The 100th Anniversary Symposium of Colin Alexander McVean's Death: His Contribution to Early Modern Japan's Public Building, Survey and Meteorology

コリン・アレクサンダー・マクヴェイン没後百周年記念シンポジウム:明治初期日本における工部省営繕、測量、気象観測への貢献

preparation started  in February 20, 2008 together with Roger Kelly, and took place February 2012.

マクヴェイン没後百周年記念シンポジウム

趣旨

・マクヴェインは、幕府灯明台掛技師としてイギリスから来日し、工部省発足とともに測量師長に就任し、日本の科学技術発展に大きな貢献をしたことは断片的には知られていた。しかし、幕末から明治10年頃まで政情不安定であり、この間の科学技術の状況を知る記録は大変限られていた。

・2008年にサルティア協会副会長のケリー・ロジャー氏と出会い、マクヴェインの子孫に多くの著名人がおり、彼らがマクヴェイン記録を保管していることを知った。子孫の三家族に会い、その一部を見せてもらったところ、マクヴェインの業績だけではなく、明治初期日本の科学技術の状況を解明できることを確信した。ケリー氏とともに、2011年がマクヴェイン没後100周年に当たることから、マクヴェイン研究に弾みをつけるためにマクヴェイン没後百周年記念シンポジウムを企画した。

・2012年2月に盛大にシンポジウムを開催する予定だったが、前年年3月に発生した東日本大震災により、規模を縮小して実施することにした。本来は、最も多くの機関及び個人から協賛を得て盛大に開催する予定であった。

開 催日時:2012年2月18日(土)、午後1時より

会 場:東京大学生産技術研究所、An棟401・402中セミナー室 東京都目黒区駒場東京大学構内

主 催:マクヴェイン没後百周年記念シンポジウム開催実行委員会

代表豊橋技術科学大学泉田英雄

後 援:犬吠埼ブラントン会、日本スコットランド協会、国際交流 基金、日本工学会

事務局:主)豊橋技術科学大学建築史研究室泉田英雄:副)東京大学生産技術研究所谷川竜一

プログラム

1) マクヴェインの生涯と家系--コリン・ヒューストン、マクヴェインの曾曾孫

2) スコットランドと日本の交流-------------------------北 政巳,創価大学教授、同大比較文化研究所所長

3) ペニキュのコーワン家とマクヴェイン-------------ケリー・ロジェー、サルティア協会副会長、元スコットランド都市計画学会会長

4) マクヴェインとお雇い外国人技術者----------------堀 勇良、元文化庁主任調査官、元横浜開港資料館主任研究員

5) お雇い外国人と郵便-------------------------------------松本純一、日本郵趣協会会長

6) マクヴィンと明治の近代測量事業-------------------箱岩英一、日本地図センター地図研究所第二部長

7) 工部大学校とマクヴェイン----------------------------角田真弓、東京大学技術専門職員

8) 燈台建設と東アジア地政学---------------------------谷川竜一、東京大学生産技術研究所助教

9) ジャーデン&マセソン社と日本の近代化---------水田 丞、広島大学工学部助教

10)マクヴェイン資料と近代日本------------------------泉田英雄、豊橋技術科学大学准教授

マクヴェインの貢献

(1)工部省最初の土木技術者として、山尾庸三のもとで工学寮、測量司、(営繕掛)を立ち上げ。

(2)工部省建築営繕技師として、官庁及び閣僚公邸の設計、工学校校舎の設計と施工監理、銀座煉瓦街の計画など

(3)工部省測量司と内務省地理寮において日本最初の近代測量事業を指揮。皇居周辺及び関八州大三角測量。

(4)1873年ウィーン万国博覧会日本館の展示を協力

(5) 日本に最初の公式気象観測所と地震観測器を設置。

(6)日本滞在中の記録を膨大に残した。

今後の予定

(1) 記録の解読により、マクヴェインの明治初期日本の科学技術に対する貢献を具体的に明らかにしていく。

(2) 東京を中心にした御雇外国人の生活とマクヴェインが見た日本を整理する。

(3) 以上の新知見を学術論文及び一般向け図書として出版する。

※McVeanはマクウイーン、マクヴィン、マクビンなどと邦訳されていますが、複数の遺族から発音を確認したところ、マクヴェインに統一することにしました。また、彼の子孫に文筆家がおり、その邦訳名もマクヴェインとなっています。ジェームス・ マクヴェイン『血の臭跡』。

要約

・江戸末期、徳川幕府は諸外国による開国圧力を受けいくつかの国防事業を始めた。蘭学者による大砲鋳造から始まり、より本格的にオランダの力を借りて長崎に海軍伝習所を開き、日本人海軍士官を育成し、軍艦を海外から購入して、そして海軍を創設した。1858年に外国五カ国の修好通商条約を結ぶと、幕府はフランスの協力により横須賀に造船所を創設し、さらに鉄道建設、燈台建設、鉱山開発などの近代化事業に乗り出した。明治維新後、明治政府はこれらの事業を継承することになったが、官軍に反旗を翻した旧幕臣技術者をすぐに重用することはできず、代わりに外国人技術者に頼ることになった。 

・国防と殖産興業の施策を推進するために明治政府は外国人顧問とともに、多数の外国人技術者を雇用した。鉄道建設主任技師のエドモンド・モレルは技術関係事業をPublic Worksという一省にまとめること、すなわち工部省の設置を明治政府に提案した。さらに、高級取りの外国人に代わって日本人が事業を担えるように、日本人技術者育成のための技術学校を創設するように強く主張した。残念なことにモレルは工部省発足とともに病死し、工部少輔の山尾庸三は工学校創設のための協力者を探すことになった。 

