東北に津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜】その2

東北に津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜(その2)】

津波が洗った旧市街跡と丘陵上の新市街は

どう連動して復興するのだろうか

伊達 美徳

1.あれから2年経っても未だに津波が戻っていかない

3・11大震災の津波被災地である東松島市の野蒜地区に行ってきたので、その観察記録を連載する。といっても、なにか提案するのでもなし、ましてやなにか実行する能力はなし、単なる昔都市計画家好奇高齢徘徊老人のたわごとである。

昨年秋に東北被災地に、小さなボランティア活動に行った。仙台からJR仙石線に乗って被災地を訪ね、東松島の惨状を見てこのようなことを書いた。

「東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】自然と人間はどこで折り合って持続する環境を維持できるのか」(2012年11月26日)

https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

このレポートはその続編である。

●図1:野蒜の仙石線東名駅近くの陸橋の上から南方面を撮影 2012/11/11

その去年の記事の初めに、この写真を載せた。2012年11月11日に、仙石線東名駅近くの陸橋から南東方向に向いて、東松島市野蒜洲崎方面を撮っている。
 向こうに海のように見えるのは、実は2011年3月11日の津波から、いまだに居座っている海水である。ここから惨状をくみとって調べていろいろと書いた。
 震災前は緑の田畑であったが、2年後も海水は引いていない。ここは昔の遠浅の海を干拓して、入浜式の塩田であったのを田畑にしたのだそうだ。それならば昔は、海水が出入りしなければならなかったのだ。いまそれが再現したのだろう。そこに行ってみることにした。

●図2:野蒜地区空中写真google earth 2012/04/12

図1の写真は、陸橋の上からこの写真の黄色矢印方向に撮った。
津波から2年後の先般(2013年4月19日)、その野蒜のいまだに海水が居座る洲崎地区に入ったのである。

●図3:野蒜の洲崎の中に取り残された小屋 2013/04/19

図11の中央上方の水中に小屋がみえる(図2の黄色丸の中)が、それがこれだが、もともとは農業用のなにかだったのだろう。 ここまでは元の田んぼのあぜ道を高く盛り上げてある海の中の道になっていて、入ることができる。

●図4:上の小屋あたりから図1陸橋(禿げた稜線部の下あたり)を見る2013/04/19

 あたりは一面の海水で、そこに半分沈む機械のようなものがある。他にも小屋などが半分沈んでいたりする。土地が沈下したのであろう。
 向こうの山の稜線の一部が禿げているが、ここが野蒜地区被災者の高台移転先で、ただいまニュータウン造成工事中である。そこから出る残土を、こちらの海に捨てて埋立するのか、それとも移転跡の宅地に盛り上げて地盤を高くするのか。
 5、6年後にはその山の上にJR仙石線も移転して、家家が立ち並ぶのが見えるようになるのだろう。そして山のふもとにも街が復興するだろう。どのような景観が生れてくるのだろうか。

2.津波は堤防を越え海岸林も森林もなぎ倒し運河も渡った

●図5:廃墟となっているJR仙石線野蒜駅

3.11大津波は、野蒜海岸から堤防を越え、海岸砂丘の松林をなぎ倒し、更に広大な余景の松原もなぎ倒し、東名運河も渡ってやってきた。まったくもってそのあまりの攻撃ぶりの結果の広大なる荒涼の地を眺めて、ただただ驚くばかりである。
  東名運河に接するJR仙石線の野蒜駅は、ホームも駅舎も付属の観光施設も廃墟の風景をまざまざと見せて、津波の攻撃にすさまじさを想像させる。まわりの瓦礫塵芥がかたずけられていればいるほど、廃墟の意味がよくわかるのである。鉄路が砂や草にに埋もれる風景は、あれから2年という時間を視覚化する。
  この駅も鉄道も、数年後には北部丘陵の上に移るのだが、いまは代行バスが廃墟の駅前停留所に止まる。

