内藤 先生の思い出
1990年代前半の筑波大6階のセミナー室では,内藤先生が[内藤先生の取り扱い初心者]に「きわめて」真面目な顔で,「あれはねぇ,中学の時の数学の教科書の35ページの上から4行目に書いてあったのだけども。」なんて嘯いていると,伊藤希さんが「内藤さん,間違っているよ」と,まるでホラ吹きだと言わんばかりに言い放ち,負けじと内藤先生が「のぞみ,じゃあ松乃屋の“うな重”賭けるか?」なんて掛け合いがしばしば見られました。[初心者]は唖然とし,[熟練者]はニヤニヤするなか,内藤先生は掛け合いを楽しむようにニコニコしておられ,本当に古き良き時代の大学を思わせる光景でした。
また,内藤先生は物作りがお好きだったので,エレベーター前の工作スペースで作業していると,「また怪しいもの作ってますね」,「ちょっと貸してごらん」と楽しそうに“ちょっかい”を出されては,有益なコツも怪しげな技も伝授して下さいました。(お話に調子が乗ってくると,最後はサイエンスの表紙を撮影するために作ったキセノンランプの装置を見せられるというパターンで,さすがに3度目以降は おー!とは言い難かったですが)
その頃の学生は「内藤先生の話は用心して聞け」と心に命じていたと思います。そもそも内藤先生のお話は90%以上がジョークで,肝心な部分をはぐらかしているため,一緒になって笑っていると,時々でてくる本質的な一言を聞き逃します。聞き手としては大変でしたが,玉石混交から玉を拾い出す力を鍛えてくれていたのかも??しれないです。また,内藤先生のジョークはいつもユーモアに溢れていましたが,決して他人を「けなし、貶める」ようなエスプリではなかったので,深い人間愛も教えてくれていたのかも??しれないです。
ハワイから帰国された後,2009年からしばらくの間,山口県,香川県で研究を御一緒させて頂いたのですが,この頃の内藤先生は筑波大時代よりもずっとお元気で,角膜移植によって視力を回復したこともあり,階段を駆け上ったり,駆け下りたりと,見ていてハラハラするくらい活動的でした。おかげで人生2度目という居酒屋にも同席できましたし,時には学生を交えながら,度々ビールと内藤節に酔いしれさせて頂きました。その後,内藤先生の修飾語が「呑気泡亭 Naitoh-sensei」から,「脳天気」,「脳天気すぎる」,「希望亭」,修飾語なしのNaito-senseと変遷し,ナイトセンセに落ち着いた頃にようやく研究がまとまり,論文をブラッシュアップするために手術の直前まで丁寧なコメント,アドバイスを送り続けて下さいました。内藤先生はアクセプトされる前に旅立たれましたが,最後にお世話をして下さった論文も,ちゃんとゾウリムシの行動反応でした。
Roles of Adenylate Cyclases in Ciliary Responses of Paramecium to Mechanical Stimulation.
Kawano K., Tominaga T., Ishida M. and Hori M.
内藤先生は「きわめて」という単語をよく使われていましたが,本当の意味で「極めた」人が内藤先生だったのだと今更ながらしみじみ感じています。こんな拙文では内藤先生に笑われそうですが,最後に内藤先生へ心からの尊敬と感謝の意を込めて,呑気泡亭 ナイトセンセ ありがとうございました。
2020-05-22