January 22, 2018: Boinville Family Appears in on-going cinema "Mary Shelly"?上映中の『メアリー・シェリー』の映画にボアンヴィルの祖母と叔母が登場するか?
-Architect Boinville's great grandmother (Harriet Colins) and her daughter (Cornelia Turner) were leading members of a literary society in the early 19th century Britain, and very familiar with Percey Shelly. I wonder they appears in this cinema.
-建築家ボアンヴィルの曾祖母ハリエットとその娘コーネリアは19世紀前半イギリス文芸界の有力メンバーでした。特にコーネリアは社交界の華とうたわれ、彼女の肖像画とカメオがロンドンのいくつかの美術館に展示されています。この二人はパーシー・シェリーにフランス語やイタリア語を教えたり、深い付き合いがありました。その様子が、イギリス文学史研究書の中に描かれています。現在、日本ではパーシー・シェリーの妻を題材にした映画「メアリーの総てMary Shelly」が公開中ですが、その中にボアンヴィル家が出てくるのでしょうか→出てきませんでした(Feb. 2)。
January 19, 2019: P. Bracan teachs me how to pronaunce "Jean Baptiste" in English. This Jean Baptiste is a great grand father of architect Boinville.
-今朝のNHK-FM「モーニング・サンシャイン」でP.バラカンさんが、Jean Baptisteは「ジョン・バプティスト」と発音することを教えてくれました。
July 20, 2018: Origin of Agnes Cowan, Wife of Architect Boinville.
-Architect de Boinville married Agnes Cowan in May 1874 at Yokohama. They registered their marriage at both French Consulate and British Consulate. The Japan Weekly Mail introduced that Agnes's father was a banker at Ayr. The de Boinvilles visited to Oban to meet McVean after they attended at funeral of Agnes' father in 1886. According to newspaper in Edinburgh, Cowan who died in 1886 at Ayr was William Cowan, long time managing partner of Hunter and Company and 3 times provost of Ayr. Agnes was the youngest daughter of this William among 12 children!!! Agnes was from really rich and elite family as McVean's wife was. The de Boinvilles had a daughter and son. Mary Agnes married C. Oakley and died at Buxton according to MyHeritage.
-ボアンヴィルの妻であるアグネスは、横浜の英字新聞に掲載された結婚式案内からスコットランドのAyerのコーワン家出身であることは知っていた。しかしながら、コーワンという名字はとてもありふれた名字で、どのコーワン家かは定かではなかった。マクヴェイン日記の中に、1886年にボアンヴィル夫妻がアグネスの父親の葬式に出席し、その帰りにObanまで会いに来てくれたと書き記しており、調べてみると1886年に亡くなったAyerのコーワンはWilliam Cowan (1797-1886) という人物であることがわかった。このコーワン氏は長年ハンHunter and Co.の銀行経営をやり、その後Ayer Provostエアー市長を三期務めていた。ハンター社はスコットランド・ユニオン銀行に買収され、最終的には現在のロイズ銀行の起源の一つになっている。彼には12人の子供がおり、アグネスは末娘。マクヴェインの妻のメアリともども、大変良家のお嬢さんだったことになる。アグネスは1846年生まれといわれ、そうするとボアンヴィルより4歳年上。ボアンヴィル夫妻は日本で二人の子供をもうけ、長男のチャールズは国教会牧師になり、現在、孫のサイモン氏まで繋がっているが、長女のメアリ・アグネスの消息は不明だった。つい最近のとあえる家系検索サイトからC.Oakleyと結婚し、Buxtonで亡くなっていることが判明。日本を去るときには6歳になっており、彼女は「クララの明治日記」では流ちょうに日本語を操る姿が描かれており、どんな人生を送ったのだろうか。
August 25, 2017: Reconsidering E.W. Robins' Response toward de Boinville's Claim for Credit of Imperial College of Engineering.
--ボアンヴィルが設計した工部大学校校舎はイギリスの建築界及び教育界に大きな衝撃を持って受け止められた。科学技術教育にとって実験・実演・実習は必須ですが、19世紀後半はまだそのための部屋や装置をどのようにデザインすべきか、配置すべきか試行錯誤の時代だった。イギリスでこのことに強い関心を持ち、19世紀末に「科学・技術教育のための設計指針」を確立することになるロビンスという建築家は、1881年に工部大学校校舎を最も先駆的な事例としてイギリス建築界・教育界に図面とともに紹介した。それを知ったボアンヴィルは、自らのサインが入った図面が無断で『ビルダー』誌他に使われたとして、自らのクレジットを主張する。数週間後、ロビンズの返答が紙面に載り、そこには「私は工部大学校物理学教室の素案をエアートンに送ったので、私にも設計者としての権利があり、図面を使わせてもらった」と返答した。よくよく考えてみれば、工部大学校教員のエアトンから個人的に相談され、素案を作ったかもしれないが、彼はまったく権利を主張できなかったはず。なぜなら、当時の工部大学校の最高責任者であるダイアーと設計責任者のボアンヴィルはまったく了解していなかったから。責任者であるダイアーとボアンヴィルを通さずに、ロビンスが設計に関わったと主張してもそれは通らない話。しかしながら、本当にロビンズが工部大学校校舎(本館)の設計に関わっていたのなら大変なことです。なぜなら、エアートンは帰国後ロンドン市ギルド工学校City and Guilds of London Instituteの教授に就任し、ロビンスと一緒に校舎整備に関わり、この工学校は後にインペリアル・カレッジと改名するから。エアートンは工部大学校の設計図面一式をイギリスに持ち帰り、それを参考にしながらロビンスはギルド工学校の設計を完成させた?Imperial Collegeと改名したのは、日本のImperial College of EngineeringがImperial Universityに吸収され名前がなくなったから?
