撮影日:昭和 53 年(1978 年)2 月 1 日
後列:左から、大沢文夫(名古屋大学・教授)、林正男(筑波大学・講師)、石坂昭三 (筑波大学・教授)、内藤豊(筑波大学・教授)
前列:佐治健治郎(国立公害研究所・技術部長)
場所:国立公害研究所(現・国立環境研究所)
【名古屋大学時代】
前置が長いんです。
昭和44 年(1969 年)、私(林 正男)は名古屋大学・理・分子生物の大沢文夫(2019 年 3 月 4 日没)・研究室に大学院生として入りました。大沢研究室は、大沢牧場と呼ばれ、自 由に草原を駆け巡る馬のように、多数の大学院生が勝手気ままに研究していました。
分子生物では、教授を含め全員、お互いに「さん」またはニックネームで呼ぶ文化でした ので、大沢教授をここでは大沢さんと呼びます。大沢さんは、元々、物理学の出身で、日 本の生物物理学を作った人です。大沢研究室の大目標は「生体運動の分子メカニズム」の 解明でした。
大沢さんは、筋肉のアクチンの研究で大きな成果を挙げました。物理学の発想とその流れ で、すべての生体運動の原理は 1つで、筋肉運動の分子メカニズムからすべての生体運動 が説明できるという仮説を立てていたんです。バクテリアの鞭毛運動から植物の原形質流動まで同じ原理だと主張したかったのです。それで、生体運動の端から端まで研究していました。唯一未着手なのが繊毛・鞭毛運動でした。
そして、大学院生として研究室に入った私(林)に、繊毛・鞭毛運動のメカニズム解明という研究テーマが与えられたのです。しかし、私(林)は繊毛・鞭毛など扱ったことはありません。大沢研究室でこの研究をしていた先輩は誰もいません。そして、大沢牧場ですから、「ああしろ・こうしろ」が一切ありませんでした。
自由と言えば聞こえはいいんですが、完全な放任で、何をしてもいい。イヤ、教員側に、 「ああしろ・こうしろ」と言える知識とスキルがなかったのが実態です。私(林)は、自分の人生で初めて、大学院生になったので、「大学院の研究とはこういうものか」と思っていました。大きな不満はありませんでした。
大きな不満がなかったどころか、大学院はとても充実していました。同級生とのセミナー は刺激的だったし、先輩や教員との研究の議論は私(林)の頭脳を圧倒してくれました。 何人かは度肝を抜くような発想をし、私(林)の人生は冒険に充ちていました。周囲の人たちは、みな、自分より賢く、聡明に思えました。
それで、出来の悪い私(林)は、ひたすら実験をしました。夜中に研究室でインスタントラーメンをすすり、徹夜で実験をしました。大晦日は除夜の鐘を聞きながら実験をしました。電子顕微鏡で観察し、日本に数台しかない分析用超遠心機を愛知がんセンターで使わせてもらい、酵素活性を測定したりしていました。とても充実していましたが、そうです、大学院生の私(林)は方向が定まらず迷走していました。
根本的に、マズイと思っていました。このままでは将来一流の研究者になれない。
当時、名古屋大学・理・分子生物は生物が外界に対する反応を分子レベルで研究する「感 応」部門を新設する動きがありました。
前置が長くなりましたが、ここで内藤豊さんが登場します。内藤豊さんは以下の論文で、 ゾウリムシの「感応」を報告し、私(林)は、その美しさに感動していました。
Naitoh, Y. and Kaneko, H. Reactivated Triton-extracted models of Paramecium: Modification of ciliary movement by calcium ions. Science, 176, 523-524. (1972)
それで、アメリカにいる内藤さんを教授に呼ぼうと大学院生の私(林)が提案したのです。今思うに、大学院生が教授の人事に口を出すという、トンデモナイことをしたのです。た だ、当時の分子生物は、そういうトンデモナイ大学院生を咎(とが)めることもなく、真面目に取り合ってくれました。そして、大沢さんが米国滞在中の内藤さんに打診したのです。結局、断られたのですが。
ということで、私(林)は内藤さんの研究をよく知っていました。そして、自分の研究の方向がつかめず、心底悩んでいました。
それで、年月ははっきり覚えていませんが、多分、昭和 48 年(1973 年)頃、日本に帰国 していた内藤さんに会いに、東大・本郷の動物の内藤研究室を訪問しました。名古屋から 東京に会いに行ったのです。内藤さんにお会いしたのは、この時が初めてです。
実験室を訪ねると、電気生理装置の向こうから、「チョッと待て」と言われ、しばらく待っていました。そして、自分の研究の方向がつかめないことを相談しました。
その時受けた内藤さんのアドバイスが自分の研究人生の転機になって、その後、研究は大きく発展した。となればハッピーですが、人生はそう簡単ではありません。
つまり、その後も、方向がつかめず、研究は迷走しました。
長い前置なのに、オチがパッとしなくて、スミマセン。
話はここで終わりません。
【筑波大学時代】
名古屋大学で博士号を取得した 2 年後の昭和 51 年 3 月(1976 年 3 月)、私(林)は筑波 大学・生物科学系の講師に就任しました。繊毛運動のことで、大学院生時代に渡辺良雄教 授(2013 年 10 月没)と研究上のつながりがあり、議論したり試料をいただいたりしていました。その関係で、筑波大学・渡辺良雄教授が講師に呼んでくれたのです。
その時、既に内藤先生は筑波大学・教授に就任していました。お会いした時、「林君は数 年前、僕の研究室を訪ねてきてくれたね」と嬉しそうに寄ってきました。
話が長くなるので筑波大学時代をまたの機会に書くとして(またはもうない?)まとめ ると、私(林)は、昭和51年3月(1976年3月)-昭和60年8月(1985年8月)の9 年半、筑波大学・講師に在籍していました。昼は毎日、生物科学系のラウンジに、内藤先生、石坂昭三・教授(生物物理)、關 文威・助教授(環境微生物学)、岡田益吉・助教授(動物発生学)、私(林)の 5 人が集まり、 ワイワイと一緒に昼食をとりました。
内藤研究室にしばしば遊びに行きました。当時、内藤研究室の高橋三保子・助教授、鬼丸洋さん、大学院生は呼び捨てでスミマセンが、浜崎俊一(故人)、原律夫、岩月健司、塩野、鵜川義弘、杉野一行などがいました。
筑波の内藤先生のご自宅でのパーティにも呼ばれ、妻と 2 人で伺ったこともありました。 かなり雑多のお客さんがいましたね。
内藤豊先生 いろいろ、ありがとうございました。 2020 年 6 月 20 日
林 正男(白楽ロックビル)(73歳)
prof.dr.hayashi@gmail.com
お茶の水女子大学・名誉教授
2020--6-20