Colin Alexander McVean's Japan Albumマクヴェイン日本アルバム

started in Jan. 2011, largely revising according to new google site format in May 2021.

PREFACEはじめに

(1) この写真帳にはタイトルは付いていない。既製品大判アルバムに日本行きから帰国するまでの様子を写真にまとめてある。ここでは、マクヴェイン日本アルバムと名付けておく。

(2) 所蔵先における私の滞在時間が限られていたため、基本的に手持ちのデジタルカメラで接写し、重要であろうと考えたものだけ専用スキャナーでデジタル撮影した。セピア色のものがスキャナーからのもの。

(3) McVean Achieves(MVA)にはたくさんの貴重な写真が含まれているが、なんといってもこのアルバムが圧巻である。彼が日本行きを決めた時から帰国までの活動をきれいにまとめてあり、彼にとって日本での仕事がどれほどの意味を持っていたか伺い知ることができる。ほとんどの写真は、明治初期に東京に在住していた写真家によるものである(ベアト、ブラック、モーザー他)。しかし、いくつかは市井で入手不可能なものがある。横山松三郎による旧江戸城の写真は、山尾が測量業務の必要上集めてきてくれたものであろう。 基本的に公務の資料や記録の持ち出しは明治政府から固く禁じられていたが、どういう訳か江戸城写真と践祚式写真など若干の写真は見逃された。骨董品については無制限だったらしく、1000点を超える数を持ち出した。その一部は1888年のグラスゴー国際博覧会に貸し出され、そのままケビングローブ博物館に寄贈された。

(4) 風景と建物の写真のほかに、幕末明治初期の官僚や役人など、親しかった御雇い外国人の名刺写真が収集されており、現在のところ20名ほどの名前が確認されている。明治天皇、三条実美、岩倉具視、(西郷隆盛)、大久保利通、村田新八、伊藤博文、山尾庸三、上野景範、寺島宗則、森有礼ほかの明治政府要人とは、岩倉使節団として外遊している人物を除けば、1872年、1873年、1875年の新年祝賀会で会っていた。同じく御雇い外国人であったイングランド(鉄道寮)やシェパード(鉄道寮)、宣教師のスチュワート牧師などである。

(5) マクヴェインがいつの時期にこのアルバムを作成したのかは定かではないが、マル島に引退し、再び日本との縁が出てくるグラスゴー国際博覧会開催の1888年から、長女ヘレンとガビンズが結婚する1894年の間であろう。

(6) マクヴェインは明治政府勤務中は、駐日公使のハリー・パークスや工部省測量司の村田文夫や室田秀雄、さらに同省通訳のミエ(小川資源)などを通して日本で何が起きているのかを正確に知っていた。問題の西郷と勝海舟の写真は、江戸無血開城を成し遂げたこの二人をヒローとした歌舞伎が上演され、その役者のものであろう。1875年暮れにMcVean夫妻は西郷従道邸に招かれているが、残念ながら明治村にある従道邸完成以前の建物にである。


COPYRIGHT写真の版権と取り扱いについて

(1) Copy right is owned by MVA.版権はMVAにあります。

(2) ここでは版権者の許可を得て学術参考のために小サイズ化して紹介します。利用や質問は私まで問い合わせて下さい。

UPDATES更新

(1) May, 2019: ケンブリッジのピーター先生から問い合わせがありました。

(2) September, 2019: Mさんから問い合わせがありました。

(3) September, 2019: Mさんの問い合わせを受けて、40頁前後の写真を配置し直しました。

(4) March 20, 2021: 歌舞伎役者の人名がわかりました。尾上菊五郎五代目、市川左団次初代目です。Fig.17、Fig.21、Fig.30を参照。


I. COVER PAGE

Cover page on left,  McVean's collection on right.右手は彼が持ち帰った江戸時代の書物。 

II. BEFORE DEPARTURE 

p.1|p.2  

※ 1. 表紙を開けると、師匠と同僚との記念写真が配置されている。身なりもしっかりしているので、徒弟制技術研修を終え、海軍提督チャールズ・オットーのもとででヘブリディーズ地方水路測量をやっていた20歳代前半と思われる。中央にオットー、向かって左手にマクヴェイン、すると右手のちょび髭の人物はチースマンであろう。チースマンは明治政府勤務後、オーストラリアのアデレード市公共事業局技師となり、40歳位の写真がマクヴェイン写真集にある。 

※2. ブレネルI.K. Brunelの設計で1859年に完成したRoyal Albert Bridgeである。この写真から、マクヴェインの日本行きが近代技術を伝えることであったことがよくわかる。彼の人生のハイライトの始まりであった。

Fig.1. "Edinburgh" Edinburgh Branch of Hydrographic Office, c.1863. Otter flanked by McVean(left) and Cheesman(right).

