちるほどだ。

その気力を使って、まず心眼で敵であるネズミを足元に踏みつけ、気で勝ちを取っておいてから、その後に体を動かす。声に従い、響きに応じているから、ネズミが左右どこにいようとも、その変化に対応できないことはない。このように型に頼らなければ、型は自然に湧き出てくるものだ。だから高い梁や桁を走るネズミは、にらみ落としてこれを捕る。

それなのにあの強いネズミは、向かってくるにも姿かたちが無く、逃げ去るにもその気配を残さない。あれはいったい何者なのだ。」

古猫が言う。

「お前さんが修業したのは、気力の勢いにまかせた上で、はじめて役に立つやり方だ。それは自分の自信を頼みとしなければ成り立たず、最善のものではない。

こちらが撃ち破ってやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。だが破ろうにも破れない相手が出てきたらどうだね?

こちらが相手をしのいでくじいてやろうとすれば、敵もまたそうしようとする。しのぐにしのげない相手が出てきたらどうだね?

どうして、自分ばかり強くて、敵はいつも弱い、なんてことがあるだろう?

自分の気力が、広々として力強く、天地に満ちるように思えるのは、お前さんの体や心がその一つであるような、万物を形作っているモトが、たまたま、強そうな形になっているだけだ。だからお前さんのは、孟子先生が言う浩然の気に似ているようで、実は全然違う。

浩然の気とは、宇宙の真理を体得した者が、強く健やかでいることだ。お前さんのは、ものごとの勢いに乗って、たまたま強そうに見えるだけだ。だからそのはたらきは、浩然の気と同じではない。普段の穏やかな川の流れが、偶然一夜にして洪水になるようなものだ。そんな勢いにも、屈しない者が出てきたらどうするね?

追い詰められたネズミが、かえって猫を噛むということはあるものだ。そういうネズミは、必死の勢いで、自分を頼みにすることがない。自分の命も忘れ、欲を忘れ、勝ち負けももはや気にしない。この身を全うしようという気持ちもない。だからその意志たるや、鋼鉄のようである。このような者を、どうして気力の勢いで破ることが出来よう。」
又虎毛の大猫一疋まかり出、「我おもふに、武術は気然を貴ぶ。故に気を練る事久し。今其気豁達至剛にして、天地に充るがごとし。
敵を脚下に蹈み、先勝て然して後進む。声に随ひ、響に応じて、鼠を左右につけ、変に応ぜずといふことなし。所作を用るに心なくして、所作をのづから沸出づ。桁梁を走る鼠は、にらみおとして、是をとる。
然るに彼強鼠、来るに形なく、往に迹なし。是いかなるものぞや。」
古猫の云、「汝の修練する所は、是気の勢に乗じて働くもの也。我に恃むこと有て然り。善の善なるものにあらず。
我やぶつて往むとすれば、敵も亦やぶつて来る。又やぶるに、やぶれざるものある時はいかん。
我覆つて、挫がんとすれば、敵もまた覆つて来る。覆ふに、覆はれざるものある時はいかむ。
豈我のみ剛にして、敵みな弱ならんや。
豁達至剛にして、天地にみつるがごとく覚ゆるものは、皆気の象なり。孟子の浩然の気に似て、実は異也。彼は明を載せて、剛健也。此は勢に乗じて、剛健なり。故に其用も亦同じからず。江河の常流と、一夜洪水の勢のごとし。且気勢に屈せざるもの、ある時はいかん。
窮鼠却て猫を噛むといふことあり。彼は、必死に迫て恃む所なし。生を忘れ、欲を忘れ、勝負を必とせず、身を全するの心なし。故に其志金鉄のごとし。かくのごとき者は豈気勢を以服すべけんや。」
次に、灰色の少し年取った猫が、静かに進み出てこう言う。

「おっしゃる通り、追い詰められたネズミの気勢は盛んではあっても、やはりその姿は消すことが出来ません。姿がある者はいくら小さくても、必ず見ることが出来ます。

私は心を練ってから長くなります。勢いを張ることもなければ、何ものとも争わず、互いになじんで離れず、相手が強がるときは、なじんでそれに従います。

私の術は幕を張って、ふわりと石つぶてを受け止めるようなものです。いくら強いネズミが来ても、私に挑もうにも手がかりがありません。

ところが今日のネズミは、勢いにも屈しませんし、なじもうとしても応じません。その振る舞いはまるで神のようです。こんなのは、見たことがありません。」

古猫が言った。

「お前さんのなじむというのは、欲得なしになじむというやつではない。なじんでやろうとしてなじんでいるに過ぎない。

敵の鋭気をかわそうとしても、少しでもかわしてやろうと心に思えば、敵はその気配を察する。

なじもうとする欲を持ったままなじめば、心が汚れてしまって、単にだらけているようにしか見えない。欲を持ったまま事を行えば、本来は自然に感じることができるはずの感覚が、感じられなくなってしまう。

この自然な感覚をふさいでしまえば、精妙な働きが、どうして生まれようか?

ただ思うこともなく、することもなく、この感覚に従って動くときには、自分には姿というものがない。姿がなければ、天下に、自分にかなう者はいない。」
又はい毛の少年闌たる猫、しづかに進て云、「仰ごとき気は旺なりといへども、象あり。象あるものは微也といへども見つべし。
我心を練ること久し。勢をなさず、物と争ず。相和して戻ず。彼つよむ時は、和して彼に添。我が術は帷幕を以、礫を受るがごとし。強鼠有といへども、我に敵せんとしてよるべき所なし。
然るに今日の鼠、勢にも屈せず、和にも応ぜず、来往、神のごとし。我いまだかくのごときものを見ず。」
古猫の云、「汝の和といふものは、自然の和にあらず。思て和をなすもの也。
敵の鋭気を、はづれむとすれども、わづかに念にわたれば、敵其機を知る。
心を容て和すれば、気濁て惰にちかし。思ひてなす時は、自然の感をふさぐ。
自然の感をふさぐ時は、妙用何れの所より生ぜんや。只思ふこともなく、することもなく、感に随て動く時は、我に象なし。象なき時は、天下我に敵すべきものなし。
(下)へ続く