地震津波原発日記(その8)
201201-1203

2012年1月6日金曜日

566瓦礫の焼却だって?

震災関連用語で前からわからないやつがいっぱいある。せんだっては除染と電源喪失がわからんと書いたが、今日も新聞にある「がれき」がわからん。

東日本大震災で大量に発生したがれきの広域処理について、全国知事会(会長、山田啓二・京都府知事)は6日、がれきやその焼却灰の一時保管費用は国が負担することなどを求めた要望書を環境省に提出した。(産経新聞 1月6日(金)12時34分配信)

「がれきやその焼却灰」とあるのだが、がれきって瓦礫のことでしょ、瓦と石ころだよ、これを焼いても灰になるはずがないだろう。

燃えるのなら、こんどうちの庭の石ころを紙くずと一緒に燃えるゴミの袋に入れて、持っていってもらおうっと。

まちがってるよ、新聞屋さんよ。それを言うなら大型ゴミとか廃物とかでしょうに。

携帯電話機がケータイになるように、いっそのこと瓦礫もがれきとせずにガレーキといってはいかが。


2012年1月21日土曜日

576陸前高田に古本図書館

地震津波被災の陸前高田の復興で、古本図書館をやろうという計画があり、古本募集中とのことを、知人のFACE BOOK(いつもはFACE BAKAといってるが)書き込み経由で読んだ。それならわたしでもできる支援だと、さっそく既読本棚からエンタテインメント系だけ引き抜いてダンボール箱詰め開始。14.5kgの箱二つ。本日、ようやくひとつだけを近くの運送屋さんへ持っていった。

作業中にふとある文庫本の名前に目が行った。はて、つい10日ほど前、これと同じ表題のハードカバーを図書館で借りてきて読んだような。中をパラパラ、おお、登場人物もエンディングも同じだ。え~っ、もうとっくの昔に読んでいたんだあ、ちっとも気がつかずに最後まで面白く読んでしまったよお、ショック。うちの古本は新本に戻るんだ。
陸前高田の古本図書館プロジェクト団体に送りたい方は、下記へどうぞ。
〒029-2200 陸前高田市矢作町字なかだいら 88
社団 星の陸高・陸前高田応援会
電話 090-2281-1544

2012年2月12日日曜日

583イオンの森と津波

グーグルアースで、東日本大震災の津波で、仙台若林区の海岸の防風林として作った松林が、大木なのにまるで草のようにきれいにひれ伏しているのを見て、どうして松なんて根の浅い木を植えたのだろうと不思議に思っていた。

れは多分、砂丘だから土に養分がないので、最初は松しか育たないから松を植え、そのまま松林を維持してきたのだろう。できるだけ早く根の深い常緑広葉樹林に移行させる考えはなかったのだろうか。そんな疑問を抱いていて、知人からこんな動画がネットにあるよと教えてくれた。
http://www.youtube.com/watch?v=gDOEs2_ONGM&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=M3BENrrhJJM&feature=related

どちらも、宮脇昭さんが登場して、震災復興のための森づくりを語る。宮脇さんは高名な植物生態学者で、わたしと同郷で個人的に旧知の間柄である。その土地本来の自然の樹種による「ふるさとの森」を作れ、土地に合わない偽物の木を植えるなと唱え、実際に実行もしている。
彼が作った有名な森は、横浜国大である。ゴルフ場だったハゲ地を、深い森のキャンパスにつくりあげた。今では、森の中に大学を作ったのだろうと、誰もが思っているくらいだ。
http://datey.blogspot.com/2008/05/httpwww.html

動画の中の宮脇さんは、松林がもろくも津波になぎ倒されたのは、根が浅いからだ、復興の森作りは、根の深いシイ、タブ、シラカシ、マテバシイなどの常緑広葉樹で作れと言っている。
その森の基盤は、津波や地震出てた瓦礫や廃材を砕いて土と混ぜつつ、穴に埋めて、さらに盛りあげて小山をつくるのである。だから小山の森となるのだ。これは、わたしが言ってきた「核毒の森」づくりそのものである。
http://datey.blogspot.com/2011/08/47921.html

その動画に、現地の森を見る宮脇さんが登場して、この津波でも倒れなかった常緑樹の森は、イオンの森だという。イオンとは小売量販店のことである。イオンは自分の店の周りや、中国の長城あたりでも木を植えて森を造る事業をやっていて、それを宮脇さんは指導しているのだ。
たしかに常緑樹の森(林か)は、松林のように倒れなかったが、店舗は無茶苦茶になったから、宮脇さんご自慢のイオンの森も津波除けにはならなかったらしい。
宮脇さんがしきりにイオンの森イオンの森というのを聞いていて、なんだか違和感が沸いてきた。いや、宮脇流森づくりはわたしも大賛成だし、実際に自分のやった仕事で宮脇流森づくりをしたこともある。
http://homepage2.nifty.com/datey/kawada05-09.htm