●図6:野蒜築港関連の歴史的遺産・東名運河の被災3年後

東名運河の護岸も運河沿いの松林も、津波により大きく損傷した。東名運河は津波の時にどのような挙動をしたのだろうか。河川のひとつだから、これが津波遡上のルートになったのだろうか、それとも東西のある水門が防いだのか。
野蒜地区の東に流れ込む鳴瀬川河口に、かつて明治政府が大築港をした。そして最初の設計にはなかったのだが追加して、野蒜の西の松島湾からこの野蒜築港まで開削した運河が東名運河であり、野蒜地区を東西に横断する。(参照:明治政府野蒜築港図) この運河は野蒜築港からさらに東に向かって北上運河となり、反対に西には松島湾の向こうの貞山運河に航路がつながって、日本で最長の運河である。
野蒜築港は完成するとすぐにその立地が失敗と分かり、明治政府は放棄した。いまでは築港も東名運河も日本の近代化遺産として新たな評価の光が当てられている。
復興計画には、これらを歴史的資産として復元することがうたってある。玄人筋には有名だったが、一般には無名だった野蒜築港が、これを機会に歴史的遺産として再生することになれば、それはまさに復興である。

●図7:津波被災前の野蒜駅周辺地区の空中写真(2010/04/04)

この空中写真を一見すると、海岸には防波堤があり、防波堤に沿って厚い海岸林があり、更にその内側の街には深い森があって、それ等の森に囲まれた街は、津波から守られているかのように見える。だが、 東名運河の南の森のある地区は、地盤の海面からの高さが-1~+2m程度で低く、北側は4m以上である。

●図8:津波被災直後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2011/04/06)

運河の南北地区共に津波被災したが、運河より北の地区には残存家屋が多いが、南はほぼ壊滅である。 海からの距離の遠さもあるだろうが、土地の標高の違いが津波被害の差になって表れている。
海岸林や街を囲む森は、津波にどう抵抗してくれたのだろうか。抵抗が無駄なほどにもものすごい津波であったのだろうか。津波は松林をもろともせずになぎ倒して、東名運河の北にまで押し寄せて街を破壊した。

●図9:津波被災1年後の野蒜駅周辺地区の空中写真(2012/04/12)

津波から1年の後には、瓦礫・塵芥・倒木類はきれいにかたづけられている。この徹底ぶりには頭が下がる。 松林から出た沢山の津波による倒木や潮による枯れ木がかたずけられて、緑も住家もほとんどない、ほぼ丸裸の土地が姿を現した。 あの深い森と見えたものが、これほどもあっけなく消え去ったのが不思議である。
 標高が1m以下の地に生えていた松林は、地下水位が高いので根が浅かったために、津波に耐えきれなかったのだろうか。 津波で倒木となると、それは液体の波が固体の破壊力をもって街を襲ったに違いない。
 伊勢湾台風(1959年)が高潮とともに名古屋を襲った時に、港にあった大きな貯木場の海面に浮かんでいた無数の大丸太が街の中を暴れまわって、被害を増大した事件を思い出す。

●図10:野蒜駅前から東名運河を渡ってみる被災3年後の風景

廃墟の野蒜駅を背にして、東名運河の護岸や松並木が壊れた様子を見ながら橋を渡れば、一面の野原である。右向こうに、成瀬第二中学校であった建物廃墟と、ほかに工場だったらしい建物廃墟、そしてここだけは復旧したらしい墓地が見えるだけである。
図7に見るように、このあたりは一面の深い森林であり、中学校はその森の中にあり、そのむこうには住宅地があり、更に向こうにはまた海岸林の松林があったはずだ。
それが一面の野原の向こうに、残存の海岸林らしいまばらな松がみえるだけとは、あの余景の松原と呼ばれた名勝はどこにいったのか。

●図11:被災前に東名運河の南にあった「余景の松原」

この写真はウェブサイトで拾ったのが、野蒜駅前から東名運河を渡ってちょっとの位置の松林風景(「余景の松林」というらしい)である。図10とほぼ同じあたりで撮ったらしい。この森を抜けると住宅地で、右のほうに中学校があるはず。
空中写真で深い森と見えたが、明るいスカスカの松林であった。もしもこれに広葉樹の中木・低木のある密な混交林だったら、もうちょっとは津波に抵抗してくれたかも知れないと思う。
しかし、日本人が好む森林は、木々がすっくと立ち並び、低木がきれいに刈り取られて、いつでも入りやすい明るい林である。深い森は好まれない。 特に海岸林は、白砂青松と称して、白い砂に緑の松がまばらに立ち並ぶ風景が好まれる。だから侵食してくる広葉樹を常に刈り取る手入れをしてきた。あの消えてしまった高田の松原もそうであった。
津波にどこまで抵抗できるかわからないが、少しでも抵抗するなら、密に樹木が重層する混交林にしておくほうがよいような気がする。

