Charles Alfred Chastel de Boinville and His Family in Clara Whitny's Diaries

『クララの明治日記』に描かれたボアンヴィル家

・クララ・ホイットニー『勝海舟の嫁 クララの明治日記 上下』 一又民子、岩原明子、高野フミ、小林ひろみ 共訳/講談社・1976

(Clara A. N. Whitney, edited by M. William Steele and Tamiko Ichimata, Clara's Diary : An American Girl in Meiji Japan, Kodansha International, 1979). 

・父親のウィリアム・コグスウェル・ホイットニーは、1875年、駐米大使であった森有礼の仲介で商法講習所の教師の職を得て、家族と共に来日した。クララは当時14歳で、5年間の東京での生活の様子を日記に書き残した。この日記の英語版は完全ではなく、日記の一部が欠損しているが、ボアンヴィルの家族とは特に親しくしていたことがわかる。

・クララはマクヴェイン夫妻の長女ヘレン・ブロディや長男ドナルドと交流していたと思われるが、1876年3月以前の日記はない。代わって、ボアンヴィル夫妻とはとても親しくしていたことが描かれている。

(1) アルフレッド・シャステル・ド・ボワンヴィル夫人:工部省雇いの英仏二重国籍の建築家の妻、アグネス・コーワン。グラスゴーから約20キロ西にある港町エアー市の市長の末娘。長女はマリー、長男はチャールズ

(2) シンプソン夫人:内務省地理寮量地課書記のシンプソンの夫人、シンプソンは1876年には海軍省に移る。

(3) 大鳥夫人:工部大学校校長の大鳥圭介の妻

(4) 富田夫人:富田鉄之助の夫人

(5) ダイヤー夫人:

(6) ディクソン夫人:


クララの明治日記

1876年3月11日:食後、母の友だちのアルフレッド・シャステル・ド・ボワンヴィル夫人が訪ねてこられた。そのあとで、私たちは着替えて、加賀屋敷にいる友たちを訪問しに出かけた。

1876年5月30日火曜日:昨日、母とアティは横浜へ行った。授業をして、少女たちか帰ってから少し読書をしたけれど、二匹の子猫は膝の上を這っていた。それから着替えて、シンプソン夫人に会いにヤマト屋敷へ人力車を走らせた。お留守たったので、ド・ボワンヴィル夫人のところに行ったらご在宅で、楽しい訪問かできた。お話をしていると、フランス人の将校が入って来て、二人はフランス語で話し始めた。こ主人のアルフレット・シャステル・ド・ボワンヴィル氏はフランス人で、お友達もフランス人だから、夫人はスコットラントの出だけれども、フランス語を学はなくてはならなかったのだ。

[ボアンヴィルはフランス生まれ育ちの英仏二重国籍者。母親がスコットランド人だったので、フランス時代は家庭では英語で話をしていた。妻のアグネス・コーワンはエアー出身で、ボアンヴィルがグラスゴーのキャンベル・ダグラス建築事務所勤務時代に知り合い、1874年に横浜で結婚]

1876年12月11日月曜日:今朝目か覚めると、(ド・ボワンヴィル夫人から)ウィリイと私に、今日の夕食の招待状か来ていて、シンプソン夫妻ショー家の人々と一緒にクリスマスキャロルの練習をして欲しいと書いてあった。だけど今日の夕方は、イーヒー夫妻とコクラン夫妻とミス・ファ ニー・キューリックを招待しているので、大変残念だだったけれと、お断りしなくてはなら なかった。

1877年2月27日火曜:母と一緒に、ボワンヴィル夫人のところに昼食に行った。シンプソン夫人が帰国されることになったので、とても残念だったが、「さよなら」を言わなくてはならなかった。お帰りになりたくないのに、仕事が見つからないのである。