だが、イオンと津波は、よく似ているよなあと思ったのである。大型店を郊外につくって、その影響がドド~ンと街の中心に押し寄せて、街中がたちまち空店だらけになるのは、津波そのものである。いや、津波よりも原発の放射性物質ばらまき拡散のほうが近いか。何年にもわたってじわじわと生活圏を壊していくのだ。イオンの自然の森づくりは、その街壊し放射線加害の補償のつもりでやっているんだろうか。
なんにしても、高田の松原をつくった菅野杢之助の功績はほんとうにえらいと思うけれども、センチメンタルにまた松林復旧ではなくて、宮脇さんの唱える潜在自然植生の樹種で森の復興をするべきであろう。


2012年2月28日火曜日

588『津波と村』海辺の民の宿命か

民俗学者の山口弥一郎が書いた『津波と村』(三弥井書店、1943年発行の復刻版)を読んだ。
1895年、1933年の3陸津波の村を1940年前後に三陸海岸を足で歩いて、その復興と復旧の姿を、地区のレベルと家族のレベルでトレースしている。そして1960年のチリ津波についての新聞寄稿文も、復興版には採録している。その結果として、わかっていながら2回も被災するはなぜか、検証している。

今も被災各地で高台移転や、現地嵩上げ、高い防波堤などが住民たちと行政そしてコンサルタントや学者たちの間で、多くの検討がされているようだ。
だが、117年前も79年前も同じようなことを考え、同じような事業をして、人々は次は被災しないようにと、新たな地へと住まいを移したのだ。それでも次の津波では被災してしまう。それはせっかく移転した先から、元の被災した場所に戻ってしまうからである。
被災経験のない新入り住民が、被災した空き地になっている海べりの地に家を建てて、漁業をやると、海べりの利で漁に有利になる。大漁を得る確率が高い。
それを見て、高台移転した罹災経験者も、そんな不公平なことに耐えられなくなって、次第に海べりに戻ってくる。そして忘れた頃に津波がやってきて、またご破算となる。

民俗学者の調査らしい面白いことも書いてある。
ある高台の集落には、昔からの伝説があり、あるときやってきた役の行者が、この集落の者が他に移転すると、かならず集落が災厄に見舞われるといった。
その集落はそのタブーに縛られていたために、津波被災者は出なかった、というのだ。人は今日の利便のために、何かを得て何かを捨てていくのだが、それを封じるのは宗教的タブーしかないのだろうか。
人もまさに海辺の生き物だ。今日を食って生きないと、明日の暮らしがないのは、生き物だからだ。
それを乗り越えるには、人間だから可能な文化的なタブーということになるのだろう。現代ではどのようなタブーをもって人々を災害から救うのか。

この本には1895年と1933年の三陸大津波の前後の、いくつかの集落再構築の図が載っている。大移転、大防波堤など、いつもものすごいことを人間はやるものだ。
でも、それらと今回の被災状況を示すgoogle earthの衛星写真と見比べる(ここでは吉里吉里を例として掲載した)と、いずれの集落再構築もほぼ役に立たなかったほどに、今回の津波は巨大であったことがわかる。
海辺の民は、今日の暮らしのために海辺に生きる。やってきた津波から明日も生きのびたいならば、「てんでんこに」いちもくさんに逃げる、それしかないようだ。
この本を読んで、海辺に暮らしたことのないわたしは、つくづくそう思ったのである。

2012年2月29日水曜日

589ふたつのキャンドルナイト

大震災1年目の3月11日が来ようとしており、各地でキャンドルナイトとかローソクナイトと称して、あのときの停電を再現して、ローソクの灯でしばらく過ごす体験の催しがあるらしい。
それはそれで記憶を風化させないために良いことだが、なんだか違和感もある。
イベントという一過性でよいのか、ローソクを使うから節約にはならないし、あまりたくさん燃やすとけっこう煤が出るしなあ、どこかに集まってやると、けっこうなエネルギー消費になりそうだよなあ。
どうせやるなら、全国一斉、各家庭もホテルも事業所も、そのまま真っ暗闇の夜を一晩過ごすってのはいかが?日本真っ暗ナイトである。