図12:東名運河の北側の街の津波被災3年後の様子

東名運河の南の地区に比べて北側の街は土地が高いので、山沿いは被災を免れたし、被災した地区でも被害をありながらも取り壊さないで、修理して住んでいる住宅、未修理のままに空き家で建つ住宅がたくさんある。
未修理の住宅は、今後に修理して住むつもりか、放棄のままだろうか。このあたりは元の住宅街に戻っていきそうな気配がある。

3.防災集団移転コーポラティヴニュータウンは震災復興都市に新展望をもたらすか

●図13:野蒜地区防災集団移転高台の造成工事

図4で見える丘陵地に行ってみた。山林を伐採し、土地を削って、大工事中である。 この高台の新しい街に、平地部に暮らしていて津波で何もかもなくした被災者たちが、防災集団移転事業によって移転してくるのだ。JR仙石線も駅を二つ抱えて引っ越してくる。
その工事の風景は、ちょっと懐かしかった。日本の高度成長期の人口増加時代に、各地の大都市近郊で山を削ってニュータウンをつくったが、その時代の大規模造成による開発風景を思い出したがのだ。
この前に、このような大規模な造成工事を見たのは、2004年の中越震災による山古志村での棚田復旧造成事業以来で、それを見た2006年にも懐かしく思ったものである。災害が土木造成工事技術を継承しているようだ。

●図14:野蒜地区北部丘陵移転先の土地利用計画図

(野蒜復興新聞2013/04)

●図15:野蒜北部丘陵移転先の新しい街の模型(野蒜の復興事業事務所にて撮影)