1878年1月14日月曜日:ド・ホワンウィル夫人か新年の美しい詩を書いてくださった。 

1878年1月28日月曜日:今日はお逸が来なかった。昨日も見かけなかったので心配だ。それであの大嫌いな男の人たち――イリオカ(笠原) と渡辺氏――だけを相手に気乗りのしない授業をした。母のお使いて、山下町へ行って帰って来てから,授業を全部やらされてうんさりした。食後ド・ボワンヴィル夫人のおうちへ行きたかったのだが、杉田夫人かみえたので、母の通訳をするために出かけるのをやめた。杉田夫人かお帰りになる時に、方向か同したった から私も一緒に出かけた。ヤマト屋敷まで楽しくお喋りしなから行った。 それから、ト・ボワンヴィル夫人か芝のサットン氏のお宅に連れ行って下さった。三人のお嬢さんに会うためだ。一番上の人は十六歳のネリーで、とても小柄で気持ちのよい人だ。 

帰り道、お逸のところへ寄ってみると、来られなかった理由か判明した。「ごめんなさい、クララ。兄様か病気で私か看病しているのよ」 

1878年2月5日火曜:母は大鳥さんの奥様のお葬式に参列するために出かけたので、アティと私で留守番をした。日本人のお葬式に参列するのははじめてなので、帰ってきてから詳しく説明してくださった。 大鳥氏は三田三光坂十四番地の新しい美しい屋敷に住んでおられる。西洋館である。大鳥将軍は葬儀に大勢の人を呼はれた。将軍は工学寮の理事長なので先生方も生徒さんたちもみんな呼はれていた。奥様の遺体は西洋式のお棺に入れられ,お棺は屋形船の形をした霊柩車にのせたれた。

[ここに登場する人物は大鳥圭介のことで、1877年から工部大学校校長を務めていた。]

1878年2月20日水曜:女生徒も規則正しく出席するようになったので、男三人女三人のクラスは上手くいってい る。みんな上達か早くて私たちは誇らしく思う。けれど,「本当にこの発音だけは日本人には難しいようね」母は「l」と「r」の発音の区別を教えているのだけれど、どうして もこの部分が日本人は苦手らしい。もしも誰かが朝の十時頃、我が家の前を通りかかった ら、プリ、プロ、プルをlで発音したり、rで発音したりしている若い男女のコーラスを 聞いて何事かと訝るだろう。 午後ヤマト屋敷に出かけてド・ボワンヴィル夫人に会い、そのすぐ近くに住んでいる大久保氏に手紙を書いた。それから富田氏のうちに行ったのだけど、出て来た夫人を見て吃驚。富田夫人はひどい風邪をひかれ、何日も髪を結っておられないので、物凄い様相だっ たのだ。晴れた美しい日だったが、風は強かった。 

[ボアンヴィルは測量司が内務省移管になっても大和屋敷の官舎に住んでいた。ここに登場する大久保とは大久保利通なのかは不明。富田は富田鉄之助]

1878年3月8日金曜:午後、いつものように授業が済んでから母と一緒に出かけた。 昨日は雨の中を杉田夫人や、およしさんと一緒に、永楽町の展覧会に行った。 陳列品は上野の博覧会の残りであって、品数は少ないが、売り物は非常に安い。 めいめい茶瓶を一つずつ買い、その後、陳列品を眺めてから家に帰って来た。 帰ってくると、ユウメイが来て待っていた。 おひろさんもみえて、森有祐が鹿児島から帰ってきたと教えてくれた。 ド・ボワンヴィル夫人も訪ねて来られた。 今日勝氏のところへ伺って楽しい時を過ごした。 

1878年5月2日木曜:家中ひっくり返るような大混乱。その理由は他ならぬアンディ嬢のパーティなのだ。 出席者は誰と誰・ほとんどみんな。 ダイヴァース家のフレッド、イディース、エラ、サットン家のフロラとフレディ。ユウメ イ、ヴァーベック家のエマ、ガシー、マリー・ド・ボワンウィル。 

[マリーはボアンヴィル夫妻の長女。1875年生まれだから当時3歳。6歳で帰国するときには日本語に堪能になり、イギリスに帰ってからどのような人生を送ったのであろうか]