むかし、ニューヨーク大停電てのがあった。その夜に仕込まれた子がたくさんできたというから、真っ暗ナイトは少子日本にまことに有効なるイベントになるかもね。

わたしには、1945年からの数年間は、毎日停電していた体験がある。まだ幼年だったからよく知らなかったが、あれは計画停電だったのだろうか。いや、どうも、突然だったような気がする。でも大人たちは特に困った様子もなかったなあ。もしかして、戦後ベビーブームの原因のひとつだったかもなあ。
じつはいまでも、毎日毎晩キャンドルナイトの国や地域があるのだ。一時のイベントではなくて、それが日常である。わたしが昨年春に訪ねたネパールがそうであった。今、ネパールの日本大使館のサイトを見たら、ネパール全土の地域をグループに分けて、曜日ごとに何時から何時まで停電の一覧表がある。
http://www.np.emb-japan.go.jp/jp/pdf/powercut27feb12.pdf

なんだか懐かしくなったなあ、去年の計画停電といいながら、どうも計画的でない日本の騒ぎのときも、TVにこんな表が映っていたもんだ。
なになに、カトマンズ盆地のパタンでは、月曜日は4時から9時と13時から18時とあるから、なんとまあ10時間停電だよ~。
水曜日は9時から13時と17時から23時だよ、夕飯食べるときから夜中まで真っ暗。でも、わたしは現地に行ったから知っていますが、停電だとて誰もドタバタしていませんでしたね。
日本が計画停電のちょうどそのときに、わたしは停電の国・ネパールに遊びに行っていたのだ。レストランで夕飯を食おうとすると、パッと停電、アレ~っというのは外国人ばかり。店の人は、おもむろにその辺にあるローソクに灯をつけて、しばらくすると必要な範囲の電灯がつく。どこの店でも自家発電気があるのだ。あちこちからブンブン発電機が回る音がして、あたりが排気ガスくさくなる。

停電の原因は単純で、発電力が不足しているからである。ヒマラヤの氷河や雪の水源が豊富だから、水力発電をいくらでもできそうなものだが、それに投資する金がない貧乏国だし、その水がすべて流れていくインドとの水利権関係も複雑らしい。もちろん原子力発電はできっこない。だから工業は育たないから、工業製品はインドから陸路のトラックでやってくる。タタのトラックがブンブン走っていた。
今、日本のキャンドルナイトイベントには、あの不安の思い出とそれをひきずりつつも平和な現在がない交ぜとなっている微妙な心地がこめられているだろう。
一方、政情と経済の不安の中にあるネパールの毎夜のローソクナイト、、う~む、日本とネパールの二つのキャンドルは、ひとつの灯になることはなさそうだ。

関連→ネパール逍遥・異文化への旅
http://homepage2.nifty.com/datey/nepal/index.htm


2012年3月3日土曜日

591千年の津波

東北の震災復興計画に関する報告の会合が大学であり、現地の様子を聞きたくて出てみた。

わたしは地震津波原発被災にも復興計画にも、これまでなんの関わりないので、復興計画の中身と問題を新鮮に聞いた。

ある都市計画家の報告で、自治体ごとに立案している復興計画を並べてみると、それらの行政区域の境界あたりで、津波防御の計画が不自然につながらないところがあるという。

復興計画には防潮堤や高く盛り土した道路などが、海岸線に平行して2重にも3重にも線を描いているが、それらが行政境界に来るとつながらなかったり、不自然に曲がったり、あいまいに消えたりしている。

津波を防御する対策が行政境界で食い違うと、そこから津波が内陸に入ってくることになる。

これらの計画の相互調整はどうなっているのだろうか。

計画立案はどこも委員会によっていて、学者、専門家、行政マンたちが委員である。

各自治体の復興計画の委員名簿を見ると、かなり重複している学者たちがいる。その人たちは、担当する復興計画相互の調整を考えなかったのだろうか。

コンサルタントが作業をやっているはずだが、それらも相互調整することはないのだろうか。

今後あるいは現在、それらの調整が行われることを期待しよう。

被災の現地から参加した市民の話も聞いた。

ある被災市での復興計画委員会(上のそれとは違って地域のものらしいが)に、公募市民委員として入った人は、その委員会の役割について行政から、こう言われたという。

この委員会は、上級官庁が策定して降りてくる計画に、賛成か反対かを言うだけで、提案は一切受け付けない。

そんなことが現地ではあるらしい。

現実はそうは行かなくて、議論百出だったそうだ。当たりまえであるが、決定権はどうなるのだろうか。

また別の市民の話。

津波が押し寄せるのを防ぐ道路などは、かなりがっちりしたそれこそ水ももらさないものになるのだろう。

逆にそれを現状から見ると、地盤沈下して海水が引かないところにそのようなものができると、なおさら海水が引かないことになる。そこでは膨大な地域の嵩上げが必要になるが、現実的なのか。

