McVean in the Public Works 1871-73.工部省のマクヴェイン

Started in January 1, 2011, revised in October 25, 2019.

CHAPTER I. Support to Yozo Yamao山尾庸三への支援


1-1. Vulcan Foundryヴァルカン鉄工所

・灯明台掛を1869年10月に辞職するとともに鉄工所を始める[MVA: Diary 1869]。横浜に留まったのは、「まもなく日本政府は全国測量地図作成に乗り出すはず」というシルヴィア号副艦長ウィリアム・マックスウェルの助言による。

・マクヴェインの鉄工所はヴァルカン鉄工所Vulcan Foundryといい、ルーシィ社が所有していた[Directry 1869]。ルーシィ社にはブリジェンスBridgens、ウィットフィールドWhitefield、ドーソンDowsonが所属し、他に独立技術者のウィッテンEarnest Wetten、スメドレーJohn Smedley、ハートHartらと協力関係にあった。マクヴェインはアーネスト・ウィッテンと共同してこの鉄工所を購入した[MVA: Memo1871]。

・1869年9月から10月まで、妻のマリーが日記を付けているが、「コリンは鉄工所ビジネスで毎日忙しくしている」と書いているのみで、後述する大平丸の購入と修理以外にいったいどんな仕事をしていたのかは不明である。1869年暮れにウィットフィールド&ドーソン社が横浜ソニックホールの設計をしており、マクヴェイン自身がフリーメイソンであったので、これに関わっていたと思われる。しかし、仕事はそう順調でなかったらしく、父からスコットランドに戻ってきてどうかとの手紙を受け取ったこともあった[MVA : 1870 Leters from Father]。


1-2. Meeting with Yamao山尾庸三との出会い

・マクヴェイン経営のヴァルカン鉄工所は、横浜港に立ち寄る船舶の修理や横浜外国人居留地の鉄工関連業務の他、明治政府が幕府から引き継いだ横浜製鉄所とも業務関係があった。明治政府は幕府海軍の艦船を引き取り、横須賀製鉄所や横浜製鉄所で修理しようとし、1869年早々、その事務担当にはグラスゴー帰りの山尾庸三が就任した。旧幕府海軍の太平丸は、旧名を鯉魚門Lyeemoonといい、1860年代世界で最速の蒸気クリッパー船であった[Barry 1863: 299]。榎本艦隊とともに箱館に向かうはずが、機関が故障し、江戸湾で新政府軍に拿捕されてしまった。そして、明治政府軍はこれを修理しようと横須賀製鉄所に持ち込んだ。しかし、山尾は横須賀製鉄所で大平丸の故障を修理できないと判断し、外国人に売却することにした。船体はしっかりしており、横浜・横須賀の両製鉄所に出入りするマクヴェインはブランデルらとともにお金を出し合い購入することにした[MVA Diary 1872]。

・大平丸の修理と購入をめぐって山尾と話し合う中で、マクヴェインは山尾がグラスゴーなまりの英語をしゃべることに気付き、彼がグラスゴーで何をしていたのか興味を持った。コリン・ブラウンという篤志家の家に下宿し、ネピア造船所で技術研修を受けてきたと言い、この話が本当なのかマクヴェインはすぐに父親に手紙を書き、確認をとってもらった。山尾の話は本当で、コリン・ブラウンColin Brownに世話になりながら毎日朝早くからネピアー造船所に向かい、夕方には夜学に通い、そして日本に帰国してからの夢を語っていたという。ブラウンは、マクヴェインの父親を通して山尾が夢を実現しつつあることを知って大変喜び、それをヒュー・マセソンHugh Mathesonに伝えた。山尾がグラスゴーで技術研修を受けることになったのはこのマセソンからの便宜であり、マセソンはこのブラウンの親友であった[Dykes 1899: 30-31]。ブラウンとマセソンはこのようにして2年ぶりに山尾の消息を知ることができ、山尾の活躍を喜び、お互いに文通をすることになった。

・ヒュー・マセソンはジャーデン・マセソン商社の創始者の一人であるウィリアム・マセソンの甥であり、同社の経営に参画はしていたが、彼自身はマセソン商会を経営していた。敬虔なクリスチャンで、エジンバラのロイヤル・ハイスクールを卒業すると、グラスゴーで貿易業の徒弟制研修を受けた。この時、コリン・ブラウンと親しくなり、週末にはさまざまな施設で奉仕活動をしてた。ブラウンがアンダーソニアン・カレッジの音楽教師をしていたので、スコットランド民謡や聖歌をよく歌っていた。ブラウンは同カレッジの経営にも関わりながら、スコットランド民謡研究者としても名を挙げ、ピットマンと一緒に『スコットランド歌曲集(1874年)』を出版し、またハーモニュウムという鍵盤楽器を開発した。歌曲集には「蛍の光」も入っており、山尾が日本にこの歌曲を伝えたという言い伝えには信ぴょう性がある。


1-3. Father's Suggestion "Support the Hero"ヒーローを支えよ!

・ブラウンの手紙の内容は大変興味深いもので、一つは山尾はクリスチャンになって週末には一緒に奉仕活動をしていたといい、山尾はそれを日本では公表することはないであろうと語っている。もう一つは、山尾は手が器用でブラウンの子供達に竹とんぼなど日本のおもちゃを作ってよく遊んでくれたと語っており、山尾はブラウン一家と本当に親しくしていた[MVA : Rev. McVean's Letter 1871]。30歳になろうという山尾が大きな夢を抱きながらグラスゴーの空の下での2年間、ブラウン一家が支えとなり、またキリスト教が心の安らぎになっていたのではないかと思われる。

・山尾の人物に対してブラウンから太鼓判を押され、マクヴェインの父は夢を実現している山尾をヒーローと呼び、息子に全面的に彼を支えるように助言した。マクヴェインと山尾と膝を交えて話し合い、マクヴェインは測量地図作成の重要性を説き、また山尾は工部省発足のための問題点を語った。

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参考文献

1) P. Barry, Dockyard Economy and Naval Power, 1863.

2) Rev. J. Oswald Dykes, Memorials of Hugh M. Matheson, London, 1899.

 1871年12月31日 長応寺

親愛なるパパ、

   新年のご挨拶をしたかと思いますが、明日は元旦で、郵便物も明日届きます。私は新しい職場でとても快適に過ごしています。新しい友人の山尾と同じように、私たちはちょうど今、私たち自身の長期休暇を過ごしています。ミカドは先祖を祀っており、天皇の一生に一度しかない、偉大な祭りです。

   金曜の夜には、各官庁が外務官僚を集めて夕食会を開きました。 私たちは、山尾や他の公共事業局の職員たちと工部省で食事をしました。日本人全員が礼服を着ての盛大なものでした。彼らはまるで高僧のようでした。ドレスは色とりどりの美しい絹のちりめんで、頭には変な形の帽子をかぶっていました。山尾の似顔絵をお見せしようと思いますが、彼の良いイメージをお伝えするのは簡単ではありません。ローブ姿の写真を撮って、あなたに送ろうと思います。私たち自身と子供たちの写真も撮らなければなりませんが、ここで撮るのはかなり難しいことです。

   前回のアメリカ便では、花の種とユリの球根を送りました。また、私たちが送ったお金もすべて無事に受け取ったと思います。彼女たちがしばらく我慢するのは正しいと思いますが、事態が好転しない限り、あまり長くはしないほうがいいでしょう。コリン

Choöji.  31st Decr  /71

My dear Papa,

   I think we wished you all a happy New Year sometime ago but do so again as tomorrow is New Year’s Day and the mail comes tomorrow.

