2.McVeanマクヴェイン研究

WHAT'S NEWS & UPDATE更新ニュース
February 14, 2019: McVean Visited to The Royal Observatory in 1873.グリニッジ観測所訪問
-I misread McVean's handwriting, Chorlton? Charlton?. I could not find this place near London, but McVean and Scharbau went there to see new instruments for observations and learn how to observe Venus Transit for the end of 1874 in Japan. Suddenly in this morning, I wondered that it would be a place near the Royal Observatory, Greenwich and checked it in Google Map. Oh, oh, oh,,,,,, I got it. Charlton Way is a main street leading to the Royal Observatory. For people in the 19th century, going to Charlton meant visiting the Royal Observatory.
-マクヴェイン日記の筆記文字をずっとChorltonかCharltonかなと思って、それはどこで、なぜ行ったのかを調べていました。マンチェスター大学近くにChorltonという地名がありますが、しかし、ロンドン市から小一時間で行ける距離ではありません。今朝、はたとGreenwichのRoyal Observatoryの別名か旧名じゃないかと思い当たりました。GG地図を調べてみると、出てきました。グリニッジ王立観測所前の通り名がCharlton Wayで、私が筆記文字の読み方をChorltonと読み間違えていたことと、これが施設名だと思い込んでいたことから、出てこなかったのですね。19世紀後半のイギリスではチャールトンCharltonへ行くということはグリニッジの王立観測所へ行くことを指していたのでした。ここでマクヴェインはシャボーとともに新しい観測装置の設置工事を見せてもらい、さらに太陽面金星通過観測のやり方を教わったのでした。戊辰戦争から復権した幕府技術者に内務省地理寮が乗っ取られなければ、大々的に天文観測創始者としてマクヴェインの名前が残っていたのに、残念。
McVean had to learn how to use it for Venus observation schedule in the end of 1874. McVean “went to Kensington Museum – Tomita out saw Takita – afterwards went to Charlton with S [Scharbau] to see the instruments in course of construction by T & S – Mr. Simms shewed us an apparatus for practicing observing the transit of Venus.”
January 31, 2019: My article "McVean and Meiji Japan" is going to compelete soon.「マクヴェインと明治日本」まもなく
--I am struggleing to complete san article "C.A. McVean and Meiji Japan" putting new finding into it. McVean's last day in the Survey Department under the Home Office" is very complicated and interesting. See <1874 Venus Transit>
--「マクヴェインと明治日本」がまもなく脱稿するに当たり、内務省地理寮時代の彼の業績を整理しています。工部省測量司以来の職員と旧民部省土木寮職員との軋轢、さらに戊辰戦争敗者側の巻き返しなど、大変興味深い内容ですが、マクヴェインの断片的な日記と手紙から分析するのは難しい面があります。とにかくは<1874Venus Transit><1874-76Home Office>などをご覧下さい。
January 28, 2019: Japan's First Opera Concert in the Kogoku-Ryo, 1875.工学寮校舎で日本最初のコンサート
--Mr. and Mrs. McVean "went to the concert given by Signora Palmieri in the Kagakurio Hall in Oct.9, 1875, its a very nice hall." followed by a concert took place at the Government Bank house in Oct.21. Signora Palmieri was on the world tour in 1875.
--マクヴェイン夫妻は、1875年10月9日工学寮ホールで開催されたMaria Palmieriマリア・パルメーリによるコンサートを聴きに行き、続いて10月21日には第一国立銀行建物で開かれたMaria Palmieri & Alice Persiani姉妹をはじめとするコンサートに招待されたと述べており、前者は日本最初のオペラ歌手によるコンサートということになります。その会場がマクヴェインらが建設した工学寮小学館ホールだったことは大変な驚きです。横浜のゲーテ座でも開催されました。
January 13, 2019: Visit to Special Exhibition of "Japanese Participation to the 1873 Vienna Expo" at Tabaco & Salt Museum.