1878年5月16日木曜:今月十四日の朝に恐ろしい暗殺事件があった。大久保利通が太政官への途中で、赤坂の官邸から五丁と離れていない地点で6人の男に殺されたのだ。<中略>

ド・ボワンウィル夫人に女の赤ちゃんか生まれた。 土曜日には私たちは写真を撮りに行く。 

[長男のチャールズである。クララは当初女の子だと思っていた。このチャールズはオックスフォード大学を経てイギリス国教会の高位の牧師になった]

1878年7月26日金曜日:夜、ウィリイと私はト・ホワンウィル夫妻のところへお食事に招かれて行った。 とても良い方たちである。私は夫人にすっかり魅了されてしまった。 

[フランスで建築家修行の途中で普仏戦争が勃発し、そしてコミューン運動に参加した。ネズミまで食べて飢えを凌いだが政府に裏切られ、すべてを失いイギリスに渡った。師のダグラスから明治政府雇いの提案を受けたとき、再起のいいチャンスと考えたのだろうか。婦人はスコットランドのエアー出身のアグネス。]

1878年8月27日 火曜日

今朝は朝寝坊をしてしまった。 雨が降っていたし、前の晩寝ていなくて疲れていたのだ。母はだいぶよくなり、床の上に 起き上がって、いつもの母のようだ。神様が私の祈りに答えて下さったことに感謝する。 午前中は早く過ぎてしまい、午後になってぼんやりしている時、壮次郎がやって来た。 ド・ボワンヴィル夫人が母を訪ねてきて下さったので、二回の母の部屋にお通しした。 夫人は母と話し合っておられる。 夫人が来て下さったのは有り難い。彼女はいつでも母を元気づけて下さる。 明るいクリスチャンの心を持つ者は幸いである。私もそのような心を与えられますよう に。 

1878年9月13日 金曜日 まだ一日の終わりではないのだけれど、午後にこれ以上重要なことは起こりそうにも思わ れないので先に日記を書いておく。 午前中、昨日訪ねて来られたド・ボワンヴィル夫人を訪ねた。 夫人は富岡へ転地のために出かけられるところだった。ちょっとお邪魔してすぐに失礼し、次にアメリカ公使館に寄った。 ビンガム夫人は足におできができて、とても痛がっておられた。 

1878年9月23日月曜日

今日はことの多い一日だった。

けれど同時に、楽しい一日でもあった。 日本の感謝祭で、通りはお祭り気分の人出賑やか。 富田氏がまずみえて「手に入りそうな家が見つかった」と云われた。 それは勝家の隣で、建宮敬仁親王が亡くなった古い徳川屋敷の向かい側にある。 彼は有望な家だと思っておられる。 富田氏はサムライが着る堅苦しい仕立て下ろしの紋付き袴姿でとても立派に見えた。 

村田氏の従兄弟で、ヨーロッパとアメリカから帰国されたばかりの図師氏が午前中来られ た。

母が出かけていたので、私がお相手をすることに。 良さそうな人だけれど、あまり頭が切れるとは思えない。 でも、容貌はとても立派だ。第五国立銀行とやらに勤めているそうだ。 「蛎殻町の家に是非遊びに来て下さい」 そう誘われた。そこに一人で住んでいるそうだ。 図師氏がお帰りになってから部屋を片付け、その後シェークスピアを読むことにした。 まずマクベスを選んでみる。 

陰惨さが恐ろしくもあり、魅力的でもあった。 一度舞台の上で見たいという気持ちになった。 マクベス夫人はマクダフの云うとおり、まさに「悪魔のような王妃」である。 でもこの芝居の教えていることは、野心が弱い人間にどう作用するかということなのだろ う。 

柴田氏が晩に見えて、笙を持ってこられた。

とてもやさしい音の出る笛である。 ディクソン氏も来て音楽の演奏をしたり、お話をしたりして楽しい晩だった。 だんだん親しくなるととても気の置けない付き合いやすい人だ。 お二人とも遅くまでおられた。 ディクソン氏はド・ボワンヴィル夫人に、東京中て私たちの家か一番良いところだと仰ったそうだ。 