   I am getting on very comfortably in my new office, and like my new friend Yamao very much we are having long holidays just now our own and a great Japanese Festival come together. The Mikado has been worshipping his ancestors. It is a great Festival and happens only once in the Emperor’s life.

   The different Govt offices have been giving dinners to all their Foreign officers on Friday night.  We dined with Yamao and the other Public Works Department officers at the Cobusho. It was a grand affair all the Japanese in their robes of ceremony. They looked very queer more like High Priests than anything else. Their dresses were very handsome all beautiful silk crape of different colours and they had high hats of a funny shape on their heads. I will try and give you a sketch of Yamao but it will be difficult to give you a good idea of him. I will try and get a photograph of him in his robes and send it to you. I must also try and get a photograph of ourselves and the children, but it is rather difficult to get it done here.

   I sent off my last American mail a box of flower seeds and some lily bulbs which I hope you will get all safe and will do well in your new garden. I hope that before now you have got a comfortable carriage of some sort and a good strong one with good harness, and also that you will get the money we sent all safe and that you will find it usefull. I think the girls are right in holding on for while but they should not do so too long unless things mend. also Anne should not do anything for at least a year.


CHAPTER II. Foundation of Public Works and Survey Office工部省と測量司の創設


2-1. Yamao's "My Sulliy Consideration"山尾の『愚考』工部省の組織案

・工部省は、明治3年閏10月20日(1870年12月12日)、鉄道建設の主任技術者のエドモンド・モレルの提案をもとに、大隈重信と伊藤博文と後押しで発足が決まったが、それがどの部局を管轄すべきか、さらに部局の頭に誰にすべきか太政官はまとめきれずにいた。すでに民部省のもとで鉄道や灯台は動き出しており、これらはすんなり工部省移管が決まったが、造船、製鉄、造幣などは宙に浮いたままだった。この状況下、山尾は制作年月日を18日とする工部省組織案を『愚考』と題して大隈に建議した。この案の特徴は、第1は各部局は日本人管理者と外国人実務者が対になって運営するとし、部局毎の日本人名候補を挙げた。第2は民部省下になかった工学教育部局と測量部局を新たに付け加えてあった。技術学校の創設はモレルが強く主張したものであるが、一方、測量部局は「ブラントンと不和にて当時御暇」していた外国人の提案であったらしく、その人物を外国人実務者に推薦している。これはマクヴェインに間違いない。

※日付は18日とあるだけで年月は不明である。

愚考之廉々御含迄ニ左ニ申上候 

井上--右鉱山専務 

佐野--右灯灯明台専務 

小野--右庶務専務 

吉井--右諸規則取調並ニ学校専務 

山尾--右造船製作専務 

帰省中--松尾 右会計専務 

未タ奉命前 福谷--右伝信掛専務 

右之外有用之仁--二名 

右エキスキューチンク専務壱名 同マネジャ専務壱名 

但マネジャ者上野を待て可也乎 壱名 

右要地測量専務尤洋人壱名御雇入ニ而成年生徒数名手伝候ハ、修業ニも相成可然乎巳ニ灯明台之為の英政府より遣候仁ブラントンと不和ニて当時御暇ニ相成居ソ之仁壱ヶ年程御試ニ而ハ如何乎且東京ヨリ神奈川辺測量を手始めとして可也 

大隈参議様 山尾庸三 十八日付 


2-2. Survey Office測量司の発足

・愚考の最後には、「要地測量専務」として「洋人壱名」を「御雇入」れ、「成年生徒数名」を「手伝」として雇い「修業」させる。この任務には「灯明台之為の英政府より遣候仁ブラントンと不和ニテ当時御暇ニ相成居ソ之仁」に、「壱ヶ年程御試」に「東京ヨリ神奈川辺」を測量を手始めとして」やらせようと述べている。マクヴェインの雇用を前提に書かれており、この事業と部局はマクヴェインから提案されたことは間違いない。測量学校により技員を要請しようとしており、そこには旧幕臣の、特に旧海軍における測量経験者の登用は考えられていなかった。このことは後になって工部省測量司を苦境に陥れることになる。

図1.モレルの「建築局」構想(1869年8月頃)と実現した工部省(1871年10月20日)

・明治4年8月14日(1871年10月20日)になってやっと10寮1司の構成と担当部長が決まったが、それは明治政府が御雇外国人の力を借りて実施している技術関連事業を集めたものであった。山尾は当初の希望と異なり、工学寮と測量司の長を務めることになった。おそらく、この新設された二つの部局を希望する人物がおらず、工部少輔でもある山尾がやらねばならなかったのであろう。マクヴェインは父親から山尾を支えるように指示され、自らの能力の限り最大の支援を行った。山尾が急務としたのは工学寮工学校の開校であり、測量司は建築営繕を兼務していたので、マクヴェインはまず優先的に校舎建設を進めたが、工学校教育課程編成と教師雇用については門外漢を通したようだ。モレルが生きている間に、彼が持っているチャンネルで教員採用人事を進めていたと思われ、それは彼が学んだキングス・カレッジ以外に考えられない。残念なことに、モレルが急逝してしまい、山尾は別に助言者を探さなければならず、それが再び文通するようになったヒュー・マセソンであったと考えられる。


2-3. Engineering Institution and Engineering College工学寮と工学校

・マセソンは、前述したように山尾と旧知で、当時マセソン商会Matheson & Co.の社長を務めると共に、ロンドン大学のWilliamson教授などの教育界にも多くの友人がいた。ロンドン郊外のカレッジの理事長をも務めていた。

・既往研究では工学寮工学校の教師団雇用ははじめからヒュー・マセソンに頼ったように言われているが、実はそうではなく、前述したようにモレルの雇用計画が彼の急死によって頓挫してしまい、その後工学寮頭の山尾はヒュー・マセソンに頼ることになった。しかし、山尾はマセソンなら窮地を救ってくれるであろうとなぜ考えたのであろうか。確かに、マセソンはスコットランド産業界及び教育界に多くの知人がいたが、しかし日本の工学校創設にどれだけ力になってくれるかは未知数であった。マクヴェイン文書では彼が工学校校舎建設の担ったことは書き記されているが、教師団の任用については何も述べていない。不思議なのは、マクヴェインの妻側の縁者には多数の教育者がおり、その一人である元グラスゴー大学シビル・エンジニア教授のルイス・ゴードンになぜマクヴェインも妻のメアリもアプローチしなかったのであろうか。ゴードンはウィリアム・ランキンの前任者で、グラスゴー大学退職後、エジンバラで技術事務所を経営していた。ゴードン以上に日本の工学校設立にとって最適のアドバイサーはいなかった。マセソンとゴードンの回想録によれば、マセソンは伊藤博文から正式の依頼を受け、その後、友人のゴードンに相談し、さらにゴードンからランキンに支援依頼が寄せられたことになっている。実は、マクヴェイン親子を通して山尾はマセソンと再び文通するようになり、窮地に陥っていた教師団任用を相談していたと考えられる。