Fig.2. No tile. Royal Albert Bridge, designed by Brunel, who was McVean's hero.

III. ON PORTS OF CALL

※3. & 4. カイロ市内の風景写真で、左はピラミットを、右はモスクを望む。マクヴェイン日記にはエジプトの記述はないが、1868年6月の旅程ではマルセイユから船に乗りアレクサンドリアに到着し、鉄道でカイロに到着し,まだスエズ運河は開通していなかったので、カイロから鉄道を再び乗ってスエズに到着したのであろう。1873年4月と1874年5月の旅行の時にはスエズ運河を渡った。

※5. カイロに数日滞在している間にピラミット視察にでかけたのであろう。

Fig.3. Cairo  

Fig.4. Cairo

Fig.5. Pyramid 

※6 & 7. 1868年日記にはアデンのことは述べられておらず、1873年日記では4月にアラビア海を渡る前にアデン港に寄ったことが記されている。ここではマクヴェインは写真機を持って貯水池と灌漑施設の視察に出かけたのかは不明。ただ、この写真をここに用いたのは、土木技術の可能性を信じそれを日本で発揮しようとしたことを示したかった。

Fig.6. Tanks, Aden

Fig.7. Tanks, Aden

※8.& 9. ボンベイ(現ムンバイ)は英領領インドの大都市であり、1873年4月にマクヴェインは河野通信と小林八郎を伴ってエレファンタ島の石窟寺院とカーリルの石窟寺院を見に出かけたことが記されている。ジェームス・ファーガソンの『インド以東の建築史』に使われている写真のアングルとは若干異なる。海軍水路測量局の上司の一人であったF.W.L.トーマスはスコットランドのストーン・サークルを測量調査しており、マクヴェインも古代文明、民俗文化、動植物へ強い関心を持っていた。

※10. ボンベイからプーナ行きの鉄道に乗って約2時間、 カールリに到着する。ここに仏教石窟寺院があり、これもジェームス・ファーガソンの『インド以東 の建築史』に紹介されていた。1870年頃、東洋に関する歴史地理書などを相当数持っていたようである。

※1873年5月に、一時帰国する際に測量正河野通信と研修生小林八郎を連れてエレファンタとカーリルの石窟寺院を訪れた(マクヴェイン日記)。May 7.2021-added.

Fig.8. Elephanta Cave, Bombay

Fig.9. Elephanta Cave, Bombay

 Fig.10. Karli Cave 

※11. ボンベイを出港し、途中コロンボに寄港したが、セイロンの写真はない。ベンガル湾を横切り、マラッカ海峡の入口のペナンに到着。ここでは数日滞在したが、本当に対岸のスマトラ島に渡り、バタック族の民家を視察したかどうかは不明。写真11番はペナンではなく、スマトラ島バタック族民家である。

※12. 滝は現ペナン植物園の奥のもののである。 

 Fig.11. Native Houses, Penang

 Fig.12. The Waterfall, Penang

IIV. IN JAPAN日本

 p.13|p.14  ※本アルバムの日本の部分は唐突にこの見開きの頁から 始まる。 左手に明治政府側を、右手に幕府側を対に配置しているのが読み取れる。

※13. 旧江戸城「外桜田見附」。明治初期の写真家横山松三郎は 、1871年、太政官取調御用掛の蜷川式胤に依頼され、旧江戸城を撮影した。マクヴェインは全江戸城写真を持っていたようで、山尾庸三から1872年4月に皇居建設のために旧江戸城の測量を指示された。その際、山尾が測量と皇居建設のための関連資料を集め、その中にこの写真集が含まれていたと考えられる。 多数の絵図も測量師長のマクヴェインの許に届けられたはずであるが、その行方は不明。

※14. 昭憲皇后。西洋では皇后を最初に配置する。

※15. 明治政府側の最高権力者である天皇。共に1872年内田九一撮影。

Fig.13. The Moats and Walls, Sakurada Gomon, Yedo Castle

Fig.14. No title (Empress) Fig.15. No title (Emperor)