私は昨日、使用人のヤスと大喧嘩をした。 

1878年9月24日火曜日

小泉氏が昨日来て、おやおさんがすっかり回復されたので、明日から授業に来るとのことだった。

彼女が来るのは嬉しい。お逸も喜んでいる。 お逸と私は午前中にド・ポワンヴィル夫人の赤ちゃんがよくなったか聞きに出かけた。 赤ちゃんはだいぶよくなり、夫人はとても親切だった。 

1878年10月3日木曜

ド・ボワンヴィル夫人が夕食に見えて,その後一緒にYMCAのパーティに行かれた。でも その前にちょっとした音楽会を家でした。夫人はとてもよい声をしておられて、正確に歌われる。 

1878年11月16日土曜

母と一緒に布を買いに町へ出た。よいお天気だったので,気持ちよく散歩して途中から車 に乗り虎ノ門のところで母と別れ,私はド・ボワンヴィル夫人の家に行った。昨日勝家か らの帰途、お子さんたちの写真を取らせるために写真屋に案内してほしいと頼まれたので ある。夫人は私の来るのを待っていたので一緒に出かけた。最初浅草のトウコク屋(清水東谷)に行ったが,そこの子供の写真は夫人のおきに召さなかったので、私の嫌いな内田屋(内田九一)に行った。次に銀座に出て,二見屋(二見朝隈)に行くようにと車夫に命 じたが,やんちゃのマリーがどうしてもじっとしていないので,今度またご主人がこれら る時にすることにした。 

18781117日日曜

芝教会のダイヤー教授夫妻やド・ホワンヴィル夫人まてきておられたか、失望されることはなかったはずである。 

<ダイヤー夫人はグラスゴーの貿易商ファーガソンの末娘で、アグネスと同じような良家出身で、教養が高かったのであろう>

18781118日月曜

今朝早く富田夫人のところへ行って団子坂の菊の展示会にお誘いした。夫人は行くとおっ しゃったので,私は支度をしに家へ帰ってきた。二時に私たちの「菊見」のお仲間がおい でになったので、母とド・ボワンヴィル夫人、ディクソン氏、アディ、冨田夫人、村田夫人と私は揃って出かけた。 

18781123日土曜

今朝ド・ボワンヴィル夫人が母と一緒に祈祷会をしに来られたので,私は紅葉を飾って、 部屋をできるだけきれいにした。 

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1878年12月7日土曜

母とアディの2人はトルー夫人のところに泊まっており、私はド・ボワンヴィル夫人の家に泊めて頂いている。晩になるとド・ボワンヴィル家に行き、朝になると自分の家に帰ってくる。ド・ボワンヴィル家はとても楽しくご主人の冗談や奇行に私は大笑いする。彼は外見も態度もまるで少年のようで、スコットラントの唯一の名産は元気な少年たちであるなどと言われる。彼はフランスをほめたたえ、それ以外の国はことごとくけなされる。特に嫌悪を覚えられるのが日本とスコットラントである。これらの国に対する悪口は相当にひどいものだ。思慮深くて優しい奥様とは大違いだが、それても私はご主人も嫌いではない。私の一番のおき入りはマリーちゃんで、彼女も「お嬢さん」(私のこと)を大好きたと言っている。毎朝私の部屋に入ってきて、猫に引っ掻かれたところはどうなったかと尋ね、私の化粧法や髪の巻き上け方を見守る。ほとんど日本語ばかりしゃべるので、お家の方はお父様でさえ分からないのである。それで絶えず私に語りかける。 

1878年12月10日水曜

私はド・ホワンヴィル夫人のお伴をして、三河台のベイリー夫人の家へキャロルの練習に行った。ベイリーさんたちは、私どもの家からそう遠くないところにあるすてきなお家に住んでいらっしゃる。明らかに古い大名屋敷であって、美しい日本式の庭園がある。(中略) 

