Family Tree of Charles Alfred Chastel de Boinville,1850-1896,from memories of Mr. Nigel Chastel de Boinville.

近代日本最初の建築家 アルフレッド・ボアンヴィルの家系;曾孫のナイジェル氏の記録による

Ⅰ.はじめに

(1)お雇い技術者

日本近代建築史におけるイギリス人建設技術者の果たした役割は大きく,直接イギリスの植民地支配を受けたアジアではなおさらのことである注1。彼らがなぜ海外にやってくるようになり,またどのような建設活動を行い,さらに現地建築とどのような関わりを持っていったのかを解明することは,近代建築史研究にとっての根本的テーマの一つである注2

19世紀のイギリスでは職能組織ごとの資格認定制度が進み,その有資格者は正会員の略語を名前の後に付すようになり,それは彼らの出自を調べるための重要な情報源である注3。建築家であれば,王立建築家協会正会員F.R.I.B.A, Fellow of Royal Institute of British Architectsと同準会員A.R.I.B.A, Associate of Royal Institute of British Architects,土木関連技師であれば土木技術者協会会員M.I.C.E, Member of Institute of Civil Engineersや衛生工学技師学会員M.I.S.E, Member of Institute of Sanitary Engineersであり,それぞれイギリスの学会本部事務局に会員資格審査の書類が保管されている。これ以外に陸軍の工兵技師(R.E, Royal Engineers) 注4がおり,在任中から公共事業や民間事業も手がけることがあった。彼らの経歴は,チャサムにある工兵学校やロンドンの公文書館の古文書から知ることができる。

(2)謎の技術者たち

一方,職能資格も持たずに腕一本でアジアにやってきて,非常に大きな活躍をしてしまった建設技術者がおり,代表者はシンガポールのコールマンGeorge Dromgold Coleman(1796-1844)注5と日本のウォートルスThomas James Waters(1842-1898)注6であろう。前者はイギリス人好事家により生涯が明らかにされたが,後者については来日前までの足取りは不明なままである。ちなみにウォートルスが紳士録に付したSurveyor Generalは官職名であり,もう一つのR.G.S.は王立地理学協会所属者であることを示し,しかしながら地理学協会雑誌への投稿は確認されていない。

加えて,もう一人あげるとするならば日本のボアンヴィルCharles Alfred Chastel de Boinvilleであろう。彼は名前からして長らくフランス人と考えられており(実際は二重国籍者),イギリス人がほとんどであった初期工部省御雇い技術者の中では特異な存在であった。筆者は,アジアにおけるイギリス人建築家の活動を調査するために建築雑誌『ビルダーThe Builder』』を閲覧していた際,とあるコンペ結果の記事にボアンヴィルの名前と,その名前の後ろにはM.R.I.B.A.という称号が付いていることを発見した注7。そうすると,彼は日本から帰国してから王立建築家協会の正会員になったことになり,王立建築家協会において資格審査記録を閲覧し,やっと彼の経歴が明らかになった注8

(3)ボアンヴィルの曾孫との面会

さらに2000年1月,米国聖公会の建築活動を調査されている松波秀子氏より,ボアンヴィルの孫がワシントンD.C.に在住であることをうかがった。さっそく手紙を出すと,ボアンヴィルの遺品は1945年の火災のためにすべて焼失し,イギリスに残った親戚が何か資料を持っていないか探してくれることになった。そして,香港で法律事務所を開業されている甥のチャールズ・ナイジェル氏Charles Nigel Chastel de Boinvilleが家系について関心を持っていることを知り,2002年に香港で会うことになった。氏は,ボアンヴィルがイギリス工務局建築家であったことは知っていたが,明治初期の日本で活動していたことは初耳であった。家系について知り得るところを四方に手を尽くして探していただくことになり,後日,ボアンヴィルの写真(Fig.1)とともに以下のような返事が届き,ここに全文を紹介し,コンドルと比較しながら彼の活動の特徴を考察してみたい。