CHAPTER III. Setting up of Survey Office and Public Building Division測量司と建築営繕の準備

・工部省は、工学寮と測量司を除くと既設の技術系プロジェクトの実施母体を集めたに過ぎず、そこにはすでにお雇い技術者がいたので、彼らが必要な施設の建設を行った。

・山尾は工学寮と測量司の長官に就任し、彼の下に最初に雇われたマクヴェインに主務である測量だけではなく公共建築の営繕をも任した。測量司の英語名Survey OfficeあるいはSurveyor's Officeは技術的な事業を広く行う部署であり、建築営繕を任務に含めることは不自然なことではない。


3-1. Appointments人員配置

・建築営繕にもしても測量にしても、すぐにやらなけれならないのは組織作り、すなわち技術員の雇用であった。ヴァルカン鉄工所で一緒に仕事をした民間技術者や、鉄道や灯台の建設のために雇われていた外国人技術者の中から適切な人物を探した。当時、最も多くの外国人を雇用していたのが鉄道寮で、そこから多芸多才のジョイナーを測量司に引き抜いた。日本で出会って半年ほどしかたっていなかったが、年齢も近く、考え方や趣味に共通点が多く、公私にわたって活動を共にし、生涯の友となった。ついで、親戚のグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスに若手建築師の推薦を頼み、1872年12月にボアンヴィルが来日した[McVean Diary]。

・設計はマクヴェイン、ジョイナー、ボアンヴィルが行い、横浜から林忠恕、ウィットフィールド&ドーソンらを呼び寄せ施工管理に当たらせた[McVean Diary]。

・測量を熟知した技術員を国内で探すのは困難と判断し、1872年3月にマクヴェインは7名の測量師の任用と最新測量器機の購入を目的に山尾に一次帰国を申請した[太政類典]。


3-2. Premises of Public Works工部省用地

・伊藤大輔と山尾少輔が工部省のために取得した用地は、延岡藩、鍋島藩、川越藩(松平守大和屋敷)の江戸屋敷であった。延岡藩屋敷は工学寮用地、鍋島藩屋敷は工部省庁舎用地、そして川越藩屋敷は測量司外国人職員宿舎用地に割り当てた[工部省沿革報告]。マクヴェインは、1871年暮れから1873年3月の間に、下図の黒枠内の建物のほとんどを配置設計した。

図3. 工部省用地の建物群。測量司外国人職員の宿舎地となった川越松平守大和屋敷は現在ホテル・オークラ、工部省庁舎地となった屋敷地は虎の門病院他が占めている。


CHAPTER IV. Public Building Works公共建築営繕の業務


4-1. Facilities of the Engineering Education and the Survey Office.工学寮と測量司の営繕

(1) Former Daimyo Premise at Tameike.旧溜池屋敷

・Clearance of the premise to build Technical School.工学校建設用地として造成

・Design and Construction of the Technical School. (詳細はsee<Imperial College of Engineering>を参照願う)

    山尾は工学校開校を1872年5月に予定していたので、1871年暮れからジョイナーとともに校舎建設を急いだ。山尾からゴシック様式にするように指示があった。施工管理は工部省の直営で行った。石工のマークス、大工のアンダーソンを雇い、施工管理は横浜居留地のウィットフィールド&ドーソン社に任せた。1870年、マクヴェインは横浜のメソニック・ホールをウィットフィールド&ドーソンと建設した。

(2) Former Daimyo Premise at Aoicho.旧葵町大和屋敷

・Clearance of the premise to build facilities of the Engineering Education and the Survey Office

・Building of Office of Engineering Education and Survey.工学寮兼測量司の事務庁舎

・Building of Residences for Foreign Staffs. 所属外国人職員の宿舎建設


4-2. Facilities of the Public Works.工部省の営繕

(1)  Head-Quarter of Promotion of Industrialization勧工寮庁舎

4-3. Public Residences of Cabinet Members政府要人の公邸洋館

(1) Sanetomi Sanjyo's.三条実美邸

(2) Hirobumi Ito's.伊藤博文邸

(3) Yozo Yamao's.山尾庸三邸


CHAPTER IV. Yamato Yashiki大和屋敷

・マクヴェインは、1871年10月測量師長に任命される以前から東京に仕事を出かけ、山尾の指示でいくつかの建設工事をやっていた。この大和屋敷の宿舎建設はその一つで、1871年のクリスマス時期頃には横浜から大和屋敷一番に引っ越してきた。ジョイナーも測量司任用と共に自らの官舎を大和屋敷二番に設計した。マクヴェイン邸とジョイナー邸の間には池があり、冬には凍結し、スケートして楽しんだと日記に書かれている。

(1) Utilization of Old Main House旧屋敷主屋の活用

・松平守大和屋敷が工部省所有になった際、屋敷中央の主屋だけは残された。工学校小学校校舎の完成が遅れてしまい、最初の入学者たちはここで約半年勉強した。また、 1875年7月に西の丸の内務省庁舎(大蔵省と隣接していた)焼失後、量地課(測量司は1874年8月に地理寮量地課に縮小改組された)が使った。

・資料'Overview of the Yamato Yashiki,' The Far East, Dec. 1874.

図4. 大和屋敷旧主屋。現在は虎ノ門ツインタワービルが占めている。

"Of this little need to said, except that the  name is that of the old Yashiki, Yamatonokami's residence, which occupied the site previous to the revolution of 1868. Most of the old buildings have been removed, and residences have been built for the foreign members of the Survey Staff. Tho houses then shown in the picky*, are those of Mr. Stewart to the extreme right; Mr. Chastel de Boinville, the two storied house; and Mr. McVean, the foreign head of the department. At the foot of the rise, in the foreground, is on portion of the old Yashiki, now used as a school, presided over by Mr. Hamilton. The Survey Department was originally under the direction of the Kobusho or Pablic Works; but it is now placed under the Naimusho or Home Office. Its special duties are in connection with a general survey of the whole empire, and for this purpose a large and thoroughly competent staff of foreigners has been engaged, under whom the Japanese themselves are showing great aptness and cleverness in the work." 

[和訳]この写真については語る必要は無いであろうが、この地名は1868年の明治維新の前までここに居住していた大和守の屋敷から来ている。ほとんどの古い建物は撤去され、そこに外国人測量職員のために官舎が建てられた。一番右側にはスチュワート邸が、その左側にボアンヴィル邸、そしてこの部署の長官であるマクヴェイン邸となっている。高台の麓には、旧屋敷の一部が残っており、現在、ハミルトンが主宰する学校として使われている。測量局はもともとは工部省のもとにあったが、現在は内務省下に置かれている。その任務は全国を測量することにあり、そのために多数の有能な外国人職員が雇われている。その下に、日本人は業務において大きな才能を示している。

(2) Stone Wall.石垣

(3) Garden, Ponds and Brook.庭園、池、小川

5-2. Constrution of Foreign Officers' Residece.外国人職員宿舎の建設

・Residents in Yamato Yashiki大和屋敷の居住者, Directory of China and Japan, 1875.