ところで、津波防御の考え方には、数十年から数百年に1回おきる津波(レベル1)への対応と、5百年から千年に1回おきる津波(レベル2)への対応が、あるそうだ。

わたしにはそれらの違いがよくわからないが、去年の津波は「レベル2」だったそうだ。

ということは、これから先、5百~千年はあのような津波はやってこないということなんだろうか。素人はそう思ってしまうが、違うのだろうか。

1995年に阪神淡路大震災が起きたときに、わたしは思ったものだ、これから数百年は地震に日本一安全な都市は神戸だ、と。

人間は5年先さえも見通せないのに、数百年、千年先となると、どうでもよいと思うものだろう。

「津波と村」(山口弥一郎著)を読めば、それが人間には当たり前のように思う。

http://datey.blogspot.com/2012/02/588.html

千年の超未来へのまなざしが必要なことなのか、今日・明日の命こそが重要なことか、そもそもそのような比較は成り立たないことなのか、復興計画はまったくもって難しいことのようだ。


2012年3月11日日曜日

594忘れてはいませんか3月10日を

●記念日とは

天然現象から1年という日月が流れたことに物理的には何の意味もない。しかし、人間は時間という文化を発明して、人生を区切る癖がある。身近に事件が起きると地球が太陽を一回りしたときをもって意味づけをしようとする。
もっとも身近な例が誕生日である。誕生日は誕生した日の1日しかないはずが、それから毎年同じ月日を誕生日記念日として、これを誕生日という。
同じように死んだ日を命日という。命が尽きた日のことを省略して命日というようになったのだろうか。その命日が1万9千も重なった日が、2011年3月11日。東日本大震災から今日で1年が過ぎた。

毎日どこかでだれかの命日がたくさんあるのだが、同じ日にこれだけの数が、ほぼ同じようなところで、ほぼ同じ原因で命日が発生するのは珍しいから、それを思い出す行事を共同でやりたいと人間は思うらしい。
1923年9月1日、1945年3月10日、1995年1月17日、2001年9月11日、そして2011年3月11日、これらがわたしが記憶(体験ではない)している大量命日である。
昨3月10日の命日を共同で思い出す行事を誰かしたのだろうか。10万人以上がいわば虐殺の人災で死んだ日なのだが、人間は忘却する能力もある。2万人の1年、10万人の67年、この差は何を物語るのだろうか。

●犠牲者とは

震災で死んだ人たちを「犠牲者」というのが気にかかる。
犠牲とは何かのために何かを捧げることである。野球に犠牲バントというがある。塁に出ている走者を進めるために、打者が自分がアウトになるのにバントをするのである。これは打者が走者のために犠牲になったと言える。

では津波で死んだ人は、だれのために犠牲になったのか。中には誰かを助けて命が尽きた人もいるだろう。それはそれぞれ個別の犠牲者である。しかし、どことかの町は何千人の犠牲者とか、震災の犠牲者は全部で19000人とか言うのと、生き残ったもの全部が死んだ人に助けられたことになる。これでは生き残ったものはだれもが負い目を持って生きなければならない。たまったものではなかろう。軽々しく犠牲者といっては、生き残った人たちには気の毒だし、本当の犠牲者には失礼になると思う。

●中間貯蔵とは

中間とは、出発点と終点との間のどこかを言う。
出発点では、福1原発が発射した放射性物質が福島県内外に降ってその地域のあらゆるものを汚染させた。しょうがないから、その核毒汚染したもろもろを集めて廃棄せざるを得ない。
で、中間点として、その汚染廃棄瓦礫塵芥類を、福島県双葉郡内に設ける中間貯蔵施設に集めるそうだ。大量凝縮核毒捨て場である。その土地が降り積もった核毒で使えなくなっているのだから、これはやむをえないだろう
そして問題は、終点である。30年以内にそれらを県外のどこかの最終処理施設に移動するのだそうだ。はたして県外にその大量核毒を引き受けるところがあるだろうか。だれでも沖縄の普天間基地移転騒動のことを思い出すだろう。毒に汚染されていない地域を、あらためて毒で汚染するのである。
中間貯蔵とは言いながら、多分、最終捨て場にならざるを得ないだろう。そう、「核毒の森」となって。