--I wished to identify the cabinet case made by William Scott Morton & Co. for the expo. McVean was asked to furnish the cabinet cases by Tsunetami Sano, and ordered them to William Scott Morton & Co. through Campbell Douglas, an architect in Glasgow. There were no photo showing the cabinet cases in the exhibition, sad. See <Antique><Scottish Architect>
--たばこと塩の博物館で「ウィーン万博博覧会:産業の世紀の幕開け」特別展が開催中なので、日本館のキャビネット・ケースがどのようなものであったのか確認するためにでかけた。残念ながら展示写真にはよく写っていなかった。1872年暮れ、マクヴェインは佐野常民から湯島の展示場に呼び出され、ウィーン万博における日本館の展示について相談を受ける。マクヴェインは、1851年と1862年のロンドン万博を見たことがあり、佐野にいくつか助言をした。1873年に入り、具体的に展示用ケースの設計を依頼された。マクヴェインの手紙の中に、佐野からの礼状とキャンベル・ダグラスからのインボイスがあり、それからこの展示ケース類はキャンベル・ダグラスの手配でエジンバラのウィリアム・スコット・モートン社に注文され、1873年5月にウィーンに送られたことがわかる。
January 6, 2019: Decoding of a McVean's "Survey Department" Photo. マクヴェイン「測量局」職員記念写真の解読
-McVean endevoured to found geodic survey in the Meiji Japan, and this photo had to represent highlight of his achievement. But, several Japanese officers did not look at camera, pretending insolence. They might be member of the Anti-Foreign Party, Miura and Hayashi. See <McVean in Home Office>.
・マクヴェインの測量局(内務省地理寮量地課)職員記念写真は長い間理解できないでいた。1874年5月、イギリス一時帰国から復職し、職員も機材も揃い、思っていたことを展開できる時期なのに、なんと散漫な記念写真なことか。下段の人物の特定ができ、彼らの態度はいいとして、河野通信はいないし、課長を務める村田の表情はさえないし、上段中央二人はそっぽを向いて記念撮影なんかに参加したくないという風情。彼らが反お雇い外国人運動の主導者だったと考えるとこの写真が納得できる。See <McVean in Home Office>.
Scharbau, Cheesman, Stewart, Murota, McVean, Murata, Joyner
・この時期の記録として館潔彦「測量野史」が残されているが、彼は工部省測量司発足初期からいた人物ではなく、測量司がどのような指示系統で動いているか理解できていない。すべて山尾の了解の下でマクヴェインが動かしていた。
January 2, 2019: John Francise Campbell's Photograph
-In 1873 when McVean returned home, he was asked by John Francise Campbell to advice to visit Japan. This Campbell was a friend of Rev.Donald McVean and well known scholar in Celtic culture. McVean recieved his photo, now its one of McVean Archives. See <McVean's Friends>
-マクヴェイン日記にジョン・フランシス・キャンベルという名前が登場するが、彼は大変興味深い人物であった。エジンバラ大学を卒業後、数々の法曹界の要職を務めながらゲール民俗文化の重要性に気づき、その研究を始めた。1874年、世界の民族との比較研究のために世界旅行に出発し、日本ではマクヴェインから日本旅行のための便宜を受けていた。キャンベルの旅行記が、1878年にイザベル・バードを世界旅行に誘ったことになる。See <McVean's Friends>
-I suddenly found this article... I have met a large number of decendents, want to know real root of her.
-マクヴェインの子孫の方が国際交流プログラムを通して来日したとの2017年の記事です。私はかなり多数の子孫の方をお会いしていますが、長女ヘレンとガビンズの曾孫?に当たる?
August 23, 2018: Michihisa Ookawa's Records Related with Survey in Meiji Japan at Numazu Meiji Archives.
-Ookawa, a government officer of early Meiji Japan, saved several documents of the survey department from the fire took place in 1875, and they are now collections of the Numazu City Meiji Archives. I had to read them to describe McVean's 1874-76 years. Big conflicts have taken place between British surveyors and Japanese staffs in the Survey Department during McVean were in the Britain in April 1873 - April 1874. McVean could not overcome the issues......
