太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築
慶應義塾大学日吉寄宿舎

太平洋戦争に翻弄された戦前モダン建築

慶應義塾大学日吉寄宿舎(その1)

伊達美徳

第1章<戦前>慶応モダンボーイの新キャンパス

第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス

第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎

第1章<戦前>慶応モダンボーイの新キャンパス

◆丘の上のモダンデザイン建築

横浜市の北に位置する日吉に、慶応義塾大学日吉キャンパスがある。広大なキャンパスの南に半島状に張りだした台地の端に建つ白亜の建築が見える。1937年に建った慶応義塾日吉寄宿舎である。

建築史の専門家には、日本の戦前モダンデザインのはしりの典型的な建築として、その設計者とともに知られていたが、慶應関係者は別にしても一般には全く知られていない。ここでこれをとりあげるのは、現代の視点で見ると、実はただ物でない歴史を背負っていると知ったからである。
 これは日本近代史上において、教育機関としての慶應義塾としてはもちろんだが、日本の近代建築史においてばかりか、太平洋戦争において実に重要な役割を果たした記念的な建造物であり場所であるのだ。もしかしたら、復原前の東京駅赤レンガ駅舎と並ぶ戦争記念碑かもしれない。
戦争及び戦後復興記念碑としての東京駅赤レンガ駅舎は、復原という仕業で記念的造形が消えてしまったが、この日吉寄宿舎も同じ轍を踏むかもしれないのが心配である。
 所有者の慶應義塾大学が、老朽化していたこの建物を再評価し、2012年からその一部をリニューアルして現代的な学生寮として再生したと聞いて、興味をもっていろいろと調べたのである。といっても、公刊されている資料によるのみである。慶応大学に行って眺める程度で、そこの資料を調べるほどの深間にはまってはいない。

◆建築家谷口吉郎

 寄宿舎の建物は1937年に建った。設計は谷口吉郎(1904-1979年)である。谷口は後に建築家としての地位を、文化勲章受章者にまで社会的にのぼりつめた人である。建築家の受賞者は伊東忠太、吉田五十八、村野藤吾、内田祥三、谷口吉郎、丹下健三、武藤清、芦原義信、安藤忠雄の9名である。なお2012年末現在で文化勲章受章者総数は362名である。

 谷口がこの設計に取り掛かったときは、まだ30歳そこそこの若輩建築家であった。東京工業大学助教授として、1932年に建った同大学の水力実験室(最下段の写真)が処女作で、自邸、慶應義塾幼稚舎(1937年竣工)、それに続くのがこの寄宿舎である。 若い無名の建築家を、慶応義塾はよくも起用したものである。ここから彼は名建築家への道を歩み出したのであった。
 わたしが谷口吉郎先生の謦咳に接したのは、大学で教わった時である。その頃はもう還暦が近く、秩父セメント工場、藤村記念館、東宮御所などの名作で有名建築家であり、その美丈夫にして謹厳なる様子には近寄りがたい風格があった。右目と比べて左目が大きいのが印象的だった。建築意匠の講座を受け持ち、西洋建築史と設計製図を教えていただいた。

 設計製図とは、建築学科の各教師順番に、特定の建築の設計を課題として学生に与える。学生は一定の期間内に、設計図をケント紙数枚に烏口を使って墨で描き、絵の具で彩色するのである。まだコンピュータのない時代の話である。各学生の作品は建築学科の廊下に貼り出して、課題を出した教師が一人ひとり講評してまわって採点する。ある学期、その谷口先生の設計製図の授業で、オフィスビルの設計が課題に出された。このときのわたしの作品は、谷口先生からお褒めの講評をいただき、図面は建築学教室の保存とする栄誉を受けた。わたしの大学時代の勉強で、これがたったひとつの自慢である。なのに、仲間のだれも覚えてくれていない。

東京工業大学水力実験室


◆最先端のデザインと設備の寄宿舎

 慶應日吉キャンパス全体が台地であり、寄宿舎敷地はその南端の半島状に突き出した位置にある。3方が斜面緑地になっていて、低地の街を見下ろすことができる。低地は今は住宅市街地となっているが、建ったばかりの頃はのどかな農村であった。なにしろ東横線の日吉駅ができたのが1926年で、西側には住宅地の田園都市、東側に学園都市という開発構想であった。その西側に慶應日吉キャンパスが開校したのは1934年で、田園学園都市日吉がようやく出発したころのことである。

寄宿舎の建物は、台地の上にやや扇型に広がる感じに寄宿舎の南、中及び南寮の3棟が南面してほぼ平行に建ち並ぶ。南寮の西隣の一段下がった斜面地に、見晴らしの良い浴室のある浴場棟が建つ。そのデザインは、当時の建築界の最先端の国際建築様式とよばれた、一切の装飾を排した、いわばスッピンの姿である。

西洋建築技術が近代日本に入ってきてしばらくは装飾の著しい西洋古典建築のコピーが建築家の最先端デザインであった。東京駅がその例である。ところが1930年代になると、ヨーロッパからこんどはモダンデザインが入ってきて流行する。谷口の設計したこの寄宿舎もそうだが、その前の東京工大水力実験室が典型的なデザインである。ほかには、1931年の東京中央郵便局(吉田鉄郎設計)や、1936年の黒部第2発電所(山口文象設計)などがある。ただし、スッピンでそのプロポーションや構成だけで勝負するデザインは、当時は「豆腐に目鼻」と一般にはいわれて理解しがたかったし、それは今もそうであろう。

