McVean in the Home Office 1874-1876.内務省のマクヴェイン

Started in January 2011, largely updated in June 12, 2020.

updated in December 2, 2020; Public Records related to 2.6.Survey School.2.6.マクヴェインの測量教育「測量技術通学生規則」の公文書追加

updated in December 18, 2020. Inquiry of National Geodetic Survey「全国測量並臨時測量之儀ニ付伺」

I. Abstruct要約

1.1. The Survey Office under the Public Works工部省下の測量司とマクヴェイン

・既往研究を再検討し、マクヴェイン文書及び関連資料を解読した結果、次のことがあきらかになった。この議論の過程と証拠はII.以降に示した。

--The followings are conclusions of argument what McVean did in survey office under the Home Office. Argument process is described below.

(1) Agreement with Yamao before Leaving for the Britain, 3 years more to setup Survey Office一時帰国直前の山尾との合意:測量司創設に後3年

・1871年10月に工部省下に測量司が発足すると、マクヴェインはさっそく鉄道寮から技術員を引き抜き、当座、師長1名、技師補1名(Henry Batson Jouner)、測量教師2名(Rymer=Jones, George Eaton)の体制で、横浜=東京間の測量をしながら日本人測量師を育成することにした。工部省営繕を兼務したため、工学寮工学校建設用地に旧延岡藩上屋敷に事務所を置き、測量学校は旧川越藩大和屋敷とし、富士見櫓に最初の基点を設置した。公共建築営繕と国土測地測量を教導するため、さらに建築師1〜2名と測量師4〜5名の追加雇用と最近測量観測器機の購入が必要と考え、1872年2月に山尾に一次帰国を申し出た。しかし、<1.Public Office工部省>のところで前述したように、山尾の指示により工学寮工学校の建設などの建築営繕の仕事に忙殺され、帰国許可が下りなかった。最新測量器機の購入は駐英仏高等弁務官の鮫島に依頼したが、これはうまくいかなかった。マクヴェインは、日本国内外にいる知人友人を通して人材(Hardy, Mcathur, Wilson from British India)(A.W. Cheesman, Stewart from Scotland)と測量器機(from John William Hart, Line, Craford & Co.)を求め、測量司の体裁をなんとか整えた。1872年12月、一次帰国の許可がやっと山尾からおり、1873年3月、測量正河野通信と研修生小林八郎を伴い、公務一時帰国することになった。その際、山尾と測量司の業務範囲とイギリスでやるべき事を議論した。

・工部省法律顧問のデビットソンの立ち会いのもとで、マクヴェインはイギリスで遂行すべき業務の確認を山尾と行った[McVean Diary]。山尾はマクヴェインに自らの代理としての行動を容認したので、マクヴェインが王立天文台やスコットランド気象協会などを訪問し協力合意を取り付けることは山尾は了解済みだった。

(2) Official Business in the Britainイギリスでの業務

・1873年5月にロンドンに到着し、河野はイギリスの関連機関への照会文書と発注書を発送せずに、木戸孝允の待つパリに出発してしまった。6月になってマクヴェインはそれを知り、エジンバラから急いでロンドンに戻ってきて必要な事務処理を完了した。カセラ社に気象観測器機、トロートン&シムス社に測量光学機器、ナポリの地震観測台長パリミエリに地震記録計の発注書。王立天文台とスコットランド気象協会へ協力依頼依頼文書。これで当初予定から2ヶ月近く遅れた。

・9月、王立天文台を公式訪問し、台長から機器をみせてもらい、またシムスから金星日面通過観測の指南を受けた。マクヴェインの海軍水路局時代の恩師チャールズ・オットー(海軍士官、王立天文学協会会員)と台長は旧知であった。この時、シャボーも一緒に訪問した。

・11月、注文品の確認のためにカセラ社とトロートン&シムス社に出向いたが、トロートン&シムス社は製造に手間取っており、納品は翌年1月になることになった。

・11月、河野の前でシャボーの3年間の雇用契約を結んだ。シャボーはクリスマスを南フランスで家族と共に過ごすので、マクヴェインはシャボーに地震記録計の代金を託し、シャボーが帰路ナポリに寄って地震記録計を受け取ってくることになった。

・12月、スコットランド気象協会事務局長から日本の気象観測創設に全幅の支援をする旨の合意を得た。事務局長アレクサンダー・ブキャンは8〜9月にウィーン世界気象会議に出席しており、そのため協会内で合意を取るのが遅れてしまった。マクヴェインはすぐに気象協会会員に選出され、山尾とジョイナーにそのことを知らせた。1874年2月になってシャボーも会員となった。

・1874年1月末、地震計の製造が間に合わず、シャボーは手ぶらでイギリスに戻ってきた。

・1874年2月、気象観測機器と測量光学機器がマクヴェインのところに納品され、それらを自らの手で慎重に梱包し、船便に乗せ日本に戻ってきた。

1-2. The Survey Office after Transferred to the Home Office内務省移管直後の測量司

(1) Unexpected News from Japan, January 28, 1874.日本からの思いがけない知らせ:測量司の内務省移管

・出張中、山尾とジョイナーには月一度は手紙を送り、重要な事項に関してはそのつど山尾に電報を打って了解を求めた。1874年1月28日、ジョイナーから工部省測量司が内務省に移管された旨の連絡を受け、大変落胆した[McVean Diary]。

・内務省に関する既往研究によれば、1873年11月10日、大久保主導で旧民部省を復活拡大させる形で内務省発足が決まり、1874年1月9日、勧業寮、戸籍寮、駅逓寮、土木寮、地理寮は大蔵省から、警保寮は司法省から、測量司は工部省から移管させた[福田:内務省の社会史150頁、工部省沿革報告31頁]。ジョイナーの手紙はこのことを伝えたもので、おそらく山尾からも同様な手紙をあったと思われる。「内務省職制及事務章程」太政官達は同年1月10日。測量司の移管に関して、工部省大輔伊藤と少輔山尾とも、大久保の要求をただ飲むしかなかった。

・工部省測量司からまったく同じ人員が移管され、河野測量正と測量師長マクヴェインが留守の状態で、事務局を預かる村田文夫(測量司正代理)と室田秀夫、10数名の日本人技官、ジョイナー(師長代理)を含む5名の外国人測量技師。マクヴェインが留守の間、どんなことをすべきかは決まっていたはずであるが、この間の記録は館潔彦の(あやふやな)ものしかない。

・国土測量体制作りはマクヴェインが帰任してからの仕事であり、それまでは、東京、横浜、京都、大阪、神戸などの大都市を測量していた。しかし、残された村田とジョイナーは日英職員をまとめていくのに苦心したようだ。測量司の若手日本人技官は新たな知識と実践に飢えていたが、指導してくれる英国人技官との意思疎通は難しかった。マクヴェインが留守の間の最も大きな事件は大蔵省土木寮から旧幕臣技術者が測量司に合流したことで、彼らは工部省測量司発足時からいた職員(英国人技術者も含む)との主導権争いを展開した。

(2) New Technical Staffs joined from the Treasury, February 13, 1875.大蔵省から測量技術者の合流

・岩倉使節団副使の大久保は、太政官で生じていた危機の解決のため、1873年4月に岩倉使節団から早期に帰国し、内務省発足に動きだし(旧民部省の復活)、また江藤新平や西郷隆盛らの旧士族擁護者たちと激しく対立した。自ら佐賀の乱の鎮圧に出て、それを成功させると、今度は台湾事件の解決のために清国に全権大使とし出かけた。内務卿は大久保留守の間、木戸孝充と伊藤博文が臨時内務卿を勤め、実質的には大久保配下の杉浦譲が内務省を統括した。杉浦は旧幕臣で、行政官としてたいへんすぐれた人物であったが科学技術にはほとんど関心を持たなかった。清国政府との交渉を上手くまとめて11月末に帰国すると、12月9日、天皇から労をねぎらわれ、明治政府の舵取りを任された。残る課題は西郷隆盛の扱い方であった。

・内務省測量司は河野通信が正を勤めるはずだったが、1874年1月、帰国して直ぐに病気(本当の理由と辞職時期は不明)のために辞職してしまった。しばらく測量正のいない状態が続き、最終的に測量正代理を務めた村田文夫が後任となった。村田は旧芸州藩士で幕末にイギリス留学し、その見識を山尾から見込まれ明治政府の工部省に出仕したが、技術と政策に疎く富国強兵や殖産興業を推し進める政府官僚よりも、西洋文化を日本に広めるジャーナリストのような仕事が似合っていたように思われる。村田は薩長土肥閥官僚とのコネがなく、さらに旧幕臣からも支援はなかった。測量司に大蔵省土木寮から新たに加わった小林一知や三浦省吾などから、マクヴェインと共に誹謗中傷を受けて辞職に追い込まれた。工部省時代から測量司には日本全国の測量と地図作成、各種気象観測などの仕事が期待されていたが、マクヴェインが留守の間に内務省に移管されると、戸籍や地籍の把握を任務としていた地理寮を補完するという地位に降格されたようにみえる。

1-3. McVean's Return to the Survey Officeマクヴェインの測量司帰任

(1) Arrival at Yokohama, May 8, 1874.横浜港着

・そもそもマクヴェインの測量師長Surveyor in Chiefという立場は単に測量技術者のトップという意味ではなく、技術部門の統括者として正(局長)と事業計画を策定して、どこにいつどのような技術員を配置し、予算及び期間内に業務目標を達成することが任務である。従って、マクヴェインは工部省測量司のこの職務に就くと共に、組織計画、技術員雇用と配置をやってきた。当座の日本人技術員の採用も河野と相談して決め、数年後には修技校卒業生が使えるようになることを見越して、彼らと国土測量に乗り出すために必要な測量観測器機を買いそろえようと一時帰国した。私的用事もあったが、測量観測のための部署を設置するならば、最新の器機を自分の目で確かめ、それらの梱包と発送を確認したかった。というのも、前年、工学寮工学校屋根に取り付けるはずだった時計セットは破損して横浜港に到着し、再注文したという経験があった。

(2) Confusion of the Survey Office測量司の混乱

・1874年5月8日、マクヴェインが帰任すると、測量司には河野はいないし、代わりに見知らぬ技術員たちが幅を効かせていた。この新参技術員は戊辰戦争と箱館戦争で天皇政権に反抗した旧幕海軍技術者たちで、しばしの謹慎の後、明治政府に出仕してきた。彼らの職場は民部省土木掛から始まり、工部省、大蔵省の土木寮とたらい回しにされ、1874年1月になりやっと内務省が発足すると、測量司と土木寮に落ち着いた。そこで復権を図ろうとすると、すでにいる外国人技術者を排斥しなければなかった。彼らの存在はマクヴェインの人事計画には入っておらず、また彼らは自らのプライドと立場からマクヴェインを師長と認めなかった。これにより、マクヴェインの構想は大きな試練を迎えることになった。マクヴェインが留守の間、代理の村田とジョイナーが彼らをうまく取り込み、あるいは手なずけ、新たな測量司体制を作り出すことが必要であったと思われる。しかし、それはなされず、彼らが合流してから4ヵ月後、混乱状態の測量司にマクヴェインは復職してきたのである。旧幕臣技術者は「我らは御雇い技術者に劣ったところは何もなく、彼らの業務を我々は十分にやれる。そんな御雇いを高給で雇うのは無駄である」という主張を受け入れ、内務省執行部の大久保利通と杉浦譲は契約満期近くの御雇いの解雇に向かったようだ。以下、関係資料の解読により、内務省内で何が興ったのかを明らかにしていく。

※岩倉使節団から帰った大久保の考え方:インフラ整備は、イギリスでは民間資本でなされたが、オランダやドイツでは国家事業であった。工部省のイギリス人技術者になかった国家的視点がオランダやドイツの技術者の方があった。国家事業であればそれを担う人材養成も国家が行っていた。

・最大の原因は、小林一知による「測量技術通学規則の改定」である。マクヴェインの測量学校は1年の学校教育+2年間の実務訓練であり、修了試験合格者を技官に登用することにしていたが、マクヴェインが帰国する前に小林はこれを3ヶ月間の研修だけとし、修了時の結果を見て技官へ登用とした。1874年3月にこの改正案で生徒募集を始めたが、内務卿大久保から出費抑制令が出て、同年10月に中止となった。マクヴェインの「測量技術通学生規則、1873年10月」と小林の「同改正1874年3月」は下の一次資料を見よ(2020年12月1日)

(3) Clash with the Anti Foreign Party 反御雇い派との衝突

・5月14日、関西で実施されていた測量を指導するために、神戸に出張した。日記によれば、大きな仕事は神戸に測量基点を設置することであったらしい。村田文夫が測量を指揮しており、小林一知や三浦省吾は「京都でマッカーサーから日本人技官が辱めをうけた」と述べていることから、マッカーサーと日本人技官が衝突し、マッカーサーが暴力を振るったらしい。マクヴェイン日記にはこのことは何も記されていない。

・5月24日、測量観測機器などが横浜港に到着し、ジョイナーと共に荷ほどきし、東京に搬送した。6月1日に、地震計を携えてシャボーが到着した。

・6月以降、日記にほとんど記することはなかった。職務怠慢を続けるハーディを解雇するための裁判を起こそうとしており、司内には相談する相手がおらず、一人大変気落ちしていたらしい。

(4) The Survey Office shuffled in August 30.測量司の改組

・8月30日、測量司は一端廃止され、地理寮の下に量地課として移された。御雇外国人は8月に3週間の休暇を取ることが認められており、マクヴェインにはにまったく知らされず行われたものと考えられる。内務卿は大久保の代理として伊藤博文が勤めていたが、大久保の指示で執務していたに過ぎない。館の記録によれば同じ人員を抱えながら予算は半減されたとある。地理寮頭杉浦譲の下に村田が量地課長となり、さらに室田が課長補佐となった。

・この措置に対して、9月、マクヴェインは大久保と杉浦に師長としての地位保全を求めた。大川通久文書に「マクビーン建言書」とあるが、内容は建言ではなく、量地課の任務と自らの地位の確認である。「所内には私の指示に従わないものがおり、指揮をとるのが困難になっている。全国測地測量を遂行するには政府から継続的な支援を得て、師長の強いリーダーシップが必要であり、それはイギリスにおけるコルビー陸地測量師長の業績が示すとおりである」と述べている。所内には、マクヴェイン自らの地位の不確定、反御雇い派(Anti Foreign Party)との対立、予算削減、さらにジョイナーとシャボーの対立という四つの問題を抱えていた。

(5) Raising Anti Foreign Party力を増す反御雇い派

・マクヴェインの地位保全要求書に対して、内務卿の大久保は琉球事件解決に奔走しており、杉浦も自らの本務に忙しく、マクヴェインは何んの回答も得られなかった。マクヴェインの地位確認書の和訳が反御雇い派の手に渡り、11月、彼らは量地課執行部(村田と室田)に対して意見書を提出した。大川文書が沼津市明治資料館に寄贈された際に、この文書に「マクビーン排斥書」として題名が付けられているが、もとの文書には題名はなく単なる意見書である。作成者は三浦省吾であるが、その後ろには小林一知がいたことが分かる。マクヴェインに関して誤った情報をもとに中傷する内容で、「工部省に測量司が創設されてから3年になろうとしているのに、マクヴェインはほとんど成果を残していない。というのは彼は建築技師であり、測量にはまったくの素人だからである。全国測地測量には政府からの継続的な支援を求めるだけで、彼には全費用の見積もりができない。外国人測量師は高給を受け取りながら、中には怠惰なものがおり、彼らと我々の技術技能はまったく劣るものではない」という内容。この反御雇い派は1月23日に大蔵省土木寮から合流した人物たちで、その時から測量司の主導権を握ろうとし、村田と室田を懐柔しつつ、ジョイナー他の技術者を遠ざけていた。5月にマクヴェインが帰任したときには、三浦・小林が率いるグループと元工部省測量司(御雇い&測量学校生)のグループに明確に分かれていたと考えられる。

(6) Widening Gap between Joyner and Scharbauジョイナーとシャボーの隙間風

・マクヴェインがシャボーを任用する際彼をどのように扱おうとしたのか不明である。シャボーは52歳になっており、測量と地図作成に豊かな経験を持ち、長い付き合いのあるマクヴェインの下で働くのは了解できたとしても、技師補のジョイナーの下の地位を甘受できたであろうか。ハーディの怠惰事件は、組織の中によくあるように、地位と処遇に対する不満から来ていた。マクヴェインは、測量司を測量班と気象班に分け、前者をシャボーに、後者をジョイナーに担当させようとし、1874年7月にジョイナーの雇用継続を進めた。しかしながら、ジョイナーには趣味として気象観測があったとしても、その専従になることは本意ではなかったと思われる。結果的にそれを受け入れ、任期満期の1877年6月までその任に当たるが、その後、気象観測関連の仕事には一切就いていない。灯台寮を退職したマックリチーと一緒にブラジルの上水道建設に関わった。マクヴェインとはその後も文通をしていて、友好関係を維持した。

1-4. Observation of the Transit of Venus金星日面通過観測

(1) Preparation in the Britainイギリスでの準備

・三浦・小林はシャボーを自らの陣営に引き入れることで、村田と室田を懐柔することで量地課における優位を確立していった。しかしながら、マクヴェインがイギリス王立天文台とスコットランド気象協会と結んだ協力合意をもとに関連事業が内務省で公式に実施されることは、彼らにとって非常に望ましいことではなかった。マクヴェインは彼らから無視や嫌がらせを受けていたので、以下の述べるように、彼らとの間にシャボーに入れてなんとか金星日面通過観測を実施することした。内務卿代理を旧地の伊藤博文が勤めており(彼の屋敷の洋間を設計し、家族同士のつきあいがあった)、期日がかなり差し迫った11月24日になって実施伺いを立てた。

・前述したように、1873年早々、マクヴェインは1874年12月9日に日本で金星の太陽面通過が観測されることを知り、山尾と相談し測量司の業務の一つとして実施することにした。イギリスに一時帰国した際に、そのためにも十分使える光学機器を買い揃え、またグリニッジ王立天文台にシャボーを伴って観測手法の修得に出かけ、さらに帰任すると工部大学校教授のダイアーやエアトンらと観測の相談をした。

(2) John F. Campbell's Visit to Japanジョン・フランシス・キャンベルの来日

・マクヴェインは、自ら企画していた金星日面通過観測に助っ人がやってくるととは1874年10月頃までは知らなかったようだ。その人物は、イギリス政府枢密院次官のジョン・フランシス・キャンベルで1874年6月にその職務を満期退職すると、世界一周旅行に出発した。その目的の一つは日本で金星日面通過観測を観測指導することで、自ら数台の望遠鏡などの装置を携えて同年11月20日に横浜港に到着した。事前にマクヴェインとどのようなやりとりをしたか不明であるが、駐日英国公使ハリー・パークスと一緒にマクヴェインはキャンベルを迎えに横浜にでかけた。キャンベルは衛生局事務局長時代に日照計を発明したことがあり、これはガブリエル・ストークスにより改良され、キャンベル・ストーク太陽光記録計(日本ではカンベル日照計として知られる)として実用化された。科学者としての十分な知識と経験を持っていた。ロンドン気象台、王立天文台、スコットランド気象協会には知人がおり、間違いなく彼らからマクヴェインが日本で金星日面通過観測を準備している事を知ったのであろう。キャンベルの義弟であるインド省大臣アーガイル候もインドで金星日面通過観測を準備していた。

(3) Preparation and Execution of the Observation観測の準備と実施

・前述したように、マクヴェインは師長としての立場をめぐって小林一知らと対立しており、内務省地理寮で公式行事としてこの観測を行えるか迷っていた。実際、三浦は観測日の2日前の12月7日付けてマクヴェインを誹謗する意見書を杉浦に宛てている[大川文書]。キャンベルが来日することになり、旧知の伊藤博文が内務卿代理を務めていることから、11月24日付けで観測の伺いを提出した。

・キャンベルは大和屋敷のマクヴェイン邸に泊まりながら、金星日面通過観測の準備と実施をした。まず、二人で工部大学校にでかけていき、ヘンリー・ダイアーやウィリアム・エアトンらと面会し、観測の相談をした。その後、東京の南部を数日かけて歩き回り、最終的に御殿山に観測所を設置することに決定した[McVean Diary1874]。マクヴェインは観測全体を統括し、シャボーに内務省の観測を担当させ、キャンベルに指導を頼んだ。シャボー担当の公式観測所は木造の小屋を、キャンベルの方は自らの観測のために竹製小屋と一般大衆に見せるための覗き小屋をそれぞれ設置した[Campbell1876]。このようにマクヴェインとキャンベルは独自に準備を進めたが、シャボーは既往研究にあるように横浜に陣取っていたメキシコ隊と接触した[原田2013]。

Overview of Shingawa Bridge from Observation site, the Far East, Dec. 1874.  Three Observatories on Gotenyama, illustrated by Hideo Izmd.