Fig. 1. FAMILY TREE

(1) Jean Baptiste Chastel de Boinville, 1756-1813

(2) Harriet Collins

(3) John Collins

(4) Cornelia Collins and John Frank Newton

(5) Cornelia Pauline Eugenia Chastel de Boinville, 1785-1874 and Thomas Turner

・ジョアン・バプティスタがイギリスに亡命し、ジョン・コリンズの世話になっていたとき、フランスに妻子がいながら彼の娘ハリエットと恋に落ちてしまう。グレタナ・グリーンで婚姻届けを出して、長女コーネリア・ポーライン・ユージニアと長男ジョン・コリンズ・アルフレッドの二人の子供をもうけた。ジョアン・バプティスタは50歳を過ぎてフランスに戻り、ナポレオンに仕え息子とともにロシア戦争に従軍したが、二人とも戦死してしまう。フランスには子孫はいなく、ハリエッタとの間に設けた二人の子供だけになった。ハリエッタはジョアン亡き後パリに一時住み、そこでコーネリアとジョンの二人の子供を育て上げた。ナポレオンが失脚し、王政復古の時代、芸術界は爛熟期を迎える。ドラクロワやショパンなどが活躍し、コーネリアは才色兼備で社交界の花だったと言われる。彼女はイギリス人外科医のトーマス・ターナーと結婚した。

・サイモン氏はこのコーネリアのカメオを持っていた。美人だった。

・パリのモンマルトル墓地にお墓があることがわかりました。

(6) John Collins Alfred Chastel de Boinville, 1797-1880

・姉のコーネリアはフランスとイギリスを行き来していたが、弟のジョン・コリンズはパリに居着いたようだ。しかし、何をやっていたのかは不明。

(7) Harriet Lambe and William Lambe

・ウィリアム・ラムは当時の高名な外科医で、菜食主義運動を起こした。仲間にはトーマス・ターナー、ジョン・フランク・ニュートン、パーシィ・シュエリーらがいた。当然のことながら、ジョン・コリンス・アルフレッドやコーネリア・ポーラインの兄弟も菜食主義者であった。

(8) Charles Alfred Chastel de Boinville, 1819-78, Caroline, Mary Lentine Graham

・ジョン・コリンズ・アルフレッドとハリエッタ・ラムの間にはチャールズ・アルフレッドとウィリアムの二人の息子がいた。この二人はイギリスに戻り、宣教師の道を歩む。ボアンヴィル家はもともとプロテスタントを信じるユグノーであり、兄のチャールズはメソジスト会、弟のウィリアムは国教会の牧師になった。チャールズはメソジスト会からの支援で、フランスにプロテスタントを広めるための活動を30年ほど続けた。

(9) William Chastel de Boinville, 1823-1900

(10) Rachel Chastel de Boinville, 1845-Mar 19, 1900, Kingston Upon Thames.19 Mar 1900

(11) Charles Alfred Chastel de Boinville, 1850-1897, Kingston Upon Thames.

(12) Agnes Cowan, 1847-1901

(13) William Chastel de Boinville, 1852-1901

(14) Marie Agnes Chastel de Boinville, 1875-


・『クララの明治日記』にマリーとして頻繁に登場し、クララとは日本語で話すこともあった。ボアンヴィル家には数人のお手伝いさんがいて、離日する時には6歳だったので、英国に帰っても相当日本の記憶が鮮明に残っていたのであろう。残念なことに消息は分かっていない。

(15) Charles William Chastel de Boinville, son of A.C. de Boinville, born in Japan, 1877. died 1965.

--St Andrew's Church in Bishopthorpe, In December 1918 the Rev C W Chastel de Boinville, who had also served as an army chaplain and been awarded the MC came to the parish. He is recorded as living the North wing of the Palace rather than the vicarage next to the old church. Much to the regret of any local historian he discontinued the Parish Magazine, noting at the time that it was losing £15 a year due to lack of support.

--Formerly Vicar of Hythe, he agreed to officiate at services in Hastingleigh, Kent until a replacement could be appointed. He died in 1969, in Aldershot. A brass memorial plaque to him and his wife is in Canterbury Cathedral.

