前現代都市建築遺産としての戦後復興建築群

この論文は、2012年度日本建築学会大会(東海)における「前現代都市・建築遺産計画学的検討[若手奨励]特別研究部門パネルディスカッション『「前現代」の都市・建築遺産としての可能性を問う」(2012年9月13日名古屋大学工学部)にパネリストとして参加するわたしのレジュメである(2012年8月30日伊達美徳)

前現代期都市建築の遺産価値について

ーその設計者としてー

伊達 美徳
(フリーランス 都市計画家)

はじめに

若くもなく研究者でもなく建築家でもない、ひとりの建築史ディレンタントである筆者が、このPDでのスタンスは、筆者自身の前現代期(1961年以後だが)の都市建築らしきものの「設計者として」の体験と、後に1970年代中頃から都市計画家として生きた経験をもとに、若い研究者・建築家に問題提起をしたいと考えている。

「前現代」とは聞きなれないが、簡単には1945年8月15日から1970年頃までらしい。出だしは戦機の空爆による都市炎上から都市復興への時期で分りやすい。筆者の体験から言えば、不燃建築による都市づくりから都市再開発が本格化する直前頃までとしておこう。

その頃、筆者は当時所員20人ほどのRIA建築綜合研究所(現・アール・アイ・エー、以下「RIA」という)に所属していたので、その組織で筆者が担当した「都市建築」を中心に記すことにする。

「都市建築遺産」がテーマであるが、建築界での建築遺産と言えば、「名」のつく建築や建築家による「作品」をもってするらしい。ここで筆者がとりあげるのは、前現代期に日本各地の都市で同時多発的に起きた市井の人々の活動でつくられた、「名」がつかないが、時代を象徴する都市建築遺産である。

1.失われた前現代黎明期建築遺産

最近、前現代記の都市建築遺産が消えたふたつの身近な事件があった。ひとつは東京駅丸の内駅舎、通称赤レンガ駅である。復原したのだから消えていないと反論があるだろうが、筆者は消えたといわざるを得ない。
1914年に創建、1945年に空襲焼夷弾で炎上、1947年に修復再登場したが、その姿はまさに前現代の始まりを象徴する姿であり、1914年から31年間の創建時の姿よりもはるかに長く丸の内のシンボル景観であった。
そしてまた第一第二次両大戦と戦後復興という西の原爆ドームにも匹敵する貴重な前現代の都市建築遺であったが、前現代の建築遺産としての価値を評価した様子はないまま、現代の人々は復原と称して消してしまった。これほど名のある都市市建築遺産でも消えるのである(注1)。

もうひとつの事件は、筆者は10年前に横浜都心(関外)の共同住宅に転居した。隣に1階が棟割店舗、2~4階が共同住宅の古色蒼然たるビルが2棟並んでいる。つい最近両方とも分譲高層共同住宅に建て替った。

調べてみると1050年代に建った神奈川県住宅公社による並存住宅であり、筆者の入居した新しい共同住宅もそのひとつの建て替えであった。前現代建築遺産の後継建築である。

そこで近所を探検するとあるわあるわ、横浜都心は前現代建築遺産の宝庫である。太平洋戦争の空襲と占領によって一切を失った戦後横浜の復興期に造成した、防火建築帯が今も街並を形成しているのであった。今、それらが何の評価も与えられずに、次第に消えて高層化していく。名もない前現代遺産の現代の状況である(注2)。

2.RIA前現代期の都市建築の遺産としての意義

前現代期にRIAが取り組んだ都市建築をリストアップし(表1)、主なものの配置を同縮尺で示した(図1)。
リストアップ基準は、単純に単一敷地に単独建築ではなく、複数の敷地に複数の権利者が都市計画行政と連携した群建築であり、結果として建築防火帯と防災建築街区、そして初期の市街地再開発事業となった。