Memorial Picture of the Observation, Source from MVA.    Observation Instruments.

・観測所は三カ所設営され、公式観測所はクラセン、チースマン、シャボーが、キャンベル観測所はジョイナー、マクヴェイン、ミエがにそれぞれ望遠鏡を操作し、キャンベルの監督のもとで、金星の影が太陽面に接触し、また離れる時刻を計測した。スチュワートは両観測所の真ん中に陣取り時計掛を担当した。のぞき小屋兼撮影小屋はキャンベルが担当し、キャンベルが太陽の姿が映ったスクリーンの表面に金星の影が綺麗に映るようにフォーカスを調整し、それをカメラマンのブラックとその助手モーサーが撮影した。準備から当日の様子までキャンベルは『私の周遊記(1876年刊)Campbell1876』に記述した。

・当日の観測は政府閣僚と地理寮内職員にも伝え、三条実美、伊藤博文、(大久保利通)、村田、室田の他に、小林一知、荒井郁之助、大塚らが記念撮影写真におさまった。荒井と小林は、三条と伊藤を差し置いて眼光鋭い異様な風情をしており、記念写真でありながら緊張が漂っている。

・覗き小屋には多数の来場者があり、マクヴェイン婦人のメアリは日記に「キャンベルが指揮をとって、私は金星が太陽面を浮いているのを目にした」と認めている[McVean Diary1874]。

1-5.  Instruction of Observation by Wyville Thomson and Thomas Tizardワイヴィル・トムソンとトーマス・ティザードによる気象観測指導

(1) The Challenger's Arrival at Yokohamaチャレンジャー号の横浜港到着

・マクヴェインは、1873年10月に海軍水路測量局を訪問した際、チャレンジャー号海洋探検隊が日本に寄港することを知っていたし、また海軍士官のマックスウェルからも知らされていた。しかし、艦長のジョージ・ネアスや探検隊長のワイヴィル・トムソンとどのようなやりとりをしていたのかは不明である。1875年5月、チャレンジャー号が横浜に寄港すると、隊長のトムソンは東京のマクヴェインに横浜に会いに来るように手紙をよこした。トムソンは、スコットランド気象協会事務局長ブキャンからマクヴェインのことを聞いており、また父親のマクヴェイン牧師とは旧知の間柄であった。マクヴェインはジョイナーを伴ってトムソンらに会いに行き、話し合いをした。マクヴェインは、トムソンが「君の姿が父親とよく似ているので、遠くからでもすぐに見分けることができたよ」と語ったことに大変喜んだ[ Diary1875]。マクヴェインは、シャボーではなくジョイナーを連れて行ったということは、ジョイナーが気象観測専従になっており、トムソンやティザードから観測の指導を受けるためであった。ティザードは、ブキャンと共にチャレンジャー号探検の気象観測の報告書作成を担当していた。

(2) Thomson's Visit to the Yamato Yashiki大和屋敷での観測指導

・トムソンは横浜と東京で気象観測機関を調査したところ、灯台寮が信頼できる観測データを持っていることを知り、ブラントンからその提供を受け、気象分析担当のティザードに渡した[Tizard1877]。ということは、内務省地理寮量地課が気象観測を始めていたが、マクヴェインとジョイナーはまだ自信をもってデータを公表できる段階になかったことになる。同年5月から6月にかけて、トムソンとティザードの指導を受けたことでマクヴェインらは自身を持って気象観測を行うことができるようになった。

・1875年12月、半年間の観測データを統計分析し、その結果をThe Japan Weekly Mailに発表した。官民の航海安全のために有用なデータであり、新聞等に公表すべきことであった。このデータ発表をマクヴェインはスコットランド気象協会に送り、同協会機関誌は「日本で公式の気象観測が始まった」と紹介した。

・1875年5月、チャレンジャー号探検隊長のトムソンと副隊長ティザードが大和屋敷を訪問してマクヴェインとジョイナーに気象観測の助言をしたというのに、内務省としては何の対応もしていない。

・同年7月10日、ちょっとした地震があり、マクヴェイン邸に滞在していた海軍御雇いの面々と中庭の観測所に出向き、パリミエーリ地震記録記録計がうまく動作しているか確認しに行った。メアリは、皆、結果に満足したと日記に述べている[Diary1875]。

1-6. Attempt of Geodetic Triangular Survey全国三角測量の試行

(1) Situation of the Survey Division量地課の状況

・1874年5月にマクヴェインは測量司に復職したが、組織の混乱、緊縮予算,ハーディの解雇裁判の準備のため、全国三角測量の準備はなかなかうまくに進まなかったようにみえる[Diary1874]。そのような状況の中でも、マクヴェインは村田と室田とシャボーと関連する既往資料の収集をし、全国三階測量をどこからどのように始めればいいのかを議論していた。マクヴェインは山尾と約束したように全国三角測量の発端を開くまでを任務していたので、さらなる複数年契約は子供の養育のためにも考えてはいなかった。反御雇い派の小林や三浦が、マクヴェインは測量に無知であるため全国測量のための費用概算を作成することができないというのはお門違いもいいところで、小林は三浦は大久保&杉浦の内務省執行部が全国測量を放棄しようと考え始めたことを知らなかった。

・度重なる御雇外国人不要意見書(実は旧工部省雇い)が小林や三浦からあったが、大久保は別の理由で量地課職務の縮小と御雇外国人の解雇を考え始めていた。それは予算削減であり、小林と三浦がマクヴェインの代わりに全国三角測量の見積もりを提出したら、その膨大な予算を見た大久保は全国測量をあきらめて、要地測量に重点を移すことにした。1875年2月、大久保は御雇い外国人の雇用状況を調査させ、任期満期とともに雇い継ぎしないことに決めた。それを大久保は、御雇外国人が夏期休暇に入る8月前にはマクヴェイン他に伝えたのであろう。

(2) Preparation of Pilot Project in Kanto Area関八州大三角測量の準備

・1875年初旬、量地課は関東一円を全国三角測量のパイロット事業とすることにし、5月に開始することを決めた。マクヴェインは、3月に神戸、大阪、京都、長崎へ公務視察旅行を行い、大阪と京都では測量業務に係わった。戻ってきて、どのように関八州大三角事業を準備し開始していったのかは,マクヴェイン文書からはまったくわからない。5月から6月にかけててチャレンジャー号関係者が大和屋敷に出入りするようになると、東京在住の外国人知識人たちが大勢マクヴェイン邸に集まるようになった。その中には、鉄道寮の小野友五郎、工部大学校に入学した測量修技校修了生の面々(南清、小林、佐伯他)などがおり、小野は測量と気象観測の第一人者であり量地課に向かい入れる可能性はなかったのであろうか。

(3) Restart-up of Pilot Projectパイロット事業の再準備

・とにかくは、チャレンジャー号の出港とともに、マクヴェインは本格的に関八州大三角測量に着手していったと思われるが、なんとなんと、その最中の1875年7月9日、小雨が降る深夜に量地課の入った内務省庁舎が全焼してしまった[Diary1875, 大久保日記]。前日から小雨が降り続き、早朝に大火災によってほとんどすべての測量原図と野帳、多数の機器を失うといううとのはあまりにも反御雇い派にとって都合のよいことだったのではないか。あまりにも、、、、。それまでの蓄積をほとんどすべて失ったことで、関八州大三角事業着手は数ヶ月遅れることになった。マクヴェインは妻の実家であるコーワン家の信用で、トーロトン&シムス社から重要な機器を再購入し、また汎用品やその他の機器は横浜のレーン・クロフォード商会に注文した。気象観測所は大和屋敷にあったので無事で、8月にはマクヴェインはジョイナーと交代しながらそれぞれ3週間の夏期休暇をとった。

(4) Visit to Mt. Asama浅間山登山

・機器が揃ったのは10月で、マクヴェインは室田とシャボーと人力車に乗って浅間山に向かった。追分では詳細な調査ノートを作成し、それをマクヴェインは送ってきてくれた人力車に託して、大和屋敷のメアリに送った[Diary1875]。このOiwake Notesはマクヴェイン文書には収められていないので、どんな収穫があったのかはわからないが、メアリは「コリンは2習慣の調査旅行を楽しんできた」と日記に書き記している。

(5) Appointment of Cheesman, Stewart and Klassenチースマン、スチュワート、クラセンの雇用問題

・この三人は関八州大三角事業にどのように係わっていたのかは不明であるが、彼らの雇用満期は1875年10月から11月であった。大久保から雇用延長はないと云われ、マクヴェイン派彼に直接会ってか書面で,部下の1年雇用延長を求めていた。

1-7. Early Retirement from Survey Division早期退職

(1) Negotiation of Extend of 1 year Appointment of three British staffs三人の部下の一年雇用延長の交渉

・マクヴェインの3年雇用契約の満期は1876年10月であったのに対して、チースマン、クラセン、スチュワートの三人の契約満期は1875年10〜11月と1年早く、マクヴェインは彼らの1年雇用延長を大久保と杉浦に求めた。測地測量を日本に十分に修得させるには3年は必須と考えていたし、帰国は自分が招聘した同僚と共にしたかった。地理寮は、高給取りの外国人職員解雇を求める反御雇い派のアピールを受けて外国人職員の雇用調査を行い、1875年2月にはチースマン、クラセン、スチュワートを満期解雇することにほぼ決めたが、それに対してマクヴェインは大久保に執拗に彼らの雇用延長を求めた。最終的交渉手段として、マクヴェインは部下である3人が去るのなら自分も量地課を去るしかないと大久保に直談判したのであろう。シャボーはマクヴェインの決意を支持せず、反御雇い運動派に付いてしまった。マクヴェインは、「シャボーは彼らの手先になった」と語っているが、シャボーはイギリス海軍水路測量局時代からの友人であるマクヴェインとチースマンと分かれて、自分の任期満期の1876年10月まで残ることを選んだ。大久保から1875年11月に3人の任期延長を認めない旨の通知を受け取り、返す刀で「それでは先に述べたように貴方は私に彼らと一緒に量地課を去れということですね」と返事をした。これまで育てた測量の火を消さずに、ヨーロッパで買い求めた最新器機を無駄にしないように、シャボーに測地測量を、ジョイナーに気象観測を託して、自分はチースマン、クラセン、スチュワートとともに日本を去ることにした。

(2) Possible Transfer to the Public Works工部省配置換えの可能性

・1875年11月、以上のような状況の中で、杉浦は村田を通して「もし望むなら工部省への配置換えで契約満期まで日本で務めてはどうか」と提案してきた。おそらく杉浦は工部少輔の山尾と相談して、マクヴェインを工部省が受け入れるように調整したのだと思われる。ひと月前の10月に工部省からの依頼で、マクヴェインは工部大学校都検兼土木学科教授のヘンリー・ダイアーと大井川に建設予定の架橋の調査に出かけている。

McVean's Last Day at the Survey Office, probably in November 1875.

(3) Termination of Appointment雇用終了

・マクヴェイン日記によれば工部省への配置替えは断り、1876年1月には量地課に出勤することはなく、実質的に退職した。しかし、早期退職届けは3月末日になっており、それまでは月給が支払われていたと考えられる。3月に残りの6ヶ月分の給料と帰国旅費の計算書に合意をし、同月末に離日した。

・測量司の最大の功労者であったマクヴェインを早期退職に追いやった事に関して、英語新聞には「功労者を粗末に扱った」と大きく論評された。間違いなく、当時東京にいた御雇い外国人たちの間ではこの意見は共有されていた。

・帰国後のマクヴェイン日記には、日本のことは殆ど登場しない。ただし、日本で仲の良かったダイアー、シャンド、チースマン、ジョイナー、ブランデルらとは頻繁に手紙をやりとりし、ロンドンやグラスゴー年に数回会っていた。

・帰国後すぐにロンドン郊外のハローに行き、ジョイナーの両親に何か届け物をした。ブラジルから病気で帰ってきたジョイナーを見舞いに、ロンドンに出かけたことがあった

1-8. Leaving Japan

(1) The Survey Division after McVean leftマクヴェイン無き後の測量

・シャボーはマクヴェインが去ってから小林一知に引き立てられ(アドバイサーにまつりあげられ)、1876年10月まで勤務した。シャボーはマクヴェインが去った直後の4月に天文台建設の建議をしたといわれるが、前述したようにすでに工部省時代の測量司の構想であった。マクヴェインと外国人測量師がいなくなったことで、小林一知は量地課の主導権を確実なものとし、その下でシャボーはそれまでのマクヴェインが残した実績と構想を自らの成果であると吹聴した。しかし、大久保が全国測地測量事業を貫徹をあきらめてしまった以上、量地課(量地局)の寿命もまもなく途絶えることになる。

 Source from Cormac of Orkney

Source from Cormac of Orkney.

・シャボーが日本人技官に測量を直接指導した期間は1年にも満たなく、赤川、瀬口、舘、正戸、大川らは2年以上にわたってジョイナー、ライマー・ジョンズ、イートン、チースマン、スチュワート、クラセンから学んだものが多かったはずである。シャボーを意図的に功労者に仕立て上げたのは小林一知の策略であったと思われる。

・太政類典内務省文書によれば、測量指導のシャボーと気象担当のジョイナーの退職を前に、小林一知と室田秀雄は後任をイギリスから求める伺いを内務省執行部に出した[大川文書]。これが受理されたなら、内務省は駐英公使のハリー・パークスに紹介を頼んだのであろう。パークス、サトウ、ガビンスは内務省がマクヴェインを排斥したことをよく知っており、また、明治政府がイギリス海軍、王立天文台、スコットランド気象協会からの支援合意を反故にしてしまったことも知っていた。結果的にイギリスから後任を得ることはできず、数年の空白を経てドイツ人文部省雇いのクニッピングに頼ることになった。さらに、海軍水路局の柳楢悦からの干渉で、内務省の本格的観測台の設置構想は見送られた。

・シャボーは帰国後短期間海軍水路局の契約技官となり、その後王立地理学協会の地図作成官として退職までの数年間務めた。シャンドはリージェント・ストリートで突然シャボーと出くわしたが、何も会話することはなかったと、マクヴェインに手紙で知らせている。シャボーの行動は、当時、東京に在住していたイギリス人の間では理解されなかった。しかし、北ドイツに生まれ、類い希な測量地図作成能力を持って海峡を渡り、その腕を発揮して異国で仕事を獲得していったシャボーの生き方は理解できる。日本では、現実的にそれまでの仲間とのつながりを絶っても自分の腕を信じて新たな境地を切り開いた。

(2) McVean's Beretマクヴェインベレー帽

・マクヴェインは量地課を去る時に、親しくしていた日本人技官に自らの備品を与えた。大川らがかぶっているのはマクヴェイン・ベレー帽であろう(2020年11月16日追記)。 

II. FUNDAMENTAL RESEARCH MATERIALS AND PREVIOUS STUDIES参考文献と既往研究の検討

2-1. Government Archive公文書公文書太政官達

・工部省測量司よりも、それ以前、民部省、民部大蔵省、大蔵省に存在していた測量部門に関する記録は実に乏しい。こちらでは「量地」と名付けられ、文字から分かるように戸籍や地籍を確定するためのLand Surveyを目的にしていた。内務省地理寮量地課でこの用語は復活した。既往研究では触れられていない公文書を含めて、以下に紹介する。工部省とその測量司に関する公文書については、拙稿「工部省創設再考」を請参照。

(1) 太政類典明治七年一月五日:内務省寮司ヲ置ク

(2) 太政類典明治七年一月九日:内務省他省ノ寮司及事務ノ内引受

(3) 太政類典明治七年一月十日:内務省一等寮勧業警保二等寮戸籍駅通土木地理一等司測量

(4) 公文録明治七年二月三日:内務省土木寮芸員測量司ヘ設置等級等ノ儀伺

(5) 公文録明治七年三月十八日:土木寮並測量司芸員級並月給表

(6) 官符原案明治七年五月:測量司被廃地理寮中ヘ正院地誌課合併ノ事

(7) 太政類典明治七年七月二日:内務省新築ニ付買入品

(8) 太政類典明治七年七月二十日:測量助長ジョイネル雇継

(9) 公文録明治七年八月七日:内務省測量司製図場新築

(10) 太政類典明治七年八月三十日:内務省其省中測量司被廃地理寮へ量地課ヲ置キ内史所管地誌課ヲ同寮中へ合併候條此

(11) 太政類典明治七年八月三十日:内務省地理寮技術等級並月給表

(12) 太政類典明治八年二月十九日:内務省雇外国人明細簿

(13) 太政類典明治八年三月廿五日:内務省伺英人シャーボー手当金

(14) 太政類典明治八年七月:内務省中火ヲ失ス

当省内寮局昨午後第十二時出火ヨリ本省ノ外部ニ属シ送料四建物ニ延焼シ今晩第三時マテニ鎮火

地理寮 天保郷帳全国及別帳其他帳簿類並ニ地理山林ニ属スル書類悉皆焼失

(15) 太政類典明治八年九月十八日:内務省炎焼ニ付仮庁営繕費

(16) 太政類典明治九年四月廿八日:地理寮雇英人マクウインニ残期

(17) 太政類典明治九年十一月十四:日地理寮雇英人シャーボー満期

(18) 太政類典明治十年七月七日:地理局雇英人ジョイネル満期解約

※工部省測量司は明治7年1月10日に内務省発足と共にそこに吸収された。「内務省の社会史」などの既往研究によれば、戸籍地籍の精確な把握のために測量が必要となったと考えられている。すると、内務省は測量を土地の面積と地目を明らかにする機関としてとらえ、それを越えた関心はなかった。同年2月3日に土木寮(旧大蔵省属)から測量技術者が移ってきて、さらに5月には、大久保によって地理寮との合併案が作成されたが、政治的混乱のため順延となった。人員は増えており、同年8月7日には測量製図場の新築が決まった。このような状況で、測量司は地理寮との合併ではなく、8月30日に地理寮付属の測量部門に改組縮小され、量地課と名付けられた。1875年7月に内務省庁舎は焼失し、当座仮庁舎に入ったが、すぐに新営工事が始まった。この時期にチースマン、クラセン、スチュワードらは3年任期の満期を迎え、延長されずに解雇が決まった。1875年暮、師長マクヴェインの任期は翌年10月まであったが、半年を残し満期短縮解雇が決まった。公文書からわかないが、外国人技術者解雇を画策していたのが旧幕臣技術者&官僚だった[大川保管文書]。シャボーは彼らに取り入って保身を計り[マクヴェイン文書]、契約延期が認められた(revised in July 17, 2019)。

2-2. Ookawa's Archives大川通久所蔵の内務省量地関連文書『測量局沿革書稿』(沼津市明治史料館)

・大川は大蔵省土木寮から内務省地理寮に移ってきた技官で、館潔彦と三浦省吾に続く最初期の日本人測量士の一人である。1875年7月に地理寮建物が火災に遭い、文書と器機が焼失したが、幸運にも以下の内部文書を所蔵していた。現在、沼津市明治史料館に収められている。マクヴェイン日記と対照するために、同史料館の目録とは別に日付の早いものから並べ直してみた。