No.1. McVean'sマクヴェイン邸

No.2. Joyner'sジョイナー邸

No.1, McVean's Residence in 1872. MVA.大和屋敷のマクヴェイン一家、1872年暮れ頃

No.2, Joyner's Residence site is at the South-east corner of Yamato Yashiki.ジョイナー邸のあった場所

No.3 Cheesman's Residence.チースマン

No.4. J. Klasen's Residenceクラセン

No.5 Cruikshank until his death of February 1874, Simpson(測量司書記)

No.6 George Eaton. ジョージ・イートン、1874年1月まで

No.7 Wilson (working in Kobe)

No.8 Henry Scharbau, after A. Macarthur.マッカーサーの後にシャボーが入居。

No.9 Stewart.スチュワート

No.10 J. T. Hardy

No.?? Boinville's Residence.

5-3. Construction of Public Office Buildings of the Public Works工部省庁舎建物の建設

(1) Head-Quarter of Public Works工部省庁舎及び事務所 

Figure 7. Kobusho Buildings, Kogakuryo in Distance, @The Far East 1874.

・『ファー・イースト』誌に掲載されたこの写真は、江戸見坂から工部大学校方面(北の方角)を眺めたもので、眼下に工部省諸施設、遠くに工部大学校が移っている。ここに見える洋式建築のほとんどはマクヴェインの設計、擬洋風(大壁漆喰に鎧戸付きガラス窓)は林忠恕によるものであろう。遠くに時計当の付いた工学寮校舎が見える。 


Figure 8. College School Building Damaged by the Kanto Earthquake.関東大震災後の工学寮小学校

This is one of the earliest European style masonry building in Japan, a Student Dormitory + Library of the Imperial College of Engineering, Tokyo.

Designed and constructed by C.A. McVean and J.B. Joyner in 1871-73, but got heavy damages by the 1929 Kanto Earthquake.

5-6. Redevelopment Scheme of Ginza-Tsuki日本橋大火後の再開発計画

・山尾と一緒に横浜出張から新橋駅に戻ると、築地銀座方面が大火。築地の工部省庁舎と西の丸にあった測量司事務所も焼失した。山尾の指示で、工学校の建設を一時中断し、焼失地区の測量と街路計画を作成した。Whitefield and Dowsonに加え、神戸から Smedleyを呼び寄せ、10日間で再建計画をまとめ上げた。

5-7. Cooperation of Expisition and Museum.博覧会への協力

(1) Display of 1873 Vien International Wxhibition.1873年ウィーン万国博覧会

・佐野常民からの依頼

・展示手法と展示ケースのデザイン

・エジンバラのモートン社への注文

(2) Assistance for Investigation of British Museums.イギリスの博物館調査への協力 

・博物館掛所員への便宜提供

・ロンドン滞在中の冨田淳久と武田

・Construction of Japanese Village.ロンドン日本人村

CHAPTER V.  Survey Office測量司

4-1. Organization in the Begining発足時の構想

(1) Yamao's "My Silly Conideration"

・事務方の日本人職員は山尾が、技術系職員はマクヴェインが任用した。鉄道寮からジョイナーを手始めに、測量学校の教師に二人を引き抜いた。1872年3月、銀座築地大火災後の再開発計画を纏め終えると、山尾と測量司の業務範囲と人員配置を議論した。

(1) 工部省伺明治5年3月12日(太政類典)

・測量司測量ノ方法西洋式ニ則リ施行致し、先東京ヨリ起業漸次に四方ニ推拡シ、到底全国中無遺漏明確精密の測量奏功ノ目的ニテ、既ニ旧冬来当府下ノ測量手ヲ下シ候儀ニ有之。然ル処技術専務ノ御雇外国人僅ニ二名ニテ、此大事業ニ当リ現今其端緒ヲ開クト雖モ、進歩ノ目処更ニ不相立。依テ一時増雇可致ト本邦在留ノ外国人中測量術相心得候者、所々探求致シ候ヘ共、今以適当ノ人物無之、此上ハ他国ニ之ヲ求候外無之ニ付、御雇測量師マコビーンニ托シ、英国ヨリ其術ニ達候者七名ヲ雇入事業精々進歩為致度候間、右七名更ニ御雇増ノ儀、許容相成候様仕度、、」(類典2-75-58)

※既往研究ではジョイナーが明治6(1873)年5月に気象観測を上司に建議し、イギリスの気象台長に協力依頼したことになっているが、私はまだこの建議本文を確認しておらず、大きな疑問を感じる。同年3月に技師長マクヴェインはイギリスに器機購入と技師雇用のために一時帰国し、予定では測量器機だけではなく、気象観測、天文観測、地震観測のための器機も購入することになっていた。技師長代理のジョイナーはそのことはよく分かっていたはず、ロンドンにいる河野とマクヴェインに無断でこの建議をしたとは思えない。

(2) 職員配置

・日本人職員

・村田文夫、広島藩士、幕末渡英しアバディーン滞在。広島藩からの推薦で、工学寮&測量司発足の明治4年10月に出仕。内務省地理町量地局時代に辞職し、文筆業を始める。

・室田秀雄、静岡藩からの推薦で明治政府に明治4年10月出仕。内務省地理寮量地局までマクヴェインとともにした。

・河野通信(Michinobu Kawano)、長州藩士で山尾の一年後輩で、明治5年から山尾の代わりに測量正、「かわのみちのぶ」と読む

・館潔彦、桑名藩士、明治5年に入って工部省出仕なので、最初期の測量司については知らないはず。

・測量司見習いとなった第一期修技校生徒。小林八郎は優等生としてグラスゴーで研修、南清は工学寮工学校へ入学。もう一人の優等生は「すいのき」は行方不明。

・その他に、横浜ヴァルカン鉄工所時代に共働していたウィッドフィールド、ドーソン、ブリジェンス、林忠恕らを東京に呼び、役所施設の建設を任せた。

・その他、数名の日本人技官がいた。

(3) イギリス人技官

第一次任用First Appointment from October 1871-January 1872.

・ヘンリー・バトソトン・ジョイナーHenry Batson Joyner, 1839-1885

モレルに少し遅れて鉄道寮に任用されていたが、測量司(営繕掛兼)発足とともにマクヴェインに誘われ転任してきた。19世紀Civil Engineerとして、建築設計、施工管理、測量などの万能技術であった。

・リチャード・オリバー・ライマー・ジョンズRichard Oliver Rymer-Jones, 1849-

1872年早々にこのライマー・ジョンズの任用許可を山尾に求めており、もしかするとエドモンド・モレルが前年10月に亡くなる前に個人的つながりでこのジョンズを呼び寄せたのかも知れない。ジョンズの父親はロンドンのキングスカレッジの教授で、このジョンズもモレルもキングスカレッジで学んでいた。測量の実務というよりは、もっぱらその教育に従事した。兄のトーマス・マンソンは少し遅れて来日し、鉄道寮に任用された。

・ジョージ・イートンGeorge Eaton:ライマー・ジョンズと共に測量修技校の教師を務めた。

臨時契約Temporary Appointment.

・カートマンCartman:鉄道寮から測量司に一時転勤、後に鉄道寮に戻る

来歴は不明であるが、1872年の日本橋焼失後の復興計画作りをマクヴェインらとし、1873年頃には神戸居留地に移っていった。

第二次任用Secound Appointment in May 1872.

・ハーディHardy:1872年4月、イネスの紹介で任用、1874年末で解雇。コモス・イネスComos Innesの推薦でインド植民地から来日

・マッカーサーMcAuthur:1872年4月、イネスの紹介で任用、1874年末で解雇。コモス・イネスの推薦でインド植民地から来日

・ウィルソンWillson:鉄道寮から転属

第三次任用Third Appointment in October 1872 from the Britain.