事業ははじめからその目的で調査・企画立案のコンサルタント業務で出発してから設計、工事へと進むが、その間には複数の権利者や行政当局との調整のコーディネーターも行って、ようやく建築として作り上げるのであった。遺産価値があるかどうかは別にしても、前現代期日本の典型的な都市建築であることは確かである。
これらのうちで、筆者が直接に係ったものは、大阪市立売堀地区(図2)の工事現場管理(1961年完成、防火建築帯の素朴な棟割り4軒長屋)、太田市太田駅南(図3)の設計監理全般(1970年完成、土地区画整理事業と連動した両側長さ500mの70軒に及ぶ棟割長屋の商店街)、武蔵野市吉祥寺駅北口・公社ビル(図4)の設計監理全般(1973年、都市計画道路事業と連動した跡地型大型開発)である。
こう並べると、内発的な身の丈の共同建築、都市への新規投資共同開発、そして外発的な大型都市再開発へと進む都市建築の道程を示すような例であることが分って興味深い。
リストで大阪方面が断然多いのは、当時関西のほうがこの種の事業に熱心であり、建築設計事務所が避けたがるこの種の面倒な仕事をRIA大阪支所が積極的にやり、やってみるとRIAの性にあっていたということだろう。
立売堀の出だしの構想は建築家好みの大風呂敷だったが、結局4軒長屋になる。次の小阪駅前は62軒が3棟、泉佐野では60軒が7棟、太田では60軒が8棟、新大阪センイシティでは433軒が3棟にと共同化した。
これらをひとつの共同体として船出するのは容易なことではなかった。そのコーディネートのノウハウを積み重ねていった。そのうちに多様な専門家たちがとりかかるようになり、いくつかの経験を積み重ねることで、行政マンや建築家からプランナーが誕生し、建築家や商業コンサルタントから再開発コーディーターが生まれた。それら専門の事務所も1970年代後期かから発生したし、すべてを通して行う総合コンサルタント業も登場した。
都市建築の前現代遺産として、筆者がこれらに価値を与えるならば、あの技術が未熟な時代に複雑な建築に取り組んだ建築家と初期コンサルタント、そしてまだ社会も経済も貧困であった時代の都市中心部の市井の人々たる零細地主、そしてそれを支援した行政関係者、それらの努力の結晶としての都市建築という点にある。
特に、1960年代まで完成した防火建築帯と初期の防災建築街区の内発的な事業である。同事業でもその後は外発的開発となって、前現代期を脱したといえよう。
ハードウェアとしては、実にありふれた建物ばかりである。これらいまに生きる都市中心部のコンクリ長屋には、都市計画史家は戦後復興史のなかで意義を認めても、建築史家が高い評価を与えることはないだろう。

図1

3.都市建築としての共同化手法の展開

これらの建築のもっとも基本となる条件は、多数の権利者による協働作業の結果としての共同建築である。共同建築の成否には、その前のコミュニティの存否が強く関係しているようだ。緊密な地域社会がある既存の街並を共同して建て直すときは、比較的円滑であろう。鉄鋼問屋街の立売堀や商店街の小阪駅前はその例である。

太田駅南口の場合はあらかじめ共同化の条件での保留地を細切れ処分だから、すべて新権利者である。そのうち約3割は市内商店街の店主たちが1街区にまとまっていたので、共同化の先頭を切った。他都市等からの権利者の街区は調整に手間と時間がかかり、事業が遅れた。

共同化といっても立売堀や太田のような初期の棟割長屋では、原則的には建築構造物だけが共同で、自己所有部分は各自の自由である。設計においてどこまで自由にするか、技術と意匠の両面で問題となる。技術的には多数の権利者の要求に短時間に的確に応えるために、標準化した部品の組み合わせで進めた。外部ファサードはそれぞれ勝手な姿か統一するか、その中間的な姿にするか。これもソフトとハード両面で対応する必要がある。

太田駅南口では中間的な方法として、ファサード部品を数種類用意し、要請に応じて組みあわせ取替えもできる。部品が共通だから似てはいるが戸別のファサードである。横浜都心部には大量にまとまって防火建築帯があり、ここでは棟ごとに異なる意匠だが、棟の内では統一する方向である。その故か、横浜都心では初期の立面が今もよく保たれているが、太田では街の性格の転換でファサードも転換が著しい。これらの変化が興味深い。

共同化は進化する。横浜都心では立体的な共同化を発明した。新大阪では棟割り店舗とあわせて、全体共有の共同捌き場が登場した。複雑な共同化に対応して区分分所有法ができて、さらに共同化に磨きがかかる。市街地再開発事業の市施行第1号だった桑名駅前は、床全部を共同化するところまで進んだ。