(1) マクビーン建言写、 1874年9月14日

「マクビーン建言写

方今測量課之儀ニ付黙止難き致事情有 之左三条件貴下ヨリ政府エ御報知相願候

右ハ卒竟一途ニ事業進捗為致度微哀ニ出候儀ニ御座○得者若シ誤謬解被下○様ニ而者実ニ以ノ外ト奉依○得共既ニ拙者ニ職掌ニ羅在課中適宜ニ章程並ニ権威無き之ヨリ事業日々無謀ノ紛乱ニ相成度ヲ見請度而ハ仮令誤謬解ノ恐シ有之度而モ政府ハ無論拙者自身並用事之芸員ニ對シ何分防寒経過難情実有之不得止如是ノ次寸ニ立至リ候仕合是ニ而一應拙者之職掌相居シ○得ハ此後尚方今之通リ不当之章程相行レ○ニ○テハ拙者ハ事業之結果擔任申上兼度右章程之儀不顧嫌忌誰ヲ左躾駁申辻候。

第一ニ拙者一身並ニ拙者職分之儀ニ付申上度拙者之条約書ニハ拙者儀日本政府之奉任ヲ蒙リ向三ヶ年之間測量師長トシテ其政府ニ奉事致ス事ヲ約定ストノ文面有之○折測量師長トハ測量事業ヲ管理可致之職員コラ譬ヘハ政府ニ於テ其府県或ハ其地方ヲ測量可致事ヲ決定セラレ測量長官ヲ以テ其度ヲ命セラレシ以上其命令ヲ施行致(後略)

1874年9月14日 測量師長マクビーン 地理寮頭杉浦貴下」

※杉浦地理寮頭に対してマクヴェーンは自分の待遇と職務の確認を行っているので、「建言書」ではなく「質疑書」。量地課翻訳担当者の間違い。具体的には1874年8月31日付け太政類典「内務省:測量司を廃し地理寮量地課を置く」に対して、マクヴェインが自らの師長という地位の確認を行ったものである。「1873年3月に山尾庸三との間で結んだ契約が有効であるかぎり、私は測量師長として配下の技術及び事務職員を任用統括し、3年間で全国の測量の体制を整える任務があると考える。しかし、技術職員の中には私のこの立場を理解せず反抗するものがおり、所内の業務に支障を来している。(中略)国土測量事業には政府からの多大の費用と根気強い支援が必要であり、それはイギリスの陸地測量地図作成事業を指揮した「コロネル・コルビー」の業績が良く教えてくれる」、と至極真っ当な文章だと思われる。先の2月に合流した旧大蔵省土木寮からの技術員らによる反抗が続いていること、そして、測量司を廃止して地理寮量地課に改組縮小することへの不信感が背後にある。この時期の内務卿は伊藤博文だが、彼はまったく何もしなかった。杉浦は戸籍寮と条約改正掛の方に多忙で、測量には無関心だった。測量司では、河野退職後は村田が頭を勤めていたが、村田は技術の知識は乏しく、また官僚としての能力は低く、測量司を杉浦配下の地理寮に格下げしようということのようだ。日本人による既往研究は、マクヴェインのSurveyor in ChiefやSurvyor Generalの地位を理解できておらず、マクヴェインは事業を順調に進めるために技術員の任用と配置の権限を持っていたことを知らない。従って、師長の認可なしに突然どこからか技術職員が加わったり、事業展開をすることはありえない。「人事が事業推進の要」ということである(revised in September 5, 2019)。

(2) 「今般英人マクビーンより差出候・・・」から始まる文書。1874年10月

「今般御雇英人マクビーンヨリ差出○建言書中難黙止不都合シ件ヲ相見○ニ付不顧忌請私共ノ見込左ノ申上候。

当寮御雇マクビーン儀ハ去る明治◇年初テ工部省測量司ニ於テ測量師長ニ御雇入ニ相成致得共同人之元末建築師ニテ量地専門師ニハ無キ昨年建築師ノ多少量地従事致候○ハ是又当然ニシテ度得共同人ノ如キハ量地ノ技術研究熟練ニシテ師長ノ技器有是トハ更ニ不奉存致彼レ専門是建築学術如何ハ○計○ヘトモ量地術ノ儀ハ同人御雇入以後ノ履歴

(中略)

量地ノノ学術ニ於テハ実地不案内致全国大三角測量ヲ施業スルノ目途不相立、寄一旦帰英ノ上更ニシャボーナル老練ノ技師ヲ推挙致シ度様ト推考仕候、右シャボー渡着シ来此程ニ至リ既ニ三ヶ年廃テ置○東京三角測量漸ク施業着手之様子相見ヘ且全国大三角測量モ追テ取調ニ相掛リ致様子に候。方今量地之手続進メ順序ト○リ長儀全テシャボー一身ノ力ト奉存致其他ノ英技師中ニハ殆シト吾カ技員ニモ劣ルヘキ者相見申候、依之是迄府下測量ニ○仕候。御雇外国人並我技術課ノ功程表一冊取調存御参考

差出○御塾逡之上マクビーン建言書ト御照考本深之情然御考慮有之度○我量地課技力賜達ノ

(後略)

七年十月 小林一知 三浦清俊 宮寄正謙

※小林一知、三浦清俊、宮寄正謙の三名が上記マクビーン建言に対して異議を上司(杉浦)に提出した。「マクヴェインの測量司は1871年10月に発足し3年も経つのに何の成果も出していない。マクヴェインは全国測量に多大な費用が掛かり、政府から継続的な資金支援を求めることだけしかできないのは、マクヴェインは建築技師であり測量のことは素人で、何も知らないからである。われわれ日本人技術員は英人測量師の能力と何の劣った点はなく、かえって英人測量師の中には職務怠慢もいる」。工部省測量司時代のマクヴェインのことは知らず、1874年5月になって師長として復職したマクヴェインに初めて会って、師長としての振る舞いに大いに反感を抱いたらしい。三浦省吾を加えたこの4名が反御雇外国人運動Anti Foreign Partyの首謀者である。マクヴェインのことをよく知る館や大川はこの異議書には関わらず、三浦らと一線を画していた。修技校一期生(測量司見習い)で、マクヴェインを師と仰いでいた南清は測量司に残らず、工学寮工学校(後の工部大学校)に入学していた(July 27, 2019)。

(3) 「現今地理寮量地課ニ於テ」から始まる文書。日付なし(おそらく明治7(1874)年12月7日)

(4) 「今般聯𣵀考出張之儀マカーサーヨリ」から始まる文書。1874年12月7日 村田文夫及び室田秀夫宛三浦省吾文書

※(3)と(4)は同じ便箋に同じ書体でしたためてあり、(2)に関連し三浦省吾が一人で量地課の問題点を村田と室田の二人に上奏したものであろう。内容は、第一に全国大三角測量は必須の事業であるがその実施費用を概算すると膨大になるにもかかわらず、我が皇国財政は逼迫している。にもかかわらず、御雇い英人は高給を貪り、不遜で怠惰の者もいる。「師長マクビーンは頗ル其任に堪ヘサル事は局中各技員ノ紘ク知ル所ニシテ」「師長ノ器ナキ、マクビーン在職ニシテ全国測量ノ大事業ヲ施行セシメハ空シク実効ノ成期」いつになるか分からない。よって、洋人の雇用はシャボーを除いて満期退職とすべきであるというもの。(4)はマッカーサーによる京都測量の不手際を非難し、洋人測量士はいらないと述べている。「皇国」という言葉が数回出てきて、三浦らは数年前まで「忠臣」であったはずなのに、今は憂国の士という立場に酔っているようだ。マクヴェインは測量師長としての地位保全を大久保と杉浦に求めたが、回答はなく、反御雇い派(旧大蔵省土木司技員)はマクヴェインを師長として認めず、彼の指示を聞き入れず、さらに英人測量師と対立した。大久保と杉浦がマクヴェインの測量師長としての地位を認めると、反御雇い派は主導権を取れなくなってしまう。マクヴェインは、少なくとも自らの任期中に、御雇い外国人測量技師によって日本人技員を実地指導し、国土三角測量の体制を固めようとしたが、小林らは初めから自らが主導権をとることを主張した。シャボーはマクヴェインらの行動に同調せず、小林らにすり寄っていくことで保身を計った。

(5) 全国測量並臨時測量之儀ニ付伺 明治8(1875)年4月27日

全国測量並臨時測量之儀ニ付伺

昨年一月測量司當省ニ御付属相成候、處用間御設以来全国測量盛大施行ノ目的ヲ以テ追テ外国人御雇入諸器ヲ購シ生徒ヲ教エ専ラ規模ノ拡張ニ従事シ既ニ四ヶ年ニ至リ現今ノ處、官員二十六人芸員百四十人御雇外国人十人。

官員芸員賃月給一ヶ年 三万七千一百〇円余

御雇外国人月給一ヶ年 金貨一万七千四千円余

洋銀一万四千八百弗余

其の他諸費一歳ノ総計 金貨九万八千六百円余

洋銀四万八千八百弗余

而シテ其一切ノ所東京府下朱引き内ノ測量及び東京横浜大三角而区ニ有之既ニ芸員モ十分出来致儀ニ付此際大ニ着手可致場合ニテ御雇外国人師長ヨリモ其既時ニ観測致シ場合共全国測量一時着手ニ儀ハ不用意時ニテ数十年ノ久キニ亘リ多分ノ入費モ相立候儀、殊ニ御雇外国人ニ任セ候一旦着手ノ上ハ如何様入費相嵩候、共中途度絶贅沢ニモ至リ当財改緩急ノ得失ニモ拘リ為雇継金ヒ一時束手被為在為共後来ノ奉公此際篤ト審議決定仕度上ニテ着手

(後略)

太政大臣三条実美殿 内務卿大久保利通 明治八年四月廿七日

※「当座の緊縮財政の状態で、御雇外国人を多数の雇用するのは困難になってきている。測量司は創設から4年も経っており、生徒の教育も進み、日本人芸員も育ってきているので、彼らに業務を任せたい。条約改正を進めるに当たり、石巻と下関の測量は緊急を要し、臨時測量対を組織したい」という内容。本文書は写しであり、原文書は「全国測量之儀付伺」として公文録に収められている。師長抜きに決められたことに対して、村田は熱海温泉に逃げ出した(2020年12月18日加筆)。

(6) 八州三角測基線選定書 1875年5月

(7) 地理寮御傭測量師長英人マクビーンより別紙甲号之通申出候ニ付左之通 明治8(1875)年6月12日

(8) シャボー氏基線位置取極のための地方巡見の件 1875年6月24日 マクビーン

(9) 芸員手明之者処分方之儀

(10) 関八州大三角測量につきマクビーンへの達の件伺 1875年8月5日

(11) 関八州大三角測量決済につき担当綱領総括の件

(12) 杉浦地理頭建言乃原稿。明治8(1875)年9月、三浦省吾

これは下記建言書の下書きで、三浦省吾が作成し、その後、仲間のだれかが赤字添削をしたらしい。

(13) 「謹テ地理頭杉浦君貴下ニ」から始まる文書。明治8(1875)年12月17日 三浦省吾、宮寄正謙、三浦清俊、小林一知

(2)と(3)と(4)と同じ文体であり、文意も作成者も共通する。「生簞笥モ技員ヲ辱フシソ能リ罪ヲ課長ニ帰シテ該課ノ哀頻ヲ黙視傍観スルニ忍ヒンヤ是即チ技術区全員ノ情実ニシテ」、「百般不条理ノ痕跡悉リ枚挙ニ難シ嗚呼今日其害ヲ除き其弊ヲ改メスンハ後末」などの文言から、関八州測量だけでも膨大な費用がかかるのに、高給取りの洋人を雇い、財政の悪化を招いている。それを黙認している量地課長(村田文夫)の責任は大変重いので、その処分を杉浦地理頭に訴えたものと解することができる。村田の方は1876年初めに内務省を辞して、文筆業を始めた。

(14) 測量目処之儀ニ付政院江伺書原案草稿

(15) 測地事業に関する建言草稿

(16) シャボー氏雇継ニ付考案

(17) 西亜保氏雇継ニ付考案

(18) 測量師長・量地課長の人選等につき意見書

(19) 御殿山金星測量建言書写

--1875年2月26日測量師長マクビーン 杉浦地理寮頭閣下

※1874年12月9日の金星日面通過観測に関する報告及び提案書であるが、全文解読に至らず。これは太政類典に同じものが存在する(revised in January 7, 2020)。

(20) 昨八年十二月下野国那須西原ヲ以テ八州測量ノ底線地ト確定

(21) 今般関八州測量基線位置ヲ 1876年5月4日 杉浦譲宛てシャボー文書

「気象ヲ観測スル」という文言あり。

(22) 関東八州測量功程経費人名表 明治9(1878)年(23) 大三角測量ハ

(23) 陰暦陽暦曜日換算例題

(24) 四光儀(洋名ヘリオトローフ

月岡芳年「佐賀の乱」、「皇国一新見聞誌」より

*従って、新資料の発見と解読がない限り、既往研究の知見に留まり、研究は深まる事はない。

2-3. Kiyoshi Take, Outline of Japanese Survery like a 33 years Dream舘潔彦「三十三年乃夢日本測量野史稿」1876年2月マクヴェイン離職まで

・これは師橋辰夫が『地理(1971年10-1)』に全文を紹介している。明治初期測量史を知るための最重要記録。これは近代日本の測量・気象・天文観測史上最も重要な資料であるが、多数の誤りがある。館は明治5年10月工部省入省(測量四等少手)であるから、最初期の記述は伝聞による。また、英語ができなかったので、誤解が多い[池田泰彦:館潔彦について]。

(1) 明治4<辛午>年7月27日新に工部省を設け工学寮及測量司を置かる、後藤象次郎其卿たり、山尾庸三其少輔たり、因て山尾少輔寮司の事務を摂理し、尋て河野通信測量正兼工学<寮>五等出仕たり、又七等出仕兼工学寮を兼ぬ、后林董工学助となる、仮に寮司の衙を虎ノ門内旧内藤邸に置く。

※工部省発足と共に工学寮建設用地の延岡内藤家屋敷の旧家屋を官衙に用いたということか。しかし、館はこの時期まだ工部省雇いとなっていない。しかし、ありえる話しで、工学寮の建設工事が始まるとともに、既存家屋の取り壊しが始まり、工部省は木挽町の旧外務省の建物に移り、測量司は馬場先門内の旧厩に入ったと思われる。1872年2月の丸の内〜銀座〜築地大火によってこれらの建物は焼失してしまう

(2) 技術官制<ハ>都検(三等官勅任)技監(自四等至七等官奏任)師(自八東至十等官判任)手(自十一等至十三等官判任)見習(自十四等官至十五等官判任)とす。

一ヶ年の定額は金拾四万円なりとす、工学は二十五万円なり、然れども長官より属僚に到るまで多く兼任せしを以て、其経済の出入は6年5月寮・司分離の際迄は十分判別なきが如し。

※これは間違いはなく、山尾が工学寮校舎建設と教師団の雇用を急いだため、こちらに予算が回された。国土測量を開始しようとしても、技官の育成と組織作りに時間を要した。

(3) 英人マクウェン他5名を傭聘しマクウェンをして測量師長となし事業一切を任担せしむ、<ジョイネルを助師となす>又寮、司ともに生徒を募り、之か教育に任せしむ、邸を葵町三番地に新築せしむ、続て生徒館を起し分離す。

※<工部省>で前述したように、山尾はマクヴェインの提案で測量司を発足させ、人事をマクヴェインに任せた。測量修技校はおそらく大和屋敷の旧主屋。ダイアーがやってくる以前の1873年5月には工学校の教育は始まっており、工学校最初の生徒たちもここ(大和屋敷の主屋)を仮校舎として授業を受けた。

(4) 英人が総て二年或は三年を以て聘傭の一期とし、年を越える毎に俸給を逓増す。当時師長の月給は金貨四百円とす。以后総ての英人には其俸給は尽く金貨を以て支払へたり。燦爛惜むへし。

※マクヴェインの雇用初年の月給は350円で、1873年3月の一時帰国時の契約では400円となった。ジョイナーは300円で、師長代理職として50円が増額された。日本人職員と5倍以上の差があり、館などの日本人職員は羨望の目でみていたのであろう

(5) <9月西丸皇居を以て始めて測量作業に着手す、作業進むに従い漸く玉座の御椽に近つき或は宮女室の内庭に立入等、所有不敬無礼の挙ありしも当時陋習の蟬脱する際なるを以て、幸に物議に上らざりし、而して作業明年に渉り始んど完成の期に近き4月火災の為、宮殿尽く烏有に帰し、只図上に旧観を存留せしのみ、又同時吹上禁苑及楼田、和田蔵門も着手して年を越ゆ。>

※銀座焼失地区の再開発計画作成が済むと、1872年4月に山尾から新皇居建設のために旧江戸城の測量を指示された。この時に、宮内庁から横山の写真や江戸城絵図などの提供を受け、約一ヶ月、測量を実施した。旧江戸城全域の測量図を完成させたと思われるが、おそらくすべて宮内庁に納められたと思われる。これ以上、山尾から皇居建設の話しはでてこなかった]

(6) 5年3月師長マクウェンの指按に由り東京府下に三角測量を施行セシム。<仍て其第一着手として富士見櫓に大標旗を建て府下測量の基礎たるを示せり。標旗は紅上白下を筋違に合せ其白中に(工)字を黒記し地質は大小総て○絽を用いたり。>

此月府下災あり、郭内より起り延焼して築地に至る、政府因て市街を改正し洋式に倣い煉瓦屋を建築し、一は以て都府を粧飾し一は火災を予防するの議起る、仍て先つ京橋以南新橋の間に着手せんとし英人ウェリソン等に命し之が区画割をなさしむ、而して別に西丸皇居、吹上禁苑及西丸下等を測量せしむ。

又府下内外に順次三角測量十三所を選び高測櫓を起し一条の基線を越中島洲崎弁天の間に設け鋼鉄尺を以て之を測る、工部少輔等臨観す、而して十三所の三角点は第一富士見櫓、越中島、洲崎弁天、本所一つ目、同三つ目、芝愛宕山、上野下寺町、目白台、白金台町、寺島村、田端村、戸越村、第二台場とす。<此建築費平面一カ所金弐百六拾四円三十一銭強とす。>

当時官省の経営又は市街地改正の挙ありて、小区図の需要頗る急迫なるか為、施業の順序を案し敢て三角測量を中止し、小区測量にのみ着手せり<倫敦市街に倣い>製図の縮尺は五百分一と定む。

外人の外業には通訳一名、別に監督掛け付し総て外人の命を聞き、人夫を使役し及び昼餐等の事を弁理せしむ、<邦人の外業は最低限総て茶料代として一人金弐拾五銭宛給与せり、後8年に至って止む。>

12月予て聘約により英人クレッソン他5名来朝す。

※旧江戸城測量に際して、富士見櫓に基点を設け、江戸城測量終了とともにここからベースラインを各所に設置した。測量器機が足りず、マクヴェインは自らの器機を測量司に納めた。1872年6月にイネス紹介の測量師3名、11月にマクヴェインの知人友人測量師3名が来日。マクヴェイン日記から分かるのはこれぐらい]

(7) 6月1日司に備ふる所の経緯儀は僅に三個あるのみ、彼外人互に交換使用して邦人に許さす、今や邦人の業に就く一の器械なし、仍て館潔彦を横浜に派し経緯儀其他必要器械を購求せしむ、於て三浦省吾、館潔彦おして始めて府下測量に従事せしむ。

2月数理<及絵画>に熟達する者数名を募り岸俊雄をして測量法を教示せしめ、実地には英人の作業に就て研究せしむ、又洋式製図には鈴木重葉をして教示せしむ。

同月伊能源六なる者其曾祖父忠敬の自ら製する所の日本大図を蔵すると聞き、三浦省吾を下総佐原に遣し之を借らしむ、此時製図者としては漸く烏嘴筆を運用するに止り、謄写の任に該る者なし、茲に於て絵画者を募り謄写の任に当らしむ、此時墺国維納府に博覧会<の挙>あり、其出品の為め、正院地誌課に於て日本地誌提要編纂の挙あり、仍て<此>原図は同院に復貸す、后源六より献納す、官金三百円を賜うと伝う。

