震災核災3年目(その4)
南三陸町の復興を遠くから眺めて

文:伊達美徳

(4-1)南三陸町震災復興シンポでの専門家論にデジャビュ感があった

 大地震で大被災した南三陸町の復興状況の話を聞いた。日本都市計画家協会と東京大学が、町民4人をまねいて、シンポジウムを開催したので、聞きに行った(2013年3月24日、於:東京大学生産技術研究所)。
 会場には100人あまり、ほぼ全員がいわゆる専門家とよばれる人たちだったろう。わたしも元がつく専門家ということにしておこう。来ていただいた4人の人たちから聞く復興の諸課題は、当然のことだろうが、どれも深刻なることばかりである。
 興味深く聞きつつも、これまでここに書いてきたように書斎で机上心配するだけのわたしなのに、意外なことと思うことは少なくて、これまでの心配が深まることばかりであった。
 会場からの専門家たちの発言には、どうももうひとつピンとこなかったものがおおい。これは、まあ、専門家たちが悪いのではなくて、予期せぬ発言者を指名していったコーディネーターのせいだろう。

 被災者の方の話に、復興計画について行政と地元住民との間の意思疎通に齟齬があり、地元住民の中に入ってきて住民の立場で行政に対抗することができる知恵を授けてくれる専門家をほしいとの訴えがあった。
 既成市街地での都市再開発・まちづくりの世界では、もう昔からこういうことがあって、それなりにアドボケイトプランナーが育ち、それに対応する支援制度が動いていたはずだ。
 そのノウハウ蓄積が被災地では生かされていないのだろうか。それとも被災地があまりに広くて、人材が足りない、制度が追い付かない、ということだろうか。
 いろいろな情報によると数多くのプランナーが各地に入っているらしい。そのなかにはアドボケイトのベテランもいるはずなのに、いまだにこのようなことを言われているのかと、不思議というかデジャビュ感があった。
 もう8年くらい前のことだったか、国交省の都市計画課で、まちづくり人材リストをつくったことがあった。かなり大掛かりにやったから、その後も活用しているはずだが、どうなっているのだろうか。
 専門家に対する住民のいらだちに対応して、専門家のあり方について、個別の専門家を束ねてコーディネートする能力のある専門家が要ることの発言が、大学研究者からあった。
 むかしむかし、わたしはコンサル・コンサルタントとひそかに自称していたので、これもデジャビュ感が強かった。そのような人材はいっぱいいたと思うのだが、どうなっているのか。
 会場から、専門家は地元にボランティアで行けとの発言があり、これもまちづくりの世界では昔から聞かされ、専門家はカスミを食って生きるのかとの反発も、デジャビュ感があった。
 それにしても、日曜日の朝早くから、こんな不便な会場に、専門家たちがおおぜい集まったこと、そして若い人たちが多いことを見て、まちづくり人材が育っていることに明るい希望を持ったのであった。もっとも、会場で久しぶりに出会ったある知人に聞けば、相変わらず食っていけない世界のようだが。
 さて、復興計画そのものについてだが、会場でいただいた復興計画図を見ると、数々の心配が湧いてきた。これで南三陸町の将来はどう展望できるのだろうか? (2013/03/26)

●参照→「地震津波火事原発コラム一覧」

(4-2)大被災した南三陸町の応急仮設住宅地を衛星写真で見て気になった

三陸津波被災地の南三陸町の一枚の地図がある。応急仮設住宅地の位置が記してあるのだが、その箇所数の多さに驚いた。人口がさぞ多いからだろうと思ったら、被災直前は1万8千人弱の町である。なぜこれほどの分散しているのだろうかと、google earthの衛星写真と照合してしげしげと見ていった。
●南三陸町応急仮設住宅位置図(南三陸町ウェブサイトより)

 リアス式海岸特有の大小の入り江ごとの狭い平地に街や集落があって、それらがほとんどすべて被災して壊滅したようだ。
 そこでその街や集落がチリジリになりながらも、できるだけ元の位置に近いところで、仮設住宅を建てるために、津波に襲われなかった近くの台地の空き地を応急的に探したので、これほどたくさんの場所になったらしい。
 そのとき、壊滅した元の平地さえも狭いのに、台地の上はさらに狭いから、まとまることもできずに、これほどたくさんの位置に配置せざるを得なかったということなのだろう。もちろんあくまで、わたしの勝手な推測である。
 衛星写真でそれらひとつひとつの場所を見ていくと、心配なことが出てくる。生活の拠点であった集落が一切なくなったのだから、もちろん生業の場もなくなり、日常の買い物の場もなくなったのだろう。山の中に10数戸で孤立しているような仮設住宅もある。日常生活はうまく成り立つのだろうか。病院通いはどうするのだろうか。

