筑波大内藤研黎明期
鬼丸 洋
私が初めて内藤先生の名前を知ったのは,愛媛大学の3年(1973 頃)の時に,澤田先生(当 時愛媛大学教養部生物学教授で動物生理学などが専門)からセミナーで紹介する論文を進 められた時である.論文は Ionic Control of the Reversal Response of Cilia in Paramecium caudatum : A calcium hypothesis, Yutaka Naitoh. J Gen Physiol. 1968 Jan 1; 51(1): 85– 103 で,ゾウリムシのイオン刺激に対する繊毛逆転反応の持続時間を解析したものであり, 美しい実験式が導かれていた.この論文にすっかり魅せられ,卒業論文では繊毛逆転反応に 対する代謝阻害剤(カルシウムイオンの排出に関わる)の影響を調べる研究を行ったと記憶 している.その内藤先生がアメリカから日本に帰国され,筑波大に赴任された(1975 年?) という話を聞き,1975 年に実際に内藤先生に会いに筑波に行き,1976 年に筑波に移住し た.そういう意味で,私は内藤先生の日本(筑波)での最初の弟子になるのではないかと思 う.それから,1982 年に昭和大学に移るまでの間,筑波大の内藤研で過ごさせてもらった. 言わば,内藤研の始まりを知っている人間の一人であり,当時のことを詳しく述べられる立 場にあるわけであるが,何しろ 40 年以上前のことで,記憶は霞ケ浦のかなたにある.1975 年当時,内藤先生のオフィスは今の南地区の体育芸術学系棟あたりにあり,部屋の中には大 きな製図台(論文などの図を作成するためのもの)があった.1976 年に筑波に移ったとき には研究室は中地区の自然系学系棟にあり,しばらくして現在の生物農林学系棟に引っ越 した.そのころには,内藤研のメンバーも徐々に増えて,非常に個性的な面々がそろってい た(たとえば,岩月君,鵜川君,塩野さん,原さん,浜崎君,杉野君など).
内藤研にいたのは,6 年ほどであったが,この間にその後の長い研究生活の基本となる多大 な影響を受けた.いくつかを以下にあげると,1)できるものはなんでも自分で作る:たと えばアンプなどの機器は市販されているものよりも作ったほうが性能が良いとか,2)重箱 の隅をつつくような研究はしない(内藤先生の口癖),3)P-P effects,4)徹底して自分 で考え,試行錯誤に時間をかける,5)徹底した論理性の追求 等々.基本としては,自分 の道は自分で切り開くという自由,自主性が最も重んじられた.3)の P-P effects は,い わゆる E-E effects(当時の分子生物学の隆盛で大腸菌でわかったことは象でも成り立つと いうたとえ)をもじって,ゾウリムシ(Paramecium)でわかったことはネコでも成り立つと のたとえで,P はネコ以外の意味もあるということで,一種のジョークでもある.しかし, 研究における真実も言い表している.ある実験系で明らかになったことをその特殊性に限 るのではなく,一般性を考えることが重要であるとの解釈である.
内藤先生とのエピソードをいくつか紹介したい.内藤先生は常々自分はナチュラリストで あると言っておられた.昆虫とくにチョウが好きで,一緒にチョウを取りにどこかの藪に入 って,散々何かの虫に刺されたこともあった.また,秋葉原に部品を買いに連れて行っても らい,初めて吉野家で牛丼というものを食べたことも楽しい思い出である.当時,先生はパイプ(タバコ)を吸われ,その様子がかっこ良くて,その影響で私も吸うようになり,色々 な銘柄(中でもバルカンソブラニーはお気に入りだった)を教えて頂いた.その後,禁煙さ れたと思うが,私も子供が生まれたのを機に禁煙した.内藤先生に出会い,学んだことは, その後,医学部に移って,全く異なる環境(医学部のある種難しい人間関係も含めて)で研 究をすることになっても,常に心の支えとなってきた.自分もそろそろ引退の時期であるが, そのことについても,内藤先生の引退後の生活をお手本にしたいと思っている.昨年夏に, 足が 8 本あるチョウ(奈良大仏殿にある)の写真を残暑見舞いに送ったのが,その感想を聞 けなかったのは,心残り.
1982 年 6 月頃.長男が生まれた時に自宅(並木住宅)まで奥様と一緒に来ていただいた時 の写真.
2020-06-21