※館は1872年10月雇用なので、この部分には伝聞であり、また記憶違いも含まれている。イギリス人測量師に器機の使用を優先させるのは当然のことである。測量修技校を開校しており、そこにも数台器機が必要であった。マクヴェインは自前測量器機一式、鉄道寮の英人技師やハートらから測量器機を譲ってもらい、これらの用に当てた。さらに、横浜のレーン&クロフォード商会に測量器機を注文し、横浜に行っており、その時に館も同行したのだと思われる。「館を横浜に派し・・購求せしむ」ではない。旧民部省土木寮からの技員の名前が見えるが、彼ら旧幕府海軍技術者たちが測量司に合流するのは、1874年2月、測量司が内務省に移管されてからのことである。旧幕府海軍技術者と修技校卒業生ではどちらの方が優秀であったのだろうか。

(8) 4月、測量正河野通信、測器購求の為め英国に洋行す、師長マクウェン随行す

※これは逆で、マクヴェインは個人的な用事と測量器機購入とシャボー雇用のための公務で、1872年早々から一時帰国を山尾に申し出ていたが、1873年1月になって山尾から許可が下り、その際に河野通信と小林八郎を同行することにした。山尾は河野に広い視野を持つように海外研修の機会を与え、またマクヴェインは測量司を担うであろう小林にグラスゴーでの実践の機会を与えた。河野は、ウィーンで万博担当の佐野常民、パリで岩倉使節団の木戸孝允と会い、ロンドンとエジンバラで工場や学術機関を視察したことがマクヴェイン文書から分かっている。

(9) 5月、実施研究の生徒漸次熟達し、手或は見習に任用されたるを以て又測器の必要起る、館潔彦再び横浜に派し之を購入せしむ。

※これも館の勘違いで、マクヴェインが一時帰国の前に、レーン&クロフォード商店に注文していたものを、館が受け取りにいっただけである。おそらく、レーン&クロフォード商会が扱っていた測量器機は、鉄道建設などのための汎用品で、マクヴェインは最新の国土三角測量のための器機をイギリスで購入しようとしていた。

(10) 同月、助師ジョイネルの建議を用い、気象台を設けるに決す、仍其器械を英国気象台長に依頼す。

※これは別稿で述べたが、測量師長と測量司正がいない時期に、代理のジョイナーが建議を誰にしたというか、まったくあり得ない話し。マクヴェインは出航前にトロートン&シムス社、カセル社などの測量気象観測器機の発注書、またグリニッジ王立天文台やスコットランド気象協会に協力依頼の文書を準備しており、それを山尾の公印で発送することをジョイナーに指示していた。イギリスの中央気象台(Meteorological Office, Board of Trade)の名前はマクヴェイン文書にはまったくでてこない。1873年9月、マクヴェインとシャボーがグリニッジ天文台にでかけそこで観測器機設置工事を見せてもらうとともに、金星太陽面通過観測のやり方を教えてもらっている。これは、マクヴェインが離日前に準備していた同天文台への協力依頼書が効いたからだと思われる。また、1873年に、スコットランド気象協会に日本での気象観測創設のための協力合意を取り付け、マクヴェイン自身会員となった。翌年4月にはシャボーも会員になった。同協会の事務局長のアレクサンダー・ブキャンは天気図を確立し、同協会名誉事務局長のトーマス・スチブンソンは百葉箱を発明した。トーマスの兄のロバートは簡単な地震記録計を発明していた。

(11) 同月、司を馬場先門内旧閣老邸に移す。

10月、実測科取締及器機掛を置く。

<製図の尺度は一フートを5百分し、其一分を一フートに当つ即五百分一なるとす、此尺度只一個にして、洋人に有ては交互使用し、邦人に許さず、明治2年大蔵省度量衡規則を設け、私造を禁じたりと雖も尺度は未だ其制なし、府下大門通に大谷虎造なる者あり、尺度製造を業とし分厘を刻し其精を究む、於茲之を傭い、フートを造らしむ、外人等驚嘆す、虎造年六十余衣袴登庁す、比隣羨望し六十の老爺今斯の如し、始めて人材登用の実あるを知れりと、又細鎖は麹町の人武井太留なる者旧紀州家の鉄砲師なり、測鎖製造に精し、仍て同く百ヒートの測鎖並に垂球を造らしむ、此の二者は直接測量には関係なしと雖も、其功績没す可からす。>

○7年、<1月5日、新年宴会に酒鐉を賜る、内外人一堂に集り筵を開く、宴酣にして、放歌乱舞する者あり。>

※測量司正の河野と測量師長マクヴェインがいない状況で、皆はめをはずしたということか。しかし、その数日後に測量司は内務省所管となり、翌月には大蔵省土木寮からの技員が合流し、測量司は大混乱に陥ることを皆知らない。

(12) 1月9日、測量司を内務省に隷属せしむ、五等出仕村田文夫測量正代理となる、后本官となる。

※測量司の移管は「大久保日記」の記述と符合する。<大久保利通日記>を参照。但し、村田は河野が海外出張中は測量正代理となっており、1月12日に河野が帰国(公文録:河野の帰朝)後、河野が何らかの理由(病気?)で復職しなかったので、暫くして測量正となった。河野の離職の理由と時期は不詳。

(13) 2月、官制改正。

同月、測量正河野通信帰朝す、尋て免官となる。

※官制改正は、大蔵省土木寮からの技員が加入したことで必要になった。前述したように、河野の帰国は公文録に1月12日となっているので、館の記憶違い。理由は不明であるが、大久保による強引な測量司移管に反対して辞職した可能性もある。官制改正とは、測量司に大蔵省土木寮からの芸員が加わったことを指す(太政類典)。

(13) 師長マクウェンも亦再び来朝し、数種の測器を齎し来る、茲に於て稍遺憾なきを得たり、今之を類別すれば、

二四英寸経緯儀、一八英寸経緯儀、一二英寸経緯儀

八及六英寸経緯儀、数個、天頂儀、子午儀

測桿等其他、雑器及書籍なりとす。

当時日本尺度の其礎として<は>、大蔵省に蔵する処の仏国製黄銅製<の>メートル作なりとす、<依て之を>借用し之を師長マクウェン齎す処の英国白銅製<の>メートル尺と比較し測鎖外総て量地の尺度をメートルに改正す。

※マクヴェインは1874年5月5日に横浜着、荷物は5月24日に到着し、ジョイナーと一緒に3日かけて荷解きした。イギリスでメートル尺チェーンの入手は困難であった。帰国が遅れた大きな理由は、T&S社がテオドライトの大量注文を受け、製造が遅れていたことによる。

(14) 2月、従来土木寮に於ては、河川測量の為め<曾て>生徒を養成せしのみならす、斯業に関係ある者多く茲に集任す、仍て小区測量にも来援せしが爰に至て福岡の人、小林一知外三十余名尽く本司に転任す。

※マクヴェインの復職前に、民部省土木寮(その後大蔵省へ)にいた旧幕臣技官が参入し、次第に幅を効かせ始めていた。彼らは測量の実戦経験を持ち、特に小林は最後まで明治政府に反抗した経験豊かな海軍技師で、明治政府への出仕当初は冷遇され、さらに所属部局は民部省から大蔵省、さらに内務省へとたらい回しにされてしまい、自らの力を発揮する(復権の)機会を狙っていた。

(15) ○に三角測量の議起るや、先東京府下より大坂京都に及ほし、五港六鎮台<総て>要所大市に漸次行うに決せり、茲に於て3月ウェリンソンをして大坂府下に<派し>三角測量を施行せしむ、吉田泰生、関野修蔵副たり、其三角点には不朽の石標を埋置せしむ、<而て>漸次技員を派出せしめ、小区測量を行へ、9年6月に<至て>完成す。

※これは留守を預かった村田とジョイナーが指揮監督したはず。

(16) 7月、英人シャーボー聘約に応じ、気象器機を携へ来朝す、続て同器の組立及点検をなす、諸器到着の后、台長に礼物として価格金八拾円の綴綿を贈る。

※これは館の理解不足。測量と観測器機は5月24日に横浜港に到着し、シャボーは6月1日にパリミエリ地震計などを携えて来日した。1873年9月にマクヴェインとシャボーはグリニッジに行って、最新器機を見せてもらい、またシムスから金星太陽面通過観測の指南を受けたので、内務省として王立天文台長に礼状を出すことはあり得る。実際、パリミエリ・ナポリ観測台長には礼状と綴綿を贈った(<地震観測>を参照)。既往研究は、この台長をロンドン気象台長としているが、それはありえない。マクヴェインは1873年12月に、シャボーは1874年3月にスコットランド気象協会可会員となっている。

(17) 7月、マカトサルをして京都府下に三角測量を施行せしむ、三浦省吾、梨羽時起副たり、漸次他の技員を派出して小区測量を完成す、10月4月に至る。

※これもこれは留守を預かった村田とジョイナーの指揮監督で同年初頭に始められていたはずで、マッカートニーは日本人技官を公然で叱責してしまったようだ。三浦省吾が「我が芸員が辱めを受けた」と杉浦に訴えている。5月と8月にマクヴェインは神戸、大阪、京都に視察に出かけたが、どのような対応をしたのかは不明。

(18) 8月30日、測量司廃せられ、其事務を地理寮に附し量地課と称す、内務大丞杉浦譲、寮頭たり、五等出仕村田文夫課長の事務を摂理す。

参議板垣退助○に征韓論に破れ、官を辞し郷里高知に帰り自由主義を唱え、立志社を結び之が基本財産を作ると称し、土佐全国の官林払下を請求す政府先調査の必要あり、10月山林課長小花作助を派し其調査を為さしめ館潔彦、阿曾沼次郎をして実則為さしむ。山口県も亦此事あり序を以て之を為す。此測量たるや<政府も痛く苦心せし所にして仰>個所全国に散在し、反別の大なるは数百町歩に渉り少なるも数十町歩に至る、其数三百余カ所あり一々実測せんか一所10日と予定するも三千余日よ要し、到底短日月に成功すべからず、因て方法を改め歩測或は見取を以て其所在を知るに止め、明年2月に至り全部完成し、更に転して山口県に入り同法に拠て三十余カ所を完成し、其4月に帰京復命す、○に出発の際地理頭命して曰、土佐に入りては各縬を守り立志社<員>と衝突なきを戒めたり、<如何に当時政府の用意知るべし>、果して業に就くや<社員>両三名<常に>従行せしと云う。

同月、<課を>追手町内務省内に移す。

※大久保は8月3日に伊藤博文に内務卿を任せ、全権大使となって清国に派遣されるが、この組織改編は杉浦を重用しようとする大久保の意向と考えられる。測量司は、内務省地理寮量地課に縮小改組される。村田も測量正(英語ではFirst Commissioner)から量地課長に降格。しばらくして、村田は辞職するが、その時期と理由は不明。辞職後は文筆業を始めることから、元来、役所業務は性に会わなかったと思われる。1874年1月に測量司が内務省に移管されていたが、その後、12月まで大久保が佐賀の乱、台湾事件の収拾のために多忙を極め、測量部門には指揮官がいなかった。大三角測量は師長マクヴェインが復職してから開始するにしても、廃藩置県と開拓にともなって地方の測量事業はたくさんあったことがわかる。大蔵省と隣り合った内務省庁舎は、1875年7月に全焼してしまう。

(19) 11月、小林一知をして横浜港に三角測量を施行せしめ、次て各技員を派し小区測量を為さしむ、明年12月完成す。

同年、東京小区測量は駸々として啻に全府のみならす延て府外に及ぶ、茲に於て再び三角測量の必要起り且彼れ外人も解約の期漸次相迫るを以て、曩に測る処の基線は不完全となし,<11月>更に本所一ツ目及三ツ目の聞に基線を改測し,又十三所の測櫓を修理し茲に観測を行へ8年11月に至て完成せり、此担任はクレッソン及チースメンなりとす、<本所一ツ目の如きは丁字形の街路に跨かりしを以て凡3年間車馬の通行を絶ち行人は終に軒下を歩行し,此近の商店は殆んと休業の体なりし,報知新聞風して日く測量櫓の助鳴呼倦労せりと>。

※小林を横浜に派遣するという指令はいったいどこからでていたのか不明。5月にマクヴェインが帰国する以前から、小林らは自らの考えで行動し、村田に従わなかったようだ。大三角測量のための測量器機購入を目的に、1873年3月にマクヴェインは一時帰国したのであり、館の理解不足。

(20) 12月,師長及助師ジョゴネルの外尽く満期解庸す,爰にハーデーなる者あり6年1目より日比谷龍ノロ間即旧大名小路のー廓を担任し,7年9月に至るも完成を告けず依て其怠慢を責め中途之を解傭す,然るに彼れ執拗にも我裁判所に訴へて満2ケ年契約の残棒並に帰国旅費請求す、然れ共終に敗訴に帰す。

※マクヴェインが一時帰国する前からハーディの仕事と素行には問題があり、マクヴェインは警告を与えていた。師長代理ジョイナーのもとでも相も変わらず、マクヴェインは復職するとハーディの解雇を決める。弁護士と医師と相談し、最終的に裁判で決着する。1874年12月の金星太陽面通過観測については触れていない。マクヴェインとジョイナーの雇用契約は1871年10月から2ヶ年なので1873年9月で満期となる。ジョイナーはその後月雇いとなり、1874年5月にマクヴェインが帰国すると、同年7月20日から3ヶ年の契約更新を行った。クラセン、チーズマン、スチュワートは1872年11月から3ヶ年契約なので、1875年10月で満期を迎えた。

(21) <地租改正の令出るや全国丈量の為め軽便或は発明と称し新器を製作し,本司の検証に拠り専売利を得んと慾し,続々上京する者ありしも一も價する者なし,又或る求積法には,図上に幾坪の方形を作り米粒を平敷し,之を衡り其の得たる.量目は即幾坪に相当す,之を率として他の歪形及多曲形を求積する者とす,是等に依て行はれたる地方の地租は今に其艦ならん当時邦人の知識想うへし。>

○8年,3月,本課の人員を調査すれは実に下の如し

五等出任1人,六等出仕1人,三等技監1人,七等出仕1人,以上4人奏任とす。

事務官には,大属1人,八等出仕1人,中属4人,権中属1人,十一等出仕1人,少属1人,十二等出仕2人,十四等出仕6人,十五等出仕6人,以上23人。

技術官には,一等技師1人,三等中技師2人,二等大技手1人,三等大技手2人,一等中技手1人,二等中技手8人,三等中技手2人,一等少技手8人"二等小技手2人,三等少技手11人,一等大技生8人,二等大技生4人,三等大技生.16人,一等中技生13人,二等中技生16人,三等中技生7人,一等少技生8人,二等少技生9,三等少技生2人,以上121人内実測者83人,製図者38人とす9)、之れ測量<地>課最全盛の時代とす。

※実情は、人員は増えたが課内予算は限られ、職員たちは仕事ができずに燻っていた。「大久保利通日記」によれば、ほとんど大久保も杉浦も地理寮に無関心であった。

(22) 4日,高知・山口両県官林測量成る。

5月,助師ジョイネル葵町に於て気象台の装置完備せるを告く,依て内務卿に稟申し其掛を課内に新設す,ジョイネルは気象学に通せす多くシャボーの力とす爰に於てシャボー憤慨す10)。

※内務省による気象観測創始はこの館の記録だけである。前述したように、1873年3月から一時帰国に際し、山尾と相談し、気象観測や天体観測をも測量司の業務に含めることにした。そのため、マクヴェインは1873年12月スコットランド気象協会会員となり、また同協会事務局長ブキャンからの協力同意を得た。気象観測器機は1874年5月24日に横浜に到着したが、1875年5月までどうしていたのかはマクヴェイン文書から分からない。しかし、1875年5月から6月に、チャレンジャー号のトムソン探検隊長、マレイ副隊長、ティザード副艦長が大和屋敷を訪れており、さらに、この時の調査活動をティザードは「日本の気象観測への貢献」として発表している。この報告書では内務省の気象観測は報告されておらず、正式には開始されていなかったことがわかる。この部分は<内務省の気象観測>請参照。

(23) 7月,内務省囘緑の災あり,東京府下測量の野薄及其原図蓋く鳥有に帰す、幸に三角測量の野簿は気象台に在りしを以て僅に免るるを得たり。

※マクヴェイン日記にも「大久保利通日記」に同記録有り。「マクヴェイン日記」ではほとんどの測量野帳原図と器機を焼失してしまったとある。

(24) <8月,定額金金六万円減せられ十万円となる。>

9月,各府県土木の工事勃興に際し技手の必用を感す,当時本課の外世間斯業に従事する者少し,茲に於て其幾分を分ち各県に配11)す。

11月,横浜測量なる。

○9年,関八州大三角測量の事業を開始す,英人シャボーヲ聰傭し共取調ヲ為さしむ。

六等出仕室田秀雄,師長マクウェン〈シャボー〉を携い基線撰定来為相模原及下野那須原を巡視す。

先に英人〈等〉報告する処の東京三角測量は其組織疎大に失し小区測量に適せす,仍て〈館潔彦,阿曾沼次郎ニ命し〉,更ニ廿七所に増撰し,三角形を変換し別に補点五十余ケ所を撰み又本所一ッ目及三ッ目ノ間に基線を再測す。

<襲に>英人<等>来用へたるは鋼鉄尺なりしも,今回は米国に於てニ等基線に使用する処の測桿を用へたり,<(開拓使に於いて米国より購求したる者の元測量課に伝え現時陸地測量に於いて使用する者)>して而従来の三角点共標石を埋定し永遠の保存を計りたり,又小区測量の原図及謄写共焼失に係る者は更に再測をなし,<其>縮尺はニ千五百分のーと定め,后12年に至り完成す。此三角測量を担任せしば館潔彦,阿曾沼次郎,三輪昌輔にして,小区測量には数名,技手或は傭員に担任せしむ,10年1月后は技手は多く免官となりしを仕て傭員として用いたり12)。其増設の三角点は,小名木・霊巌寺・千田新田・柳島・吾妻橋・車坂町・谷中・采女橋・龍泉寺・第一銀行・町屋村・東片町・芝金杉・駿河台・三田綱町・赤坂松江邸・富士見町・

巣鴨・市ケ谷・龍上町・広尾・宮益町・品川御殿山・下目黒・上目黒・千住13)等なり。

安政年間来条約に由り外国人来遊歩規程は横浜の周囲十里を以て限りとす,故に相模酒匂川<を以て限とす,其>以西には脈行免状を得されは能はす是れ外人の常に不便を感せし処とす,如何となれは西数里にして箱根温泉あり依て彼等は之を十里以内に含む者とし,時来外務卿寺島宗則に迫る,廟議実測来上確答するに決し,三月,永井義方,袖岡正身,木村世徳外六<名>に命し実測をなさしむ,其方法は神奈川県庁来国旗14)に起り横浜三角測量に連結して次第に併進し,十里限界たる附近は地形図を作り各点標石を埋置し,10年1月を以て完成せり,而して十里来限点は却て酒匂川以東梅沢附近に之を得て<茲に於て>彼等不正来の暴議を排斥するを得たり。<此全費六千三十四円八十銭三厘なり。>

※「9年、関八州大三角測量」とあるが、これは明治8(1875)年の間違い。この年の量地課の様子はマクヴェイン日記に「11月、シャボーを伴って浅間山他の測量視察にでかける」としか描かれていない。1875年2月頃にハーディは辞職、5月にマッカーサーは退職しており、残ったチースマン、スチュワート、クラセン、ウィルソンは10月から12月に契約満期を迎えることになっていた。ジョイナーは1877年6月、マクヴェインとシャボーは1876年10月(太政類典10月31日満期)に満期となり、師長としてマクヴェインは山尾と結んだ「3年間で測量司の体制を整える(日本人による体制に移管する)」の約束に基づいて、チースマン、クラセン、スチュワート、(ウィルソン)の1年延長を大久保と杉浦に要請した。内務省地理寮内の小林や三浦(反御雇い運動派)がそれに横やりを入れたが、自ら呼び寄せた部下が去るのに自分だけが残るわけにはいかないと、マクヴェインは大久保に執拗に彼らの任期延長要請した。マクヴェインは自らのこの行動にシャボーも同調するだろうと信じていたが、違った。マクヴェインはマックスウェル宛の手紙の中で「シャボーは外国人雇い排斥(反旧工部省測量司職員)派の手先になった」と語っており、あり得る話し(revised in Jan.7, 2020)。