●南三陸町波伝谷地区の仮設住宅
(2012年2月22日撮影google earth)

衛星写真で仮設住宅を探すのは難しいだろうなあと思いながら見はじめたら、すぐに仮設住宅とわかる特徴を見つけた。仮設住宅地は、真っ白な(茶色もあるが)な屋根の細長い建物が、平行してびっしりと建ち並ぶから、まわりの山林や戸建て住宅地とは際立って異なるのである。一か所だけ例外があったが、いずれも狭い隣棟間隔で同じ向きに平行して並ぶのである。土地がどこもかしこも四角というわけでもないし、学校の校庭とか公共施設のような広い敷地でも、大昔の公営住宅団地を彷彿させる並び方である。

南三陸町 志津川小中学校あたりの仮設住宅
(2012年2月22日撮影google earth)
左の仮設住宅地だけが例外的に平行配置ではない。

●上と同じ位置の震災直後(2011年3月30日撮影google earth)

これで見ると左の仮設住宅地は津波被災地であるようだ。

 これは応急仮設住宅設置の補助要綱とかにそうせよと書いてあるに違いない。でなければこれほどまでに右へ倣えということはあるまい。でも、一か所だけ例外的な平行でない配置もあったから、必ずしも制度上の縛りではないのかもしれない。同じ敷地でも、もう少しは暮らしやすそうなプラニング技術が、この時代にはありそうなものである。
 あるいは実例があるので言うが、被災した土地でもよいならもっと楽に建てられるところがありそうなものである。南三陸の人たちは、いくら狭い入り江の奥の谷戸であっても、これほど狭い路地に好んで暮らしていたので仮設住宅もそうしたいとの希望であったとは考えにくい。どうも、土地がここにある、とにかく機械的に配置して行こう、そうしたとしか思えないのだ、どうなのだろうか。
 南三陸町では事実上は初めての応急仮設住宅ではあるだろうが、日本で初めてではあるまい。日本ではやむを得ない大災害がかなりの頻度であり、災害時の応急仮設住宅に経験のある専門家とか建設業者がいるだろうと思うのだが、同じ戸数を入れるにしても、こういう時の配置のあり方のノウハウ蓄積はありそうなものだ。
 わたしはその暮らしの実態は何も知らないのだが、これで快適なのだろうか。応急だからこれでいいのだと、そういう慣習というか制度かもしれないと思うと、心配である。

●南三陸町 歌津地区平成の森仮設住宅地
(2012年2月22日撮影google earth)
町内最大規模の246戸を詰め込んでいる

●同じく津波から1か月後の平成の森
(2011年4月6日撮影google earth)

実はわたしは南三陸町に行ったことはない。たまたま先日、南三陸町の住民の方を東京に招いて話を聞く会があり、そこに参加して若干の現地情報を得たので、いろいろ考えることがあった。
 そこで、これまでは一般論的に心配ごとを書き連ねたが、これからはケーススタディ的に考えることにしたのだ。
 わたしは生れは岡山県で、東北には縁者も知り合いもなし、引っ越しは多かったが住んだことはなし、仕事では秋田県内のいくつかの都市にかかわったが、そのほかは全く縁がなかった。三陸というからには、リアス式海岸だから岩手県と思ったら、ここは宮城県であったというお粗末なレベルである。
 しかし、今度の震災で被災直後の壮絶なる風景を新聞やネットで沢山観た中で、南三陸町のボロボロの姿は最も強烈に脳内に残っている。それで町の名前だけは覚えた。
 google earthで被災地を南から北まで見るのが日常になっていたが、地理不案内のわたしにはどこも同じように見えて、地上のその場の惨事と結びつけるのが難しい。要するに岡目八目で、本当の悲惨さはちっともわからないのである。
 それを承知の上で、岡目八目のもつ意義もなにほどかはあるだろうと勝手に思い、よそ者の心配事を書き連ねる日々である。(2013/03/30)