※16. 天皇の右隣にくるのは岩倉具視。岩倉遣米欧使節正使としてアメリカ合衆国滞在中に断髪したというのであるから、1873年の帰国後の写真。

※17. 問題なのがその右隣の人物で、順当なら西郷隆盛である。仮装といえるほど化粧し、絵画を背景にしてスタジオ撮影さているので間違いなく役者。江戸の無血開城ではヒーローであったが、西南戦争後、西郷の評価は下がる。この役者の姿は西郷がまだヒーローであった時代の姿をしているので、1869年から1873年まで(明治政府からの下野)の間に演じられたことになる。明治初期の江戸〜東京でこんな歌舞伎が演じられていたことを知っている方がいれば教えて下さい。

※17. 西郷隆盛役を演じる尾上菊五郎目五代目。Onoe Kukugorou acted as Saigo Takamori.(added in March 20, 2021).

Fig.16. No title (Iwakura Tomomi) Fig.17. No title (probably Kabuki actor)

 Onoe KIkugorou, the 5th.尾上菊五郎五代目、1844-1903。

※18. 当時まだ増上寺境内にあった頃の徳川霊廟(現芝東照宮)であろうか。明治初期の写真であり、建物は現在のものと違う。 この裏に池があり、冬になると凍結し、マクヴェインらがスケートを楽しんだ。

※19. 慶喜夫人の美賀子

※20. 徳川慶喜。マクヴェインは慶喜と直接の面識はなく、旧権力側代表としてここに持ち出してきたと考えられる。

Fig.18. Temple of Tokugawa, Yedo

Fig.19. No title (Empress Mika, wife of Tokugawa Yoshinobu) Fig.20. No title (Last Shogun, Tokugawa Yoshinobu) 

※21. 慶喜の右隣は順当なら勝海舟と思われるが、ここにも仮装し、スタジオ撮影された役者が配置されている。これもまた江戸開城の様子が歌舞伎で演じられたということなのであろう。

※21. 勝海舟役を演じる尾上菊五郎五代目Onoue Kikugorou, the 5th as Katsu Kaisyu.(added in March 20,2021).

※22. その隣は大谷光尊で、西本願寺法主。幕末・明治初期の仏教界の開明派リーダー。子に大谷光瑞がいる。

Fig.21. No title (probably Kabuki actor, Onoe Kikugorou, the 5th)     Fig.22. Houswange High Preist (Ohtani Kouson)

P.15 | P.16この見開きの頁に は旧江戸城の写真と明治政府首脳が配置さている。

※24. 左手が徳川昭武で、慶喜の異母弟、最後の水戸藩主。幕末に慶喜の名代としてパリ万博に派遣され、渋沢栄一や杉浦譲の付き添えでそのままフランスに留学。最も開明的な大名の一人で民部大輔を勤めていたので、薩長による倒幕がなけれ旧幕勢力が新政府を組織し、昭武はそのまま殖産興業を指揮していたかも知れない (revised in August 24, 2021)。

※25. その右隣は陸軍大将の西郷従道、西郷隆盛の弟。

Fig.23. Moats and Gate, Yedo.旧江戸城「雉子橋門」。写真左手に白丸が見える。

Fig.24. Prince of Mito Tokugawa Fig.25. General Saigo of The Satsuma Clan

※26) 左手が太政大臣の三条実美、明治政府の名目上のトップである。マクヴェインは1872年と1873年の明治政府による新春行事、1872年に洋館設計と鉄道開通式、1874年12月の金星日面通過観測で会っている。

※27) 右手は寺島宗則で、薩摩藩出身、1861年に幕府の第一回遣欧使節として渡欧、1868年に神奈川県知事、1869年に外務大輔、そして1873年当時は外務卿を勤めていた。写真の説明に神奈川県知事としてあるのは、マクヴェインが燈台寮雇いの時に彼と会っていたからだと思われる。

Fig.26. No title (Sanjyo) Fig.27. Terashima Munenori, Governor of Yokohama

※29) 両写真ともにタイトルはないが、左手写真の椅子に座っている人物は大久保利通で、立っているのが村田新八。1871年に大久保は大蔵卿就任とともに、岩倉遣米欧使節副使として外遊。1873年に内務省設置とともに初代内務卿。村田は1871年に宮内大丞に任命され、大久保らとともに岩倉遣米欧使節に参加。帰国後、西郷隆盛が下野したことを知り、自らも帰鄕。とすると、岩倉使節出発前に撮影された写真と思われる。

※30) その右隣にもまた謎の人物がおり、薩摩出身の村田と大久保と同列、あるいはそれ以上の人物といえば西郷隆盛しかいない。岩倉右隣の人物(Fig.17)と同じスタジオで撮影されているが、顔の化粧(変装)の仕方が異なる。

※30.西郷隆盛役を演じる市川左団次、内田九一撮影. Ichikawa Sadanji as Saigo Takamori, taken by Uchida Kuichi。(added in March 20, 2021).