※1876年1月までにマクヴェインをはじめとするイギリス人技術者が量地課を去った後、残ったシャボーは任期満期の10月まで関東一円の三角測量を指導した。シャボーは自らの保身のために、マクヴェインが果たした役割をまったく周囲に話しをせず、自分の成果とした。ヘンリー・シャボーには子供がいたことは知っていたが、つい最近、娘がスカースという軍人と結婚し、夫の退役後はスコットランドの北部の島、オークニーに居住したらしいことを知った。彼女はシャボーの遺品をいくつか持っていたらしく、日本での測量の様子を描いたスケッチが発見された。情報筋によればシャボーのフルネームがJoachim Henry Scharbauというらしいが、事実を確認中(revised in Jan.7, 2020)。

(25) 3月,神戸港に三角測量を施行す,其担任は小林一知にして小区測量は数名の技手を派し分担せしむ,10年5月完成す,<其>三角点には尽く埋石す15),<此全費五千四白八十七円十五銭七厘なり>

※1874年5月末にマクヴェインが神戸にでかけ測量基点を設置した。

(26) 4月,新潟港に三角測量を施行す,其担任は宮崎正謙,荒川重豊なり,小区測量は及はすして同年十二月完成す,<其三角点には,永遠不朽の標石を埋置す,此全費二千八百十二円四十三銭七厘なり。>

中略

○10年、1月11日、諸寮廃せられ更に地理局を置かる、又本局に測量課を置き量地課の事務を継続す、内務大書記官杉浦譲局長たり、内務一等属小林一知課長たり。

此時定額は三万円に減し属の名を以て留任する者僅に30人外傭員10人とす,<茲に於て>事業は専ら<関八州>三角測量に傾注されたり。

同月,外人遊歩規程測量成る。

4月,京都府下測量成る。

5月,神戸港測量なる。

6月,気象担任<の>英人ジヨイネル満期解傭<す代て>正戸豹之助主任たり。

7月,長崎測量成る。

8月,東京塩釜問水準<測垂>成る。

9月,内務権大書記官桜井勉地理局長となる。

11月,横浜小区測量の並東京横浜間水準測量を施行す。

12月9日,内務省御用掛荒井郁之助測駐課長となる。

先是全国三角測量の結果遼遠なるを以て国界を測量し国の面積を知るの必要あり,依て関八州より漸次全国に及すの議起る,12月浅野永好を両総国界に派し測量をなさしむ,11年4月成る。

2-4. Ookubo's Works大久保の記録

(1) Ookubo's Diaries大久保利通日記、内務卿時代

※初代内務卿大久保利通の日記他に、若干の内務省測量司と地理寮量地課に関する記述がある。資料は次章に紹介する。

初代--大久保利通 1873年(明6)11月29日

2代---木戸孝允 1874年(明7)2月14日 ---佐賀の乱の鎮圧

3代---大久保利通 1874年(明7)4月27日

4代---伊藤博文 1874年(明7)8月2日-----全権大使として清国へ

5代---大久保利通 1874年(明7)11月28日

6代---伊藤博文 1878年(明11)5月15日--大久保暗殺後

2-5. Sugiura's Works杉浦譲の記録

※民部省地理掛から始まって内務省地理寮並び戸籍寮の正を勤めた杉浦にはいくつか伝記があるが、測量司/量地課に積極的に関与した痕跡は見られず。

2-6. Various Records related to McVean's Survey School測量学校に関する文書

(1) 1871年12月(マクヴェイン日記から)に生徒募集開始、明確な募集要領があったのかは不明。

・教師としてライマー・ジョンズとジョージ・イートンを雇用

・1872年1月に入学者決定

・1872年2月に授業開始、11月に修了試験。実質は8ヶ月間のコース。最優等生の小林八郎はイギリスへ研修

(2) 太政類典;明治6年10月14日工部省測量技術通学生規則ヲ定

・本来、マクヴェインが一時帰国する前の1872年12月から2月の間第二期入学生選抜を行うべきだったが、行われなかった。師長代理のジョイナーは、おそらく村田文夫と相談して1872年度の募集案を踏襲して1874年度入学者選抜の準備を始め、1873年10月にこの規則を定めた。

工部省布達

第十四号当省測量技術通学規則別紙の通改正候條通学志願の者ハ本陣並保人願書相添其管轄疔を経測量司へ可願出此旨布達候事

測量司技術通学生規則工部省刊

本司に於テ生徒を教育する所以は実地測量の人を挙くるに急なれはなり故に其学科も又正則を巌にせすして早く実業に就くおとす其正則を履み学術兼備大成したるものは工学生徒より之れを採用す

第一条

年齢十六歳より二十三歳迄の者出願に依て学力の差等身体の強弱試験の上保証人を立て之に通学を許し毎年大小試験の節及第するものは挙て以て見習生となし月給を給し其落第するものは尚通学せしめ大小合せ四度の試験に登第するを能はさるものは之れを退学せしむ。

第二条

通学出願の節試験学科左の通

毎月月曜日を以て試験の定日とす

一数学 分数比例 一音読 リードル或歴史

一聞書 同前 一地理書素読

一対話

第三条

通学生授業の科目左の通

一習字 一作文

一地理学 一語学

一読史 一算術

一幾何本源学

第四条

通学願書

私儀測量志願に付通学仕度候條御許容被成下候様仕度此段奉懇願候也

第五条

通学生引受人保状雛側

右の者測量技術通学修業被命難有奉存候然る上は御規則の趣堅く相守らせ可申候万一当人通学中御規則に背き候

第六条

五日以内病気にて欠席するものは保証人より証書を以て届けしむ若し欠席一ヶ月以上に至るものは之れを退学せしむ。

第七条

若し疾病或いは不得巳事故ありて退学を願うときは其の事実を明細に書認させ保証人の添書を以て願出すへし。

第八条

通学の儀は鑑札を以て之れを出入りせしむ。

第九条

書籍習字本並筆墨紙等は官より之れを支給すへし。

第十条

書籍其外官物を紛失又は破損し或いは室内を汚損するものは其情を正し臨機の処分に及ぶへし。

第十一条

生徒通学差許し続て技術見習生徒に挙られたる月より向満三年を以て常期とす期満て試験して相当ノ官に抜擢す(但学術秀達の者は右年限中たりとも相当の官に抜擢す)。右官に挙げられてより向五年本司使役に充て規約とす故に通学許可の上は他に願慮あるへからす尤疾病又は無処事故ありて退学を請う者は其の事実を正し確証あれは之を許す。

明治6年10月

(3) 太政類典;7年3月3日測量司測量技術通学規則を改正す

・1873年10月に工部省測量司が定めた「測量技術通学生規則」を、1874年3月に内務省測量司が改定した。1874年1月に測量司は内務省に移管され、2月には旧大蔵省土木寮の技官たちが測量司に合流してきた。その中のリーダーは小林一知なので、この改定は小林が主導したものに間違いない。

内務省伺

従前測量司に於て別紙通学規則を以て生徒教育致来候語学等正則を兼候儀に付今般史に掛紙の通り改正の方法を以て教育致し実際施業の捷路を開候様致し度就ては兼て工部省に於て別紙の通り布達にも相成候儀に付先般より陸続入学願出候者不少候間早急御評議有之度猶御採決相成候は、更に改正の通り当省に於て一般へ布達致度図り別紙通学生規則書案並布達案共相添此度相伺候也2月17日内務

測量司技術通学生規則

第一条

本司に於テ生徒を教育する所以は実地測量の人を挙くるに急なれはなり故に其学科も又正則を履ますして早く実業に就のを主とす。

第二条

年齢十八歳より二十五歳迄の者出願に依て学力の差等身体の強弱試験の上保証人を立て之に通学を許し三ヶ月間毎十日に当り試験を受け及第するものは御雇となし月給を挙て給し又向三ヶ月間前同一の試験に登第するものは挙て技生となし実測の業に就かしは若し又通学差許の日より初三ヶ月間の試験に落第するものは以前通学せしめ後三ヶ月の試験に落第する者は退学せしむ。

第三条

通学出願の節試験学科左の通

但毎月十の日を以て試験の定日とす。

一幾何学

一八線学 但洋書は試験せす

一製図法 但製のみ志願の者も試験の上通学を許す

第四条

通学願書案

第五条

通学生引請人保状雛形

第六条

五日以上病気にて欠席するものは保証人より証書を以て届けしむ若し欠席一ヶ月に至る者は之を退学せしむ。

第七条

若し疾病或いは不得の事故ありて退学を願う者は其の事実を明細に書認めさせ保証人の添書を以て願出すべし。

第八条

書籍は貸し付け

第十条書籍其の外官物を紛失

内務省伺7年10月31日

本年三月三日伺済相成当省甲第四号を以及布達候測量技術通学生規則第二条は政府のご都合に応じ事業の手配大小も有之技に付き召募生徒の制限無之れは難相成候間生徒試験一時見合の儀可有之旨兼ねて当省より布達仕置申度別紙布達案相添此段相伺候10月31日

内務省布達府県

昨明治七年三月当省甲第四号を以布達候測量技術通学生と規則第二条の趣は時宜により生徒試験一時見合候儀も可有之候情此旨布達候事8年1月20日内務

※工部省測量司の「測量技術通学生規則」と内務省測量司の「測量技術通学生規則の改定」の大きな違いは授業内容と授業時間。改定では文系の科目は削除し、また3年の課程(学校1年+実務2年)を3ヶ月の課程に変更した(2020年12月1日加筆)。

(4) 甲第四號 府懸

明治六年第十四號ヲ以工部省ヨリ及布達候測量技術通学規則今般當省ニ於テ別冊之通改正候條通学志願之者ハ本人併保人願書相添其管轄庁ヲ経測量司ヘ可願出此ノ旨更ニ布達候事

明治七年三月二十二日 内務卿木戸孝允

[英訳]

Circulation of Prefectural Office No.4.

Lately, survey school was transferred from the Public Works to the Home Office, which will call for application of students to the school.

[解説]

・この時期、内務卿大久保は佐賀の乱の鎮圧に出兵しており、木戸が内務卿を兼務した。1874年1月9日に測量司は工部省から内務省に移管され、今度は内務省が測量学校の生徒募集を行うので、府下にその募集を通知した。これからも、工部省においてすでに測量学校が動き出していたことがわかる。マクヴェイン日記では1872年2月に生徒募集を行い、1年後の2月に卒業試験を行った。そして小林八郎とスイキノが優等賞を得た。南清もいた。

(2) 

III. Review of Previous Studies既往研究の整理

3-1. 測量に関するものGeodetic Survey

(1) 師橋辰夫・佐藤:明治初期測量史私論1〜7、1977年1982年

(2) 山岡光治氏の論考:おもしろ地図と測量の話http://www5a.biglobe.ne.jp/kaempfer/index.html

※1875年7月に内務省庁舎は全焼し、ほとんどの文書も焼失した。内部資料がないので、関連する一次資料の断片的情報を寄せ集めて、全体を推測している。

3-2. 気象観測に関するものMeteorological observation

(1) 鯉沼寛一氏の論考の検討 (added in October 21, 2018)

Ⅰ.はじめに

氏は気象観測事業の創設を主題としていたため、舘潔彦「三十三年乃夢日本測量野史稿」は目を通しているものの、や大川通久『測量局沿革書稿』は参考にはいない。

-1) 内務省における気象観測の開始の経緯と気象台の名称, 1968年

-2) 日本における初期の気象組織の形成,1969年

Ⅱ.論点

-1) ジョイネルが工部省測量司雇いになった時、すでに師長マクヴェイン以外に数名の御雇い技師がいた。後から加わったジョイネルは彼らとは不仲であった。*星為蔵:気象創業期一お雇外人をめぐり

※これは間違い。工部省建置と共にマクヴェインは山尾に月契約で雇用され、測量司発足と共に師長に就任。その時に、マクヴェインは副技師として鉄道寮からジョイナーを転職させた。測量学校教師のライマー・ジョンズとジョージ・イートンもモレル経由で来日し、ジョイナーとは親しかったはず。1872年5-7月にハーディとマッカーサーがインド植民地公共事業局からやってきたが、彼らは特異な性格を持っていたようだ。ジョイナーはマクヴェインとは終生の友人として文通していた。

-2) 1873年マクヴェインが一時帰英中に、ジョイネルは気象観測の建議により始まった。それを認めたのは村田文夫であろう。

※これはまったくあり得ない話しで、マクヴェインは山尾庸三と気象観測創設を測量司の任務に入れることを話し合い、一時帰国に際してグリニッジ天文台とスコットランド気象協会との協力関係を築いた。師長代理がそんな建議をする立場にない。

-3) この建議をマクヴェインが帰英に行ったので、両者の不仲の原因となった。

※これもまったくあり得ない話し。マクヴェインはイギリス国内での行動を山尾とジョイナーに月に一回は手紙で報告し、両者からも返事があった。

-4) 中央気象台の始まりはマクヴェインとジョイネルの軋轢のおかげ。*中村精男:中央気象台沿革概要

※本当にこの部分の鯉沼氏の論考は酷いな、、、、こんな根拠のない想像を書いてしまうなんて。マクヴェインはスコットランド気象協会から日本に短期のアドバイサーを招聘しようと思っていたのが、帰国してみると小林や三浦の反御雇い運動に直面し、叶わなくなった。イギリスで購入した最新気象観測器機を無駄にせず、イギリスの関係機関と結んだ合意を履行しようとすれば、現員の中の誰かが気象観測専任にならなければならなくなった。ジョイナーは、マクヴェンとチースマンと同じくらい気象観測の経験は持っており、マクヴェインはジョイナーに白羽の矢を立てた。しかし、ジョイナーは本来のシビル・エンジニアの職務を棄てて気象観測者になることは本意ではなく、それはジョイナーのその後の職場を見ればあきらかである。ジョイナーはマクヴェインの説得を受け入れ専従となり、1875年5月にチャレンジャー号のトーマスとティザードから気象観測の指導を受け、世界標準の観測を自信をもって行うことができた。1875年の夏、御雇い外国人が避暑休暇を取るときには、ジョイナーに代わってマクヴェインが大和屋敷で観測日記を付けた。

-5) 1874年7月英国に注文していた気象観測器機が到着した。

※これは5月25日の誤りである(see McVean Diary 1874)。

-6) ジョイナーの休職期間1874年2月〜6月。

※師長代理のジョイナーが師長帰任前に休暇をとることはありえないし、1874年5月6日にマクヴェインが横浜港到着にジョイナーは迎えに来ていた。もし本当だとすれば、測量司が内務省に移管されたてまもなくのことで、師長も師長代理もいない時期に旧大蔵省土木寮から技術員(旧幕臣)が合流し、彼らが測量司の主導権を握るチャンスとなったと思われる。

-7) 1875年マクヴェインらが、内務省地理寮量地局に気象掛の設置を提案。*荒井郁之助:本邦測候沿革史

※これを裏付ける資料は発見されていないが、前述したように、マクヴェインが1875年早々チャレンジャー号のトムソンとティザードから内務省を訪問する旨の連絡を受け、気象観測の指導を受ける受け皿を用意した可能性はある。

-8) 1874年7月ジョイナーの再雇用と1875年6月1日気象観測の開始。

※前述したように、チャレンジャー号の気象担当のティザードからマクヴェインとジョイナーが直接指導を受けたことで、自信を持って気象観測を行うことができたと考えられる。

(2) 山本哲氏の論考

--基本的に両氏の論考も内務省の内部資料がないなかで、関連する一次資料の断片的情報からの推測である。

3-3. 水路測量に関するものHydrographic Survey

3-4. 天体観測に関するものAstronomical observation

3-5. Points of Further Argument今後の研究課題1) 山尾庸三は大久保とどんな関係にあったのか、特に測量と土木の内務省移管に関して。

2) 村田と室田はどんな役割を果たしていたのか。

3) マクヴェイン留守中のジョイナー他の外国人技師はどんな状況にあったのか。

4) 1873年暮れ、測量正として復職した河野通信は一体どのような状態であったのか。

5) 測量司が内務省に移管される時、目的組織人員にどのような変革があったのか。

7) 内務省測量司が内務省地理寮量地課に縮小改組された時、目的組織人事にどのような変革があったのか。

6) マクヴェイン早期解雇の真相はなんなのか。

・マクヴェインがマックスウェルCaptain William F. Maxwellに宛てた手紙によれば、日本人技官による御雇い外国人排斥運動(Anti Foreign Party)があり、その日本人らにうまくすり寄ってシャボーは残りの満期終了まで勤めた。ジョイナーは気象専任として残ることができた。クラセン、チースマン、スチュワート、ウィルソンの契約満期は1875年10-12月なの対して、マクヴェインは1876年10月満期。マクヴェインは自らだけ一年多く居残ることはしたくなかったので、部下の一年延期を内務省に要請した。それが叶わなければ、早期辞職すると大久保に告げた。マクヴェインに契約満期まで勤めるように望む日本人職員もいた。村田は測量司勤務時代から私塾を開いており、また、たびたび長期休暇をとったりして、しばらくして辞職する。室田を除いて、旧工部省測量司の職員が総て退職することになった。河野が元気でいてくれたら測量司はこんなことにはなっていなかった。杉浦譲は優れた行政官であったが、他業務に忙しく、科学技術に疎く、大久保とともにに測量や気象観測にあまり関心はなかった。英国海軍水路測量局時代からの仲間であるマクヴェイン、チースマン、マックスウェルらは、マクヴェインを支持しなかったシャボーとの親交を絶った。(revised in September 5, 2019)

7) 内務省人事について 内務省初代大臣は大久保利通であるが、大久保は佐賀の乱の鎮圧、続いて台湾出兵にかかわり清国へ全権大使としての派遣などがあり、その間は木戸と伊藤が就任している。この二人は内務卿を立場上兼務しただけで、何もしていなかった。

IV. 新たな資料とその解題New Research Reference

・主としてマクヴェイン文書からであるが、気象に関しては同時代の英字新聞と英字雑誌に大変有用な記事があった。

4-1.McVean's Archiveマクヴェイン文書

(1) McVean Diaries

1874

-Tuesday 5 May Blowing fresh cold. Gave Miss Cowan her acct £23 2 11 - Recd previously from her £22 – Paid today the balance £1 2 11 - arrived in Yokohama 9 P.M. I landed with Grigsby in mail boat posted letters for home George & Mull Wheeler & D’ Boinville off – Joyner off.

-Thursday 7 May. Went out with Joyner to have a look at Kogaku-Ryo very much pleased with it Saw Mr Dyer & several Professors – Mrs D. called in afternoon – and I drove with him to call for the Grigsbys. – Met Murato coming from office.