-大川通久所蔵「測量局沿革書稿」が沼津市明治史料館に所蔵されており、今回、原本を閲覧・撮影してきた。既往の測量史研究ではよく知られた資料で、私自身測量史に興味を持っているわけではないが、マクヴェインの明治政府雇用の最期を書くために見ておかなければと思った次第。測量史研究で「マクビン排斥意見書」として知られているが、大川コレクションにはもともとタイトルがなく、司書が適当に付けたものであることが判明。マクヴェインは測量というものを分かっていないという誤解から生じていることは大変残念で、マクヴェインが1874年4月に一年ぶりに帰国し職場復帰すると職場は混乱を極めていた。測量司は工部省から内務省に移管され(山尾という後ろ盾を失った)、測量技師ハーディは職場放棄し(病気怪我を理由に)、大阪と京都の測量にでかけた二人のイギリス人測量技師は日本人技術職員といざこざをおこし、さらに先に帰って復職していたはずの河野通信がいなかった。日本人最初期の測量技師であった三浦省吾らは、内務卿の大久保が佐賀の乱を鎮め、さらに西郷らとの戦いに備えていることを知って、緊縮財政の中でこれ以上御雇い外国人は不要であると言い出した。マクヴェインがAnti Foreign Partyとはこの三浦らのことを指しており、村田と室田も抑えきれず最終的に杉浦譲がその決断をしたらしい。気象観測はまだ日本人では代替えできず、外国人技術者の力を借りるべきだとしている。舘潔彦「日本測量野史」は、数カ所を除けばマクヴェイン日記とほぼシンクロしている。

August 10, 2018: Isabella Bird asked McVean advice for traveling Japan in 1877-78.
-McVean finished contract with Japanese government and returned to Scotland in June 1876 through USA. When he and wife stayed at Edinburgh, they met several times Isabella Bird, who asked McVean as "7 Atholl Crescent Edinburgh Feb 24/ 78, Dear Mr McVean. You kindly said that if I decide on going to Japan you would help me with introductions etc", and McVean replied as "Friday Mar 22, Writing Miss Bird letters of introduction to Japan friends." See <McVean's Friends>.
-マクヴェインは明治政府との雇用契約を終え、1876年4月、横浜を発ち、太平洋-北アメリカ-大西洋を渡り、同年6月にスコットランドに帰り着いた。エジンバラは妻マリーの実家があるところで、そこでしばらく滞在していた時、マクヴェイン夫妻はイザベラ・バード姉妹と数回会っていることが分かった。バードが日本に興味を持ったのはJ.F. Campbell Islayの日本旅行記からであったが、そのCampbellはマクヴェインの支援を受けて日本を旅行したので、バードは直接マクヴェインに助言と便宜の提供を求めた。それに対してマクヴェインは親切な手紙を書き送り、おそらく、イギリス公使のパークスと同書記官のガビンズ、さらに山形にいたフリーメーソン仲間のダラスを紹介したと思われる。<マクヴェインの友人たち>を参照願う。

July 18, 2018: Reading of McVean's 1873-80 Diaries.
-McVean left Japan for home on March30, 1873, and stayed there a year. Mary delivered the third baby, and described her feeling with Japanese poem. I am really interested in it, but can not read her pencil writing.
・マクヴェイン日記1873-80年読んでいます。1873年3月30日、マクヴェイン一家はイギリスに一時帰国することになり、公務としては測量と気象観測のための器機購入とシャボーの雇用手続きで、後は5年ぶりの故郷で友人知人と旧交を暖め、また雑務をやっていました。妻のマリーは7月に第3子を出産し、直後に日本語の詩らしきものを日記にしたためます。鉛筆の走り書きで、興味ありますがうまく解読できません。日本に戻るに際して、アグネス・コーワン(ボアンヴィルの婚約者)とグリグスビィ(William Ebenzer Grigsby, 1847-1899, 開成学校法学教授)を同伴します。何の用事か分かりませんが、膨大な数の人間と会っています。シムズ(James Simms)に関しては、金星通過観測の項目に書き足しました。日本に戻ると実に大変なことが待ち構えていました。測量司が内務省に移管され、そこの卿の大久保は軍を率いて佐賀の乱を鎮め、部下のハーディが職場放棄をしており、せっかく買いそろえた測量観測器機が事務所の火災で灰燼に帰してしまい、さらに外国人排斥運動が起こりと、山尾と語り合った日本の地理学データの整理の夢が・・・・

July 1, 2018: Old Photo of First Technical School Builidng designed by McVean, lated utilized by Tokyo Jyogakukan.