(4-3) コンパクトシティ時代に逆行する南三陸町の分散型復興計画の理由を知りたい

 ここに南三陸町の地図がある。「南三陸町土地利用構想図」(2013年2月13日公表)とあり、これは南三陸町のウェブサイトに掲載されている震災復興計画図のひとつである。
 志津川湾の周りにいくつもの黄色の丸があり、矢印がつないでいる。これは実線黄色丸は被災した集落や街で、点線黄色丸は新しくつくる集落や街であり、矢印は移転する元と先を結んでいるらしい。

●南三陸町土地利用計画図

 移転先の点線黄色丸の数を数えたら30か所ある。ということは、これから30か所に大小のニュータウンを造成して、三陸町の被災移住民たちが集団で大移動するのである。
いや、すごいことである。移動住民が何人になるのかわからないが、町の作った復興計画書を見ると被災者総数は町民の55%、9800人弱だから、その全部ではないにしても、大変な人数である。それが30か所で起きるのである。町民にとって津波、避難につづく巨大イベントである。
 人口が1万8千人もいない小さな町で、どうしてこれほどたくさんのニュータウンをつくる分散型復興計画にする必要があるのだろうか。図面を見ると、リアス式海岸の小さな入り江ごとにある集落それぞれにニュータウンをつくるからだと読むことができる。
 つまり津波で壊滅した集落を社会をそのまま近くに再現するという、復旧優先であるようだ。このあたりの人たちは、それほどにも、いわゆる「絆」につながれた暮らしをしてきていて、これからもそれを求めているのだろうか。それは世代に関係なくそうなのだろうか。
 おおぜいが集まるニュータウンならまだしも、少人数のニューヴィレッジならば、人口減少の波をかぶって、早晩消えざるを得ないようにも思う。そう、人間自身が起こす人口減少という津波が、いま日本列島を襲っている最中なのである。
 南三陸町の人口はこれまで減少に減少を重ねてきていて、被災直前は17666人、その55.2%も被災してしまった。被災後もこの町に、その集落に住み続ける人たちは、どれくらいの数だろうか。災害が人口減少のスピードを早めるのは、わたしは中越震災復興の現地で見聞きした。
 南三陸町だけが人口が減らない、ということはありえない。復興計画にはこれからも減少していくが、2021年の町人口総数を14555人に見込んでいる。そこには政策的な意図も入っている。
 しかし、国立社会保障・人口問題研究所が2013年3月に発表した日本の各市町村の将来推計人口のうち、南三陸町の2020年の値は14448人で高齢化率35.3%、そして2030年には12385人で41.3%になる。
 これから超高齢化して減少する町の人口が、ばらばらと散らばって暮らすのは、どういうことになるだろうか。
 自然の豊かさを享受する生活と言えば聞こえはよいが、20年後に高齢人口が35.9%(町復興計画)になると、そうはいかないことが起きてくることは目に見えている。これほどに分散型となる生活圏を復興という名目で作り上げても、南三陸町は大丈夫なのだろうか。
 どうせ移動して新しい街、集落、家にすむのだから、これほど分散しなくて、ある程度に集まる方が、これからの生活のためにはよいだろうとおもう。そう思うのは、現地事情を全く知らないものの言い分であることは承知している。地域共同体の緊密さ、三陸漁業のありかたなど、まったく知らない。
 なにかそれらの地元固有の文化や産業のありようが、この分散型復興計画が出てくる所以なのだろう。それを知りたいのである。海岸近くの多くの場所で、しかも短期間に同時に、これほどの大土木工事を進めても、海には影響がないものだろうか。
 先般、三陸町の人から聞いたのだが、南三陸町の母なる志津川湾は、養殖漁業が発達していて、一年中なにかが水揚げされていたが、近年はそれゆえにかなり汚れていた。ところが先般の津波が、海底にたまっていたヘドロを沖に持ち去ってくれて、この海は若返って生産力が復活したそうだ。
 これだけ一度にニュータウン工事をすると、その湾のまわりの土木造成による土砂が流れ込むように思うが、大丈夫なのだろうか。せっかく復活した海が汚れるかもしれないと、わたしは遠くから机上でよけいな心配をするのである。どこか3、4か所くらいに、まとまることはできないのだろうか。そのほうが土砂流出対策もしやすいだろう。
 そしてまた、分散型よりもまとまりのある生活圏を構成するほうが、なにかと便利なはずである。コンパクトシティ、コンパクトタウンがこれからはあるべきまちづくりの方向だとされている時代に、せっかくそれを実行することができるチャンスなのに、これほども逆行するには何か特別の理由があるに違いない。もちろん、各小さな入り江ごとに分散する生活を否定するものではないが、それには覚悟が要るし、お金も要りそうだ。(2013/03/31)