楽しい練習を終えて十時に帰ってきた。ディクソン氏が私たちを送って下さるとおっ しゃったが、ド・ボワンヴィル氏が迎えに来て下さったので一緒に歩いて帰った。ド・ボワ ンヴィル氏が私とド・ボワンヴィル夫人の間に入り,ディクソン氏とターリング氏がその 両脇に1人ずつという横隊である。月が美しく気持ちよかったし,愉快なお仲間とご一緒 だったのでとても楽しい行進だった。家の玄関まで私を送って下さって皆さんはお帰りに なった。ディクソン氏がこの辺は貴族階級の屋敷町だと言われ,それは虎ノ門に近いから だと説明された。 

1878年12月19日木曜

昨夜ド・ボワンヴィル夫人と一緒に聖歌隊の練習に行き 

1878年12月21日土曜日

母は午前中にド・ボワンヴィル夫人を訪問した。 可哀想にチャーリーちゃんは種痘で腕に炎症を起こしてしまったのだ。夫人はうちのすぐ近くの赤坂檜町に近く越して来る予定である。月曜日の午後教会の飾りつけを私に手伝って欲しいと仰ったそうだ。 

1879年1月6日木曜:ド・ボワンヴィル夫人,アンダーソン夫人,ジョンソンさんが訪ねてこらた。ジョンソン さんと楽しい話し合いができた。 

1879年1月30日木曜:昼食にサイル夫人,ド・ボワンヴィル夫人とワシントンさんをお招きしたが,土砂降りの 雨のためド・ボワンヴィル夫人だけがみえた。 

1879年4月3日木曜:今日はド・ボワンヴィル夫妻と,品川の先の大森にある池にピクニックにいくはずだった が,朝起きると土砂降りで,そんな予定は吹き飛んでしまった。 

1879年4月4日金曜:近くの茶屋でおいしい魚を買い、日本式の昼食をした。ド・ボワンヴィル夫人が午後母に 会いに来られ,ピクニックは無期延長と決まった。松平公もみえられ,しばらく遊んでい かれた。 

1879年4月6日日曜日:今日は安息日なのに忙しかった。 日曜学校に行く途中、ヤマト屋敷に寄ったが、ド・ボワンヴィル夫人は、歯痛で駄目だっ た。日曜学校ではマクラレン氏がハガル、つまりアブラハムの妾、イシマエルの母の話を した。フレッド・ブリンドリーがとても熱心に聞いている様子なので、先生は主にそちらに向けて喋っていた。そのうちフレッドに対して質問をしたが、期待した答えは返ってこ ない。 

1879年4月7日月曜:十一時に出発し、途中、蓮華坂で約束通りド・ボワンヴィル夫人と落ち合った。ヘップバ ン夫人と私が先頭で、シモンズ夫人,梅太郎と内田夫人,ド・ボワンヴィル夫人、ハナとア ディという順序で,最後はお弁当を持ったシュウだった。 

1879年4月11日金曜:昼食後、ド・ボワンヴィル夫人とマリーが見舞いに来た。母は奥様と長いこと話をして気 が晴れたようだ。ダイアー夫人と津田氏もみえた。 

1879年4月13日日曜:復活祭。祖てゃ雨で陰鬱だが、私たち心の中は、その昔の神の僕のユダヤ人のように明るい。母は出かけれないので、ド・ボワンヴィル夫人と芝へ行った。 

1879年4月19日土曜:母は昨日の晩、シモンズ先生のご指示を受けるため,私を横浜にやることにした。それで ド・ボワンヴィル夫人に、一緒に行って頂けるか手紙を書いたら,よいというので,すぐ にでかける用意をし,今朝,停車場で奥様とマリーにあった。午前中にシモンズ先生のと ころへ行きたかったので、横浜に着いてから大忙しだった。まずショーベ博士がド・ボワ ンヴィル氏より、しぎを一羽多く撃って賭に勝ったので,贈り物をするのだ。ド・ボワンヴィル夫人はマリーの写真をとりにいらっしゃるのでここで別れた。 三時十五分の汽車に乗り損ね、ド・ボワンヴィル夫人に置いてきぼりにされ、あわててし まった。東京・横浜間を1人で旅したことはなかったので、支えを全部無くして、この世 でたった1人になった思いだった。 