・クラセンKlasen:来歴不明1872年10月任用、1875年9月満期

・スチュワートRobert Stewart:1872年11月任用、1875年10月満期

・チーズマンW.E. Cheesman:1872年10月任用、1875年9月満期。英国海軍水路測量局に契約測量師。

第四次任用(チースマンと一緒に来日するはずだったが鮫島の手続き不備と個人的理由により1873年10月に遅延)

・シャボーHenry Scharbau:リューベック生まれの測量地図作製者で、英国に渡り陸地測量局と海軍水路測量局に臨時職員として勤務、1873年10月任用、1876年9月満期

・バージェスBurges:イートンに代わる測量修技校の教師、来歴不明。1873年10月任用、1876年9月満期。

(3) Survey School.測量学校

・明治6年10月13日測量司ヲ分離シ馬場先門内ノ𦾔集議院ニ移置シ、而シテ工学寮ノ建築事務ハ総テ同司ヘ委任スベキ旨山尾工部大輔ヨリ林工学助及測量正代理村田工学権助ヘ達セラレタリ。明治6年10月14日測量司測量技術通学生規則ヲ定メテ之ヲ頒布ス」



(4) Initial work of Triangular Survey of Tokyo.東京の三角測量の開始

・1872年焼失日本橋周辺→銀座・築地再開発

・皇居測量→宮殿と迎賓館の計画(設計は未着手)

富士見櫓の設置

・三角測量、基線の設定

(5) Preparation of Instruments測量及び観測器機の用立て

・測量司発足と同時にマクヴェインは自前の測量器機2セットを提供した。神戸にいるスメドレーとハートから中古測量器機を譲ってもらった[McVean Diary 1872]。

・それでも足りないので、横浜のLane & Crawford Co.にテオドライトを発注し、1872年9月受け取った[McVean Diary 1872]。

※館潔彦は横浜で測量器機を買い求めたと述べているが、それはマクヴェインの用事に同行しただけである。測量器機はレーン&クロフォードに注文できたが、それは格安の汎用品であったらしい。

・事業内容について旧友ウィリアム・マックスウェル(William Francis MaxWell, R.N.)とシャボー(Henry Scharbau)からの助言を受け、測量、天体観測、気象観測、地震観測までを行うことにし、そのための最新機器を購入することにする(MDiary1872)。

1850年代、英国海軍技師Henry Charles Otterはスコットランド島嶼部の測量を指揮し、その際William Maxwell, R.N.、Henry Scharbau, McVean, Cheesmanらが同行した。Maxwellは中国や日本にもやってきていた。マクヴェインの終生の友。

グリニッジの王立観測台(The Royal Observatory)のようなものの創設を山尾に提案し、了解を得た。その器機購入と技術者雇用のために1873年にイギリス公務帰国。

・外国人技術職員雇用はマクヴェイン自身を含めて7名とする。

・太政類典工部省伺明治5年3月12日(太政類典)

測量司測量ノ方法西洋式ニ則リ施行致し、先東京ヨリ起業漸次に四方ニ推拡シ、到底全国中無遺漏明確精密の測量奏功ノ目的ニテ、既ニ旧冬来当府下ノ測量手ヲ下シ候儀ニ有之。然ル処技術専務ノ御雇外国人僅ニ二名ニテ、此大事業ニ当リ現今其端緒ヲ開クト雖モ、進歩ノ目処更ニ不相立。依テ一時増雇可致ト本邦在留ノ外国人中測量術相心得候者、所々探求致シ候ヘ共、今以適当ノ人物無之、此上ハ他国ニ之ヲ求候外無之ニ付、御雇測量師マコビーンニ托シ、英国ヨリ其術ニ達候者七名ヲ雇入事業精々進歩為致度候間、右七名更ニ御雇増ノ儀、許容相成候様仕度、、」(類典2-75-58)

・測量&天体観測装置=Troghton & Simms

・気象観測器機=Casela & Co.

・地震観測器機=Palmieri Luisi

※既往研究ではジョイナーが明治6(1873)年5月に気象観測を上司に建議し、イギリスの気象台長に協力依頼したことになっているが、私はまだこの建議本文を確認しておらず、大きな疑問を感じる。同年3月に技師長マクヴェインは、工部少輔山尾の合意のもとで測量正河野を伴ってイギリスに器機購入と技師雇用と関係機関への協力依頼のために一時帰国した。主任技師代理のジョイナーはそのことはよく分かっていたはず、建議をする必要もないし、ありえない。<>

(6) Official Trip to the Britain together with Kawano Michinobu and Kobayashi Hachiroイギリス一時帰国

・太政類典工部省明治6年3月8日「河野通信英国ヘ」

測量正河野通信ヘ達

御用有之英国ヘ被差遣候事

外務省ヘ指令正院

測量正河野通信御用有之英国ヘ被差遣候ニ付来二十三日致起程候條航海免状例ノ通可被相渡候也3月19日工部

工部省伺

昨年末測量司御取設当壬申春開業爾後外国人数名御雇入相成東京府下施業罷在候ヘ追々全国一般測量ニ至リテハ不容易大事業ニテ元来全国測量ハ三角測量法ヲ以施業儀ニ就キ第一其元線ヲ細密ニ測リ不申候テハ不相叶元線ヲ測候尺ハ則皇国ノ尺度ノ元祖ト相成可申候然ル処方今度度量衡ヲミタリタシトムニ御改正ノ御内評モ有之哉ニ承リ就てはミタ尺ヲ以テ此度元線ヲ測量致置候ハ御改正ノ一助ニモ相成可申し假令ミタ尺御用無之候。皇国従来ノ尺度ハ甚タ不極ニ付何レニカ御改定有之可然儀ト被存候間右ミタ尺ヲ始メ其外元線測量機器物品等買入且全国測量ニ於テハ僅数名ノ御雇外国人ニテハ迚モ行届キ不申候ニ付増御雇入相成度其人並前器械注文ノ儀ハ尤緊要ノ儀ニ付通常書状ヲ以テ頼遣候振合ニテハ兎角試験モ行届○候ニ付幸当時御雇入相成居候測量教師マコビーン儀、先前英国測量局ニ於テ奉職致居候儀に付同人ニ測量正河野通信付副来ル正月ヨリ往来七ヶ月ノ積ルノヲ以テ英国ヘ差遣シ測量一課技術専業ノ輩現地経験シ上等二人精選雇入及び尺度諸器械物品等ヲ精巧ノ品ヲ夫々購求為致度左候ハ、測量正河野通信儀右御用暇両3ヶ月間モ英国測量ノ振合等モ彼国測量局ニ於テ現地為見習申度帰朝ノ上ハ右外国人ニ御国内技術生徒ノ音相副府下ハ勿論測量盛大ノ基本ヲ相建テ勉勤従事為致候ハ、速ニ成功ヲ奏シ可申被存候。右入費ノ儀ハ当省定額金ヨリ輿給可致候。此段相伺申候也壬申十月二十七日工部

測量器械物品買上代ノ儀ハ二万円位ニテ

CHAPTER VI. Preparation of Business Tript to Home.一時帰国の準備

(1) 一時帰国のタイミング

岩倉使節団

ブラントン

(2) イギリスでの用務

河野と小林の面倒

金星通過観測の準備

測量観測器機の購入

シャーボーの雇用手続き

博物館研究の冨田淳久

(3) 私用

山尾からの頼まれ事

ヒュー・マセソンとの面会

Previous Studies and Fundamental Sources既往研究と基本的一次資料

1-1. Previous Studies既往研究の紹介と解題

(1) 鈴木淳編:工部省とその時代、山川出版社、2002年.Suzuki Atsushi ed., Ministry of Public Works and Its Period, 2002. 