●地震津波原発日誌コラム一覧

(4-4) 南三陸町の復興計画は森と人と海の小宇宙が語る大叙事詩のひとつのページであったか

 南三陸町の復興計画の図面を観て、その拡散型の理由を知りたいと、face bookに書いたら、知人がこんなことを教えてくれた。それは南三陸町の各地にある「契約講」が、地域社会を結ぶ強い絆があることによるのだろうというのである。そこでまた貧者の百科事典のウェブサイト情報をひっくり返して調べたら、芋づる式にいろいろとわかった。契約講は江戸時代から東北地方にはあるらしい。
 南三陸町の復興計画の
土地利用計画図にある黄色い円の数だけ、津々浦々の大小の入り江の奥には、漁業を生業とする集落があり、それぞれに昔からの「契約講」あるいは「契約会」と称する、いまでいえば自治会組織があるそうだ。(黄色の円と一致するのでもないようだが)時代による変遷もあるが、今もれっきとした力をもっている。
 契約講は集落を運営する組織であり、前浜ではかつては漁業権も持っており、裏山には大きな共有林をもっている。横つながりになって地域を育てている。なるほど、そうであるか、そのような生業を支える地域社会が強力ならば、これほども分散するのは当然のことかもしれない。
 その小さな漁業集落の一種漁港は19カ所あり、その背後地の集落戸数は平均57戸、高齢化率は28.9%である(南三陸町復興計画委員会議事録より)。意外といってはおかしいが、それなりの戸数があり、高齢化率も高くない。地域社会が成り立つはずである。
 それが成り立つのは、前にある豊かな海と背後の豊かな森がそれを維持しているからであろう。生業をもっている生活圏は持続するということである。しかも漁業は農業よりも協同する作業も多いから共同体が成り立つのであろう。都市を見る目だけでは、わからないことを教えられたのであった。
 問題があるとすれば、海に近い暮らしから、裏山の台地に登っても、海に出て漁をするという生業はうまくいくのだろうか、ということである。これまで明治三陸、昭和三陸、チリ地震と各津波で被災して、高台に居を移しても、いつの間にかまた平地に下りて被災する繰り返しであった。被災した土地の範囲を利用禁止にしてもそうなった。
 それは経験者も忘れるということと共に、知らない新入り住民が浜近くに暮らしだして漁で先駆けするのをみて、高台移転者も我慢できなくなる、ということだったらしい。
 これからも、それはありうることだろう。どうすればよいか、わたしにはわからない。いっそのこと被災地を海に戻して港を広げると、だれも住まないだろうから名案に思うが、どうかしら。そしてまた心配することは、これから工事をして戻るまでには2、3年はかかるだろうが、その間に海を離れる人たちもあるだろう。戻ってこないかもしれない。台地の上の街は空き家だらけになるかもしれない。
 だが、長い長い目で観ると、豊かな森と海がこれまで人をはぐくんできたように、人間が災害をも受け入れつつ自然の一員として暮らしてきたこの理想的な風土を、これからも末永く継承していくような気がしてきた。
 地球史的な時間間隔で起こる大津波で、人間が築いた海と山の小宇宙とでもいうべき生活文化圏がご破算になる、そしてまた人間は営々と小宇宙を築き上げる、そしてまた、、、、これは超長編一大叙事詩である。
 小さな入り江、中くらいな入り江、大きな志津川湾、それらにはそれぞれに川がそそぎ人々の暮らしがあり、背後に森を持つ。それらはまるで入れ子である。南三陸町という人間が自然とともに生きてきた小宇宙に、悠久の時間と空間の輪廻を観るのである。復興計画は大叙事詩のなかのひとつのページにすぎないのであった。その表からも裏からも、それを読み取る必要があると教えられたのであった。
 3月になって、「震災核災3年目」と題するシリーズをだらだらと書いてきたが、3月も終わったので、ここらで区切りをつけることにする。(2013/04/01)

参照

地震津波核毒原発おろおろ日録
http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

震災核災3年目(その1)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme

震災核災3年目(その2)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme2

震災核災3年目(その3)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme3

震災核災3年目(その4)
https://sites.google.com/site/dandysworldg/sinsai-3nenme4

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