・工部省工学校小学校校舎はマクヴェインとジョイナーの設計及び工事監理で1873年に完成しましたが、内部写真は残っていませんでした。のちに工部大学校キャンパスを購入したのが東京女学館で、そこに旧校舎の写真がありました。関東大震災直後の様子です。
これは生徒館となっていた建物で、この部屋は学習室兼図書室です。工費削減のために、このマリオンは初めは石で作るはずが煉瓦に変更され、また煉瓦壁が半枚分薄くなりました。ゴシック風の作りはどうもグラスゴー大学がモデルであったような気がします。C.ダグラスが素案を送ってくれた!?!?!
May 14, 2018: Visit to former Japan Light House Department Quarter, Yokohama
・横浜桜木町駅まで来たので、旧燈台寮敷地を訪問しました。
  
現在の旧敷地Former Quarter Site         ブラントン邸Brunton's House マクヴェイン邸McVean's House
April 20, 2018: Colin Gubbins Did NOT appear in new Churchill's Movie
-I tried to find Colin Gubbins in Churchill's new movie, but no appearance. Colin Gubbins is a grand-son of McVean and was a Head of SOE, so-called Churchill's private agent.
・新『チャーチル』映画にコリン・ガビンズが登場するのではないかと期待していましたが、残念ながら出ていませんでした。このコリンはマクヴェインの孫で、SOE(特殊工作本部)長官を勤め、チャーチルの極秘情報部と呼ばれていました。
January 4, 2018: Communication with Henry Mcghie of Machaster University about McVean's works on Ornithology of Yedo
・マンチェスター大学の動物学者ヘンリー氏より、マクヴェンによる皇居野鳥について研究論文(1874)について問い合わせがありました。
October 31, 2017: Amazing! Thomas Telford Designed Church and Mance of IONA!!!!
・アイオナ島略史(HISTORY OF CHRONOLOGY with Special Reference with IONA)の中に、<1828 Parish Church and Manse built, to
Thomas Telford design>という項目がありました。このテルフォードは、イギリスの土木技術を確立した人物で、土木技師学会を創設し、初代会長を務めました。テルフォードは国家予算を使いスコットランドに32の教会・牧師館の建設を企画し、その中で11棟が彼の設計で新築されました。マクヴェインの生まれた家はアイオナのテルフォード教会の隣でした。この事実をマクヴェインは父親から聞いていたはずで、彼の職業観に大きな影響を与えたことはまちがいありません。
October 1, 2017: Kinjiro, Japanese-English interpreter for Lighthouse Department was Kentatsu Fujikura
・1869年のマクヴェン日記に登場する通訳キンジロウが藤倉見達(膳所藩出身、1852-1934)であったと思われます。工部省史研究によれば、藤倉は灯台寮最初期の日本人職員となり、後にエジンバラ大学に留学し、初代燈台局長になりました。当時、英語を本格的に学ぼうとすれば横浜外国人居留地のヘボン塾しかなかったでの、2歳上の林董と一緒に学んだと思われます。
August 12, 2017: McVean Clashes with Ookubo, a Minister of Home Affairs  for national survey
・1875年のマクヴェン日記に内務卿大久保と文章のやりとりをした記録があります。大久保は鉄道による内陸交通よりも港湾による水運重視しました。工部省はイギリス人技術者を傭い社会基盤整備(鉄道建設に代表されるようにな)と殖産興業を進めていきますが、新設された内務省はオランダ人技術者を傭って築港と河川整備へと向かいます。鉄道部門を残し、工部省解体の道のりはここから始まったといっていいでしょう。測量司は1874年に工部省から内務省に移管され、内務省ではしだいに国土測量の必要性は薄れていきます。背景には、個々の国土開発事業にともなって周辺地域は測量され、ひいては国土全部を網羅するのだから、内務省地理寮が国土測量をしゃかりきにやらなてもよいという考え方のようです。
June 12, 2017: C.A. McVean was a member of Freemason at 1874 Yokohama
-McVean left a member list of Yokohama Masonic Lodge, and he was superintendent of works, while president was Charles Henry Dallas, and vice-president was Thomas William Kinder.