●ふるさと放棄の政策も

震災は社会のトレンドを10年くらい後押しするものだと痛感したのは、2004年の中越震災復興支援で、中越の山村に行くようになってからだ。昨年の大震災もまさにそうである。被災した各地で人口が激減しているが、10年後に起こる予定が早まっただけである。
問題は、突然の進行だから、対応できないということだ。いや、突然の進行でもない日本各地での人口減少に対応できていないから、なおさら問題である。
問題となる根本は、自然現象とでも言うべき人口減少に対抗しようとすることである。だから、ある人口減少地域から、都市へと移住すると後に残るものから冷たく見られる。地域に残らせるための政策はいろいろ振興策としてあるけど、地域から出て行くための政策はない。出て行くものは、やむをえなくても自力でがんばるしかない。
なんだかおかしい。いまや出て行くことが主流になりつつあるのに。人口減少してもハッピーな社会、出て行った先でもハッピーな暮らしをできる政策のほうが今は求められているはずと、わたしは思うのだ。
積極的に「ふるさと放棄」の政策はないのか。そう、遠い別の地につぎなるハッピーな「それぞれのふるさと再建」をするのである。ふるさと再建こそが第1だとする政策では、他に移ったものにはやりきれないだろう。
これは去年の大震災で背中を押された日本社会で大きな課題として、あぶりだされなければならない

参照→地震津波火事原発
http://homepage2.nifty.com/datey/datenomeganeindex.htm#jisin


2012年3月11日日曜日

595震災ビル新装お目見え

横浜公園そばに、昨年3月の震災で傷んでいたビルがあった。

今日、前を通ったら、綺麗に修復された姿でたっている。2週間目はまだ囲いがあったような気がするから、震災1周年までに仕上げたのだろう。

●参照→横浜都心地震探検http://datey.blogspot.com/2011/03/398.html


2012年3月14日水曜日

596狼地震に無効核毒

地震がほとんどないところで生まれて少年時代を過ごした。19歳で関東に住むようになって驚いたのは、地震が多いことである。今から考えるとおかしいが、どんな小さな地震でも心臓がドキッとしたものである。なんと関東は危ないところだと思いつつ暮らすうちに、ドキッとはしなくなった。それでも、そうなるまでには数年を要した。
だから、外国人ならば、まさに昔のわたしのように、揺れるたびにビクッ、ドキッとしているに違いない。その上、原発からの核の毒が降ってくるとなれば、地理不案内の外国人は、なおさら不安に駆られるに違いない。
わたしが、どこか言葉が不自由な状態の外国で大地震と核毒の雨に出くわしたとしたら、新聞や放送でどこそこの地域では安全とか、どこそこ危ないとか言われても、それが自分のいるところとの関係がよくわからないから、その国とか広い地域全部が危ないと思うに違いない。そして逃げ出すに限ると思うだろう。
今、外国人のほとんどは、日本は地震と核毒でどこもかしこも全部が危ないところだと思っているにちがいない。でも、そのことをだれも否定できない。
これほど毎日毎日地震に見舞われると、だんだんと不感症になるのはやむをえない。毎度の地震を、ふん、また狼少年、いや狼地震かよ、。
そしてまた、核毒まじりの食品を食っているかも知れないが、どうせ年寄りだから、10年や20年後に発病しても、その頃は死んでるから、核毒なんてオレには効かないと同じだよ、もう、どうでもいいや。
あ、そうだ、与太話ついでに新提案を、、、核毒汚染食品を、70歳を超えたら年齢と同じパーセントで値引きして売ったらどうですかね、70歳に人には7割引きで、100歳の人には無料でね。


2012年3月23日金曜日

598震災と地価

地価公示が新聞に出ている。津波被災地の高台移転先の土地が高騰しているとのこと。そんなことになるのは、とうにわかっていながら、地価凍結をできない日本の土地政策がある。いや、土地政策がないのか。とにかく住宅(建物)政策はあっても、居住政策ってものがない。

一方、津波をかぶった所は地価下落とのこと。
ところで、次に地価高騰するところは、原発被災の著しい双葉郡のエリアであろう。えっ、津波被災よりもひどいのに、なぜ高騰するかって、そう思うでしょ?それが高騰するのは、このエリアが核毒貯蔵の場所として、必ず国有化されるからだ。それを狙って国か東電に高く売りつけようって、高台の次はここだって、もう不動産屋さんたちが蠢いているだろうなあ、多分、。

●参照→21世紀の「谷中村」は「核毒の森」http://datey.blogspot.jp/2011/08/47921.html