McVean's Collection of Photographs of Japan, 1869-1910.

マクヴェイン所蔵の明治日本の写真

WHAT'S NEW更新  started in Jan. 2011,

September 1, 2022: Revision of Profile of Samuel Parry.サミュエル・パーリーについて修正

August 28, 2022: photographs sent by Helen Brodie Gubbins.ヘレン・ガビンズから送られてきた日本写真

October 10, 2020: updated in Tomita富田淳久 and  Tanaka Yoshio?田中芳男?.

May 2021: largely revising contents and appearance  according to new google site format

I. Preface

McVeanが生前、幼少の頃から亡くなるまでの写真を収集整理したものであり、特にマル島に隠居してからの写真が充実している。長女Helenが駐日公使館 書記Gubbinsと結婚したため、東京から送られた多くの写真も含まれており、 またマル島で孫たちが自然を楽しむ姿が撮影されている。


II. Japanese Individual Photo-cards

(1) 岩倉具視Iwakura Tomomi

"Iwakura"

(2) 伊藤博文Ito Hirobumi

※1871 年岩倉遣米欧使節に 副使として参加する直前 のものであろうか。2代目工部省大輔、初代工部卿としてマクヴェインと家族的付き合いをしていた。

"Ito"

(3) 上野景範Ueno Kagenori

・Album_Fig.39の写真より若干老けて見え、1874年駐英公使として就任する前後の写真であろうか。

"Wueno"

(4) 山尾庸三Yozo Yamao

・1863年長州五傑として渡英した 頃の青年時写真はあるが、壮年時の写真は これが唯一ではないだろうか。山尾が伊 藤のもとで初代工部省少輔を担ったとき、すぐにマク ヴェインを測量司・工学寮お雇いにしたのは、すでに二人には面識があったからだと思われる。

"Yozo Yamao"

(6) 林董Tadasu Hayashi(もと林董三郎Hayashi Tosaburo)

・同時代の若者と同じように波瀾万丈の人生を送った。佐倉藩に生まれ、幕府派遣に1866年イギリス留学。1年後帰国し、義兄の榎本武揚に従い箱館まで従軍、しばしの謹慎後、明治政府に出仕。伊藤博文に見いだされ彼の私設秘書として岩倉遣米欧使節に同行。工学寮工学校立ち上げに尽力することになる。同大学校造家学科第 一期卒業生の曾根達蔵が、入学試験の時にちょっと気取った人物に出会っ たと述べているが、それが写真の林である。さもあらん。

"Hayashi"

林董(17歳)「明治名士写真帳」1866年ロンドンで撮影

(7) 工部卿山尾庸三の署名Signature of Yamao Yozo, Minister of Public Works

※これはマクヴェインのスクラップブックに貼られていた もので、山尾庸三の自筆と考えられ、マクヴェインとどれだけ近しい存在であったのかがわかる。初代伊藤、二代山田に次いで、山尾は1880年に工部卿に就任し、その就任をマクヴェインに手紙で知らせたのかもしれない。

(8) 室田秀雄Murota Hideo

※箱館戦争降伏組の一人で、しばしの謹慎後、1872年6月に明治政府工部省測量司に採用された。測量司が内務省に移管されると旧幕府海軍の小林一知らが合流してきたが、彼らとは一線を画し、辛抱強く日本人職員と外国人職員との調整を行い最後までマクヴェインを支えた。

"Murota Hideo"

(9) 村田文夫Murata Fumio

※広島藩出身で、幕末にグラバーから資金を借りてイギリスに密航し、アバディーンで英語他を学習。帰国後、広島藩の洋学校で教師を務めるかたわら、『西洋聞間録』を著したところ、藩から明治政府に推薦され民部省に出仕。工部省発足とともに工学寮と測量司の役人となり、マクヴェインを支えた。銀座築地大火の後、マクヴェインのすすめで『西洋造作ひながた』を翻訳出版。測量司が内務省に移管されると、職制を巡って大久保利通と杉浦譲と対立し、しだいに官僚としての活躍の場をなくした。1876年には辞職し、英語塾経営とジャーナリストとして活動した。『団団珍聞』など。

"Murata Fumio"

(10) 黒田長溥Kuroda Nagahiro

※1874年12月8日、マクヴェインとジョイナーとジョン・キャンベルはこの黒田から鴨狩りと鴨料理に招待されている(2020年10月10日加筆)。




"Kuroda"

(11) 三井資源Mii Shigen, 小川資源Ogawa Shigen}

※このメイは三井資源であり、山口県から明治5年2月に測量学校に入学し測量見習いとして出仕した。おそらく、山尾と河野の推薦であろう。出仕後、小川に改名し、マクヴェインの助手的役割をしており、しばしば大和屋敷のマクヴェイン家に立ち寄った。1874年12月9日の金星日面通過観測では、一台の望遠鏡を操作した(2020年10月10日加筆)。

"Mei,Interpreter"

(12) 富田淳久Tomita Atsuhisa, 西山淳久Nishiyama Atsuhisa

※冨田淳久に間違いなく、冨田は1873年佐野常民ウィーン万博副総裁のもとで事務官を務めた。1873年、ロンドンのケンジントン博物館で物品収集や展示の研修を受け、一時帰国したマクヴェインから支援を得ている。帰国後、工部省測量司に勤務し、1874年1月、測量司の内務省移管とともに内務省転属となった。その前後に、西山に改姓した。測量司/量地課/測量局の廃止後、勧業寮に勤務した(2020年10月10日加筆)。

※マクヴェイン日記には"Wednesday 24 Sep Went to Kensington Museum – Tomita out saw Taketa"とあり、後者のTaketaとは武田昌次(塚原昌義)である。

"Tometa in London"

Possible Tomita from McVean's Farewell Photoマクヴェイン送別記念写真中の富田

(13) Unknown in London, おそらく田中芳男?. Possibly Tanaka Yoshio?.