・ マクヴェンのスクラップブックの中に1874年フリーメーソン横浜ロッジのメンバーリストがあり、それによればマクヴェインは管財係を務めていました。どのようにしてフリーメーソン会員になったのかは不明です。要職を務めた会員として、ダラスCharles Henry DallasとキンダーThomas William Kinderがいました。このダラスは1864年頃横浜で貿易商を営み始め、1870年には大学南校の英語教師に採用され、後に米沢の興譲館に移りました。キンダーはマクヴェインと同じように土木技術者で、大阪造幣局の技師長を務め、また大阪市庁舎の設計も行いました。詳しくは<Kinder>を請参照。
June 5, 2017: Colin Brown, a person who supported Yozo Yamao at Glasgow
-Colin Brown was asked by Hugh Matheson to take care of Yamao in 1866. Yamao comfortably stayed at Brown's home with his family nearly two years. Brown was a music instructor at Andersonian College, and compiled "Songs of Scotland" in 1877 with J. Pittman. 
-山尾庸三は、マセソンの紹介で1866年にグラスゴーに行き、コリン・ブラウンに世話になりながら2年間技術研修を行いました。この二人の恩人とは日本に帰ってきてしばらく疎遠になっていましたが、1871年になってマクヴェイン親子の仲介で再び連絡を取り合うようになりましたこのブラウンはアンダーソニアン・カレッジの音楽教師で、『スコットランド民謡集(1877)』をJ.ピットマンとともに編さんし、またVoice Harmonium(オルガンの一種)を発明したことで有名です。山尾がブラウン家に下宿していたとき、Auld Lang Syne(蛍の光)を間違いなくてたでしょう。
May 5, 2017: Several McVean's photos identified, they were teaching staffs of the Imperial College of Engineering, Tokyo.
-マクヴェイン古文書の写真集に人物不詳者が多数いますが、つい最近、彼らが工部大学校の初期教師陣であることがわかりました。
  
William Craigie英語教師   John Perry 物理学教師 Rymer Jones測量学教師
-1875年頃の写真と思われ、御雇外国人の中でも高学歴者に日本趣味が流行していたことが分かります。写真はありませんが、他にコンドルJosiah ConderやバルトンW.K. Burtonもそうでした。
April 15, 2017: Presentation on McVean's Achievements in Japan in Annual Conference of Japan's Society of Architectural Historians, Yokohama
-マクヴェインの業績に関して建築史学会大会で発表してきました。<McVean-建築史学会大会>を請参照。
March 18, 2017: Ready to submit new article related to McVean's works in Japan to international journal, see During Japan(1)
-マクヴェインの業績に関して、国際学術雑誌に投稿する準備ができました。まもなく、いきます!
March 18, 2016: Replica of Palmieri's electromagnetic seismometer now at Intermediateque, KITTE.
-旧東京中央郵便局ビルKITTE2階のインターメディアテークにパルミエリ地震記録計のレプリカが展示されています。1872年、マクヴェインはイギリス海軍水路測量局からアンリ・シャボーHenry Scharbau(フランス生まれ)を明治政府工務省測量司に雇用するに際して、山尾庸三に気象観測も始めるように進言しました。1873年、マクヴェインはイギリスに一時帰国すると測量機器を購入するだけではなく、イタリアのパルミエリ・ルイージ教授が開発したこの地震記録計を注文しました。インターメディアテークに展示されているものは複製品だそうですが、精巧な工芸品といったもので、製作に半年や一年は優にかかりそうです。注文したパルミエリ地震記録計はいつ日本に到着し、どのように観測が開始されたのかはマクヴェイン古文書の解読を待たなければなりません。
これは展示されているものではありません。画像の出展はここから
March 10, 2016: Conan Doyle in McVean's Achieves.