1879年4月26日土曜:木曜日は、リーランド博士に招かれて、ド・ボアンヴィル夫人と一緒に皇后様の学校に行 き、女生徒が教義問答を習うのを聞いた。 

1879年6月17日火曜:ヘップバン夫人は一時にみえ、食事をなさった。それからディクソン氏や母と一緒に工部 大学校の美術館を見学にいらっしゃった。招待されたので、アンダーソン博士の「日本美術」に関する講演を聞きに、私も四時に行った。ド・ボワンヴィル氏が門で待っていて大ホールの奥様の隣に案内して下さったのだが、こんな笑えない冗談を仰った。 「今日は大地震がないことを祈ってますよ。僕が建てたんですから、責任とらされては困 りますからね」私を落ち着かせようとなさったのだと思う、きっと。ホールには有名な画 家のありとあらゆる掛け物がかかっていた。だけど、建てた当人を前にして云うのはなんだけど音響効果がひどく悪く、アンダーソン博士の声も小さく話がさっぱり聞き取れな い。仕方がないので壁の絵を見たり、ギャラリーから私を悪戯そうに見張ってくださる ド・ボワンヴィル氏に微笑みかけたりした。というわけで、講演は全然分からなかったの で印刷したものを読みたいと思う。 

1879年6月21日土曜:一時半に、母やド・ボアンヴィル夫人と浅草に出かけた。 

1879年6月26日木曜:ダイアー夫人の家で開かれた東京図書クラブの打ち合わせ会に行って楽しかった。ド・ボワンヴィル夫人、アンダーソン夫人と一緒に行った。出席者は、私たちとダイアー夫人の他、グレイ夫人、ダイヴァーズ夫人、ジェームズ夫人、ウィラン夫人、 ブッケマ夫人と、プリマドンナのメイエ夫人で、会員が三十人もいるのに出席者は少数 だった。男の人に特に出席するよう要請したのだが、誰も出なかった。ダイヴァーズ教授の家で、アジア協会の会合があるせいだろう。本務とは必ずしも関係のない話で沢山とて も気の利いた意見もあった。ド・ボワンヴィル夫人はストーン氏からの手紙を読んだ。「雑紙等が不規則なので新しい 配布方法をとってはどうか?」というものだった。「それならば現在、雑紙の配布を受け 持っているウッドの代わりにストーン氏に頼んだらどうです?」ということで、長い討論 があった。遂に投票になり、大多数がウッドに投票したので、ストーン氏はやめになっ た。 それから新しい会長、初期、会計、図書委員の投票があった。会長はケネディー夫人、書 記ブッケマ夫人、会長メイエ夫人、図書委員はド・ボワンヴィル夫人。夫人が病気だった り、忙しい時は代理を務める副図書委員が私だった。土曜の午前中ずっと本や雑紙に囲ま れて過ごすことができるなんて、私には最高の場所だ! 六時ちょっと過ぎに、十分満足して帰った。会に出席していたアメリカ人は私一人で、フ ランス人、ドイツ人、スコットランド人、イギリス人は全部出席していた。私の友達の大 部分はイギリス人かスコットランド人のようだ。ド・ボワンヴィル夫人はアンダーソン夫人を自分の車で送っていったが、私は虎ノ門まで歩いてから、人力車を拾った。その車夫 が「ディクソンさん、ヨロシイ、ヒカワチョウマデ」と云うので面白かった。ディクソン 氏が私の家に来る時は、いつもこの男を雇うことが分かった。 

1879年7月8日火曜:工部大学校の前に提灯で大きなアーチが造ってあり、その上でU・S・Gという字が燃えていた。大変立派な会で、私たちは警官、学生、一般人の立ち並ぶ間を、堂々と走り抜 け、赤、白、青の提灯の長い列に沿って大ホール正門に着いた。ここで十人あまりの係が 控えていてクロークに案内してくれると、ミス・ビンガムが待っていた。薔薇や裳裾―― 生まれて初めてだ――を直し、混んだ大ホールに入る。ここはとても大きいホールだ。 「四千人の収容能力がある」と建築したド・ボワンヴィル氏からうかがったことがある。 ホールの周囲に大きな回廊が巡らしてあり、五十余の金色に塗った列柱で回廊を支えてい た。 