                       Fig.1 Architect Boinville, probably just    Fig.2 Graveyard, Charles and Agnes C.

    before he passed away at home.                    de Boinville, Kinsgton upon Thames

Ⅱ.フランスのボアンヴィル家

(1)ジョアン・バプティスタ・シャストール・ド・ボアンヴィル(曾祖父)

ボアンヴィル家は1718年にムーズ県Pierrefitteの貴族に列せされたニコラス・カステルNicolas Chastelに始まる。アンシャンレジーム期にはいくつかの農場を経営し大いに繁栄し,その中でヴェルダン近くの農場にボアンヴィルという地名注9があった。彼には3人の息子がおり,長男と三男はオリオコートOriocourtを,次男ジョアン・バプティスタJean Baptisteがボアンヴィルをそれぞれ相続した。フランス革命の時には,ジョアン・バプティスタはラファイエットと行動を共にし,ベルサイユからマリー・アントワネットをパリまで護衛した。フランス革命後,テロを恐れて祖国を後にし,長男はアメリ カに,ジョアン・バプティスタはイギリスに、三男はほそぼそとそこに残った。

イギリスに渡ったジョアン・バプティステは,1792年友人でもあるラファイエットの命を受けて,オルレアン公フィリップ2世をイギリスに留まるように説得したこともあった。男やもめのジョアン・バプティステは,フランス亡命者の集まりに出席することがあり,そこでイギリス人の支援者の一人ジョン・コリンズJohn Collins注10と出会った。彼は,セント・ヴィンセント島で砂糖農場を経営しており,ジョアン・バプティスタは彼の妹マリオッテMariotteと恋に落ちてしまった。二人はグレトナ・グリーンで式を挙げ,セント・ヴィンセント島に渡り,そこで二人の子供をもうもうけたが,砂糖事業はうまくいかなかった。

家族は一旦イギリスに戻ったが,ジョアン・バプティスタはこの家族を捨てて,フランスでの最初の結婚で生まれた息子を連れてフランスに帰ってきてしまった。そこでこの親子はナポレオンのロシア遠征に従軍し,不幸なことにこの親子は二人とも戦死してしまった。その後,マリオッテは二人の子供をつれてフランスに渡り,彼らを立派に育て上げた。彼女の友人の一人に詩人パーシー・シェリーPercy Shelly注11がおり,同じように菜食主義であったウィリアム・カウハードWilliam Cowherd注12とも知り合うようになった。

(2)ジョン・コリンズ・アルフレッド(祖父)

ジョアン・バプティスタとマリオッテの間に生まれた息子のジョン・コリンズ・アルフレッドJohn Collins Alfred Chastel de Boinvilleはカウハードの妹と結婚し,4人の息子と一人の娘を設けたが,惜しくも30才で亡くなった。娘のコーネリアCornelia Pauline Eugenia Chastel de Boinvilleはロンドンとパリ社交界の花とうたわれ,外科医のトーマス・ターナーと結婚した。彼女もパシー・シェリーと交友があり,彼の伝記にしばしば名前が登場する。

(3)チャールズ・アルフレッド(牧師、父)

ジョン・コリンズの長男と次男は祖父が残してくれた農場を再興しようとしたが,しばらくして二人とも聖職者の道を歩むことになった。長男チャールズCharles Alfredはイギリスのメソジスト教会からの支援を受けてフランス国内で30年にもわたり布教活動を続け,最初の妻は長女出産とともに亡くなり,彼は母親の紹介でマリー・グラハム(Mary Leontine Grahamというスコットランド人女性と再婚した。このチャールズの生涯については,トーマス・カンスタブルThomas Constableが『チャールズ・アルフレッド・シャストール・ド・ボアンヴィル牧師の追想録Memoir of the Reverend Charles Alfred Chastel de Boinvile (1882)』を出版しており,フランスでのチャールズの布教活動をスコットランド人篤志家が支えていたことがわかる。

チャールズには最初の妻との間に生まれたレイチェル(ボアンヴィルはニナNinaと呼んでいた),マリーとの間には二人の息子がいた。1870年,普仏戦争の勃発とともにチャールズは長男だけをパリに残し,家族を引き連れてイギリスに戻ってきた。ウエストミンスター宣言を行い国教会牧師になり,キングストン・アポオン・テームスで亡くなった。