Fig.28. Ruins of Castle of Edo. 横山撮影の旧江戸城「大広間跡・数寄屋二重櫓」

Fig.29. No title Fig.30. No title(Kabuki actor, Ichikawa Sadanji, the 1st)初代地川左団次

市川左団次Ichikawa Sadanji, 1842-1902.

※31) 左手小松宮彰仁親王で、戊辰戦争で奥州征討総督、1874年の佐賀の乱でも征討総督を勤めた。その後、イギリスに留学し、皇族最初のイギリス留学生となった。

※32) 右手は山口尚芳で、1871年に外務少輔、岩倉遣欧使節では、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允とともに副使を勤めた。

Fig.31. No title(Komatsuno-miya)小松宮 Fig.32. No title(Yamaguchi)山口尚芳

p.17 | p.18. 前頁に引き続いて、旧江戸城と明治政府官僚たちの写真である。

※33) 横山撮影の旧江戸城「天守台・西番所跡」

※34) 左手は言わずとしれた森有礼、薩摩藩士として1864年イギリス留学、1872 年から米国中弁務使。森は外国人宣教師たちの活動を理解し、ロシア正教会のニコライにも大きな便宜を図っている。

※35) 右手は鮫島尚信で、1872年から欧州中弁務使(イギリス・フランス・ベルギー担当)を務め、マクヴェインは日本から海事測量局のシャボーとチースマンの雇用契約を進めるよう何度も依頼したがうまくいかなかった。

※36) 左手青木周蔵、1873年から在ベルリン公使。

※37) 右手花房義質は在サンクトペテルブルグ公使。

Fig.33. Citadel, Old Castle of Yedo「江戸城・西番所跡」

Fig.34. A. Mori, Minister in London森有礼 Fig.35. W.T.Samejima, Former Minister in Paris鮫島尚信

Fig.36 Aoki, Minister in Berlin青木周蔵 Fig.37 Hanabusa, Foreign Officer, Minister in Korea花房義質

(38)横山撮影の旧江戸城「一橋門」

(39) 左手の上野は薩摩藩出身で、長崎で西洋学問を修得。薩摩藩の近代化事業の折衝に当たり、グラバー商会を通して雇用した外国人技師たちの通訳を勤め、明治政府では燈台掛兼運上所掛となり、1871年に横浜運上所長官。ウォートルス、ブラントン、マクヴェインを最もよく知る男。キャプションには、「Late Minister in London(駐英公使)」となっているが、これは1874年から1879年のことであり、マクヴェインがこのアルバムを整理したのはその後ということになる。

(40) 右手の木戸孝允はいわゆる維新三傑の一人で、明治政府が成立するとともに参議となり、1871年に岩倉遣米欧使節団副使として外遊したため、マクヴェインは会っていないと思われる。ただし、山尾庸三と河野通信の師匠であり、間接的にはよく知っていた。 1875年の明治政府主催の新年祝賀会で会っているかも知れない。

(41) 左手吉田清成は旧薩摩藩士で、幕末にイギリスとアメリカに留学。1870年に大蔵省、1872年に外務省に勤め、アメ リカに派遣され、そのまま駐米公使に任命。

(42) 右手榎本武揚は勝海舟に次ぐ幕府海軍幹部で、皇軍と戊辰戦争で戦い、最終的に箱館戦争で明治政府に屈した。そこで共に戦ったのが、大鳥圭介、荒井郁ノ助、小林一知、林董で、マクヴェインは荒井を除く彼らと工部省と内務省で一緒に仕事をすることになる。旧幕臣技術者。しばしの謹慎後、1872年に開拓使に勤務。1874年海軍中尉として駐露公使。