June 15, 2017: "Memoir of the Reverend Charles Alfred Chastel de Boinvile" is available in the University of Illinois Library sites.
--建築家ボアンヴィルの父親の追想録が、イリノイ大学図書館のサイトからダウンロードできるようになった。ちょうど、父親はヴィクトル・ユーゴーとほぼ同じ時代を生きていたことになる。他には『私はどうしてプロテスタント教徒になったのか』というフランス語の自書があり、こちらは復刻版を購入することができる。
February 25, 2017: Boinville's Works are still in existence in Kingston-upon Thames
--日本から帰国後、ロビンスという建築家と弟のWilliamと一緒にウエストミンスターのヴィクトリア・マンションに建築事務所を開設した。Robins and de Boinville Brothersという名前でロンドン商工案内に登録してあり、このロビンスというパートナーは、当時技術教育施設設計の権威であったE.W.Robinsなのかはまだ不明。1883年にキングストン・オン・テームズの長老会派教会を設計しており、現在コリアン教会として使われている。他にキングトン・シネマの設計も手がけたが、こちらは現存しているか不明。コンペにも積極的に参加し、Buttersea Polytecnicでは4点の優秀案に選出された。Welbin and de Boinville。
November 25, 2016: Nico de Boinville, great grandson of architect de Boinville got injured during jockey work.
--建築家ボアンヴィルの玄孫さんは現在ジョッキーとして活躍中ですが、11月中旬のレースで落馬し、腕を骨折したようです。早期の回復をお祈りします。
PREFACE
--コンドルJosiah Condor先生がやってくる以前に、外国人建築家が明治政府に雇われていました。このCharles Alfred Chastel de Boinvilleさんは、近代日本に最初の西洋人建築家です。
1850年、フランスに生まれましたが、英仏二重国籍者。フランスで5年、スコットランドで1年、建築家の修業を積み、そして1872年明治政府に雇われました。日本では工部大学校校舎、皇居などの大建築の設計を手がけ、イギリス帰国すると王立建築家協会資格を取得し、建築事務所を開設しました。バタシー・ポリテクニック・スクールなど、いくつかの設計コンペに優勝し、前途洋々の建築家人生を歩み始めましたが、1884年、建築事務所共同経営者の不祥事ですべてを失ってしまいました。それを救ってくれたのが、おそらく工務局事務局長ミッドフォードA.B.F mitfordとRIBA事務局長のホワイトWilliam Henry Whiteの二人で、ボアンヴィルをOffice of Works王立工務局にドラフトマンとしての職を得ました。1880年代後半外務省建築の設計を行い、1894年にはインド省顧問建築家(former Surveyer General)に就任し、インド省庁舎(現イギリス外務省)の改装を手がけました。イギリス建築界で再起を果たしましたが、1896年、風邪をこじらせ46歳の若さで突然肺炎で亡くなってしまいました。
--彼の曾祖父であるJoan Baptistaはフランスのアンシャン・レジーム期に大いに領地de Boinvilleを拡大し、またラファエットLa FayetteやナポレオンNapoleonとも懇意にしていました。フランス革命の際、La Fayetteとともにマリーアントワネットをヴェルサイユからパリに護送する役割を担いましたが、その後の政変の中でイギリスに亡命。ジャマイカの砂糖王ジョン・コリンズJohn Colinsの支援を受けているうちに、その娘と恋仲になりました。フランスには妻と息子がおり、重婚となるためグレトナ・グリーンで結婚式を挙げました。何を思ったのかナポレオンのロシア遠征にフランス生まれの息子と参加し、ポーランドで戦死。イギリス女性との間には長男と長女をもうけており、この長男Alfredは何をやっていたのかは不明ですが、1840年代にはパリで生活していたようです。長女Corneliaは高名な医師と結婚し、母親と共に英仏社交界で活躍し、詩人のParcy Shellyを支援していました。ちょうど、ショパンがパリで活躍していた頃です。長男Alfredの方にはCharles AlfredとWilliamの二人息子がおり、両方ともプロテスタント聖職者になりました。バプティスタの孫にあたるチャールズ・アルフレッドCharles Alfredはフランスで福音派の宣教師として活動し、10以上の教会を設立した。その長男がCharles Alfred、二男がWilliamで、二人とも建築家になりました。--日本近代建築史研究においてボアンヴィルに注目していたところ、彼の曾孫と出会うことができ、その数奇な生涯にさらに興味をもった。
--Before Joshia Conder was hired for architectural education o f the Imperial College of Engineering, C.A.C. de Boinville was working for the Meiji Government's Works.