-Friday 8 May. Went to office saw Murato arranged to go to Placa – for ten days or so and to leave things here as they are till my return –

-Saturday 9 May. Went to office and recd money to travelling 198 yen - recd also my Japanese Foreign Office Passport –

-Friday 15 May. 7 A.M. arrived in Kobe – walked abt and saw the settlement 11.30 train to Osaca called at office – found Murata and Wilson at tiffin - Blundell called & went on to Kobe Wilson & self out in the afternoon to see stations - Railway fare $1 - Breakfast in Kobe Mr Green’s $1 - jin risk shaws &c $1 - Gave Mr Larkin Young’s parcle

-Saturday 16 May. Out with Wilson examined stations and ground for base line – approved Wilsons work - Blundell returned and spends the night with us - gave Blundell Mrs Cartman’s parcle

-Sunday 17 May. In Osaca walked about and saw the Pla e

-Monday 18 May. In Osaca called for the Consul – Stewart O.B.C. Green &c - Went to office saw Murata – started for Kobe – called for Mrs Boyle Mrs England & Mr Clatchin, Kirby got on board Golden Age 4 P.M. started 5.45 P.M. - Expenses while in Osaca and travelling $5 - -

-Tuesday 19 May. At sea O’Kuma & [s…..te] on board – Raining all day – Wine bill $3.95

-Saturday 23 May. Mr De Boinville & Agnes Cowan married 1st at French Consulate then at British Legation in presence of Sir Harry Parkes Dyer Principal of Kogaku [Tio] married at same time - I gave Agnes Cowan away - The Wedding Breakfast given by Mr & Mrs Joyner – 2 Yamati Yashi Tokei

-Monday 25 May. Self & Joyner in Yokohama landing goods

-Tuesday 26 May. Self & Joyner in Yokohama landing goods - went to the Ball at the Legation – no Japanese present – Had a trap from Coll & Co to drive up to Legation

-Wednesday 27 May. Joyner & self landing Instruments - Staid at International last night  returned to Tokei in the afternoon

-Thursday 28 May. Self & Joyner in Yokohama looking after the Instruments - dined at Chooji

-Friday 29 May. Self and Joyner Yokohama – landing instr. - Tiffined at Wheeler’s

-Saturday 30 May. Self in Office - Joyner went - Called on Mrs Ayrton in the afternoon - Dined at Davidson’s

-Sunday 31 May. 16 cases Furniture came

-Monday 1 Jun. Bought a horse through Ishigawa $78 - went to Yokohama with Cheesman to meet Scharban – arrived by mail - letters from Home – dined at the Godfreys where we meet Mr & Mrs Wright

※6月1日にチースマンと一緒に横浜に行ってシャボーにあったとあるので、前日には来日していたのであろう。

-Tuesday 2 Jun. At office introduce Scharban

-Thursday 4 Jun. At office - Niky & self went to Yokohama called for the Honourable & F & Mrs [Plunkett] neither of whom we saw  called also on Mr & Mrs Goodwin I saw Mrs Goodwin who is very pleasant. she knows Dr. Shin very well. Mary called on Lady Parkes. - Recd Bookcase wardrobe lamp chiffonier 3 pictures bought at Van du Tochs sale

-Friday 5 Jun. At office - Mr & Mrs Grigsby & Professor Summers called

-Saturday 6 Jun. At office Registered myself at consulate $5 - afternoon went a Picknick to the Forts – Joyner Mrs J. Mr John Jones Mr & Mrs Richard from Choägi Mr Shaw the De Boinvilles & selves. Went in two boats took a long while in going. Enjoyed our tiffin & tea very much on the fort.

-Sunday 7 Jun. Out with Joyner Gubbins & Kuroda at Öji

-Monday 8 Jun. In office writing report on purchase of Insts &c - Sent in letter to Murata abt Simpsons appt after a long conversation with him on the subject - recd 2 of my cases McV from the office  Cheesman & Mrs & Scharban to dinner

-Tuesday 9 Jun. Went to Yokohama with Joyner in Hardy’s case to see Ness – [int………] with him read over all Hardy [..’s] letters – self Paid Joyner one hundred yen 100 - lent to me - 50 day I arrived 50 afterwards -

-Wednesday 10 Jun. At office - afternoon Gubbins came in with Gardiner – to bring estimate for laying out our garden on Friday –

-Thursday 11 Jun. Went to Yokohama to see Ness abt Hardy’s case - paid Bourne for things bought at Van du Tochs sale $ Called on Dr & Mrs Anderson and at Choöji 

-Friday 12 Jun. At office wrote Muratoa a letter stating Ness opinion on Hardy’s case – recd letter from Ness giving revised advice. -

-Saturday 13 Jun. Called Mr Hardy in to my room – told him the Japanese were very much displeased with him, - and that I thought he had brought it all on himself by his behaviour and the small amt of work he had done - Warned him that he had several times broken his agreement - but if he did so again it should not be overlooked - told him to hand over his plan to Cheesman . Farther orders as to work to be given him on Monday

-Monday 15 Jun. Gave in accts of expendre £3800 recd in Engd from Kawano – Dr. Anderson told Joyner that since he had been appd Medical Officer Hardy had not been so unwell as to prevent his coming to office – Called on Dr. Divers & Marshall

-Tuesday 16 Jun. Wrote my report Joyner at Benten – Grigsby – owes me $5 – De Boinville “ “ $14 - Dined at the Ayrtons

-Wednesday 17 Jun. In office - Scharban copying my report –

-Thursday 18 Jun. Spoke to Mr Hardy abt his entries in the office time book told him he was to confine himself to noting his days work – and put no remarks regarding it that were only suitable to a private diary – Had talk with Murata abt Joyner’s agt - Unpacking furniture

-Friday 19 Jun. Unpacking furniture - discussion as to scales for plans – and standard report to be written on the same – shewed officer what I wanted done abt my house

-Saturday 20 Jun. Gave in my own Scharban’s & Burgess accts up to end of this month –

-Monday 22 Jun. Went to Yokohama - recd Mr Nicoles money […….gan] loan [a] [arrd] one year & one mo – interest thereon dispatched same to him by draft O.B.C. posted by O and O - Loan $1600 - interest year & month 208 at 12 per cent 1808 - wrote home – Maxwell & Redhead

-Tuesday 23 Jun. Recd authority to telegraph to Simpson to come from Hong Kong to [learn] one year’s engagement at 150 yen pr mo & House and promise of another year should there be work at 200 per mo –

++From this point Mary takes over most entries in the diary++

Fire of Home Office in July 1875.

(2) McVean's "Survey Department" photo.内務省地理寮量地課記念写真(おそらく1875年春)出典:マクヴェイン文書他 Jan 11. 2019.

 ※下段は左端からシャボー、チースマン、スチュワート、室田、マクヴェイン、村田と並び、その右手はジョイナーと思われる。村田とスチュワートの上は舘潔彦、室田の奥は大川通久であることが沼津市明治史料館蔵大川写真と照らし合わせて判明した。

※この写真が1875年初めの内務省地理寮量地課の様子を非常によく伝えている。技員は50人を超えていたというのは、ここにはその半数くらいしか写っていない。写っている人物も、何か不穏な雰囲気を漂わせている。少なくとも、日本人技員としては年長の小林一知が写っていないので、反御雇い党(反工部省測量司)の人員すべてが出席しなかったと考えられる。すでに、ハーディ、マッカーサー、ウィルソンらは退職しており、マクヴェイン、チースマン、スチュワート、ジョイナー(クラセンかもしれない)、シャボーが写るのみである。シャボーは山高帽で顔を隠し、上段の数人は真横を向いて、ここに写りたくないという風情。マクヴェインはこの写真にSurvey Departmentという題目を付けており、印半纏に(地)という文字が見えるので内務省地理寮量地課時代の写真である。すでに測量正の河野通信は辞職しており、マクヴェインの右側に課長の村田文夫が、左手に課長代理の室田が座る。村田は1872年の顔写真から比べるとやせ衰えており、1875年春頃には辞職してしまう。彼は台頭する反御雇外国人運動を抑えきれないで、苦慮に立たされていたのであろう。上段中央でそっぽを向いている二人の人物が反お雇い外国人運動の一味なのではなかろうか。このように考えると、1874-75年の量地課の状況がこの写真によく反映されている。工部省測量司の体制を中心とし、内務省測量司へ、さらに同省地理寮量地課へと改組され、その途中で新たに加わった職員たち、小林一知や三浦省吾といった旧幕臣海軍技術者との主導権争いが生じていたのであろう(revised in August 5, 2019)。

(3) 内務省へのマクヴェインの手紙草稿、日付は無いが1875年8月か。

以下の手紙はマクヴェインが内務省にイギリス人測量技師の任用延期を願い出たものである。すでに、クラセンとチーズマンの任期延長の見込みがないことが内務省から伝えられていることから、1875年8月頃に作成したと考えられる。8月30日付けで測量司は廃止され、役割と職員と地理寮量地課に移された。単なる縮小改組ではなく、職務章程(業務内容)が変わったのであろう。内容は、日本人測量技師の養成にはもう少し時間がかかるので、この二人のイギリス人測量技師を雇い続けて欲しい、そうでないと測量事業は死に体になってしまうと述べている。文頭から内務省がかなり前からこのような考えを持っており、その時もマクヴェインは時期尚早だと反論したことが分かる。

Certain circumstances force me to take up my pen again to address you on the old subject - They are the [following] -

The [Naimusho] have given me notice that the agreements of the Foreign employees in this Dept will not be renewed and during the last month Messrs Klasen and Cheesmans agreements expired - they are doing a little extra work just now what will occupy abt 10 days or so – and then their service ends –

Now of course if Japan does not require a Geodetic survey to inaugurate and organise which -[all] the present time necessitates the temporary employment by her of Foreign professional skill - The non renewal of the engagements of the Foreign Surveyors is a very proper measure – although the Govt has gone to the expence of bringing them to Japan and must again send them to their homes – without having received the greatest return possible for the expenditure incurred - this for reasons explained in a former letter –

I am induced to address you again on behalf of this Dept as matters have now arrived at such a stage that unless something is done- the Dept will die a natural – or should I rather say unnatural death. – I received notice lately fr the Naimusho that the agreement of the Foreign employees will not be renewed – and under said notice the engagement of two or the best men Messrs Klasen and Cheesman have just terminated.

Now were I sure that it is not the intention of the Govt to carry on a Geoditic survey – I would not trouble you by saying one word on the subject – because I know your time is valuable and fully occupied but understanding that you had taken the affairs of this Dept into consideration with a view to a change in the administration circumstances would permit - I consider it my duty to lay the matter as it now rests before you.

Supposing then that a Geodetic survey is required – the services of a certain number of Foreign surveyors will be necessarily required till all staff of young Japanese are trained and have sufficient experience to carry on the work by themselves - this being the case it would be a pity I think to loose two of our best men who have been brought to Japan from England and will have to be sent home again at Govt expense and to loose them in fact before the work for which they have been brought here is even fairly commenced - not to speak of the money spent on valuable insts lying unused – for more than a year back - These two gentlemen must of course return to the country without delay if there is no prospect of further employment for them here - it is the idea of losing them now [still] the prospect before us of the work yet going on a proper and permanent footing that had induced me to address you again at this time.

If on the other hand the carrying out of a Geodetic survey is impossible at the present time – then the non-renewal of the agreement of the Foreign staff is a very proper measure as in a former letter I have already explained that under the present system our services are next to useless and I do not think

[和訳]

[解題]

※和訳されたものが大川文書には見当たらない。チースマン、クラセン、(スチュワート)の退職時期が過ぎても、課内の仕事に追われているというのであるから、1875年10月から11月頃に書かれたものであろう。すでに数度にわたって大久保と杉浦に対し英国人測量司の解雇見直しを求めていたことがわかり、この文書が内務卿に対する最後通牒となった。しかし、この時期の内務卿は腰掛けの伊藤博文であり、実質的には杉浦譲が省務に当たっていた。12月に大久保から返事を受け取り、それに対応してマクヴェインは自らの進退を決めた。

チースマン、クラセン、スチュワートは優秀な測量技師だったらしく、一時帰英後、チースマンとクラセンはオーストラリア植民地アデレード市の技師を勤めた。スチュ

ワートは帰国後、グラスゴーとロンドンで測量技師として成功した[Griffis Collection]。


(4) McVean's Letter to His Father dated December 10, 1875.

                                                                                                     Yamato Yashiki

                                                                                                        10 Decr  / 75

My dear Papa & Mamma

  It is close on Xmas and New Year time again so I must begin by wishing you and all at Home a very happy New Year and many of them  -  I must give you now some account of my travels in the interim here – and afterwards answer your questions in last letter  -  on the 16th Novr Sharbau  -  myself  - one of our Commissioners named Murato – three Japanese surveyors – and a paymaster started in a hunt for a plain of 8 or 9 miles in length that would be suitable for measuring a Base line on – for the main Triangulation of Japan  -  we started at 5.30 a.m. in Jinrickshas – but went in them only a few miles to where the coach for a town called Taka Sake about [70/20] miles west of Yedo -  only Sharbau [……..role] the Paymaster [……boy] by […….ine] & myself took the coach – the rest of the party started the day before  as also my own & Sharbau’s servants in jin rick shas [….] being less expensive than the coach -  we got the coach abt 6.20 am and had it all to ourselves  -  

  The day was cloudy and cold but on the whole pleasant the country however through which we passed was not very interesting it was flat and well cultivated with numerous villages -  we crossed two considerable rivers – which in [this] low countries [have/here] [regularly/required] to be banked in on both sides  to prevent them flooding the country all round in the rainy season and when the snow melts in spring  -  we got to Taka Saki abt[5].30 P.M. pretty tired after our long drive I was surprised at the road so far it was really good except in one or two places  -  

  The country round Taka Saki is a great silk district -  and every where the mulberry tree is cultivated to feed the silk worms – we also saw the Paper Mulberry a species of the same tree – but with a tough bark with long fiber of which the paper is made – we left Taka Saki  next morning  - and  a drive of a few hours in jinrickshas brought us to the foot of the hills – which here are very beautiful and picturesque in the distance we could see Asama Yama towring up against the blue sky and pouring out at intervals a dense white clowd of vapour   -  this is the greatest active volcano in Japan – [8400] ft high (about) – by 2 P.M. we were at the foot of the [….ue] [rouge] Pass where we left our jinrickshas – the ascent being so steep as to necessitate walking  -  the view from the top of the Pass 4750 ft above the sea – is very grand  some of the mountain tops being just like saws with jagged peaks of rock several hundred ft  in height – standing out on ridges – after crossing the crest of the Hill we descended a few hundred ft only to a  [..a……..] [.a……..] [framing] a sort of valley with mountain ranges covered with mist on both sides the road we travelled so far is the Nakasendo the main High way from Yedo to Kioto -  and all along it are numerous villages even on these  high plateaus  -  with large tea houses  - formerly used by the Daimios on their journeys to and from the capital  - the most of these houses are now falling into ruin -  as the Daimios have been done away with and the great majority of travellers take the coasting steamers in preference to the road   we put up for the night in one of those houses which are on the whole comfortable though cold and we are well waited on by some of the girls who [……………] in all Japanese tea houses – they are [most] of them pretty &  very well mannered - next morning we caught up our Japanese companions in a village called  [Owewadii] at the foot of Asama yama – and after some refreshment and a little rest we started to look at a large plain reported in the neighbourhood  -  finding it  unsuitable for our purpose and it being only X.30 a.m. I proposed ascending the mountain which we accordingly all agreed to do about half way up however Sharbau and all the Japanese gave signs of giving in and finally declared they could go no farther -  it was snowing at this time and bitterly cold I however persuaded one guide to accompany me -  and pushed on -  there was no great difficulty ion going up till we got within 500 or so feet from the top when the steepness of the mountain side compelled me to hold on at times with both hands  -  

  It was snowing blowing &  bitterly cold and I once or twice thought of giving it up I persisted however and at last abt II.30 P.M. reach the top -  where however I could not remain many [moments] on acct of the snow & wind and consequent great cold  - I could not get a good look into the crater as I was afraid to venture alone on the inner lip which overhangs the sea of fire below – and is also full of fissures the hollow between the outer crest and inner lip (in sketch) was full of snow and my guide would not venture on it  -

  Mr & Mrs Joyner visited this mountain in summer  -  and went close to the edge and looked down  - but they had fine weather and warmth  - where I had not -  during the time that elapsed between their visit and mine the part of the top on which they stood fell into the crater with a loud noise that was heard for miles around  -  this too made me cautious  -  I got back to the tea house abt II.30 P.M. safe and sound but disappointed that I had not for a better view of the crater  -  on next two days journey was through a beautiful and very wild Pass about 4500 ft above the sea  -  on getting through we came down on the fertile valleys of Koshien  south of Fusi Yama  -  here abouts the scenery is as beautiful as any I have ever seen of its kind – I think -  Here the[y] principaly cultivate the grape  -  and all the hill sides are terraced and covered with vineyards -  to get back into the Low countrys we had to cross another beautiful Pass – after which we suddenly found o ourselves in the plains again  -  and after spending a night at [Hatchon] a […..rir…] [s……..] in jinrick shas brought us home  -  In answer to yr queries  - 1st We get the weekly Review regularly and a whole string of the best English Papers besides ( Pall Mall Budget  Saturday Review)  Spectator Ill London News Punch & New York Herald & Highlander )

  So you see we are well off for news  -  As to the Fire and its results -  we have hardly done anything since all my Foreign Staff except Scharbau & Joyner leave this month  - as their agreements terminate -  and there is every prospect that they will offer to pay me up in full and let me go home as they do not intend to go on with the survey on the present footing  The History of the Dept is too long to give here  - but I may just mention that Scharbau has turned out badly – that it to say he has [been] making [ne….lly] propositions to the Japanese to carry on the work himself  -  without the assistance of any other Foreigners and as if this could be done it would of course be a great saving to the Govt.  I think the man in power now in our Dept has been taken with the proposal and intends to  give it a trial  S. may succeed in blinding them for a year or so but that will be all – as one man  with Japanese assistants only will never do the work -  they are far too ignorant yet -  it is only their ignorance and vanity makes them think of such a thing  I am very much disgusted and disappointed with Scharbau however as his intriguing has helped very much to bring about the present state of affairs   -

   I think I told you long ago that while I was at Home  -  the Dept had been transferred from the Board of Works – to the Home Office  -  all my old Japanese friends are in the P.W. Dpt and I have none in the Home Office – they are regular old world Japanese  & I have always been at loggerheads with them -  so it will suit me very well if they pay me up in full and let me go  -  if this arrangement is carried out we will probably leave this for Home in the early part of March -  Via America  -  and will probably be Home in April or early in May  -  I am going to Yokohama today and will find out the name of the Hotel in San Francisco where we will put up  -  and if you write at once via America addressed to us to this Hotel it will catch us there  -   be sure and send me the McLeods address in New York and any addresses of people in Canada as we will travel through Canada we have a choice of Route4s for the same Fare -  do not stop writing to us here as you did before -  because this  arrangement is not absolutely certain  -  and many things may turn up to delay us -  but in addition to writing here as usual until you hear for certain we are off -  Pease write at once to San Francisco – as there is very probability we will be off soon -   We hope to get our Home box in a day or two and I am longing to see my new plaid it was very good of [I………..] and Kate to think of it  -  Please give them our best wished & kind regds

  I will write to them to thank them by next mail  -  when I hope to have recd the Plaid  -  We are all very well here & glad to hear such good accts of you all -  I inclose a cheque for £7 pounds payable to me at Home Capt Howard owed me the money and I thought it would be convenient to get it in English money  -  but what I  want you to do with it is to present it to the Fund for the endowment of the Gaelic Chair in Edinr  -  I think all true Highlanders should contribute to this  -  I have indorsed the cheque so take care it does not get lost  -

  The Grand Hotel San Francisco is the place we intend to put up at -  be sure you continue to write to us here -  till you hear definitely we are off -  with much love to Mamma yourself the Bairns and all at Home  -  I remain

                             your affect son

                                C.A.McVean





(4) Letter of Good Bye from Murota室田秀夫からの別れの手紙

Tokio, 6 April 1876

To My Dear Mr McVean

I am very regret to hear that your departure draws so near. Your warm kindness and good wish, with which you favoured me throughout the time that you were here, I am very much indebted of, and I hope our friendship will constantly exist. Write to me sometimes, if you please ; I shall never fail to do so.

Hoping your

happy voyage.

I remain, My Dear friend, yours sincerely

H Murota P.S. Herewith I respectfully present you Satzuma Earthware and Rinchin Case, although trifling, just only to show my regard to you.


(5) Contract Agreement, March 24, 1873.工部省測量司1873年3月24日雇用契約書

Articles of agreement made the 24th day of March one thousand eight hundred and seventy three.

Between the Department of Public Works of the Japanese Government of the one part and Colin Alexander McVean of Tokei Japan, Civil engineer and Surveyor of the other part.