Fig. Reverend Charles Alfred Chastel de Boinville

(3)チャールズ・アルフレッド(建築家、本人)

チャールズとマリーとの間に,1849年あるいは1850年にチャールズが,2年後には弟のウィリアムが生まれた。この二人の兄弟は共に建築家の道に進み,それは父親がフランス各地の約10カ所以上でメソジスト教会を建設したことからきたものであろう。兄のチャールズは15歳頃にフランス国内で設計事務所に弟子入りし,1860年代末には当時フランスで活躍していたイギリス人建築家ウィリアム・ヘンリー・ホワイトWilliam Henry Whiteの事務所に入った(Fig.5, 6)。20歳の時、ソルボンヌ大学に建築学を学ぼうと入学したが(ナイジェル氏談),普仏戦争とパリ・コミューンに徴兵され,学業を諦めなければならなかった。パリ・コミューン時代,風船郵便で父親に手紙を発送し,パリでの籠城生活の様子を伝えた(Fig.7)。

Fig. Boinville's Balloon Letter to Nina from Paris in 1871

除隊後,大学には戻らずイギリスに渡り,1871年、父親の紹介でグラスゴー出身の建築家注13のところに身を落ち着けた。その建築家はキャンベル・ダグラスCampbell Archibald Douglas 注14といい(Fig.8),父親のチャールズの友人であるトーマス・カンスタブルの親戚であり、学識豊かな人物であった。そこで,後に妻となるエアー出身のアグネス・コーワンAgnes Cowanと出会い,二人は結婚の約束をした。アグネスの父親はエアーで銀行経営を辞め,1870年にはエアー市長を務めていた。チャールズはダグラスの事務所に入って2年足らずで,ダグラスの推薦で明治政府の雇用建築家となるべく日本行きを決心した注15。ダグラスの親戚であるコリン・アレクサンダー・マクヴェインが明治政府工部省の測量師長を勤めており、ダグラスに建築家の紹介を頼んでいたのであった。

1874年になってアグネスが来日して,二人は横浜のイギリス領事館とフランス領事館の二つで結婚式をあげ注16,生まれてくる子供たちにも二つの国籍を取得させた。チャールズの家族は、『クララの明治日記』に頻繁に登場し,チャールズは日本とスコットランドについて悪口はいうが明るく陽気な人物に,アグネス夫人は教養のある親切な女性に、二人の子供のマリーとチャーリー(チャールズ)はクララのよき遊び友達として描かれている(Fig.9, 10)。

    

Fig. Campbell Douglas  Fig. Charlie (Charles William Chastel de Boinville)

日本政府との最初の契約期間を終えると帰国し,旧知のウィリアム・ヘンリー・ホワイトとキャンベル・ダグラスの推薦を受けて王立建築家協会の準会員となり,弟のウィリアムとロビンスという建築家と一緒にロンドンに設計事務所を開いたRobins and de Boinville Brothers, Architect and Surveyor。これはうまくいかず,1885年にイギリス工務局The Office of Worksに建築家(工務局側の記録によれば製図工Draftsman)として奉職することになった。おそらく,師のウィリアム・ヘンリー・ホワイトから工務局事務局長のアルジャーノン・ミッドフォードにボアンヴィルの紹介がいったのだと思われる。ロンドンのインド省庁舎や在外外交施設建築の営繕に携わり,ダグラスはボアンヴィルの力量を賞賛した。

1894年にはインド省建築家Architect of India Officeに任命され,インド植民地の大建築の設計を行うはずであったが,2年後,47才の若さで風邪を拗らせ肺炎によって亡くなってしまった。生きていれば,20世紀前半のインド植民地を飾る建築の多くを設計していたろう。息子のチャールズは建築の道に進まず,祖父と同じ国教会牧師の道に入り,カンターベリー大主教候補までになった。チャールズ牧師には二人の息子がおり,長男Alfredは農業ビジネスに入り、次男Davidは陸軍情報部に入り、戦後はブリティッシュ・カウンシルのワシントンD.C.支局に勤めた。建築家チャールズから曾孫の代まで建築家はいない。