・コリン・アレクサンダー・マクヴェインは、スコットランドでシビル・エンジニアとしての修業を終えると、1861年、イギリス海軍水路測量局によるヘブリディーズ地方の測量に従事した。海軍測量士官チャールズ・オットーやウィリアム・マックスウェルの指揮のもとで、測量師ヘンリー・シャボーやウィリアム・チースマンらと一緒に働いた。ヘブリディーズ地方の測量を終えると、マックスウェルは海軍測量船シルヴィア号に乗って東アジア海域の測量に出かけ、そこで日本政府がイギリスから灯台建設技術者を採用することを知った。彼はマクヴェインにその職務に応募するよう勧めたが、公募締め切りまでに時間が無く必須書類を添付せず応募し1868年3月に技師補として採用となった。同年7月に横浜に到着し、灯台主任技師のヘンリー・ブラントンのもとで業務を開始したが、仕事のやり方で衝突し、1年後、マクヴェインは燈明台掛を辞職してしまった。明治政府はまもなく国土測地測量を開始するであろうというイギリス海軍測量船シルビア号副艦長マックスウェルの助言を信じて、マクヴェインは日本に留まった。 

・1870年初め、マクヴェインと山尾は横浜で出会い、両者にはグラスゴーに共通の知人がいることから、急速に親しくなった。そして、マクヴェインは山尾に測量司の発足を提案する一方、工部省における山尾の任務を全面的に支援することを約束し、1871年10月に測量師長に就任した。測量司は工部省の建築営繕を兼ねることになり、山尾の指示により工学校の校舎設計と建設、焼失銀座築地再開発計画の作成、皇居建設のための旧江戸城の測量、工部省の各種建築営繕を行いつつ、本務の測量司の体制固めを進めた。すなわち、若手日本人に1年間の測量教育を施し、その後、イギリス人測量師の下で彼らに数年間にわたる実務訓練をさせ、国土測地測量の種を日本に植え付けようとした。山尾と測量司の具体的業務範囲を相談し、気象観測や天体観測も含めることにし、そのための最新の測量及び各種観測器機を購入し、またイギリスの関係機関との協力関係を築くために、1873年に測量正の河野通信と測量学校第一期優等卒業生の小林八郎を伴い一時帰国した。そして、1873年9月に王立観測台(グリーニッジ天文台)で金星日面通過観測の指南を受け、同年12月にスコットランド気象協会から日本の気象観測創設に関する協力合意を取り付けた。また、採用の滞っていたシャボーの任用契約を完了した。購入した器機は、トロートン&シムス社の測量天体観測器機、カセラ社の気象観測器機、ナポリ観測台のルイージ・パリミエル台長発明の地震記録器機などであり、マクヴェイン自身の手で慎重に梱包し日本に発送した。同時期、工部省からイギリスに博物館調査に来ていた冨田淳久と武田にも便宜を提供した。

・1874年5月に帰任すると、測量司は工部省から内務省に移管されており、そこには山尾も河野もおらず、旧大蔵省土木寮から新たに技官(旧幕府海軍、反御雇い派)が加わっていた。この新参者たちは、測量司の主導権を奪おうと旧工部省測量司職員を排斥していった。マクヴェインは内務卿大久保利通に測量師長としての地位保全を求めたが、それは叶わないばかりか、測量司は内務省地理寮量地課へと縮小改組されてしまった。 大久保は西南戦争に向けて緊縮財政を敷いており、量地課の任務を全国測地測量から要地測量(重要地域)に縮小することにした。

・外国人排斥党技官との反目に会い、また緊縮財政の中で、マクヴェインは予定していた関東測地測量、金星日面観測、気象観測を積極的に指揮することは困難になった。しかし、スコットランド気象協会との協力合意はいきており、1874年11月、ジョン・フランシス・キャンベルが来日し、彼の指導のもとで多くの隣席を得て1874年12月9日の金星日面通過観測を成功させ、また1875年5月にはチャレンジャー号探検隊長のトムソン隊長とティザード副長らの内務省訪問により、彼らから気象観測の指導を受けた。しかしながら、1875年7月、内務省庁舎が全焼し、旧工部省測量司時代からの業務成果や機器類のほとんどを失ってしまった。外国人排斥党技官にとって彼らの力で新たにやり直す好機となり、マクヴェインの業績は消されてしまった。 

・1873年工学寮工学校開校、1874年金星日面通過観測、1875年チャレンジャー号のトムソン探検隊長とティザード副隊長による気象観測は、日本の科学技術の大転換期であり、それらにマクヴェインは深く関わっていたった。しかし、後者二つは当時の政治的混乱(西南戦争を控えた緊縮財政、旧幕府海軍技師との主導権争い)の中で、あるいは大久保と杉浦譲の先見性のなさのため十分に開花しなかった。マクヴェインは、一時帰国時に山尾と結んだ3年間で国土測地測量を日本に植え付けるという約束を果たすため、1876年10月まで測量師のチースマン、スチュワート、クラセンの任期1年延長を大久保に訴えたが、それは叶わなかった。この3人の部下の満期退職が決まった以上、自ら居残ることはせず、気象観測の種子をジョイナーに、測地測量の種子をシャボーに託し、1875年12月に早期退職を決意し、翌年3月、日本を後にした。マクヴェインらから指導を受けた小林八郎、南清、小川資源などは工部大学校を経て、明治の指導的技術者になった。

・以上のことは、これまでの日本近代科学技術史においてほとんど知られてこなかったが、マクヴェイン自身が残した日記や手紙類と、当時の英語の科学雑誌及び新聞の解読から初めて明らかになった。

注1:脚注や出典は英語版を流用しています。