-Conan Doyle's father, Charles Altamont Doyle, 1832-, was an city surveyor of Edinburgh, when McVean was under apprenticeship during 1850s. I dont know they knew each other. J. H. Gubbins, son in law described "What is "Conan Doyle's Letter I think excellent" in his letter to McVean
-コナン・ドイルの父親はエジンバラ市の技師で、マクヴェインとほぼ同世代。彼らが知り合いであったかはわからないが、マクヴェンの娘婿で駐日英国大使館勤務のジョン・ガビンズからの手紙の中に"Conan Doyle's letter I think excellent"という一文有り。これは一体何を意味するのだろうか。
February 20, 2016: McVean's channels to employ the British engineers to Ministry of Public Works were Henry Scharbau, Cosmo Innes and Campbell Douglas.
-マクヴェインが工部省最初のお雇い外国人となり、山尾を助け測量司と工学寮の人技術者確保に勤めた。その時に生きたのはスコットランドで培った友人関係であった。
-測量と気象に関してはScharbau、土木技術者にはInnes、建築家にはDouglasに適当な人物を派遣してくれるように依頼した。
-このInnesはWilliam Burtonの叔父にあたり、Burtonが帝国大学土木学科衛生工学教員として就任する後押しをした。


I.Who's McVeanマクヴェインとは
 ここに登場するマクヴェインは、明治日本の技術史上で多大な貢献をなしたお雇い外国人であるが、自ら吹聴することがなかったので彼の業績はほとんど知られていない。第二次世界大戦中のイギリス特殊作戦部長官(SOE)を勤めたガビンズColin McVean Gubbinsと、James McVeanをペンネームとして「血の臭跡Bloodspoon」を書き上げたニコラス・ルアードNikolas Luardの祖父にあたる。
・1838年、スコットランド、アイオナ島生まれ。父親はアイオナ教会牧師を勤めていた。牧師館の横にはテルフォード教会が建っていた。

・1851年、父親に連れられてロンドン万博を見に行く。技術者を強く志す。
・1853年、エジンバラのハイ・スクールに入学し、卒業後、土木技術事務所で徒弟修業に入る。
・1860年、海事測量局に勤務、その後ブルガリアの鉄道建設に従事。
・1868年、江戸幕府燈明台雇いとなり、ブラントンとブランデルとともに燈台建設。来日前に、メリー・ウッド・コーワンと結婚。
 日本行きが決まったときから夫妻で日記を書き始め、また頻繁に家族親戚友人知人と手紙のやりとりをした。
・1869年9月、ブラントンとの不仲でブランデルとともに燈明台を辞職し、横浜のヴァルカン鉄工所を自営。鉄道建設及び造船関連の業務。富士山登山、ヘボン、ベアトらとの交流。
 *このVulcan Foundryは、蒸気機関車製造でしられるイギリスのVulcan Foundryと本当に関係があるのかは不明。
・1870年末、山尾庸三との出会い。コリン・ブラウンへの問い合わせ。山尾に国土測量、地図作成、気象観測を提言。
・1871年9月、工部省発足と共に、山尾庸三のはからいで測量司の測量師長に任用。測量司の御雇い外国人技術者の雇用差配。
・1872年、工学校小学校校舎他の設計と建設、初期工学教育、銀座煉瓦街測量と街区割り、関八州測量、岩倉使節団への便宜供与など。
・1872年、英国公使のパークスの代理として来日したワトソンと懇意にし、さまざまな便宜を提供。工部省の動きを英国政府と雑誌に伝達。
・1872年3月、佐野常民の依頼で、ウィーン万博日本館の展示キャビネットケースの設計。グラスゴーの建築家ダグラスを通して、エジンバラのウィリアム・スコット・モートン社で製作。さらに、ロンドン国際博覧会代表として渡英する冨田淳久に対して便宜を図る。
・1873年4月、一時帰国。最新測量機器と地震観測機器の購入。
・1874年、ジョン・フランシス・キャンベル(John Francise Campbell)に日本旅行の助言をする[Diary1874]。キャンベルは来日し、日本旅行記を著す。
・1874年4月、日本に戻り、測量司に復職。測量司は工部省から内務省に移管されていた。内務省地理寮量地局に改組。太陽面金星通過観測。
・1876年3月、内務省雇用契約早期満期終了。
・1876年5月、横浜出航、太平洋経由で帰英。
・1877年3月、イザベラ・バード(Isabella Bird)に日本旅行の相談を受け、「大丈夫、行きなさい」と背中を押して便宜を提供する[Diary1877-78].