 Ⅳ.ボアンヴィル家の職業観

以上が,ナイジェル氏が調べられたアルフレッドの家系であり,由緒はフランスでありながら,家族のほとんどはイギリスで生活し,少なくともアルフレッドの子供たちまでは二重国籍を有していた。日本近代建築史研究の中で彼の出身がながらく不明であったのはそのためである。

興味深いのはボアンヴィル家のほとんどが聖職者に就いていることである。これはフランス革命により一瞬にして社会的地位と資産を喪失したことを契機としており,揺るぎのない信頼を宗教に見いだすことになったのであろうか。例外的にアルフレッドは建築の道を進んだが,日本では工部局所属の御雇い建築家であり,帰国後もまた民間ではなく官庁建築家の道を歩んだ。また,もう一人の例外の曾孫のニゲル氏も法曹界に進み,二人とも社会的により安定した職業を選択した結果によるものなのであろう。

 Ⅴ.アルフレッドの手紙

アルフレッドが滞在していた当時,海外に郵便を差し出す場合「明治五年郵便規則」に従い内国郵便税と外国郵便税を別々に支払わなければならなかった。また,通常の封筒の他に外封筒 (手紙カバー)を用意し,その上に海外の宛先を書き,二つの税金に相当する日本切手を貼ることになっていた。この手紙カバーは海外の郵便局留めとなり,郵便史研究にとって格好の資料となっている。アルフレッドはイギリスにいる親族や知人と頻繁に文通していたらしく,郵便史研究者の松本純一氏からそのいくつかの手紙カバーが存在していることを伺った注17

Fi.11 Architect Boinville’s Letter to His Father, dated May 27, 1873.

Courtesy: Simon de Boinville

・『クララの明治日記』にチャーリーとして登場する。クララは最初この赤ん坊の顔を見て、しばらく女の子だと信じていた。日本を離れるとき4歳だから、少しは日本語をしゃべっていたと思われるが、姉と違ってイギリスに帰るとすべて忘れてしまったのであろう。キングトン・アポン・テームズの自宅で育ち、オックスフォード大学で神学を学び、イギリス国教会の牧師になった。カンターベリー大主教候補になったが、妻の介護のためにそれを辞退した(孫のサイモン氏談)。故宍戸先生が、ボアンヴィルの子孫が牧師であることを知っていたので、宍戸先生は英国留学中に会ったことがあったのかもしれない。

・チャールズの子供たちは聖職者にも建築家にもなることはなかった。

・チャールズの家が火災に遭い、父親の遺品も含め全て消えてしまった。

Fi.11 Architect Boinville’s Letter to His Father, dated May 27, 1873.


一つはアルフレッドが1873(明治6)年5月27日に東京からハートフォードシャーのセント・アルバンスに住むシャストール・ド・ボアンヴィル牧師Rev. Chastel de Boinville, St. Albans, Hertfordshireに送ったものである。宛名にはフルネームは記載されていないが,当時そこでメソジスト教会牧師を務めていた父親であったと思われる。アルフレッドの手紙は駅逓寮横浜局に到着した後,フランス郵船に載せるためにフランス切手が貼られ,スエズ運河を渡り,マルセイユとロンドンを経由して,1873年7月24日にセント・アルバンスに配達された。本状は日仏両国の切手が貼られた非常に珍しい手紙カバーで,1999年のタカハシ・オークション400回記念セールの最終ロットに出品され,560万円でとある日本人に競り落とされた。この手紙でチャールズは,父親に日本での生活や結婚の予定について報告していたのであろうか。

松本氏はチャールズに係わるもう一つの手紙カバーについても紹介されており,これは1874年10月17日スコットランドのブネッソンBunessanからコリン・マクヴェインCollin A. McVeanが送ったものである。このマクヴェインは,チャールズ来日のきっかけを作った人物である。この二人は東京で親交を結んでいたはずで,1874年春に工部省測量司から内務省地理寮雇に転属になるとともに,マクヴェインは休暇を取り郷里のイギリスに一時帰国していた。マクヴェインの再来日はチャールズの妻となるアグネスの来日時期と重なり,マクヴェインは彼女を同伴して戻る旨をチャールズに伝えたのであろう。