この新しい大規模ニュータウンづくりは、東松島市がUR都市機構に委託して事業しており、「野蒜北部丘陵土地区画整理事業」だそうである。約91.2 haにもなる大掛かりな新市街地造成事業である。JR仙石線もこれに見るような線形にして、平地から陸に上がってくるように路線変更する。
昔のニュータウンは、どこからともなくやってきて増加する都市人口を吸収するためであったので、あらかじめ特定の居住者たちが予定されていたのではない。だから事業者もプランナーも時代の要求を展望しつつ、かなり自由に計画することができた。
しかし、この野蒜北部丘陵にかぎらず被災地での、防災集団移転のための新しいまちづくりは、特定の大勢の被災者がそこに暮らすことがあらかじめ決まっているので、その人たちの意見を計画に反映しなければならない。
それはたとえれば、分譲共同住宅ビル(いわゆるマンション)を不動産事業者が建設して売り出すのが昔のニュータウンであり、特定の人たちが共同出資して自分たちのためにつくる分譲共同住宅(いわゆるコーポラティブハウス)が今回の防災集団移転事業である。
  防災集団移転のまちづくりは、いわばコーポラティブタウンである。 このコーポラティブタウン計画への参加者たちは、みんなが同じ近隣社会に暮らしていて、みんなが同時に津波被災したという、空間的にも時間的にも物質的にも精神的にも、あまりにも緊密なるつながりの中にあることが特徴的である。
もう一つの特徴は、彼らの多くが高齢者を抱える家族ということである。 その街が丘陵地であることから、造成工事にそれなりに時間がかかる。今の仮設住宅から新たな街に移るまでには、野蒜の例で見るとはやくても2017年から18年らしい。たいていの事業は遅れるから、まだ5年以上も先のことになる。このとき、若者の5年と高齢者の5年は大違いである。高齢者たちがそれまで仮設住宅で生活に耐えるだろうか、という問題がある。高齢者を抱える家族は、防災移転を待ちきれなくて、他に家を求めるかもしれない。それまでのコミュニティがいかに緊密であっても、その時間がもたらす生物的限界によるひずみは避けられない。
そのような家族が多くなると、せっかくの事業地に空地空き家がたくさん出るかもしれない。そうでなくても人口減少の時代である。 このことは、わたしの勝手な推測ではなく、先般、いくつかの現地復興事業関係者に聞いたことである。 ただし、野蒜地区のような、大都市仙台通勤圏にあり、海と緑のリゾート環境に恵まれた中での新たな宅地開発は、若い都市住民を呼び込む可能性もある。
東北での防災移転事業による新しい街が、新たな住民を呼び込む仕掛けになるとすれば、それはそれで地域の再生のためにはむしろ良いことである。もっとも、事業の本旨には悖るだろうが。 被災した人たちに限ってしまうと、閉鎖圏として人口減少が進むだけになるが、これを契機にあらたな世代の積極的導入をできると、展望のある被災地復興となる。
そのあたりについては防災集団移転事業をどう進めているのだろうか。単に平地から高台への住み替えのためのまちづくりとしてつくったなら、縮小再生産になるだろうと気がかりである。
  防災移転事業は各自治体が行う事業であるが、これだけ多くの事業が各地で同時進行であるとなると、いろいろと多難なことだろう。 事業資金は国庫補助で何とかなるのだろうが、おおぜいの避難所暮らしの被災者たちへの対応とともに、彼らの多様な意見をとり入れつつ進めるこの事業は、都市計画や建設計画の人材もノウハウも足りないだろうし、そのうち工事の資材も高騰するだろう。
特に計画段階の現在は、どのように地域の人々が参加し、将来を見据えた事業にするか、かなり重要である。自治体も地域住民も、そしてプランナーもそれぞれの能力を問われている。
これまで丘陵地開発と言えば、どちらかと言えばハードウェアづくりの土木技術が優先していたが、今度ばかりはソフトウェアとしてのコミュニティー再編成というまちづくりの基本が問われている。都市計画からいえばこちらの方が本道である。
1995年の神戸大震災の復興は、市街地再開発という旧来の手法であった。しかし今回は、旧来のニュータウンづくりも市街地再開発事業とも異なる様相である。新たな都市計画人材が生れるだろうと期待もしている。

4.津波被災跡地の広大な元の市街はこれからどうなるのだろうか

図16:野蒜地区の津波防災区域(災害危険区域)指定状況

東松島市では、東名運河の南も北も災害危険区域に指定しており、今後の住宅や児童福祉施設などの立地は制限している。 この災害危険区域内の土地建物権利者は、防災集団移転事業制度によって、野蒜北部丘陵に市が開発する新しい高台の街に移転先するならば、東松島市にその住宅跡地を売渡し、移転先の土地を買取りまたは賃借、あるいは市の建てる公営住宅を賃借することができる。
 移転先の新しい街については、すでにその計画案と検討課題を書いたが、それとともに移転跡地をどうするかという問題がある。そこは平地の広大な空き地である。 災害危険区域の関係権利者の全部が、防災集団移転事業で北部丘陵の新しい街に移転するのではないだろう。 住宅でない営業施設等は集団移転の対象にならない。住宅であっても建設完成を待てないなどの理由で自主的に他に移転するものも多くいるだろう。
災害危険区域の住宅禁止に関する緩和規定を使って、地盤を高くしたり2階以上のコンクリート住宅にする、あるいは被災残存住宅を修理するなど、元の場所に住むものもいるだろう。 そうすると災害危険区域には、集団移転者跡を買い取った市有地と、元の民有地が入り乱れていることになる。公有地がまとまっていれば、有効な活用もしやすいが、まだら模様では難しいだろう。それらを土地区画整理事業をやって入れ替えすればよいだろうが、市は移転先だけで手いっぱいだろう。民間事業者がやるほどのポテンシャルがあるか。
  さて、被災跡地の広大な元の街を、これからどうしようとしているか。
野蒜の災害危険区域の建築制限は、比較的に緩い条件にあるが、東名運河から南の災害危険区域は、運河沿いのほかは市街化調整区域である。災害危険区域と市街化調整区域という2重に厳しい土地利用制限があるので、新しい機能が入ってくることはほぼできないだろう。
 野蒜海岸に近い南余景や松島湾に近い東名などの街は、当初は砂丘の上にできたらしい漁村集落だったように見えるが、被災前には漁業者がどれほどいたのだろうか。 漁村というよりも一般住宅が多いようにも見えるが、これらの調整区域内の元の地権者たちは、2階建て以上のコンクリート住宅を建てるだろうか。
市街化調整区域内の最も住宅制限の厳しい野蒜海岸沿い地区は、もともと海岸林だったから住宅が建つとは思えないし、ここに建てるリスク好きがいるとも思えない。「余景の松原」などの緑地は、景観林としての緑地復旧する方向になるのだろうか。ほとんどの樹林が津波倒伏あるいは流失した、元のような松林がよいのだろうか。