※マクヴェインが一時帰国したときに、ロンドンで上の富田と武田昌次の外にもう一人の日本人(妻?女性同伴)と会った。名刺交換はしたものの、人物名をメモする忘れてしまったであろう。武田昌次は50歳を越えているので、この写真の人物は田中芳男と思われる。理由は『捃拾帖』の中のサムライ姿の人物と酷似するからである(2020年10月10日加筆)。

"Unknown in London"

田中芳男(『捃拾帖』八一 画像[33])

(14) Unknown Lady in London. 田中芳男夫人?. Possibly Lady Tanaka ?

※詳細は不明であるが、マクヴェインは上記(13)写真の人物と一緒にロンドンであったのだと思われる。

※田中と一緒にいた女性なので,彼の奥さんであろう。

"Unknown lady in London"

III. Foreigners' Photocards

(14) John Englandジョン・イングランド

※ジョン・イングランド(John England)は、横浜=新橋間の鉄道敷設、次いで大阪=神戸間の鉄道敷設などを担当。1876年に建築司長になったが、1877年日本で死去。写真はベ アト・スタジオ(F. Beato & Co., Japan)製である。

"England, Railways"

(15) Charles Sheppardチャールズ・シェパード

※シェパード(Charles Sheppard)は鉄道敷設計画を担当し、1875年に死去。写真名刺裏には、アデレードのヘンリー・ジョンズ・スタジオ (Henry Jones, Artist Photographer, Opposite Town Hall, King William St. Adelaide)製と印刷されている。二人とも日本鉄道の恩人である。

"Sheppard C.E."

(16) Mrs Sheppardシェパード夫人

※シェパード婦人

"Mrs Sheppard"

(17) サミュエル・パーリーSamuel Parry

※1869年9月にマクヴェインとブランデルが燈明台を辞職し、後任として雇われた技師の一人。エジンバラのスティブンソン事務所を通して来日したのかは不明であるが、スコットランドでそれなりのシヴィル・エンジニアの経験を持っていた。1875年撮影の写真を見ると、30歳代後半であろうか。1873年6月7日退職し、横浜で技術事務所を開設した。マクヴェインが帰国した後、興味深い手紙のやりとりをしている。写真名刺は横浜のウィルマン・スタジオ(Willmann's, 59 Mainstreet, Yokohama)製である。

SOURCE

(1) The Japan Gazzette, November 30, 1873.

AD - Samuel Parry. Engineer, Architect and Surveyor.

Temporary Office, No.100, Messer. E.C. Kirby & Co.,

"Samuel Parry, Willmann's, 59 Mainstreet, Yokohama"

(18) ロバート・スチュワートRobert Stewart

※ロバート・スチュアート。名刺裏にはRob. Stewart, Yamato Yashiki, Tokei, Jan 21/76と記され、内田スタジオ製。大和屋敷を住所としているので、測量師のスチュワートである。

"Rob. Stewart, Yamato Yashiki, Tokei, Jan 21/76"

(19) ジェームス・マークスJames Marks 

※燈台寮雇用の石工、ジェームス・マークス。名刺裏には7/2/69,Yokohama, R.E.と書かれている。通常R.E.はロイヤル・エンジニア(陸軍工兵)を示すが、写真からそうは思えない。

"J.Marks, 7/2/69, Yokohama"

(20) Kotosan

※来歴及び人物不詳

"Kotosan"

21) unknown, (ウィリアム・クレゲーWilliam Craigie)

※『旧工部大学校史料・同付録』に掲載されているクレゲーWilliam Craigieと同一人物であることが判明(2017May7)。  William Craigie from ICE Historical Materials

unknown (ウィリアム・クレゲーWilliam Craigie)

  William Craigie from ICE Historical Materials


(22) unknown (Possibly de Boinville)

※不詳。Boinville???彼の子孫からは「何ともいえない」と返事をいただいている。

(23) unknown

※不詳。Agnes de Boinvile??]

(24) unknown

※『旧工部大学校史料・同付録』に掲載されているジョン・ペリーJohn Perryと同一人物であることが判明(2017May7)]。


unknown

 John Perry from ICE Historical Materials


(24) unknown

※『旧工部大学校史料・同付録』に掲載されているライマー・ジョーンスRymer Jonesと同一人物であることが判明(2017May7)] 。

unknown

Richard Olver Rymer-Jones from ICE Historical Materials

(25) unknown 

※不詳] 

unknown

IV. Japanese Scenery日本の風景

(1) Nagasaki Foreign Settlement      (2) Dejima

※長崎写真といえばベアトのものが有名であるが、それとはアングルが若干異なっているように思われる

III. Photographs sent by Helen Brodie Gubbins, 1895-1910.ヘレン・ガビンズから送られてきた日本写真

(1) Tokyo東京

British Legation Tokyo, October 1899.

(2) Karuizawa軽井沢

"Three Headed God of travellers. The figure stand in the grounds of Jack and Noni's house. The Man is one of three servants, Takagi."軽井沢の三面観音、左は召使いの高木。

Gubbins' Summer House at Karuizawa.軽井沢避暑館の庭園側

Entrance of Summer House at Karuizawa.避暑館の玄関側