Fig.38 Kandagawa, Yedo

Fig.39 Wooyeno Kagenori上野景範 Fig.40 Kido, Late Sangi木戸孝允、参議

Fig.41 Yoshida, Minister in Washington吉田清成 Fig.42 Admiral Enomoto榎本武揚

P.19 | P.20 ※両頁とも旧江戸城を紹介している。

(43)横山撮影の旧江戸城「本丸書 院二重櫓」

(44)この印章の詳細は不明。

Fig.43 Ruins of Castle, Yedo

Fig.44. no title

(45)横山撮影の江戸城「西丸書院門」

(46)左手写真には、蓮池の向こうに東屋が見え、岸辺に二人の人物が写っている。

(47)右手は「奉納名古屋藩」の看板があり、1872年に湯島聖堂博覧会で展示された名古屋城金鯱であることがわかる。翌年、ウィーン万博においても展示されることになり、工部省官僚の佐野常民が副総裁として参加した。 マクヴェインは佐野に湯島に呼び出され、ウィーン万博の展示に助言を求められる。展示用ケースなどの設計を行い、友人のキャンベル・ダグラスを通して、エジンバラのモートン・スコット社に発注した。

Fig.45. Main Entrance of Castle, Edo

Fig.46 none title Fig.47 No title (Shachihoko from Nagoya Castle)

P.21 | P.22 ※旧江戸城写真帖から

(48)21頁と22頁にはそれぞれ一枚の写真が貼られている。左手は神田昌平橋の写真であり、1871年に下岡蓮杖が撮影したことが知られており(下図参考)、構図を見るとほぼ同じ時間に撮影されていることがわかる。下岡と行動をともにし、マクヴェインが自ら撮影したのであろうか。

(49)旧江戸城「中之門・重箱櫓」。

Fig.48 Kanda Kawa, Yedo

Fig.49 The Guard at One of the Castle Gates, Yedo 

参考:下岡蓮杖撮影「神田昌平橋」

P.23 | P.24

(50)旧江戸城、

(51)向島墨堤。1875年4月にはマクヴェインは工部省雇いの友人たち家族を誘って花見にでかけている

Fig.50 Entrance to the Castle, Yedo 

Fig.51 Cherry Blossom, Yedo

P.25 | P.26 両頁上の写真は旧江戸城で、その下には東京以外を含む名所写真が多数貼られている。

(52)旧江戸城「中の門、二重櫓」

(53)同上「山下門」 (右手)

Fig.52 View of Edo from the Castle 

Fig.53 Lotus Garden on the Moats Yedo

(54)神田川

(55)隅田川河口

Fig.54 none title 

Fig.55 none title

(56)左手が新橋駅に停車する蒸気機関車。スナップ写真に近く、マクヴェイ ンが撮影したものと思われる。マクヴェインは燈台寮を辞した後、横浜のVulcan Foundryに勤め,お雇い鉄道技術者と親しかった。ここに写っているのはVulcan Foundry Co.Ltd社の蒸気機関車である。

(57)銀座煉瓦街。1872年2月に大火に見舞われた銀座煉瓦街を測量し、再開発計画をウィットフィールド、ドーソン、スメドレィとともにまとめ上げた。マクヴェインは、1873年早々測量機器購入のため渡欧するので、この写真は1874年の帰国以後のものと思われる。 

Fig.56 none title (Locomotive, Shinbashi) 

Fig.57 none title (Ginza Reconstructed)

(58)旧江戸城、

(59)浅草寺。ベアトも浅草寺を撮影しているが、それとは構図が異なる。出典不明。

Fig.58 none title 

Fig.59 none title

(60)伊勢神宮内宮。※これは最古の写真と思われます。中央に監視の人物が起立、けらばに大きな損傷、遷宮は明治2(1869)年。1872年にアーネスト・サトウが訪問しているので、彼から入手した可能性がある。

(61)清水寺。マクヴェインは、1874年5月と1875年5月にマッカーサーとウィルソンの三角測量業務を監督するために京都を訪問している。清水寺に測点を設定した。

Fig.60 none title (Ise-jingu.伊勢神宮)

Fig.61 none title (Kiyomizu-dera'清水寺)

(62)左手は隅田川堤

(63)住吉大社反橋(太鼓橋)

