風評被害の風評(20mSv/年制限を考える)

投稿日: May 03, 2011 2:58:24 AM

様々なことが一気に起こっています。いつのまにか「風評被害」自体が「風評」の対象になってしまったのではないでしょうか?

原子力災害の被害地では一般公衆向け線量限度(自然放射線、医療被曝等を除く)を20mSv/yrに改める(通常は1mSv/yr)、という決定を巡って、混乱が続いています。小佐古先生は、空本衆議院議員(小佐古先生と同じ東大原子力放射線計測分野の出身)を通じて、総理に提言を行ってきていましたが、班目先生(同じく東大原子力熱工学、流体工学分野の教授から原子力安全委員会へ)と意見の相違があったようです。

当時原子力工学専攻では私の所属していた研究室(原子炉工学研究室)の隣が放射線計測研究室で小佐古先生や空本議員が、また向いの研究室は原子炉熱工学研究室で、班目先生の学生さんが机を並べ、夜遅くまで研究をしていました。そういう立場の者として、少し今回の出来事を、今の専門である社会情報学の立場から考えてみましょう。

この線量限度の是非については、いろんな意見があります。多くの人は「高すぎる」、「子供にも同じ線量限度というのはおかしい」と否定的です。私自身も、そもそもこの20mSv/yrが限度として運用されるには、少なくとも無管理状態の一般公衆を対象とすべきではなく、個人被爆線量の管理や定期的な健康診断(白血球数の検査)など、放射線作業従事者が受けている管理を行った上で容認されるものだと思います。そう言う意味では、部分的にでも撤回する(児童を対象とはしない)事が必須だと考えます。

ではなぜ、このような、放射線管理の初歩的な原則を崩してまで、20mSv/yrを「政府決定」としてしまったのでしょうか?その背景には、「風評被害」に対する過剰な警戒感があるものと思います。つまり「風評被害」自身が「風評」により過剰に警戒された結果、また過剰に規制値を緩和してるのでは?

日本人の特性とされる品質に対する要求の高さ、安全志向は、時として真の「風評被害」を生んできたことも事実です。つまり客観的には十分許容範囲、あるいは以前と変わらない品質であるのに、周辺情報に惑わされてそれを受け入れられない。消費をためらい過剰な防衛本能が働くといったものでした。

しかしながら、一旦その品質保持が困難になってからは、過去を通じて堅持してきた厳しい管理基準が音を立ててどんどん崩れているような気がします。放射線に関する環境基準値が一気に引き上げられ、世界中で最も緩い基準で運用しているものも少なくありません。いまや「風評被害を防ぐ」が免罪符となって、どんどん基準を緩和して見かけ上の安全をアピールすることが、震災対応の要になってしまっているような気もします

どうしてこんなに急激な変化が起こってしまったのでしょう?

一節によるとこの、「子供を含めた一律年間20mSv」は、地元自治体からの要望を受けたもののようです。それは、「風評被害」に対する警戒感からだと思いますが、それでは「風評被害」とは何なのでしょう?情報が真か偽かという見極めは大変難しいものです。今は真であるが、状況によって、環境によって偽にもなるということもあります。そんな中で一般的な定義では、「風評」とは、必ずしも真実ではない、誰も責任も持たない情報の事だと思いますが、それが有効に人々の心に影響を与えるには、条件が必要でしょう。ざっと考えてみました。(専門の研究もあるでしょうから、他にもいろいろあるかもしれませんが。)

「風評」が「被害」に結びつく為の条件

どうでしょう?風評が風評であると認識されているだけならば、「実害」はありません。むしろ、「そう言う見方もある」という側面情報の一つとして、むやみに排除すべきものではないと思うのです。

難しい事ですが、「風評」と「風評でない=きちんとした情報」の区別がつくと仮定した上で、ではその「風評」(結果的に多くの人にとって好ましくない結果をもたらす情報)による「被害」を防ぐにはどうしたら良いのでしょう?

それは上記の1.から5.の逆をやれば良い訳です。できるできない、するべきである/ない、難しいそうでないは別として、次のような事になる訳です。

元に戻ります。今回の「風評被害」の危険があるとして、そこで想定されている事は具体的に何でしょう?

福島を中心とした野菜が売れなくなる、地元産業が崩壊して復興が出来なくなる、それが東京電力や国への賠償金の金額を膨大なものにして、日本全体の経済に致命的な影響を及ぼす、そう言う事でしょうか。20mSv/yrという上限値を国が認めるという今回の措置は、主に最初に上げた「危険を(適正に)小さなものとして認識させる」を狙ったものだと思います。

ただ、それが本当に最も有効な手段だったでしょうか?