・1878−80年、ロンドンで技術事務所の経営を志すが、最終的に断念。
・1881年、アーガイル候からスコットランドのマル島の別荘を借り受け、そこに隠居。長女は駐日書記官ガビンズとの結婚し、日本へ。長男はインド植民地軍人、次女は軍人のルアードと結婚。
 *日本滞在中に夫婦で日記を書き、家族友人と膨大な手紙をやりとりし、さらに膨大な美術工芸品を持ち帰り、遺族が保管している。
 *山尾庸三から最も信頼されていたスコットランド人技術者。

II.Meeting with McVean's Descendantマクヴェイン子孫との出会い
 工部省のお雇い技術者の活動業績は『明治工業史』にまとめられ、ウォートルス、ブラントン、モレル、ダイアー、コンドルらに比較するとマクヴェインの影は薄い。もともと、『明治工業史』は工部大学校初期卒業生の記憶をもとにまとめられたもので、一次資料が散逸し、内容に不明な点が多々ある。藤森が日本近代技術建築史の「神話時代」というゆえんである。日本側資料には限界があるので、もし御雇い外国人の記録が見つかればこれらの記述の信頼性が飛躍的に高まり、明治初期の技術史に新たな知見が得られるであろう。
 鉄道部門を除くと、マクヴェインは工部省に最も早く雇われた技術者の一人であり、山尾庸三を支援し、工部省の営繕寮(非公式)、工学寮、測量司などを立ち上げに尽力した。またマクヴェイン夫妻は日本への出発から帰国まで日記を付けており、さらに膨大な手紙や絵画などを残した(これ以後マクヴェン・コレクションと呼ぶ)。これを解読することによって、彼の業績の詳細とともに明治初期工学史を明らかにすることが可能になろう。
 私はもともとマクヴェインを直接の調査対象にしていたわけではなく、近代日本最初の土木技師ブラントンと近代日本最初の建築家ボアンヴィルを探っている過程で、彼の存在と重要な位置付けに気付いた。なかなか手がかりがない中で、あるスコットランド郷土史家がこのマクヴェインの妻の実家について詳細に研究していることを知り、彼にマクヴェインの遺族との対面の機会をお願いした。同時に、マクヴェインの末娘フローラ筋の方が曾祖父について調べており、日本の燈台研究者にコンタクトを取っていた。私はボアンヴィルの曾孫と何度か会っており、彼はマクヴェイン家筋の方と親交があり、紹介してもらうことになった。2010年10月、これらが劇的に結びつき、膨大なマクヴェイン遺品に出会うことになった。このような発見につながったのは、マクヴェインの子供たちの多くが社会的成功を収めたからで、軍人、作家、外交官などとして遺品をきちんと保管していた。今回の出会いを契機に、末娘筋のコリン・ヒューストン氏が遺品をマクヴェイン・コレクションとして整理保管することになった。以上に鑑み、また2012年がマクヴェイン没後100周 年にあたることから、2012年2月18日に「マクヴェインと近代日本」記念シンポジウムを開催した。

III.McVean's Biographyマクヴェインの経歴
 経歴に関してのよう記事が著されていた。
1) Colin Alexander McVean, Celtic Monthly, December 24, 1898
2) Little Journal, Griffis' Collection, Rutgers University

IV. The McVean's Collectionマクヴェイン・コレクション・20011年9月にマクヴェイン・コレクションの全貌をつかむべく、遺族のもとを訪問した。大きく写真類、日記、手紙、工芸美術品、他に分けられると思われ、以下にその内容を記す。解題は追って追加してゆく。
PART I. PHOTOGRAPHS, consisting Japan Album, Photo-card, Scenery, & c. PART II. DIARIES, 1868-1869, 1872-1881
PART III. LETTERS, received in 1868-76
PART IV. CRAFTS AND ETC.
PART V. Misc.
※McVeanはマクウ イーン、マクヴィン、マクビン、マコビンなどと邦訳されていますが,複数の遺族から発音を確認したところ,マクヴェインに統一することにしました。また、彼の子孫に文筆家がおり、その邦訳名もマクヴェインとなっています。ジェームス・ マクヴェイン『血の臭跡』。

V.What to be revealed through reading the diaries and letters?