Fig.62 none title

Fig.63 none title

(64)数寄屋造の屋敷の庭で数人がたたずんで、芝生の手入れをしているように見える。江戸城吹上御苑と思われる。下岡蓮杖も御苑を撮影している。

Fig.64 none title

P.27 | P.28  旧江戸城写真帖他から

(65) 旧江戸城「蓮池巽三重櫓」

(66) 上野公園。 

Fig.65 View of Edo from Turimi Yagura

 Fig.66 Gardens of Wueno, Yedo 

P.29 | P.30 善光寺と旧江戸城写真

(67) Templeとしか記されていないが、善光寺。1875年10月、マクヴェインは浅間山元線設定のため中山道を追分まで行っている。

(68) 旧江戸城「天守台、乾二重櫓」。

Fig.67 Temple

Fig.68 Ruins of Old Castle of Yedo

P.31|P.32 善光寺写真と東京名所

(69) 善光寺

(70) 善光寺.下には東京名所を写した6枚の写真。

Fig. 69 Temple

Fig.70 Temple

 (71) 不詳

(72) 不詳

 Fig.71 none title

 Fig.72 none title 

(73) 工学寮工学校校舎、マクヴェインが撮影したと考えられる。校舎裏に生徒館が見える。

(74) 富士山を背景にした集落であるが、出典不明。

Fig.73 no title (Technical School, Kogaku-ryo)

Fig.74 no title (A village near Yokohama observing Mt. Fuji.

 (75) 向島の桜並木。

(76) 海軍兵学寮。マクヴェインは海軍兵学寮のイギリス人職員とはとても親しくしていた。イギリス海軍出身のホウズ、アンダーソン、ダグラス、ブリンクリー、ベイリーなど。

Fig.75 no title (Sakura Trees along Mukojima Bank)

Fig.76 no title (Naval School, Tsukiji)

P.33|P.34  Survey Office.測量司・内務省量地課

(77) 内務省地理寮量地課職員一同が揃っており、間違いなく何らかの記念写真である。前列左側にシャボー、チースマン、スチュワート、室田秀雄、マクヴェイン、村田文夫、クラセンが並ぶ。クラセン写真はジョイナーかもしれない。シャボーは帽子で顔を隠し、後列に立つ日本人職員二人はそっぽを向いている。小林一知はいない。シャボーと反御雇い派(反工部省測量司、旧幕臣技員)が異様な雰囲気を漂わせている。For details, see <Survey in Home Affairs>. 

イマジンネット画廊がこの写真を有料配布しているが、どのようにして入手したのか疑問である。また写真説明も不正確である。

(78) 1874年12月9日の「金星太陽面通過観測」.右側から三番目にマクヴェン、前列中央に三条実美が見える。三条の左側に眼光鋭い小林一知と荒井郁之助が並ぶ。 For details, see <Venus Observation>.

※「内務省,先に金星経過測量の命を奉じ,地理寮お雇い測量師,英人シャボーをしてこれに担当せしめ,仮に場を品川旧御殿山の南橋に設け,測大器三箇を置き,本日内務大亟兼地理頭杉浦譲,少内史兼地理寮五等出仕塚本明毅,地理寮五等出仕村田文夫,同六等出仕室田秀雄,少技監水野行敏,測量師長マクビーン等これを監視す。シャボー及び測量役英人クレーソン,チースメン三人各測器に当たり,英人スチュアルト時振儀を按じ,金星の太陽に経入および経過するその初中末三度を測り,かつ英人ブラックをして写真鏡をもってこれを写さしむ。三條太政大臣,伊藤参議両閣下もまたこれに来臨せられ,工部少亟以下もこれを会観す。その経過時刻および高度等は成算の後,精しくこれを公布すべし。」東京日々新聞12月12日

Fig.77 Survey Department 

  Fig.78 Venus Observation.

(79) ウィッテン夫妻、ブランデル、ハーディー他。左の人物がブランデルであることは右手写真からわかるが、どれがウィッテン夫妻、ハーディ夫妻かは不明。ブランデルはマクヴェインと同時に灯明台掛に着任し、同時期に一緒に辞職し、1871年に鉄道省に雇用されたが、その後も長い付き合いがあった。ウィッテンは、明治6年6月1日より工学寮に石工造家棟梁として雇用、ハーディ(John Thomas Hardy)はインド植民地からコスモ・イネスの紹介で明治5年5月7日より工部省測量司雇いとなった。

(80) ウィッテン夫妻とブランデル

Fig.79 Mr and Mrs Witten, Blundell, Hardy, etc.

 Fig.80 Witten and Blundell.