1st The said Colin Alexander McVean is hereby appointed and he agrees to serve as surveyor in chief of the Japanese Surveys in any part of Japan to which he may from time to time be ordered by the chief commissioner of the Section of Surveys or his substitute for three years from the 14th day of September 1873. at a salary of Four hundred and fifty yen per month payable monthly during the first year, five hundred yen per month payable monthly during the second year and five hundred and fifty yen per month payable monthly during the remainder of his service under this agreement such salary to cease on the day of his death or dismissal or on his breach of any of the provisions or agreements hereof or on the determination of this agreement or on the cancellation of his appointment as hereinafter mentioned.

2nd The said Colin Alexander McVean shall not at any time during the subsistence of this agreement for himself or others directly or indirectly carry on or be concerned in any trade or business whatsoever but shall devote his whole time to his said duties.

3rd The said Government shall provide for the said Alexander Colin McVean suitable quarters, and all Instruments necessary for the due performance of his said duties - These to be returned to the said Government at the expiration of this agreement.

4th The said Government shall provide Medical attendance for and pay the said Alexander Colin McVean all his expenses for travelling from place to place in Japan which shall be incurred by him in the performance of his said duties.

5th Should the said Colin Alexander McVean at the expiration of the said three years or within three months thereafter return to England the said Government will provide him with a first class passage from Japan to England but should he not so return he shall not be entitled to such passage or to the value thereof. In witness whereof the said parties to these presents have hereunto set their hands the year and day first above written.

4-2. 大久保利通日記Ookubo's Diary

明治六(1873)年

十一月廿九日土曜

今朝九字参朝

種上臨御兼内務卿御直に拝命ス於 御前評議内地旅行ノ事魯西亜使節ノ

四字赤坂 皇居に内務卿拝命ノ御禮トシテ三条五字西行子人来山縣子進退ノ

十二月三日水曜

今朝中山子興倉子入来十字前参 朝内務省人選御評議有之ニ字退出三字河村子入来大原子入来今晩伊藤子官宅に尋

明治七(1874)年

正月四日日曜

三字ヨリ村田子新田子入来内務省ノ事示談イタシ候

正月七日水曜

今朝海江田子入来九時大隈子に訪参 朝内務省人選等ノ事凡決定イタシ候 二字退出千坂子宮島子入来松方子入来

正月八日木曜

村田子新田子入来小西行吉井子入来

正月廿七日火曜

朝二字内務省出席四字前測量司に出席御雇教師に面会帰邸西郷子大原子等入来

正月廿八日水曜

今朝土木助石井子入来十字前参 朝五字退出

二月七日土曜

今朝土木権頭石井氏七等出仕石井子村田大丞吉井中田池田子等入来

二月十日火曜

今朝村田子其他入来十字参 朝二字内務省ニ出席三字陸軍省に至ル

三月七日土曜

今日無事東京に報知取調等有之今朝河野大検事杉本など入来有之候今晩岩村子斗与囲碁 ※河野大検事は河野敏鎌

八月六日

今朝岩村子入来此日全件辨理大臣トシテ清国に発ス杉浦畠山与全行普魯西公使兼米国全国使臣マヤーに尋問両公使ニハ清国行ニ付暇

十一月廿六日

今朝風順不宜舟行少シク遅シ今晩十二字横浜港着

十二月九日

今朝伊地知子入来林子入来九字より

皇居に参昇清国随行官員一同然

御学問所謁見被 仰付清国談判ニ付一同太儀之段

勅語有之難有御禮奉申上候終る内待所参拝神酒弊物ヲ賜ル控所ニ退く綿三巻紅白縮緬四匹宮内省山岡ヨリ拝領被 仰付随員ニモ夫々賜リ候

十一字此退出税所吉原同車川村氏ニ参金星経過一覧イタシ候

十二月二十一日

今朝杉浦子櫻井子入来測量司地籍寒林等ノ事示談有之川瀬大丞入来

明治八(1875)年

五月十日

今朝奈良原子入来八字参 朝英国人某両人ヲートルース埋地一條ニ付談判

七月三日

今朝山縣子佐々木子入来吉原氏入来御前支那在留英公使

今夜一字此内務省出火ニテ参省新築本省ノ外悉ク焼失三字此鎮火此夜天気至テ平穏ニテ幸ニ本省ヲ無事ニスル「ヲ得タリ去ナカラ記録類焼失実ニ残念ノ至リナリ今日諸取片付ニテ徹夜

明治九年一月七日

今朝室田支入来十字訪西郷子参

4-3. Related Articles in English News Papers and Journals英字新聞と雑誌における記事

(1)

(2)

(3)

(4)

(5) The Japan Weekly Mail, July 10, 1875.内務省の焼失

   Shortly after midnight of tho 3rd inst., a fire broke out in the Naimusho and destroyed part of it and many adjacent buildings. Fears were entertained for the Okurasho, but it was saved together with the newer parts of the Naimusho. Many among tho firemen were wounded. Among other valuable records destroyed in the conflagration, the whole of the recent survey maps of the city and suburbs of Yedo, upon which the foreign staff of surveyors has been engaged for the past three or four years, has perished.

(6) The Japan Weekly Mail, September 4, 1875.内務省庁舎の再建

The Hochi Shimlnm states that two buildings in foreign style are to be constructed for the Okurasho at a cost of13,000 yen ; and a similar building will be oonstruoted for the Naimusho.

4-4. Related Articlesその他の資料

パリミエリ台長に対する大久保の感謝状(西本晃二「日伊交流史の一挿話」より)

マクヴェインはナポリ地震観測所長のパリミエリ氏に同氏が発明した地震観測機器購入を申し出て、それを快諾してくれたことに対して、内務大臣の大久保が礼状を出した。1876(明治9)年12月28日となっているが、機器は1874年6月にシャボーの来日と共に到着しており、また1876年3月にはマクヴェインは任期満了で帰国してしまっている。なぜ、納品後2年半も経ってからパリミエリ氏に礼状を出したのであろうか。考えられるのは、シャボーによる地震観測のデモンストレーションがうまくいき、その価値を内務省が認めたからなのか。

1868年7月からマクヴェインは日本に来ており、ヨーロッパにおける測量・各種観測機器開発状況については疎かった。それを補ってくれたのがイギリス海軍勤務のマックスウェルと同測量局勤務のシャボーであった。マクヴェインは1860年初頭彼らと一緒に働いていた。1871年10月にマクヴェインが測量師長に任用されると、シャボーに職員雇用と機器購入の協力を依頼した。シャボーは50歳になっていたが、日本行きを決心してくれた。1872年3月に手紙でマクヴェインはシャボーと工部省測量司をどのようなものにするか手紙で議論した。単なる測量地図作成機関ではなく、グリニッジ観測所やキュー観測所のような機能も担わせようとした。気象、天体、地震などの観測のためシャボーは機器をマクヴェインに紹介してくれた。天体観測はTroughton & Simms社、気象観測はCesela社、そして地震記録計はPalmieri Luizi発明のものを購入することにし、工部少輔の山尾の了解を得た。各社に機器発注したものの、実際それを見たことがなかったため、マクヴェインは山尾に一時帰国を申し出て、1873年4月から1年間帰国した。シャボーの水路測量局の辞職と明治政府の任用が手間取り、来日は2年も遅れ、その間に測量司は工部省から内務省に移管されてしまった。

V. Consideration考察

5-1. マクヴェインの大失望(added in Sept. 5, 2018)

マクヴェインの一時帰国は、公務が含まれていたため、8ヶ月間の公費出張となった。1873年12月には帰路につくはずだったが、所用のために4ヶ月イギリス滞在を延長することにした。そのことは山尾に手紙で知らせたので、山尾から測量司が内務省に移管されたと知らされていたと思われる。これは受け入れるしかなく、山尾という後ろ盾を失ってしまったが、大久保利通という新しい上司の下でも測量正の河野通信、他に村田と室田がいれば大丈夫であろうと信じていた。さらに、測量修技校第一期卒業生最優秀の小林八郎(小林一知ではない)がイギリス留学から数年後には戻ってくることになっていた。

河野(マクヴェイン「かわの」と呼んでいた)は1839年生れの長州藩出身で、山尾からの信望が篤く、そのお陰で測量正に任用されたのであろう。彼は当初の予定通り、1874年1月に復職すると、大久保の右腕となり征韓論者と対峙することになった。断片的な記録によれば、佐賀の乱の戦いで心身ともに疲弊し、その後病休、同年9月には内務省を辞職してしまったといわれる。1874年5月のマクヴェイン日記に器機購入の代金精算のためにたった1回河野と会ったことが述べられているだけである。

1874年5月、マクヴェインは横浜港に着き、翌日には測量司に復職した。イギリスから発送した荷物の受け取り、シャーボーの来日、ボアンヴィルとダイアーの結婚式などと忙しい中、6月15日、量地局の中でハーディが長期にわたって仕事に出てこないことについて問題視される。さらに、日本人技官の間に、外国人技官と量地課長(河野通信?村田文夫?)の不要論がでてくる。河野が健常であったなら量地局はもう少しうまく動いていたと思うが、彼を失ったことがどれほどマクヴェインを失望させたのか想像にかたくない。山尾にとっても大変残念なことであったろう。次第に御雇外国人排斥運動が力を増していく。

1879年、河野は健康を取り戻し明治政府に再出仕するが、内務省ではなく工部省の工部大学校であった。1877年に旧知の大鳥圭介を工部大学校校長に任用したように、河野の才能を惜しんだ山尾の配慮であったと考えられる。あまり表に出てこないが、山尾は明治政府の中で技術系官僚をうまく配置していた。

5-2. Situation of the Survey Office under the Home Office内務省測量司の状況

・山尾の工部省組織案によれば、各部署は日本人総務管理者(Administrating Manager)のもとで外国人技師長が執行(Executing Manager)するという体制を取っていた。発足の際に新たに加わった測量司では山尾庸三が管理代表に、C.A.マクヴェインが執行代表となった。マクヴェインが執行部門の外国人技官の採用は行い、よく知る鉄道寮お雇い外国人技師の中からジョイナーを召還した。この測量司には建築営繕の役割が付加されていた。ジョイナーの経歴を観ると、ジョン・ナッシュ設計の建物をもっぱら施工していたチャールズ・ニクソンの下で技術徒弟工を積み、その後鉄道建設に従事し、工学寮の工学校建設を急務としていたマクヴェインにとって理想的な人物であった。1872年2月初め、ライマー=ジョーンズRymer Jonesとジョージ・イートンGeorge Eaton(測量司修技校教師を主務)が、ついでウィルソンWilson、カートマンCartman、スティヴンスStevenが短期間加わり、さらに7月になりインドからハーディHardyとマッカーサーMcAuturが来日した。イートンは8月、ジョイナーは9月に富士山登山を行っている。

(1) 初期日本人職員:山尾は、最初は自ら測量司正を務め、その下に村田文夫と室田秀雄を配した。正の地位は、すぐに同郷の後輩である河野通信に任せた。村田文夫は芸州藩士で幕末にイギリスに密航し、帰国後、海外の新知識を日本に広めることを腐心していることから、本来、役所勤めは苦手だったのかもしれない。室田は静岡県からの推薦で工部省に出仕したが、経歴については不明。河野はちょっとひ弱な人物であったかもしれない。

(2) 日本人技官は順次採用していったようだが、不明。一年制の測量司修技校からの卒業生を採用し、育成しようとしていた。

(3) 前述したように、ジョイナーの気象観測建議は館の記憶でしかなく、実際はありえない話である。グリニッジ王立観測所に協力依頼の公文書をジョイナーが揃えるのを見て、館が勘違いしたのかもしれないし、あるいはジョイナーがちょっと法螺を吹いたのかもしれない。マクヴェインとジョイナーの仲は、日記を見る限り業務上も家族同士も最後まで良好であった。南米に行ったジョイナー夫妻から手紙を受け取っている。

(4) 1873年10月に、一時帰国したマクヴェインは、河野を交えてロンドンでジョイナーとバージェス(測量修技校教師)の雇用契約を行った。

(5) ジョイナーが気象観測に異常なほどの関心を持っていたと山本哲氏の論文にあり、マクヴェインが一時帰国するときにそのための器機購入のリストアップを行い、マクヴェインがカセラ社から一揃え購入し、1874年6年に横浜に到着すると大変喜んだ。

(6) マクヴェイン日記によると、測量、天体観測、気象観測の器機のほとんどは、1874年6月に横浜港に到着した。翌月にシャボーは地震観測器機と一部の気象観測器機を携えて来日した。

(7) ジョイナーが本当に1874年2月から6月に休暇をとっていたのなら、内務省測量司には技師長も技師長代理もいない異常な状態であったことになる。さらに、課長の河野もいないとなれば、マクヴェインが帰任したとき測量司が混乱状態になっていたというのは当然のことである。ジョイナーの休暇の理由は分からないが、自分の代理が職場を離れたことに対して、マクヴェインが憤慨したことはありえる。ただし、本来は1874年1月にはマクヴェインは帰任するはずだったから、ジョイナーを攻められない。

(8) 1874年5月末に測量及び気象観測器機が横浜港から内務省に運ばれたが、マクヴェインを師長と認めない日本人技官たちがいて、マクヴェインは自分の地位保証がないまま測量及び観測事業を指揮することはできなかった。測量司は本当に混乱していた。

5-3. 金星通過観測

・1874年12月、御殿山で金星観測が明治政府首脳を迎えて挙行される。これは少なくとも1年以上も前から準備しており、マクヴェインはイギリスに一時帰国していた1873年7月にソロートン・アンド・シムスT & S社に出向き、観測器機を注文し、また、ジェームス・シムスJamess Simsに観測手法の指南を受けていた。これはマクヴェインは山尾と相談し、明治政府首脳に測量や気象観測の必要性を説くために、この金星通過観測をデモンストレートしようとしていたと考えられる。観測の様子はJapan Weekly Mail誌に紹介され、また日本アジア協会誌で工部大学校教授のエアトンWilliam Ayrtonは金星通過の仕組みを丁寧に紹介している。<1874Venus Transit>を参照願う。

・マクヴェインは自分の身分保証がないまま、ジョン・フランシス・キャンベルが金星日面通過観測に来ることから否応なしにその準備を始めた。既往研究ではシャボーが指揮したとあるが、師長の認可なしに事業は進めることができないので、マクヴェインが指揮をし、シャボーが担当した。実は、御殿山には二箇所の観測所と一箇所の覗き小屋"Hut for Peep Show"が設営され、金星日面通過観測の指導はキャンベルが行った。彼は素人科学者ながら、金星日面通過観測をやるために日本にやってきており、周到な準備をしていた。キャンベルについては<McVean's Who's Who>を参照願う。

5-4. ハーディ事件と反御雇い運動(revised in July 14, 2019)

明治政府御雇外国人技術者はしかるべき機関や個人からの推薦のもとに任用され、その多くは自らの職務を真摯に果たした。しかるべき機関とは職能団体であり、しかるべき個人とはその職能団体の有資格会員ということで、19世紀西欧社会で技術者の職能が社会的に確立されていたことを意味する。しかし、助手レベルは人伝えの簡単な紹介で雇用され、素行と技能の怪しい者が入り込む余地はあった。

マクヴェインは測量司と営繕局(測量司の内部部局、非公式)の組織編成を任され、部下の外国人技術者たちの雇用は自分で行った。マクヴェインが最もあてにしたのは友人のコモス・イネスで、彼はインド植民地ボンベイ公共事業局技師長を務め、数十人の技術者を配下に置いていた。このハーディは、1872年にイネスから推薦されて最初にやってきた3人の測量士の一人であった。建築営繕に関しては親戚筋のグラスゴーの建築家キャンベル・ダグラスが、助手のボアンヴィルを日本に送ってくれた。よく知られているように、ボアンヴィルは工部省ですばらしい仕事をしてくれた。

1872年11月、ハーディは着任するとしばしば職場に現れず、日本人職員からも不評を買っていた。マクヴェインは、1872年12月、ハーディを呼び出し彼に注意をしつつ、彼の意見を聴取もした。その時は「サーベイは自分の仕事ではない。できれば別の部局に移りたい」と述べたので、マクヴェインは鉄道寮に移ったらどうかと返事をした。ハーディも山尾に面会し、同じことを申告した。1873年1月、マクヴェインは山尾と相談し、その線で進める事にした。1873年3月のイギリスへの一時帰国前にハーディのことを片づけたいと思っていた。

しかし、マクヴェインの留守中、ハーディの鉄道寮への配置換えはうまくいかなかった。ハーディは病気怪我を理由に職場放棄をしたままで、村田もジョイナーもまったく処置できなかった[以上、マクヴェイン日記]。また、二人のイギリス人測量士が大阪と京都の測量のために派遣され、そこで日本人技官とのいざこざが生じていたらしい[舘の記録]。さらに、内務卿であるはずの大久保が(実際は木戸を後任)「佐賀の乱」鎮圧にでかけ、内務省寮司に暗い影を落としていた。

マクヴェインは、帰国するとすぐにハーディと会い、契約に則って業務を遂行し素行を改めるよう求めたが、事態はそれでは収まらなかった。8月に地理寮量地課となり、マクヴェインは村田と相談しハーディに給金の返却と辞職を迫ったがまったく埒があかなかった。ハーディは当初雇用契約をたてに給金が支払われないことで裁判所に訴えると言いだし、マクヴェインは1874年10月から数回にわたって横浜で弁護士事務所を開いているネスに相談し、この裁判を地理寮は受けて立つ事になった。この裁判は11月25日に横浜の裁判所で公判が開かれ、その様子はハーディ対マクヴェイン(地理寮代理)と題して1874年暮れのJapan Weekly Mailに掲載された。参考人の陳述が長く、どのように結審したのか不明(館の「野史稿」では地理寮側が裁判に勝ったことになっている)。

1876年初めにマクヴェインが祖父や母に宛てた手紙で、日本では反御雇い党Anti Foreign Partyというものが力を増しており、私をまだ必要とする人たちもいるが、3年雇用契約終了で辞めて帰国することにしたとしたためている。大川が残した「測量局沿革草稿」の中の文書によれば、反御雇い運動を首謀したのは小林一知、三浦省吾、宮寄正謙、三浦清俊、の四名であったことが判明。彼らは箱館で戦った𦾔幕臣海軍技術者で、しばしの謹慎後、民部省土木司に出仕し、大蔵省土木司、ついで工部省土木寮、さらに大蔵省土木寮とたらい回しにされ、やっと内務省土木寮と地理寮量地課に落ち着いた。力量がありながら、明治維新直後に反明治政府の態度を取ったために、明治政府に出資しても冷遇されることになった。彼らは強烈に皇国の態度を示し、自らの立場を確保しようとした。彼らの矛先は高給取りの御雇い技術者と、村田のような薩長土肥の後ろ盾を持たない高官に向けられた。大川記録に見られる小林や三浦の檄文は誤謬ではなく悪意に満ちており、本当に残念である。マクヴェインに対する反感は、彼の高給取りは仕方ないとして、マクヴェインは建設技師である、全国三角測量に対して無知であるという根も葉もない記述には、戊辰戦争と箱館戦争から復権しようという旧幕臣技術者のしたたかさが目立つ。

※Cosmo Innes:マクヴェインとエジンバラ高校と土木事務所修業時代からの友人で、のちに、甥のW.Burtonバルトンが内務省の衛生技師として雇用された。

5-5. イギリス植民地政府雇いと日本政府雇いの違い

19世紀を通して、一機関として最大多数の土木技術者を雇用していたのはインド植民地政府公共事業局である。マドラス、ボンベイ、カルカッタの管区ごとに鉄道、運河、灌漑、道路などの業務のために数十名、全体で百名を超えていた。インド以外にオーストラリア、ニュージーランド、海峡植民地などでもそれぞれ多数の土木技術者が任用され、開発統治の仕事量に対して慢性的な土木技術者不足の問題を抱えていた。そして、1860年代、イギリス政府は実践的な土木技術者の育成に乗りだし、1872年にインド工学校を創設しなければならなかった。