5.津波被災市街地が再生するためには今のままの都市計画でよいのだろうか

●図17:野蒜地区都市計画用途指定状況

東名運河沿いの南北両側から北の山裾までは、もともと土地区画整理事業で整備した住宅地である。市街区域内であり、国道沿いは第2種中高層住宅地域、そのほかは第1種低層専用住宅地域である。
ここももちろん災害危険区域だが、運河から南は鉄筋コンクリート以上の頑丈な2階建て以上の建物ならば建ててもよいのである。住宅を除外していない。 低層や中高層の共同住宅が立ち並ぶかもしれない。それはそれで景観や配置などの適切なコントロールがされると、リゾート的な郊外住宅地となる可能性がある。
東名運河から北のエリアの住宅土地利用規制はさらに緩く、地盤を1.5m以上かさ上げするか、鉄筋コンクリート基礎高を1.5m以上にすれば、住宅建設も規制を外れるから、事実上はなにを建ててもよいことになる。
もともと土地区画整理事業によって道路等の基盤整備はされているから、今のような広大な空き地をそのままにしておくと、敷地ごとに建物が建ってくるだろう。仙台通勤圏のこの土地を不動産業界は狙っているような気がする。特に国道27号沿道は、用途地域が中高層住居専用地域で容積率200%だから、ここには高層共同住宅が建つ可能性がある。
東名運河の歴史的な景観、あるいは松島湾方面からの景観、地域内の環境など、今のうちにコントロール方法を用意する必要がありそうだが、現実はどうなのだろうか。
ついでに思い出したが、北部丘陵稜線に緑に成り代わって創り出すニュータウンの景観も、松島の風光明媚とどう調和させるのだろうか。中高層共同住宅と低層木造住宅が入り乱れるとなると、居住環境形成としては行政が積極的にコントロールを働かせないと困ったことになりそうだ。同時に、集団移転跡地の公有地の有効活用も計画的に組み込む必要がありそうだ。
  そのあたりは、今、どう動いているのだろうか。たとえば地区計画等による土地利用のコントロールをしようとしているのか、なくてもよいのか心配になる。杞憂ならそれでよいのだが。
もう一つの心配は、この跡地の再市街化が進むと、せっかく作る北部丘陵の新市街が空洞化するかもしれないということである。被災跡地の再市街化が可能となると、被災者たちは元の街に暮らすほうがよいと思い、移転を思いとどまり、丘陵の新しい街にはたくさんの空き家空き地ができるかもしれないからである。
あるいは、空き地空き家はでないかもしれないとも思う。それは、被災者が移転するのではなく、仙台に30分余の通勤圏として、津波被災とは関係ない住宅需要層への住宅市場としての立地であると見られるから、ここには新居住者らがやってくるかもしれないからである。集団移転対象にならなかった空き地空き家は、新住民対象となる。
それはそれで新しい街は機能するが、本来の役目を忘れることになる。それでも良いとするか、悩ましいことである。
防災集団移転地の新たな都市計画と、被災した市街地の既存の都市計画、それらの土地利用がどう連携するのか、それとも連携が必要ないのか。
被災市街地再生のためには、既存の都市計画はそのままで変更しなくてよいのか、あらたな都市計画は必要ないのか、いろいろと気になる。
大きなお世話のよそ者があれこれ言っていることは、東松島市の野蒜地区に限ったことではなく、大なり小なりどこの被災地の復興にも当てはまることかもしれないと思うのである。