(2) 柏原宏樹:工部省の研究、慶應義塾大学出版会、2009年.Kashihara Hiroki, A Study of the Public Works, 2009.

(3) 拙稿:工部省創設再考(日本建築学会計画系論文集2015年), Izumida, Reconsideration of Foundation of the Public Works, 2015.

  同上:工学寮工学校再考(日本建築学会計画系論文集2017年),Izumida, Reconsideration of Foundation of the Engineering Institution, 2017.

1-2. Fundamental Sources基本的一次資料の紹介と解題

(1) 大蔵省『工部省沿革報告』、明治22(1889)年Ministry of the Public Works, The Report of the Public Works, 1889.

「工部省ハ明治三年閏十月ノ創建ニシテ百工勧奨ノ之ヲ掌リ兼テ鉱山、製鉄、燈明台、鉄道、電信機等ノ事ヲ管シ四年八月工学、勧工、鉱山、鉄道、土木、灯台、造船、電信、製鉄、製作ノ十寮及ビ測量司ヲ置ク十月土木寮ヲ大蔵省ニ属シ五年十月造船、製鉄ノ二寮ヲ廃シ六年十一月勧工寮ヲ廃シ其事務ヲ製作寮ニ属ス七年一月測量司ヲ内務省ニ属シ全省所轄ノ営繕事務ヲ割テ之ヲ本省製作寮ニ属シ八月十一月営繕寮ヲ置キ(後略)」

(2) 日本工学会『明治工業史 電気編、土木編、造船編、建築編、鉄道編、機械編』、昭和4(1929)年

○「土木編」

「明治元年以来、中央に土木掛を置き、二年四月民部官中に土木司を設けたりしが、同年七月民部官は民部省と改まり、次いで四年七月廃止せられ、土木事務は工部省に移り、其の十月更に財務省に移管せられしが、六年十一月内務省新設せられ、省中に土木寮を置き、土木事務を掌理する事と為る。十年一月土木寮を廃止して土木局と改称し、局内に道路課を置き、治水事務などと区別せり。一方地方土木事務は明治二年七月府懸奉職規則を設け、其の取り扱い方等を定めたり。」

※明治4年8月に工部省の管轄範囲が10寮1司に定められ、その一つに土木寮が入れられたが、同年10月には財務省に(大蔵省)に移管された。従って、工部省土木寮としての業務成果は何もなかった。本来、工部省はPublic Works公共事業を所轄し、理念的には土木寮はその中心部署にならなければならなかった。公権力がさまざまな公共事業(「社会基盤」と言い換えも可)を興していくというのは、長い江戸時代を経て成立した明治政府には考え至らなかった。国内の生活社会基盤整備は後回しにされた。工部省の内実はMinistry of Engineeringであり、外国人技術者を雇って導入しなければならない業務を寄せ集めたに過ぎない。従って、技術系御雇いが懐古されるとともに縮小解体、そして廃止となった。

第一編 道路

[内務省によって関連事業が開始されたため、ここでは割愛]

第二編 河川

[内務省によって関連事業が開始されたため、ここでは割愛]

第三編 築港

[内務省によって関連事業が開始されたため、ここでは割愛]

・幕末に外国貿易港として開かれた横浜港、神戸港、長崎港、函館港については何も述べられていない。

・野蒜港明治11年

・坂井港明治11年

第四編 上下水道

第五編 軌道

第六編 運河

第七編 発電

第八編 農業土木

第九編 軍事土木

第十編 航路標識

第十一編 都市事業

第十二編 測量

「明治以前の測量術に於いては三角測量或いは水準測量等の如きを用いることを知らず、随つて絵画飲泉の如きも、如何なる潮位を基準とせしや不明にして、其の測量術たる甚だ姑息なるものなりき。然るに明治維新の成るや、盛に秦西の新知識を輸入し,測量術の如きも旧来の法を棄てて,近代の進歩せる科学的測地学を採用するに至りしを以て面目全く一新し、急速なる進歩をせり。

明治四年工部省に測量司を設け、英人マクウエン、外五名を招して全国測量の業を企て、同五年測量師長マクウエンの指導の下に、東京府下に於いて初めて三角測量を開始し、宮城富士見櫓に一点を設け、順次十三点の三角網を作り、本所基線に閉塞せしめ、次いで東京全市を包容せり。その後、大阪京都並びに各開港場の三角測量に着手せしが、何れも完成の域に達せざるに、明治七年此の事業を内務省に移し、同省地理寮に於いて之を継承し、依然英国式に準じ、全国大三角測量に従事せり。又、河川測量は、明治二年治河局に於いて之に着手し、鉄道測量は明治四年京浜間に之を実行したるを初めとす。

陸軍に於いては明治六年以来、測地事業を計画し、本邦測地事業は、殆ど陸地測量部の完成せしものなり。

陸地測量部と伯仲して、本邦の地形測量に従事せるは、農商務省地質調査所にして、同所は明治七年に設置せられたる内務省地理寮の後を承け、地質調査と共に地形測量を行ひ地形図・地質図・土性図等を製作せり。

沿海測量は、明治四年兵部省海軍部に水路局を設けたるに始まり、同十五年全国沿岸の測量大計画成り、爾来着々として事業進歩し、全国の海図水路誌の発行あり。爾来官庁民間に於いて実地を測量し、地図を発行せるもの少なからず」

同第四章海洋測量 海軍水路部 第二節

「明治二年河村純義は、津藩士柳楢悦及び田辺藩士伊藤当吉を徴し、初めて水路測量のことを計画せしめたり。是より外国船の希望により我が港湾を測量し、その海図を発行せしもの少なからずしが、明治に入りても亦、沿海測量の誓願をなすもの多く、当時の事情は之を許容するの余儀なき有様なりしが、明治十五年沿海測量計画の完成するに及んで、遂に之を拒絶し得るに至れり。

明治三年柳を測量主任に、伊藤を副主任に任じ、軍艦第一丁卯丸を用いて、英艦シルビアと共同し、的矢、尾鷲の諸港を測量せしめ、次いで内海の塩飽諸島、備讃瀬戸を測量せり。」

※工部省時代のおそらく唯一の土木関連事業が測量であったことになる。おおよその記述は合っているが、本当は「英人マクヴェインの助言により全国測量の業を企て、英国人七名を雇い、測量学校で日本人技術員を育成しつつ東京府下に於いて三角測量を開始した。建築営繕を兼ね、工学寮校舎と工部省庁舎などの建設、銀座築地焼失地区再開発案作成、旧江戸城内の測量と皇居建設計画などを担った。測量司を恒久的な体制とするため、最新の測量観測器機の購入とイギリスの関係機関との協力関係の樹立に努めた。しかし、内務省移管とともに旧幕臣技術者からの妨害、緊縮財政による組織の縮小、内務省庁舎火災による成果の焼失などがあり、完成の域に達しなかった」