19世紀半ばでイギリス本国の測量事業は下火になったが、植民地で測量の仕事はまだまだたくさんあった。インド植民地では測量事業はウイリアム・ラムトン(William Lambton)やジョージ・エベレスト(George Everest)によって大々的に推し進められていたし、また階級社会のインドにあっては測量士は上級官吏の扱いを受け、何人もの補助を従えて業務を行った。イギリス人技術者にとって、植民地での測量事業は魅力的な仕事であったはずである。私が知っている1970年代末のマレイシア公共事業局PWDでは、測量師たちは白手袋をして、補助が持つ日傘の下でセオドライトを覗いていた。さらに補助たちは百本連なった1ヤード・チェーンを持ち運び、それを水平直線に張り渡すことをしなければならず、彼らの力無しには測量は行えなかった。現地人教育用の学校が開かれたが、そこでの教育だけでは公共事業局技師になる道は非常に狭かった。

翻って、明治初期政府では最小限の御雇外国人に指導を仰ぎながら、火急速やかに日本人技術者に引き継ぐはずだった。それを承知で多くの外国人が明治政府の雇用になったと思うが、植民地公共事業局で長らく働いてきた者にはそれが難しかったであろう。特にインド植民地からやってきた者は機材の運搬やセットアップは助手がやり、こまごまとした雑務を担う使用人がおり、彼らに測器を覗いて数値を野帳に付けるだけでよかった。ハーディ事件や外国人技師との軋轢が起きたのではなかったのか。

5-5. 地理寮量地課と外国人排斥運動

(1) マクヴェインの地位保全の質疑書

(2) 小林一知と三浦省吾の意見書

(3) 気象部門の創設

※きちんと気象部門を地理寮内に位置づけ、専任を置いたのは、1875年5月にチャレンジャー号トムソン探検隊長とティザード副艦長が内務省を訪問してからのことであろう。ティザードはスコットランド気象協会と測量司の協力協定を履行するために、日本の気象観測の報告書を作成した。

(4) 外国人雇用の見直し

太政類典明治8年2月19日内務省雇外国人明細簿ヲ編製ス

内務省伺

7年6月

ファンドールン38歳、土木寮長工師、明治5年2月16日より8年3月13日まで、一ヶ月500円

テアエスヘル31歳、土木寮工師、明治6年9月25日より9年9月24日まで、一ヶ月450円

アイリントウ26歳、土木寮工師、明治5年2月6日より8年3月13日まで、一ヶ月400円

アハテアチッセン30歳、土木寮工師大坂、明治6年11月15日より9年11月14日まで、一ヶ月350円

イテレイケ32歳、土木寮工師大坂、明治6年9月25日より9年9月24日まで、一ヶ月300円

テアルンスト31歳、土木寮工手、明治6年9月25日より8年9月24日まで、一ヶ月100円

ウエスロルウイール34歳、工手、明治6年11月15日より8年11月14日まで、一ヶ月100円

御雇外国人明治7年7月より12月まで支給高調

マクヴェイン36歳 明治6年9月14日より9年9月13日まで、測量師長36歳 一ヶ月7年9月14日より金450円 金50円増

ジョイナー35歳 明治7年7月1日より10年6月31日まで、副エンジニール測量師気象課専務一ヶ月 350円

ハーディー34歳 明治5年5月7日より8年6月11日まで、測量助役一ヶ月350円

マッカサー34歳 明治5年5月15日より8年6月19日まで、測量助役一ヶ月300ドル

ウィルソン25歳、明治6年1月1日より8年12月31日まで、測量助役一ヶ月150円

クレソン34歳、明治5年9月2日より8年10月21日まで、測量助役一ヶ月300ドル

チースメン34歳、明治5年10月8日より8年11月7日まで、測量助役一ヶ月250円

スチュワート24歳、明治5年11月28日より9年1月15日まで、測量助役一ヶ月230ドル

アンダーソン32歳、明治7年5月18日より8年5月17日まで、医師一ヶ月53円海軍御雇い

シャボー52歳、明治6年11月1日より9年10月31日まで、一ヶ月7年11月より350円

シンプソン、明治7年7月23日より8年7月22日まで、測量師長附書記役一ヶ月7年7月23日より150円

(5) 1875年7月の内務省焼失

(6) マクヴェインの大久保に対する意見書

・チースマンとスチュワートとクラセンの解雇の直前に、大久保宛に発信した。

(7) シャボーの行動

(8) 御雇い外国人の取り扱い

・チースマン、クラセン、スチュワートは3年の任期満期と共に退職。

・ジョイナーは1871年11月(M4年10月)に鉄道寮雇いとなり、2年契約なので1873年11月満期。マクヴェインが1873年3月にイギリスへ公務帰国する際に、ジョイナーを測量師長代理とすることを山尾に確認したので月雇いとなった。1874年5月にマクヴェインが帰任すると、ジョイナーを3年契約で再雇用した。すると任期は1877年6月までとなる[資料お雇外国人の記録とも合致]。反旧工部省測量司御雇い運動の中で、気象担当となることで解雇を免れた。

・マクヴェインは1871年8月から1873年9月までの2年契約、1873年3月の公務イギリス一時帰国直前に、同年10月から3年契約の更新を行ったので、1876年9月までとなる。『資料お雇い外国人』では1873年9月から3ヶ年契約、1876年4月28日解雇となっており、半年残しての早期満期退職となった。契約満期前に解雇すると、明治政府側は残りの勤務月数の月給を支給することになり、マクヴェインはその金額を受け取った。実際は、1876年1月半ばには内務省地理寮に出勤することはなく、帰国準備をしていた。

・シャボーは1873年11月から3年契約なので1876年10月満期。1875年から1876年の反御雇い運動騒動(西南戦争に備え緊縮財政)には巻き込まれなかったのは、やはりマクヴェインがいうようにシャボー旧幕臣技術者にうまく取り入ったからなのだろうか。(revised in September 5, 2019)

5-6. 購入した測量及び各種観測器機

(1) 測量器機

品名と数量はまったわからないが、トロートン&シムス社から10セット位の測量器機などがあったと思われる。

・気象観測器機

カセラ社から数セット購入したと思われる。

・天体観測器機

これについては、金星日面通過観測に使ったものが分かっている。トロートン&シムス社製

・1874年5月24日に横浜港に到着し、マクヴェインとジョイナーは5日間かけて荷解きした。旧工部省測量司の事務所に運んだと思われるが、大量の新品の器機の使用についてはすぐには始まらなかった。理由は簡単で、工部省測量司の購入品であり、また測量師長としてのマクヴェインの立場があやふやであったことによる。測量師長という地位を保証してもらえれば、自らの責任でマクヴェインは使用を開始する事が出来た。気象観測と天体観測の器機は、地理寮量地課にとっては業務範囲以外であり、ずっと眠ったままであった。

VI. 御雇い外国人としての評価

(1) 工部省と内務省における測量

・1876年9月13日が任期満期のはずなのに、半年を残して早期退職となった。これはマクヴェイン自らの希望であり、配下のチースマン、クラッセン、スチュワートの任期延長が認められない以上、彼らを日本に招いた自分だけが残るわけにはいかないということだった。不思議なのは、内務卿大久保から1876年1月23日付けで感謝状が贈られていることである。本来は3月12日が早期退職日だったのが、40日も早く感謝状が贈られているということは、この日から量地課で勤務する必要は無いということを意味している。大久保は、初期の測量司は建築営繕を兼務し、工学寮工学校校舎の設計、銀座築地の再開発計画などのことは知らなかった。少なくとも、マクヴェインがいなかったら工部田大学校はあのような校舎にはなっていなかった。

(2) 御雇い外国人全体として

・FROM THE SPECIAL CORRESPONDENT OF THE ALTA

YOKOHAMA, April 10th, 1876. - I send forward this small budget of news by the Belgic, which leaves to-morrow morning (April 11th) at daylight, a day later than advertised, owing to having encountered a strong contrary monsoon on her way hither from Hongkong, which caused her to make her passage longer by a day than was expected. However as she may look for good weather at this season in the Pacific, the company and her officers are looking forward to a quick passage to San Francisco.

The Gaelic, which left your port on the 16th of March, arrived here on the 5th instant, after a passage of 18 days, 17 hours and 20 minutes running time, which, as she experienced variable winds, is not bad.

FOREIGN OFFICERS LEAVING

The Japanese Government is losing some of its best foreign servants, and, much as it abuses them occasionally, its foreign servants have been its best friends hitherto. To them the country owes the moral and material progress in great measure, if not in whole, which she has made in late years. Among your visitors by this steamer is Lieutenant Murray Simpson Day, U. S. N., who for some time served the Kaitakushi (Colonization Department), with credit to himself and profit to his employers. As his services were only lent by his own Government to that of Japan, and as the leave granted him by the former has now expired he returns to the service of his own country. A distinguished English engineer, Colin A. McVean, formerly Chief Surveyor of the Home Department, whose contract with the Government expired last year, also leaves Japan by the Belgic, en route for Europe. Certainly this Government has had some charlatans and mere adventurers, who had no quality save their “brass” to recommend them, among their foreign assistants and advisers ; but I am happy to say that these two gentlemen do not come within that category. They have done good work, and they leave many friends, both foreign and native, whose good wishes will accompany them in their future careers.

参考資料

ハーディ事件

(1) Japan Weekly Mail, Monday 15th December 1874.

In the Shiho Saibansho of Tokei, Monday 15th December 1874. Hardy Vs. McVean (Agent for Japanese Government)

--This was a case tried in the Japanese Court to recover the sum of $3,202 for alleged illegal dismissal, and a further sum of $8,000 for lose of time and reputation entailed by such dismissal.

--Mr Montagne Kirkwood appeared for the plaintiff, and Mr G.F. Nees for the nominal defendant, the real defendant being the Survey Department of the Government of Tokei. Mr Hill watched the case as legal adviser to the Government. In order to prevent erroneous interpretation, which has been complained of on there occasions, Mr Motz was specially retained to assist Me Masuda, the Court interpreter, and Mr W.P. Kent engaged as shorthand writer to the Court.--The whole of the day was occupied in the examination of the plaintiff, from which it appeared that Mr Hardy, after twelve years service in India, was engaged at Bombay, in May 1872, by Mr. Cosmo Innes, on behalf of Mr. C.A. McVean, as a throughly qualified assistant in the Survey Department, and at the most highly paid rate of three gentlemen selected. He arrived here in July, 1872, and entered on this duties after some two or three months.

--Mr. McVean told him that the Minister of Works thought his salary higher than the Department could afford, and wished him to be transferred to the Railway, but it was optional with Mr. Hardy whether he should be so transferred or not. He preferred to remain the Survey Department. Quarters were assigned to him at No. 10, Yamato Yashiki, which he considered were not in accordance with either the spirit of wording of his agreement the house being small, and though similar to such as all the Bachalor in the compound had, not so large as those appropriated to married men engaged at the lower rate of pay. Since his arrival in Japan he had been ill frequently and attributed this in some measure to the defective condition of this house, and though he repeatedly complained, his condition was not bettered, nor were certain sanitary requisitions complied with. On the 15th July, 1874, he was attacked with neurlgia in the foot. Dr. Anderson visited him to apply, and certified to the Department that plaintiff was suffering from illness, which required “one day’s rest.” He remained in bed until the 20th when being in great pain from the blister he cut it open and sent again for Dr. Anderson, who then came. Plaintiff had been unable to move from bed, and had his leg bound up. He had received a letter from Mr. McVean. Plaintiff asked “Is McVean a Doctor?” to which he other replied “no, he is not, but he’s your master as well as mine and I must get his consent first.” Dr. Anderson seemed to look flurried and put out, and went always to Mr. McVean’s house, subsequently writing to plaintiff to say “It is the duty of a physician only to certify to those disease the existence of which he is able to detect by “bodily of constitutional signs,” thus leading the inference that the considered plaintiff had nothing the matter with him. Plaintiff with the help of his servant limped next day to the office, at 7 o'clock but about ten or eleven, being affected with diarrhom, wrote Mr. McVean for permission to return home, his wounded foot disabling him from making use of the Japanese closcal accommodation (?) which was alone provided. Mr McVean was out, and taking permission for granted, plaintiff went home, first writing to say he had done so, and begging that certain moderate requirements might be supplied.

--Next day he went to work, when Mr. McVean gave him a letter siting that “ his recent improper absence from duty had again given “ Mr. McVeaen cause to complain of his misconduct and evil example, “ so that ln- had reluctantly to discharge him front further service to " the Japanese Government."

--Mr Marks then wrote threatening proceedings.

In cross-examination by Mr. Ness, plaintiff said he had remained in the house till August 29th. It had been improved privately. He also had to prepare for is sale, and besides that Mr Marks advised him not quit it till he was ordered out. He knew that any breach of contract rendered him liable to discharge, there was nothing in about the Government supplying a doctor to attend him or to give certificates in case of illness. He was bound to forward a certificate if absent | but it had been the custom for the Government medical officer to do so. Had not on all occasions furnished medical certificates when absent from office, because he had leave.

--The official diary was produced showing that plaintiff had been absent on several occasions, which he had entered in the diary, and just cause of which defendants’ counsel stated no certificates had been furnished.

--Plaintiff alleged that for these absences he had a special permission, being authorized by Mr. Joyner to go to Yokohama whenever important business called him thither, without authority for each particular absence, in the event of the head of the Department not being on the spot. to verbally sanction his absence. On one occasion he had been absent, and because he did not know who was Dr. Wheeler's successor, wrote the Department to that effect.

--The Court here adjourned.

--Thursday, 17th December, 1874.

--The hearing of this case was continued, plaintiff's cross-examination being resumed by Mr. Ness.

Plaintiff‘ was serious when he declared that his foot had laid him up for three days. He kept the blister on his foot unbroken till the doctor came, being unwilling to cut it lest he should do himself an injury, but at length did so. When he went to the office on the 2lst July he did nothing, but sat on a chair with his foot on a stock and perhaps fanned himself. Mr McVean had complained to him that the Japanese were annoyed at his continual absences, and “disgusted" with the length of time he had been over his work. Could not say what the word “ again " in the letter of dismissal referred to.

--Defendant did not complain of his insolence, but said witness‘ letters to Mr. Joyner were not such as should be addressed to his superior officer. Could not say if he was told that a repetition of such conduct would insure his dismissal. He never applied to Mr. Yamao stating that, as he was not next to Mr. McVean, he would wish to join the railway. He wrote on the 12th April, I873, a letter claiming his expenses from Secunderabad to Bombay, as promised by Mr. Cosmo limes, and demanding payment of one day's salary

deducted in December 1872 because the Japanese thought they had paid him too much in the previous June. On the 17th June he wrote asking if Government intended or not to build him a house if not he should seek proper accommodation and charge the Department with the cost; on the 23rd, that he had arranged to take a house on lease to the end of his engagement at $lO0 a month and should remove thither in a week unless Government built him a house according to his own plans and in a suitable situation; on

the 2nd July that he required the deducted pay to be " settled up sharp" ; on the 7th asking the reasons of the Minister of Works for refusing to lot him live elsewhere than in his allotted quarters, whether he liked them or not, "as if he were a serf, or something very like it;" further, that he desired all communications to be in writing, so as that they might, if necessary, be produced in evidence, and that having perused copies of his previous letters, he failed to find aught disrespectful in them, except perhaps where he had addressed official letters to Mr. Joyner more as a private individual than an official ; but in this he had taken his cue from Mr. Joyner.

--Mr. Joyner told him the Minister of Works had complained of him. On the l0th July he wrote saying he did not wish to lay down rules for the guidance of the Department, would willingly answer in writing any questions and begged thnt his correspondence should be laid before the Minister. A letter to the like effect followed on the 21st ; on the 23rd another saying he did not wish to dictate to his “ superior officers," but refused to answer any question except in writing, as it was quite within the range of possibility and probability it might be conveyed to the Minister's mind, and he wished for only 0ne. the truth. He quoted the words “ superior officers" because they were in Mr Joyner's letter to him, not because he meant to imply that he did not acknowledge them as such. On the 22nd October, he applied for leave of' absence offering to make up the time the next week, "though with liberal employers this is neither required “nor expected." On the 5th February ho announced that he had cold and rheumatism, with threatenings of ague, through having to keep open the doors and windows of his house (owing to defective chimneys). Perhaps this would show the Government the necessity of providing him with proper quarters. On the 20th April ho complained the whitewashers had only instruction to whitewash the cornices of his rooms but not the centre pieces,• and "would not allow" them " to plaster the fireplace with coal•tar, which made the " house stink like a shipbuilder's yard."

--All these letter he considered perfectly respectful in tone. Tie had not written nor communicated to any person for the purpose of publication in any newspaper, complaints of the state of his lodging; but had naturally complained to at great many people. He asked for $8,000 damages besides the $3,202 specifically claimed. The amount was not named in the plaint because he had been advised by Mr. Marks that it was recoverable under the "further relief" clause. It was not left out because it was too ridiculous. It was a rent and not a sentimental claim. Could not explain how he measured the injury to his feelings ; but assessed logs of character and time at, ithat amount. Would not be surprised to find that -- from July 8th 1872 to June 30th, 1873, he only worked 174 days, and was off work 168, nor that from the latter date to June 30th, 1874, his had only worked 204 and been absent 181. Received a higher salary than others those name were shown, but from the table produced had worked fewer hours.

(2) The Japan Weekly Mail, May 1, 1875. SHIHOSIIO SAIBANSHO, YKDO. 21th April, 187S.

J T. Hardy vs. The Japanese Government.

Mr. Montague Kiikwood appeared for Iho plaintiff. The Government was represented by Mr. G P. Ness.

The claim in first instance was for $3,20?, lo wliich n further claim of $8,000 for damages was added, making altogether $11,202. The following judgment was delivered :

1st. Tho proofs brought forward by both parlies have been carefully weighed, and must be summed upas follows: —The plaintiff's own statement and the diary of Ihe Survey Department show that from the lime of his engagement up to the lime of his disnissa! plaintiff' has Very frequently absented himself, neither producing medical certificates nor gelling the (bo necessary permission from his chief; also that he went to Yokohama, thus wilfully neglecting his work j lb .t he made seve-nl imp oper entries about the latrines lheofllei.il diary j lhal on Ihe 13th June, 1871, McVeun coin, plained of plaintiff's insufficiency of work, as well as of the tone of " his correspondence ;— besides many other statements have. been' made by both parlies, but ns they were not supported by any proofs, they h vo not been taken into consideration.

2nd. Il has been alleged hy plaintiff that the defendant lias not , dismissed him in accordance wiib a certain clause of the- contract. . Art. XV. of Iho contract does stipulate that three months' notice \* to be ginen ; hut this clause docs not hold good when the employ e breaks his contract, and euli cly depends on the employer's, e, nrcnience | and Ihe article in question clearly, says I hat ;,tho employer is not bound in such a case to give his motives.. The. ibove allegation cannot, 'therefore, he admitted. ; ,-.

3rd. A careful perusal of all the clauses of the contract. shows lhal Art. V asks for mo. licitl c r,t jff ntes in oase of sickness ; that  Art. VIII. entitles the employer to dismiss Ihe employe, an I cancel Ihe contract in case ,-f in scouduct, drunkenness, or breach of any

of Ihe clauses of the conduct. Further, it is said in A t. XIII.. that in case.uf insubordination, drunkenness, misconduct, .qr breach, of, any of t lie clauses of Ihe poiitiNU-r,. the employe is liable to pay;, ajso, a certai i amount of damages. Moreover, Art. XIV. stipulates that in case of absence, with, ut leave or u.edical cerlifleate, o fine of.S'lO. per day shall bo paid. Now, nu infraction. of any of the. ahovcmeiilioue.

il four .articles is. lo be considered ns a breach of contract j and whereas it appears from No 2 (of the judgment) that .plaintiff has been .guilty- i f some. infractions, the ''drfeuchtnt had tt.rjght, in virtue of Arts V ,.VJ.I1,.XI H and XIV , not only to "d.isniiss.hjtn,

but also to hold him liable for daiua-es. '. . „■ •■ lib. On ihe a,hov.e grounds it t< decided that , plaintiff js. not.. '•

entitled, lo receive any . salary since lij> difnU nl* or any d.urua,ges from defendiinl. . . - . » -t

SHIHOillO SAIBANJHQ,.-

2l"ih .April, 1875.