6.被災した既存市街復興と丘陵上の新市街造成とは一体となる都市計画を展望しているのだろうか

●図18:東松島市復興まちづくり計画の野蒜地区の構想図

アクセスカウンター

東松島市の復興まちづくり計画が出されているが、津波被災地域を具体的に今後どうするのかは、これでは見えない。 見えないのだが、一方では北部丘陵開発はすでに着手している。被災者の早期移転のためには着手せざるを得ない事情はよくわかる。特に、元の地に戻ることが難しい立地の、海辺に近い集落の人々の行きどころは深刻であろう。
そのいっぽう、復興計画では東名運河から北の区域では、市街地の再建がうたわれているから、必ずしも北部丘陵に集団移転することが前提ではないようである。地盤を1.5メートル以上高くするか、RC造基礎を1.5mメートル以上高くすれば居住することもできる様に規制が緩いから、現地再建をする可能性が高い。
この地区に他の海岸部集落から防災集団移転する制度があってもよいような気がするが、ないのであろう。ついでに言うが、自治体を越えて移動する防災集団移転もあってよいと思うのだが、制度上は可能だが実際は行政が渋って難しいらしい。
野蒜地区の平地の旧市街地が元のように復旧するかと言えば、大きな違いは、JR仙石線が北部丘陵に線形を変えて、2つの駅が移設することだろう。この地域の生活がどれほど鉄道依存しているか知らないが、仙台駅から30分余の鉄道交通条件からいえば、その通勤通学利用は十分に高いであろう。
高台への鉄道の移設が、新市街地形成を促進するいっぽうで、旧市街地の復旧を戸惑わせる、そういうことはないのだろうか。
北部丘陵ニュータウンの詳細な計画は分からないが、わかる範囲の模型や図面を見ると、駅前広場からまっすぐな道路、元の地形と無関係な画一的な町割り、そしてニュータウンを既存の街から隔離する大きな緑地、これらは高度成長時代の郊外型ニュータウンのプラニングと同じように見える。今の時代もそういうものだろうか。
かつての平地部の野蒜の街と新たな丘陵上の野蒜の街は、地域の再生という視点では地形的にも都市計画的にもほとんど連続しないように見えるのだが、そういうものだろうか。
旧市街の復興、松島観光事業の建て直し、漁業や農業の再建、そして新たな産業機能の導入などがうたわれるが、それらは北部丘陵開発とどう連動するのか、総合的な計画があるのだろうか。
人口減少と超高齢化社会がやってきてコンパクトシティ再編成の時代に、あえてニュータウンをつくって市街地を拡大する意義を、大義名分の災害復興だけにもとめるのではなく、野蒜地域全体のなかで計画するべきであろう。
人口減少時代に逆行しているようにも見えるが、あえてその意図をもっての計画ならば、それはそれで興味深いのである。そこには仙台都市圏の将来、松島観光エリアの展望などあるだろうから、その意図するところの論拠をぜひ知りたい。

◆◆◆

 以上、東北被災地【北釜】編に連続して【野蒜その2】編を書いた。既に以前2012年11月に【野蒜その1】を書いているので、そちらも参照されたい。
 情報が現地瞥見とインターネットの範囲だけだからあたりまえだが、東松島市の野蒜復興計画には、野蒜地域の全体像の展望がまだ見えていない。これからどのように展開するのか興味深く観察しよう。
今後もまたがどこかの被災地について書きたいが、わたしはなにかを提案をしているわけでも、なにか実行しようとしてるわけでもない。現地をとおりすがりの、昔は都市計画を仕事にしていた余所者徘徊老人の、勝手な心配ごとである。もうちょっと格好よく言えば都市計画評論(瓢論か)であるにすぎない。(20130515)

参照

地震津波核毒原発おろおろ日録

http://datey.blogspot.jp/p/blog-page_26.html

東北に大津波被災地を訪ねて【東松島市野蒜地区】その1

https://sites.google.com/site/dandysworldg/tunami-nobiru

東北に大津波被災地を訪ねて【名取市北釜地区】

https://sites.google.com/site/dandysworldg/natori-kitakama