ここは慶応大学の予科の生徒が入居する寄宿舎であった。予科とは旧制高校と同じ17歳から20歳の3年間、卒業後に3年制の大学に入る。旧制高校の学生寮というと、バンカラで貧しい学生が汚く寄り集まって暮らす印象がある。実は私もそういう寮生活を大学時代に体験した。
 しかし、さすがに慶應義塾は違う。鉄筋コンクリートの3棟に個室で各40人が暮らし、洗濯サービスもあるし、床にはパネルヒーティング、各階に水洗便所、ローマ風呂とよばれたほどのまるで温泉場の展望風呂のような豪華な共同浴場があるのだ。寝具も家具も備わっていたから、寄宿生は身の回り品、衣類、学用品を持って来ればよかった。

 谷口は当時の建築専門雑誌にこの作品を発表して、こう書いている。計画敷地を見学しての帰りのことである。

「帰途、車中で頭の中にデッサンが描き出されて来る。幼稚舎で試みたパネルヒーティングを再びこゝでも成功させたい希望や、日頃から考へてゐる学生都市の新しい生活形式をあの見晴らしのいゝ丘の上に、一つ実現してみたい願望などが盛り上ってくるのであった。そしてその描想の中で、さっき崖の上から見下ろした広い桃畑に、美しい花が咲き出し満開して来るのを禁じ得なくなった」。 (「設計日誌の一節」谷口吉郎 国際建築1939年1月号)

 また後に谷口は思い出して、エッセイにこう書いている。

「この建物に入る人たちは予科の学生たちだった。それでこんどは人世の「青少年時代」に対してもっとも快活な宿舎を実現してみたいと思った。それでのびのびと四肢を大気の中にのばしたい成長期の少年たちに、わたしは見晴らしのいい高台に、3棟の寮舎と、ガラス張りの浴場を計画した。浴槽は円形で、大きな窓からは、広々とした桃畑と、崖下の竹林が見える。裸のまま戸外に出て、水浴もできる。脱衣室ではピンポンに打ち興じることもが出来る。そんな寄宿舎を私は昭和12年に設計したのであった。」 (「青春の館」1950年)

 慶應義塾と谷口との結びつきの端緒は、谷口が東京工大の助教授になったばかりの1932年ころに、渋谷の天現寺に建つ幼稚舎の校舎の設計を依頼されたことによる。それで信頼を得て、寄宿舎は慶應での第2作であった。そして戦後も信頼関係は続いて、学生ホールや新万来舎などの数々の名作を生むとともに、文学部の講師として建築史の講義もしたのである。

◆特別な意味を持つ慶応の寄宿舎

 いまどき寄宿舎というのは古いようだが、慶応では今もそう言う。それは慶應義塾の創設時から塾生を受け入れる寄宿舎を多く設けて、共同生活によって塾生を教育することが重要な役割を果たしてきたからだ。
 そのことを慶應義塾百年史にはこう記している。

「日吉の建設において特筆すべきものに、寄宿舎がある。元来、慶応義塾創立の当初は学生のほとんどが寄宿生であって、鉄砲州から新銭座、三田へと塾舎が移ったのちもこの風はかなり長くつづき、明治中期以後、学生数の激増によってその多くは収容しきれないようになっても、義塾の教育における寄宿舎の意義は相かわらず重要なものであった。そして、明治33年(1900)には400名を収容し得る大寄宿舎が三田山上に建設され、そこがつねに各種の学生活動の温床となり、舎生は全塾生の中核をなしていた。その後、大正6年(1917)に寄宿舎は麻布広尾に移ったが、このたび日吉の予科校舎完成と相俟って、さらに新たな設備と組織を有する寄宿舎を建てることになったのである。寄宿舎は学生の住居であると同時に徳育の機関ともいうべく、日吉の学園設備の全きを期するためには。そこに新寄宿舎の建設がぜひ望まれたのである。」

 慶應義塾がいかに寄宿舎を重要視してきたかがわかるし、だからこそ日吉という新キャンパスには理想の施設を整備したいとして、その期待に谷口が応えたということである。
 なお、当時の「慶應義塾寄宿舎規定」を慶應義塾百年史で見ると、舎費は年間180円とある。これは現在の日吉寄宿舎が月額17000円だから1130倍くらいになっているが、物価上昇はその倍以上だろうから現在のほうが安い。昔は金持ちの息子が入る学校だったのだ。同規定に食事について、全舎生が共同して「炊事会」を組織して炊事するとしているのが興味深い。

 寄宿舎ができた1937年と言えば、中国で盧溝橋事件がおきて中日戦争が始まった年である。やがて1941年の太平洋戦争に突入するのだが、徴兵制はまずは若者が対象だから教育の場も日本の戦争に巻き込まれていく。20歳になると兵役につくのだが、学生は大学卒業まで徴集が延期された。その優遇も1943年までで、1945年には19才に下げられた。そうして大学生も予科生徒も「学徒出陣」となって、校舎はガラガラになってきた。
 そこで政府が目をつけたのは、空き教室が多くなった大学を、増加するばかりで不足する軍隊の施設に転用することであった。小泉信三塾長のリベラルな教育で知られる慶應義塾も、時流には逆らえなかった。実はこの軍の施設に貸与したことが、戦後も慶應義塾の再建に不安な尾を引くのであるが、知る由もない。

第2章につづく

第1章<戦前>慶応モダンボーイの日吉新キャンパス

第2章<戦中>海軍中枢の秘密基地となった日吉キャンパス

第3章<戦後そして今>戦争の傷を癒しきれない日吉寄宿舎

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