P.35|P.36 旧江戸城写真と皇室儀式

(81) 左手が旧江戸城「数寄屋 二重櫓・不二見宝蔵」。

(82) 成年男子4人の舞。右手の舞踊は、1867年に京都で行われた践祚・即位の礼か、翌年江戸で行われたものであろうか。入手経緯不明。

Fig.81 Ruins of Old Castle of Yedo  

 Fig.82 No dancers of Japan 

P.37|P.38  皇室儀礼

(83). 少年4人の舞。

(84). 成年男子4人の舞。

Fig.83 no title                                                              Fig.84 no title

P.39.|P.40.  皇室儀礼

(85). 面を付けた少年、座位の前に剣を置く。

(86). 面を付けた少年、立って槍を掲げる。

 Fig.85 no title

Fig.86 no tile

P.41.|P.42.  皇室儀礼

(87). 少年一人、左手に杖をもつ。

(88). 成年男子4人の舞。

※参考写真はこのアルバムに添付されず、写真コレクションの中にあった。Fig.87と同人物。

※M氏の舞踏演目と装束の見立てによると、践祚・即位の礼とか(September 29, 2019)。

These photos may be scene of Accession ceremony of Prince Mutsuhito at Kyoto, according to M......

P.43 | P.44   日光

(89) 日光大 猷 院唐門

(90) 東照宮五 重塔。これはシュティルフリートの撮影である

Fig.89 Nikko 

    Fig.90Nikko

Nikko Pagoda taken by Stillfried

P.45|P.46 日光

(91) 日光東照宮。スチルフリートの写真。

(92) 日光石鳥居。スチルフリートの写真。

 Fig.91 The Main Gate, Nikko , probably taken by Stillfried.

 Fig.92 Nikko Stone Torii, probably taken by Still fried.

P.47 | P.48 日光と京都

(93) 日光街道の今市。長崎大学幕末明治古写真 DB2719番にある。

(94) 京都の下賀茂神社。長崎大学幕末明治古写真のベアト

(95) 京都の金閣寺。ベアトとスチ ルフリートも似たような構図で撮影しているが、それらと異なりこちらには水草がない。

Fig.93 IMAICHI 

Fig.94 Torii, Kioto.

Fig.95 Golden Temple, Kioto.

V. Yamato Yashiki and Technical School大和屋敷と工学寮工学校

(96) 大和屋敷のマクヴェイン邸。1869年3月生まれの長女ヘレンと70年7月生まれの長男ドナルドの二人が写っており、71年9月に工部省に雇われ、大和屋敷に引っ越してすぐの写真であろう。建物も興味深く、お雇い外国人のために急遽建設したものと思われる。コーナーストーンや玄関の上のアーチ型。

(97) 観測所の実地踏査の様子。西洋人2人、日本人2人と行っている。西洋人はマクヴェインは間違いないが、もう一人はジョイナーと思われる。和装姿の人物は村田文夫であろう。左手奥の建物は『ファー・イースト』誌に紹介されているマクヴェイン邸で、1873年2月の日記に屋敷地の新施設を建設するために調査をしたとある。

Fig.96 Residence at Yamato Yashiki, Yedo

Fig.97 no title, probably examination of site of the observatory.

(98) キャプションにあるように工学寮工学校小学校校舎は、1871年10月からジョイナーとマクヴェインがともに協力して設計図を作成し、1872年3月から工部省直営で大工のアンダーソンと石工のマークスを雇い、ウィットフィールド&ドーソンによる施工が始まった。その工程はマクヴェイン日記に詳しく述べられている。実際は、1872年12月にグラスゴーから建築家ドゥ・ボアンヴィルが到着すると、彼は22歳の若者ながらすぐれた設計の腕を持ち、細部の設計と施工監理を行った。1873年3月には、マクヴェインは心置きなく工学校の建設をドゥ・ボアンヴィルに任せ、一時帰国した。工学校校長のヘンー・ダイアーが1873年7月に着任するとまだ完成しておらず、その年は工部省庁舎建設予定地の葵町旧屋敷で工学校の授業は行われた。1874年2月になって完成し、この建物での授業が始まった。この経緯はヘンリー・ダイアーの『1876年工部大学校報告』の中に詳しく、また『𦾔工部大学校史料』曾禰達三が若干述べている。

Fig. 98 Technical School, Tokei, designed by Joyner, and supervised by McVean