入口の正面突き当たりは壇になっていて、その上に、松、椰子等の大きな木が体裁よく置 いてあり、その後ろにはアメリカと日本の国旗が、常緑樹の葉で作ったU・S・Gの字の 下に、美しく下がっていた。ホールは人の揺れ動く波でいっぱい。美しく着飾った婦人た ちは、暗い海面の燐光のようで、工部大学校のホールはいつになく華やかだった。突然ざ わめきが静まり、人々がバルコニーの下に退くとグラント将軍夫妻が入場され、高座の肘 かけ椅子に坐られた。息子のフレッド・グラント大佐はじめ軍服の随行員はその後ろの段 に着席した。ビンガム公使夫人、太政大臣三条実美夫人がグラント夫人の右手に坐った。 将軍の隣で、アメリカ公使の吉田清成駐米全権公使が男の方たちを紹介した。母とビンガ ム嬢はフレージャー氏に、お逸と私はシェパード氏に紹介された。グラント将軍はとても 赤い顔をしていたが、グラント夫人は上野の時よりずっとよく見えた。帽子を外しレース の袖のついた縞の紗織を着ていらした。 

1879年7月12日土曜:今朝,図書館に行き、ド・ボワンヴィル夫人に助けられて、棚のほこりを払ったり,図書 の整頓をした。 ガビンズ氏もおしゃべりをしにちょっとお寄りになったし、貸出申込書を少なくとも五つは用意できた。 

1879年7月19日:ハリー卿から図書委員に伝言があり,今朝は卿の書斎を使うので,ウッド日本の世話をし てもらいたいとのことで,ド・ボワンヴィル夫人はほっとしていらした。今日は暑くて何 をする気にもなれない。 

1879年10月2日木曜:マリー・ド・ボワンヴィルと弟のチャーリーが土曜に発つのでお別れを言いに来た。 マリーのお祖母様に「ヨロシク、ドーゾ」と伝えてね、と私が云うと、このいたずらっ子 はこう返した。 「おばあさん、日本のコトバ駄目ね。英語のコトバ、バカリ、ワカリマス」 「それではおばあさんはマリーの云うことが分からないでしょう?」 私が云うと、フランス語より日本語の方が達者になってしまったマリーが返す。 「マリー、日本のコトバ、コチラ、オイテ、おばあさんには、日本のコトバ話さない」 私は笑って、マリーの肩をゆすり、やわらかい両頬にキスをした。 「私はマリーが買いたいわ。マリーはいくら」

「三セン五リン」そんな可愛らしい返事がすぐに返ってきた。 こんなにも可愛いマリーが帰国してしまうのはとても寂しい。 

1879年10月4日土曜:母と私は今朝、十時の汽車で横浜に行きミス・マクニールと乗りあわせた。 

汽車にはたくさんドイツ人やイギリス人が乗っていて、声高に喋ったり、煙草を吸ったり するので不愉快だった。

横浜ではいろいろな物を探しにあちこちに行った。 買物は帽子で、ガーネット色のビロードで縁取りをしてもらうことになっている。 手袋はキッドで茶色とピンクの灰色のとを買ったが、横浜ではとても安い。 買物の後で、ウィリイとグランド・ホテルで待ち合わせ、昼食をとった。 それから明日出帆する予定のオーシャニック号を見に行くことにした。 ド・ボワンヴィル夫人はまだ到着していなかったが、ご主人の方はあちらこちら走りま わっておられた。 グランド・ホテル専用のボートがちょうど出るところだったので、ホテルの事務員と紳士 一人といっしょに乗った。 

[ボアンヴィルの長男チャールズの子孫はわかったが、日本語の達者なマリーは何時誰と結婚してどんな暮らしをしたのだろうか]