前現代の日本各地の都市で、同じような中心部、同じような商業者が、同じ制度を適用しながら、できあがったものにはそれぞれに特徴がある。それぞれの都市や地区の歴史、風土、地域社会などのなにが、それらに違いや類似性をもたらしたのか。比較社会建築研究とでもいう評価のありかたに、筆者は興味を覚える。

4.都市建築の前現代前期から後期への変容

全国各地で1950年代にほぼ事業化した防火建築帯は、それまでの木造店舗つき住宅をRC造建築に替えて横に合体して路線型間口割コンクリ長屋にした素朴なものが多い。 それでもその都市の繁華街に立地し、その時代ではその都市で最大ビルであった例も多い。表通りに面する線上に建って一応の防火帯としての役割はできたが、裏宅地は木造密集地のままであった。建築がようやく都市的対応へと進む黎明期であった。

この時期の防火建築帯で、筆者が係ったのは社会人となって最初の仕事で、1961年の大阪市西区立売堀地区のみである。酒屋と鉄鋼問屋の3階建ての店舗つき住宅4軒長屋、3階建ての店舗つき住宅、4階建ての企業本社ビルであった。4軒長屋の共同建築の工事現場の監理をしつつ、複数のオーナー間の相互調整をし、オーナーにかわって融資手続きで住宅金融公庫に毎朝出勤したりした。この建物は一部ファサードを変えて今も建っている。

1960年代になると戦後復興から高度成長へと都市化が進み、都市建築も線的共同化から、面的な整備に展開する。公共団体による都市改造も進むし、民間大資本も台頭してくる。

1961年からの防災建築街区造成事業による共同建築づくりは、既存の街場建物を建替えだけではなく、区画整理や道路事業等の公共都市計画事業と連動し、都市内の空地等を活用しての高度利用へと進んで大規模化する。自己資金と自己所有地による内発的事業に収まらなくなって大資本を導入するようになる。

たとえば、筆者が設計に最初から最後までタッチした太田駅南口地区は、路線型長屋式の建築だが、既存の街並の建て替えではなく、土地区画整理事業で田畑を市街化するとき、駅前に設けた保留地に新規に入った商業者たちの共同建築であった。権利者たちの内発的事業ではあるが、土地に新規投資をしている。都市計画事業と連動したところが次へのステップを見せている。

防災建築街区の「新大阪繊維シティ」(1969年完成)は、大阪駅前地区の市街地改造事業と新大阪駅前地区の土地区画整理事業と連動している。この事業は権利者数も面積もこの種の最大規模であった。駅前闇市にできた零細な繊維問屋の集団移転によるこの共同建築は、大資本を呼び込むことをしないで自力更生の事業であり、しかも任意の民間事業だから、まさに市井の都市建築の総決算といってもよい(注3)。これだけ多くの権利者を巨大な建物に複合して配置するハードソフト両ノウハウは、次の都市再開発事業へ展開する。

1972年に完成した吉祥寺駅北口防災建築街区の「武蔵野市開発公社ビル」は、都市計画道路整備にかかる営業者たちを収容するために、学校跡地に第3セクターデベロッパーの公社が建設する大商業ビルである。大手百貨店をテナントとして導入する外発的な事業で、防災建築街区もここまで来ると市街地改造型の再開発事業である。

このあたりからは筆者は、都市建築遺産としての興味を失う。棟割長屋時代のもっていた、市井の人たちの内発的な物語が聞こえてこないからだ。

5.前現代期都市建築遺産の生と死

ところで、前現代期から現代へと移って高度成長からバブル景気にいたって、都市の建物の多くは建て替えられてきた。にもかかわらず、都市のもっとも開発ポテンシャルの高い都心部で、横浜都心は特に多いが、横須賀市、沼津市、静岡市、長岡市、太田市、福島市、鳥取市などなど、防火建築帯や防災建築街区の都市的共同建築がいまもその姿をしぶとく見せている。

立売堀の防火建築帯は、外部を一部大改装しながらも営業をしている。これがもしも小売商店中心の繁華街ならば建て替えただろうが、鉄鋼問屋街という地域性が立地が今も続いていることが継続している背景だろう。

この立売堀も横浜もそうだが、共同建築として構造体がつながっているから、一軒だけ建て替えるにも他の権利者の同意が必要となることによる複雑さも、現存する要因である。今は更に中心市街地の空洞化現象という都市問題が特に地方都市を襲って建て替えのポテンシャルを失っている。消極的な生き残りである。