※水路測量に関しては端的に纏められており、柳楢悦らが自らの業績をきれいに残したのであろう。1867年末にはシルビア号は日本海域のおおまかな測量を終え、それ以後、湾岸に近い場所の測量をしようとしていた。そのためには幕府からの許可を得なければならず、幕府海軍奉行が対応した。シルビア号の測量担当マックスウェルは、日本側から派遣された柳楢悦らに水路測量を教えながら北海道から長崎まで測量した。

第十三編 土木行政

第十四編 土木教育

※工学寮工学校(1877年から工部大学校)土木学科のことについてはまったく触れられていない。

(2) 舘潔彦「三十三年乃夢日本測量野史稿」1873年3月マクヴェイン公務一時帰国までKiyoshi Take, Memoirs of Japanese Survey like a 33 years Dream

*これは師橋辰夫が『地理(1971年10-1)』に全文紹介したものである。明治初期工部省測量司所属職員による回想録で、近代日本の測量・気象・天文観測史上最も重要な資料であるが、多数の誤りがある。館は明治5年10月工部省入省(測量四等少手)であるから、最初期の記述は伝聞による。また、英語ができなかったので、誤解が多い[池田泰彦:館潔彦について]。

・明治4<辛午>年7月27日新に工部省を設け工学寮及測量司を置かる、後藤象次郎其卿たり、山尾庸三其少輔たり、因て山尾少輔寮司の事務を摂理し、尋て河野通信測量正兼工学<寮>五等出仕たり、又七等出仕兼工学寮を兼ぬ、后林董工学助となる、仮に寮司の衙を虎ノ門内旧内藤邸に置く。

※工部省発足と共に工学寮建設用地の延岡内藤家屋敷の旧家屋を官衙に用いたということか。しかし、館はこの時期まだ工部省雇いとなっていない。しかし、ありえる話しで、工学寮の建設工事が始まるとともに、既存家屋の取り壊しが始まり、工部省は木挽町の旧外務省の建物に移り、測量司は馬場先門内の旧厩に入ったと思われる。1872年2月の丸の内〜銀座〜築地大火によってこれらの建物は焼失してしまう

・技術官制<ハ>都検(三等官勅任)技監(自四等至七等官奏任)師(自八東至十等官判任)手(自十一等至十三等官判任)見習(自十四等官至十五等官判任)とす。

一ヶ年の定額は金拾四万円なりとす、工学は二十五万円なり、然れども長官より属僚に到るまで多く兼任せしを以て、其経済の出入は6年5月寮・司分離の際迄は十分判別なきが如し。

※これは間違いはなく、山尾が工学寮校舎建設と教師団の雇用を急いだため、こちらに予算が回された。国土測量を開始しようとしても、技官の育成と組織作りに時間を要した。

・英人マクウェン他5名を傭聘しマクウェンをして測量師長となし事業一切を任担せしむ、<ジョイネルを助師となす>又寮、司ともに生徒を募り、之か教育に任せしむ、邸を葵町三番地に新築せしむ、続て生徒館を起し分離す。

※<工部省>で前述したように、山尾はマクヴェインの提案で測量司を発足させ、人事をマクヴェインに任せた。測量学校は,1872年2月におそらく大和屋敷の旧主屋を使って開校し,ダイアーが1873年11月に工学寮工学校を開校させると、工学校最初の生徒たちもここ(大和屋敷の主屋)で授業を受けた。測量学校の優等卒業生は,南清,小林八郎,鮎川義光など,測量司に残らず工学寮工学校に進学していった。

・英人が総て二年或は三年を以て聘傭の一期とし、年を越える毎に俸給を逓増す。当時師長の月給は金貨四百円とす。以后総ての英人には其俸給は尽く金貨を以て支払へたり。燦爛惜むへし。

※マクヴェインの雇用初年の月給は350円で、1873年3月の一時帰国時の契約では400円となった。ジョイナーは300円で、師長代理職として50円が増額された。日本人職員と5倍以上の差があり、館などの日本人職員は羨望の目でみていたのであろう

・<9月西丸皇居を以て始めて測量作業に着手す、作業進むに従い漸く玉座の御椽に近つき或は宮女室の内庭に立入等、所有不敬無礼の挙ありしも当時陋習の蟬脱する際なるを以て、幸に物議に上らざりし、而して作業明年に渉り始んど完成の期に近き4月火災の為、宮殿尽く烏有に帰し、只図上に旧観を存留せしのみ、又同時吹上禁苑及楼田、和田蔵門も着手して年を越ゆ。>

※この記録に従えば,測量司発足ととも西の丸から測量を始めたことになっているがマクヴェイン文書からはわからず。これは測量をしたのではなく,測量司を西の丸太政官脇の旧厩に置いたことを示しているのであろう。この旧厩は民部省量地掛が使っていた。太政官が天皇を東京に迎えるに当たって,山尾が旧江戸城内に皇居を造営する計画を立てたが,1872年4月3日(明治4年2月26日)銀座築地大火災があり,焼失地区の再開発計画作成のために中断した。1872年5月7日(明治4年4月1日),山尾から正式に旧江戸城測量の指示が出された。この時に、宮内庁から横山の写真や江戸城絵図などの提供を受け、約一ヶ月、測量を実施した。旧江戸城全域の測量図を完成させたと思われるが、おそらくすべて宮内庁に納められたと思われる。これ以上、山尾から皇居建設の話しはでてこなかった]

・5年3月師長マクウェンの指按に由り東京府下に三角測量を施行セシム。<仍て其第一着手として富士見櫓に大標旗を建て府下測量の基礎たるを示せり。標旗は紅上白下を筋違に合せ其白中に(工)字を黒記し地質は大小総て○絽を用いたり。>

此月府下災あり、郭内より起り延焼して築地に至る、政府因て市街を改正し洋式に倣い煉瓦屋を建築し、一は以て都府を粧飾し一は火災を予防するの議起る、仍て先つ京橋以南新橋の間に着手せんとし英人ウェリソン等に命し之が区画割をなさしむ、而して別に西丸皇居、吹上禁苑及西丸下等を測量せしむ。

又府下内外に順次三角測量十三所を選び高測櫓を起し一条の基線を越中島洲崎弁天の間に設け鋼鉄尺を以て之を測る、工部少輔等臨観す、而して十三所の三角点は第一富士見櫓、越中島、洲崎弁天、本所一つ目、同三つ目、芝愛宕山、上野下寺町、目白台、白金台町、寺島村、田端村、戸越村、第二台場とす。<此建築費平面一カ所金弐百六拾四円三十一銭強とす。>

当時官省の経営又は市街地改正の挙ありて、小区図の需要頗る急迫なるか為、施業の順序を案し敢て三角測量を中止し、小区測量にのみ着手せり<倫敦市街に倣い>製図の縮尺は五百分一と定む。

外人の外業には通訳一名、別に監督掛け付し総て外人の命を聞き、人夫を使役し及び昼餐等の事を弁理せしむ、<邦人の外業は最低限総て茶料代として一人金弐拾五銭宛給与せり、後8年に至って止む。>

