通説の誤り:疋田系新陰流の体系は誰が作ったのか?

上泉信綱より疋田豊五郎への伝書

疋田系新陰流の目録※は、柳生家や西一頓系、丸目蔵人佐系新影流で発給されていた目録とかなり違う内容となっていることが知られています。

このことは下川潮『剣道の発達』でも他系の新陰流目録と比較されているため、新陰流について書かれる際には言及されている事があります。

ところで、その目録内容が、「上泉信綱より疋田豊五郎への太刀目録」として紹介されている事が多くあります。一例として赤羽根龍夫「新陰流(疋田伝)の研究」(p4-5)の部分では「信綱が疋田豊五郎に伝えた太刀目録」と記載されています。他の書籍や雑誌記事、WEB上の書き込みでも同様の誤解を見ることが出来ます。

これは初出である『剣道の発達』で「上泉より疋田文五郎に傳はる新陰流の目録」と各派の目録比較表に書かれたため、これが上泉信綱から疋田文五郎に伝承された目録と思われる向きがありますが、この表が書かれている前頁を確認すればわかるのですが、これは疋田豊五郎の弟子、山岡太郎右衛門が嶋田氏へ寛永五年に発給した目録の内容であり、上泉信綱より疋田豊五郎へ発給されたものではありません。

『剣道の発達』をよく読むと、p175には

及び上泉武蔵守より疋田文五郎に傳はり、更らに山岡太郎右衛門を経て嶋田佐源太に(寛永五年)傳はりし疋田新影流の目録等を比較研究すれば、略ぼ上泉の傳へし技術を推知し得ると同時に、

とあり、また同p175-176には

されば左に此等の術名表を作成して比較研究の便を計り、併せて二三の注意すべき点のみを述べ其技術の一々につきて解釈は之を略し

として、各派の目録比較表が乗せられています。

ところがその次、同p176に

上泉より疋田文五郎に傳はる新陰流の目録

とあるため、後に引用した方々が早とちりをして、この山岡太郎右衛門の伝書を上泉信綱発給のものとしてしまったと思われます。

なお、『剣道の発達』附録p43~46に山岡太郎右衛門発給の目録が掲載されています。

引用元

国立国会図書館デジタルコレクション「剣道の発達」p174-175

疋田系新陰流の体系はだれが作ったか?

前述の誤りや、疋田豊五郎が上泉信綱初期の門弟であること、また甥であることなどから、疋田豊五郎の新陰流の体系は上泉信綱初期の体系であり、新陰流の正統の技法である、とする説を提唱される方も見受けられます。(赤羽根先生の「新陰流(疋田伝)の研究」もそれに近い考えで書かれているようです。)

ですが、現在残っている疋田系以外の各派(※)の古い新陰流伝書を比較してみますと、どの系統も燕飛、三学、九箇、天狗書(および丸橋)などの内容は柳生家の目録と似通っています。

ですが、『剣道の発達』にあるように、疋田系は他の系統と比較してかなり体系、太刀名(形名)が違います。右の表は各派の目録についておおよその比較したものです。表にある通り、猿飛以外の部分では、一部の名称が同じである以外は、ほとんど共通点がありません。

ただ、流派の体系や形の名称が違うだけでは、元々の新陰流が疋田系のものであり、他の弟子は上泉信綱が流派の体系を改変したものである可能性も考えられます。そこで疋田豊五郎の伝書の内容を見ると、以下のような内容があります。疋田豊五郎が発給した印可状には

上泉武蔵守極意並びに栖雲斎数年鍛錬を以て組み立て候一流の秘書」(新陰流(疋田伝)の研究 p73)

とあります。また紅葉観念の巻に

予多年心掛け常に摩利支尊天に祈誓その上数師取り寸暇を得ず鍛錬工夫実に神慮に依り観応この目着を見だし鈎極の一剣夢中に於いて蒙る

とある事などから、疋田系の体系は疋田豊五郎が上泉信綱の教えに加えて、何人もの師(おそらく新當流雲林院松軒や念流の師など)に就いて学んだもの、さらに自身の工夫を加えて新たに体系立て成立したものとして良いと考えます。


(※)「剣道の発達」に西一頓系のもの、福井藩に伝わった松田織部系の新影流伝書(個人蔵)、タイ捨流を名乗る前の丸目蔵人佐系の新影流伝書(長崎県立博物館)、神後伊豆守系の伝書(個人蔵)などの新陰流伝書を比較


参考文献

河尻左馬亮「新影流」長崎県立博物館蔵,1583

疋田豊五郎「新陰流兵法目録」永青文庫,1600

柳沢善六衛門「神影流目録免状」個人蔵,1649

横山藤八郎「新影流伝書」個人蔵,1860

下川潮「剣道の発達」大日本武徳会,1925

柳生厳長「正伝新陰流」島津書房,2004

赤羽根龍夫「新陰流(疋田伝)の研究」基礎科学論集 : 教養課程紀要,神奈川大学,2007

(2019年5月27日公開)