I. Sources
1) Obituary, RIBA Journal, 1896, written by William Henry White and Campbell Douglas
2) Nigel's family history research
3) McVean's Diaries
4) "Memoirs of the Rev. Charles Alfred Chastel de Boinville", 1880, compiled by Thomas Constable
5) An article 'Imperial College of Engineering, Tokyo', Builder, 1878, contributed by C.A.C. de Boinville
6) "Victorian Competitions", 1989, written by
7) Dictionary of Architects in Scotland, website, contributed by Hideo Izumida.
8) クララの明治日記
II. Family History
please visit to 'de Boinville Family' in sidebar.
III. Birth and Childhood
ボアンヴィルの父の追想録"Memoirs of A.C. Boinville"の中に、息子Charles Alfredの誕生と成長が記載されている。父はイギリスのメソジスト教会からフランスに派遣された牧師で、イギリス人の妻とパリに居を構えた。長女Rachel出産とともこの妻は亡くなり、母の紹介でスコットランドから後妻を迎える。そこで、長男Charlesと次男Williamを授かる。家族は家庭では英語を話していた。
チャールズが建築家を志すようになったのは、父がフランス中に10棟以上のプロテスタント教会を創設したので、それを見ていたからではないかと思われる。10代半ばでフランス人建築家A. Guyotに弟子入りし、 その後シェルブールの建築家Geoffroyとイギリス人建築家William Henry Whiteに師事した。すべて高名な建築家であり、おそらく父親の人脈が生きたのであろう。当然、設計事務所で働きながら夜学校にも通っていたと思われるが、学校教育についてはまったく不明。曾孫のNigel氏はこのチャールズがソルボンヌ大学に入学したと語っていたが、真偽は不明。
父の人生は祖先と同じように波瀾万丈であったが、その最大の苦悩は普仏戦争により30年にわたるフランスにおける布教活動と生活基盤をすべて放棄しなければならなかったことであった。イギリスに拠点を置く布教団体からの支援がなくなったため、イギリスに戻ることを決意しドーバーを渡った。しかし、長男Charlesはパリに残りコミューン運動に身を投じた。彼は気球郵便でイギリスの父に手紙を送り、仲間とネズミをも食って生き延びたこと、無事であることを家族に知らせた。留置場に一月あまり入れられた後、イギリスに渡った。父はプロテスタント教会を離れ、イギリス国教会の牧師になることを決め、いくつかの教会牧師を務め、最後はKingston Upon Thamesに住んだ。
IV. Scotland
worked for Campbell Douglas, visited to France together with Douglas.
met Agnes Cowan, and married her in Yokohama, Japan
V. Kobu-Sho (Public Works)
-worked first under Colin Alexander McVean in 1873, then under Thomas James Waters.
-appointed as architect of Building Section of Public Works in 1874.
-worked at Tomioka?富岡製糸工場?
-Mary, daughter.
長女のマリーは日本語が上手であったが、イギリスに帰りどうしたのであろうか。
-Charles Chastel de Boinville, son. Charles studied at Oxford and became clergyman of Anglican Church.
チャールズは日本を去るときには4歳でしかなく、日本の記憶はほとんどなかったのに違いない。オックスフォード大学を出て、英国国教会の牧師になり、カンタベリー大主教就任直前まで上り詰めたが、妻の看病のために断念。子供にアルフレッドとデヴィットがおり、アルフレッドは王立農業大学を出て会社勤務、デヴィッドはブリテッシュ・カウンシル職員となり、最後はワシントンDCに滞在。
VI. Back to UK
-found architect's office with his brother and Robins.
弟のウィリアムとイギリス人建築家Robinsと一緒にヴィクトリア駅近くに建築事務所を開いた。Robins and de Boinville Brothersに見えるロビンスとは何者か?
-bankrupted his business and lost everything.
どういうわけか、建築事務所は倒産してしまう。この倒産劇は広く英国建築界に知られることになり、ダグラスもマクヴェインも残念に思っていた。
VII. Architect in H.M. Office of Works
-renovation of Foreign Office and Commonwealth Office
王室管財局(日本でいうと大蔵庁営繕局)に職を得たのは、当時、かつて駐日英国公使館書記を務めていたミットフォードが王室管財局長官を務めており、その縁が聞いたのであろうか。職名は製図工(draughstman)となっており、中途採用の彼はそう長居する予定ではなかったのであろう。
-designed some buildings at Kingston upon Thames, church and cinema.
父から引き継いだ屋敷がキングストン・アップオン・テームスにあり、市内の教会や劇場を設計した。
VIII. Architect in India Office
かつてMatthew Digby Wyattが勤めていた職位であり、42歳になってやっとイギリス建築界で認められたことになる。彼自身、官の建築家を目指していたとは思えない。