 

Ⅵ.アルフレッドの日本

チャールズの帰国の理由はいくつか推測されているが,ナイジェル氏が考えているように7年の日本滞在期間中に相当のお金を蓄えたはずで,30歳で帰国し,王立建築家協会員としてイギリス建築界の本道に戻るという選択は当然だと思われる。その後,彼は日本に関わることは一切なかったようで,ナイジェル氏も最近まで曾祖父が日本で活躍していたことは知らなかった。コンドルは工部大学校教授職に就任するとともに『ビルダー』誌に日本建築に関する論文を発表し,絵や踊りなどの日本文化に心酔していったのと極端な対照をなす。この二人の滞在期間は4年も重なっており,日本で何度か出会う機会があったはずであるが,お互いの人生観が極端に異なっていたため,積極的に会話することはなかったのではなかろうか。

 

Ⅵ.最後に

ボアンヴィルは,英語にフランスなまりがあったとしても苦手だったという訳ではなく,また社交的というほどではなかったが充分に紳士的で親切な人物であったと『クララの明治日記』に描かれている。ロンドンでの設計事務所を経営している時には,いくつかのコンペで一等案に輝いており,事務所経営がうまくいかなったのは共同経営者の不始末とも言われており,多数の同業者の中で新参者が台頭するのは難しいことだったのであろう。

幸運なことには,ボアンヴィルのかつての師匠たちがイギリス建築界の重鎮となっていたことで,そのおかげでイギリス工務局やインド省での職務を得るこができた。残念なことに、20世紀にかけてインド植民地は大規模建設事業を控えており,もしボアンヴィルが生きていればまちがいなく設計を担当したはずで,それを見ることはできなった。

 

 

脚注

1)Peter Bell, Biographical Index of British Engineers in the 19th century, Garland Publisher, 1975.

2)堀勇良『日本の美術 No.447 外国人建築家の系譜』,至文堂,2003年

3)Hideo Izumida, British Architects and Civil Engineers in Far East 1830-1920, Journal of Asian Architecture and Building Engineering , 2003.

4)Whitworth Porter, The History of Corps of Royal Engineers, Kessinger Publishing, 2007.

5)ウォートルスの離日後の活動については次に詳しい。

Nagata Tomoko Maruyama, The Waters Brothers: Their Mining Business in the United States, The Proceeding of the 6th International Mining History Congress, 2003.

6)コールマンについては次に詳しい。

T.H.H. Hancock, Coleman’s Singapore, Pelanduk Publications, 1986.

7)Roger H. Harper, Victorian Architectural Competitions: An Index to British and Irish Architectural Competitions in The Builder, 1843-1900, Mansell Publishing, 1983.

8)泉田英雄,「ブラントン,マクヴィン,そしてボアンヴィルについて」,平成2年度日本建築学会近畿支部研究報告集,897〜900頁,平成2年12月。

9)ボアンヴィルの農場地は第二次世界大戦の際に徹底的な爆撃に会い,ニゲル氏によれば昔の面影はまったくないという。

10)ジョン・コリンズ(John Collins, 1830-18),有名な砂糖事業家

11)パーシー・シェリー(Percy Shelly, 18-18)

12)ウィリアム・カウハード(William Cowherd, 18-19)

13)ウィリアム・ホワイト(William White, 1825-1900)

14)キャンベル・ダグラス(Campbell Douglas, 1828-1910)

15)測量司所属のマクヴィンが建築設計も依頼され,多忙となり,友人であるグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスに「腕の立つ製図工」の派遣を依頼した。

16)ニゲル氏は,若き日のアルフレッドには金がなく,結婚資金にも事欠く状態であり,そのため日本行きを決めたのではないかと考えている。在日中も帰国後も日本文化に対する特別な関心はなかったことから,ニゲル氏のいう通りなのであろう。

17)松本純一「『ドゥ・ボアンヴィル・カバー』の解明:未報告のジャンルの日仏混貼カバー」,郵便史研究第9号,12〜23頁,2000年3月。