12月予て聘約により英人クレッソン他5名来朝す。

※旧江戸城測量の指示が山尾から出されるのは明治4年4月1日。その日に、富士見櫓に基点を設け旧江戸城測量を実施。それが済むと,富士見櫓基点からベースラインを各所に設置した。測量器機が足りず、マクヴェインは自らの器機を測量司に納めた。1872年6月にイネス紹介の測量師3名、11月にマクヴェインの知人友人測量師3名が来日。マクヴェイン日記から分かるのはこれぐらい]

・6月1日司に備ふる所の経緯儀は僅に三個あるのみ、彼外人互に交換使用して邦人に許さす、今や邦人の業に就く一の器械なし、仍て館潔彦を横浜に派し経緯儀其他必要器械を購求せしむ、於て三浦省吾、館潔彦おして始めて府下測量に従事せしむ。

2月数理<及絵画>に熟達する者数名を募り岸俊雄をして測量法を教示せしめ、実地には英人の作業に就て研究せしむ、又洋式製図には鈴木重葉をして教示せしむ。

同月伊能源六なる者其曾祖父忠敬の自ら製する所の日本大図を蔵すると聞き、三浦省吾を下総佐原に遣し之を借らしむ、此時製図者としては漸く烏嘴筆を運用するに止り、謄写の任に該る者なし、茲に於て絵画者を募り謄写の任に当らしむ、此時墺国維納府に博覧会<の挙>あり、其出品の為め、正院地誌課に於て日本地誌提要編纂の挙あり、仍て<此>原図は同院に復貸す、后源六より献納す、官金三百円を賜うと伝う。

※館は1872年10月雇用なので、この部分には伝聞であり、また記憶違いも含まれている。イギリス人測量師に器機の使用を優先させるのは当然のことである。測量修技校を開校しており、そこにも数台器機が必要であった。マクヴェインは自前測量器機一式、鉄道寮の英人技師やハートらから測量器機を譲ってもらい、これらの用に当てた。さらに、横浜のレーン&クロフォード商会に測量器機を注文し、横浜に行っており、その時に館も同行したのだと思われる。「館を横浜に派し・・購求せしむ」ではない。旧民部省土木寮からの技員の名前が見えるが、彼ら旧幕府海軍技術者たちが測量司に合流するのは、1874年2月、測量司が内務省に移管されてからのことである。旧幕府海軍技術者と修技校卒業生ではどちらの方が優秀であったのだろうか。

・4月、測量正河野通信、測器購求の為め英国に洋行す、師長マクウェン随行す

※これは逆で、マクヴェインは個人的な用事と測量器機購入とシャボー雇用のための公務で、1872年早々から一時帰国を山尾に申し出ていたが、1873年1月になって山尾から許可が下り、その際に河野通信と小林八郎を同行することにした。山尾は河野に広い視野を持つように海外研修の機会を与え、またマクヴェインは測量司を担うであろう小林にグラスゴーでの実践の機会を与えた。河野は、ウィーンで万博担当の佐野常民、パリで岩倉使節団の木戸孝允と会い、ロンドンとエジンバラで工場や学術機関を視察したことがマクヴェイン文書から分かっている。

・5月、実施研究の生徒漸次熟達し、手或は見習に任用されたるを以て又測器の必要起る、館潔彦再び横浜に派し之を購入せしむ。

※これも館の勘違いで、マクヴェインが一時帰国の前に、レーン&クロフォード商店に注文していたものを、館が受け取りにいっただけである。おそらく、レーン&クロフォード商会が扱っていた測量器機は、鉄道建設などのための汎用品で、マクヴェインは最新の国土三角測量のための器機をイギリスで購入しようとしていた。

・同月、助師ジョイネルの建議を用い、気象台を設けるに決す、仍其器械を英国気象台長に依頼す。

※これは別稿で述べたが、測量師長と測量司正がいない時期に、代理のジョイナーが建議を誰にしたというか、まったくあり得ない話し。マクヴェインは出航前にトロートン&シムス社、カセル社などの測量気象観測器機の発注書、またグリニッジ王立天文台やスコットランド気象協会に協力依頼の文書を準備しており、それを山尾の公印で発送することをジョイナーに指示していた。イギリスの中央気象台(Meteorological Office, Board of Trade)の名前はマクヴェイン文書にはまったくでてこない。1873年9月、マクヴェインとシャボーがグリニッジ天文台にでかけそこで観測器機設置工事を見せてもらうとともに、金星太陽面通過観測のやり方を教えてもらっている。これは、マクヴェインが離日前に準備していた同天文台への協力依頼書が効いたからだと思われる。また、1873年に、スコットランド気象協会に日本での気象観測創設のための協力合意を取り付け、マクヴェイン自身会員となった。翌年4月にはシャボーも会員になった。同協会の事務局長のアレクサンダー・ブキャンは天気図を確立し、同協会名誉事務局長のトーマス・スチブンソンは百葉箱を発明した。トーマスの兄のロバートは簡単な地震記録計を発明していた。

・同月、司を馬場先門内旧閣老邸に移す。

10月、実測科取締及器機掛を置く。

<製図の尺度は一フートを5百分し、其一分を一フートに当つ即五百分一なるとす、此尺度只一個にして、洋人に有ては交互使用し、邦人に許さず、明治2年大蔵省度量衡規則を設け、私造を禁じたりと雖も尺度は未だ其制なし、府下大門通に大谷虎造なる者あり、尺度製造を業とし分厘を刻し其精を究む、於茲之を傭い、フートを造らしむ、外人等驚嘆す、虎造年六十余衣袴登庁す、比隣羨望し六十の老爺今斯の如し、始めて人材登用の実あるを知れりと、又細鎖は麹町の人武井太留なる者旧紀州家の鉄砲師なり、測鎖製造に精し、仍て同く百ヒートの測鎖並に垂球を造らしむ、此の二者は直接測量には関係なしと雖も、其功績没す可からす。>

○7年、<1月5日、新年宴会に酒鐉を賜る、内外人一堂に集り筵を開く、宴酣にして、放歌乱舞する者あり。>

※測量司正の河野と測量師長マクヴェインがいない状況で、皆はめをはずしたということか。しかし、その数日後に測量司は内務省所管となり、翌月には大蔵省土木寮からの技員が合流し、測量司は大混乱に陥ることを皆知らない。

・1月9日、測量司を内務省に隷属せしむ、五等出仕村田文夫測量正代理となる、后本官となる。

※測量司の移管は「大久保日記」の記述と符合する。<大久保利通日記>を参照。但し、村田は河野が海外出張中は測量正代理となっており、1月12日に河野が帰国(公文録:河野の帰朝)後、河野が何らかの理由(病気?)で復職しなかったので、暫くして測量正となった。河野の離職の理由と時期は不詳。

・2月、官制改正。

同月、測量正河野通信帰朝す、尋て免官となる。

※官制改正は、大蔵省土木寮からの技員が加入したことで必要になった。前述したように、河野の帰国は公文録に1月12日となっているので、館の記憶違い。理由は不明であるが、大久保による強引な測量司移管に反対して辞職した可能性もある。官制改正とは、測量司に大蔵省土木寮からの芸員が加わったことを指す(太政類典)。

II. Foundation of Public Works工部省創設の経緯

・拙稿『工部省創設再考(日本建築学会計画系論文集2015年)』をお読み下さい。