積極的な生き残り例は、太田駅南口である。1970年にできた頃は、北関東ではレベルの高い繁華な商店街であった。そして今、中心市街地の空洞化が著しい中で、大半は風俗系店舗となり、北関東では有名な夜の街だそうである。商業は時代的変化が大きいので、建物内外ともできるだけ変転しやすいように設計しておいたのが役に立ったかどうか知らないが、その姿の変化は著しい。なお、横浜の防火建築帯の中で模範的事業とされる福富町でも風俗街となって健在である。そのような都市建築の生き残り方には、興味深いものがある。

横浜都心の防火建築帯では、棟ごとに統一したファサードにしているので姿の変化は大きくはない。だが今は都心の関内や関外の力は低下し、横浜駅方面に商業業務中心は移った。その原因のひとつに、これらの共同建築群を更新しにくいことがある。おなじ都心部で防火建築帯を指定しながら共同建築をしなかった元町商店街では、まちづくり協定による規制の中で個別に建物の更新が進み、商業的繁栄が続くのと比べてみると分りやすい。

吉祥寺防災建築街区の公社ビルは、近年に大きく姿を変えた。さすがに吉祥寺は空洞化しないで街は賑わっているが、40年も経つと時代の波が押し寄せる。核店舗の百貨店が撤退し、それを契機にデベロッパーを入れての大変転の結果は、かつての市井の小商い店舗群は消え、大ショッピングビルと変わった。公共的機能は小美術館と3階屋上庭園のみに縮小した。ハードな意味での建築遺産としての価値はそれほどないが、この変貌と周辺地区の賑いを見ると、この前現代期の事業が意図した地域活性化の拠点としての役割を立派に果たし得た意味で、都市建築遺産の価値は十分にある。

横浜都心のようなポテンシャルのある地区では、コンバージョン手法によって防火建築帯の再利用を試みる不動産事業者が現れている。しかし多くは建て替えが進みつつあり、そのほとんどが分譲型共同住宅である。かつて横浜の防火建築帯を作るときには、都心人口回復のために積極的に賃貸住宅を導入したように、今、再度都心に住宅導入が起きている。だが分譲型大規模建築であるので、都市の管理や防災上で問題をはらんでいる。

一方、ポテンシャルの低い地方都市の前現代建築遺産は空き家空き店の集積となり、遺産から遺跡になりつつある。拡散した市街地の再度の集約のためには、この遺跡ストックを賃貸住宅としてコンバージョンすれば、遺跡は資産となるだろうに、と思うのである。

ありふれた「町場の建物」風情だから、一般に注目されることもないし、建築家さえもその出自に留意しない。これら前現代建築が戦後都市復興で果たした役割を知られないままに死んでいく。筆者もそれらの建築を特に保存すべきとする情はないのだが、その出自とともに変転の歴史的な重層を読み取ることで、次の都市再生に何かを資する可能性を見出したいとは思うのである。(完)

(注1)筆者は1988年3省庁調査で「現在地で形態保全」と決定当時の担当コンサルタント。以来、戦後の姿での保全を提唱。資料「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書」(1988 国土庁、運輸省、建設省)

(注2)「横浜関内都心地区その歴史的形成過程とデザイン再生モデルの研究」(2006 NPO日本都市計画家協会横浜支部)

(注3)権利者数433、用地面積3.5ヘクタール、共同ビル3棟、延べ床14.5ヘクタール。資料:「新大阪繊維街協同組合団地建設報告書」1969 RIA建築綜合研究所

関連ページ

●全現代都市・建築遺産パネルディスカッション案内

http://datey.blogspot.jp/2012/08/657.html

◆大阪立売堀:40年目の防火建築帯は健在https://sites.google.com/site/machimorig0/itachibori

◆太田:南一番街30年後のまちなみ(2001)

https://sites.google.com/site/machimorig0/oota-minamiitibangai

◆横浜都心戦災復興まちづくりをどう評価するか

http://sites.google.com/site/matimorig2x/matimori-hukei/yokohama-sensai-fukko

◆戦後復興街並みをつくった市井の人々

https://sites.google.com/site/machimorig0/tosinosengo-syohyo

◆日本の都市再開発コンサルタント史(1991)

https://sites.google.com/site/machimorig0/saikaihatu-consul