1)近代測量地図及び気象観測の創始に関して
・コレクションの解読により期待される事柄は、まず第一に日本における近代測量と地図作成がどのように始まったかである。加えて、気象と地震の観測の創始についても日記等から判明する可能性がある。
2)燈台建設の作業過程とマクヴェイン辞職
・燈台建設に関しては日本側に若干の資料が残っているが、ブラントンの業務日誌が発見されていないので、建設の主体となっていた御雇い技術者が具体的にどんな作業を行い、困難を克服していったのかは分からない。また、マクヴェインとブランデルが一年足らずで辞職した理由も何か分かるかもしれない。
3)工部省の創始に関して
・伊藤博文、佐野常民、山尾庸三の三人体制で工部省は設置されるが、伊藤が岩倉使節団の副使としてすぐに外遊したため、工部省の立ち上げは佐野と山尾に任される。鉄道部門は事業目標と手段が明確であったが、その他の公共事業部局はどのようにして組織化されたのであろうか。
4)マクヴェインが測量司長に就くことになった経緯
・マクヴェインが佐野と山尾に測量部門の設置を提案したとも言われているが、はたしてそうなのか。また、マクヴェインは佐野と山尾とどのようにして知り合ったのであろうか。
5)工学寮と工部大学校の創始に関して
・ヘンリー・ダイヤーが工部大学校に就任する前に学科構成や就業年限などが定められており、いったいこれは佐野と山尾の発案だったのであろうか。すでに、1871年秋、マクヴェインが工学校建設に雇われ、翌年にはライメル・ジョーンズを招聘して測量の教育を行っていた。さらにマクヴェインは、妻の親族を通してケルヴィン卿と連絡を取り合っていた可能性もある。
6)工学校の建設について
・ウォートルス設計による竹橋陣営の建設に少し遅れ、工部省でも工学校の設計と建設を始めた。東京最初の本格的煉瓦造建築の一つであり、建設のための技術と材料のすべてを日本で調達したとは思えない。アンダーソンやマークスという職人が建設に関わったらしいが、これらの人物はいったいどういう人なのか。
7)銀座煉瓦街の計画
・最終的にウォートルスに任されるが、マクヴェインやスメドレーも計画案作成に関わっており、どのような経緯でこの事業に参加するようになり、彼らの案はどのようなもので、ウォートルス案と何が違っていたのであろうか。
8)ボアンヴィル雇用の経緯
・近代日本最初のプロフェショナル建築家であるボアンヴィルの来日の経緯は、キャンベル・ダグラスによるボアンヴィル死亡録からおおよそあきらかになっているが、マクヴェイン資料からも裏付けることができるかもしれない。
9)東京在住御雇い技術者たちの人間関係
・彼らの家族も含めて、御雇い技術者はどのような生活を送っていたのか、また日本人技術官僚たちとの交流はあったのであろうか。
10)明治初期の混乱期の東京の様子
・仕事や人間関係を通して、江戸から東京への変化をどのように感じて記録しているのだろうか。マクヴェインはキングスミルととともにフリーメイソン主要メンバー。
11)妻のメリー・ウッドを通した明治政府との関係
・岩倉使節団が妻マリーの実家であるコーワン製紙社を公式訪問したが、これはマクヴェインがアレンジしたからではないだろうか。マリーの兄は国会議員も務めており、日本政府にさまざまな便宜を提供した可能性がある。工部大学校の教師団を探していた伊藤博文に、ケルヴィン卿を紹介したことも含め。
12)1888年グラスゴー万博における日本館の展示品
・すでにマクヴェイン・コレクションの一部がこの展示会に貸し出されたことは分かっており、今後の調査の過程で展示品の全貌が判明するであろう。
13)写真について
・マクヴェイン写真コレクションにはこれまで本邦未公開のものが多数含まれており、今後の解明が待たれる。伊藤博文や大久保利通などの明治官僚と親しく交わっており、西郷隆盛の写真をもイギリスに持ち帰った可能性もある。
14)日本の野鳥に関する世界最初の学術論文の執筆者
・Geographical Societyに「日本に野鳥について」の論文を投稿する。・