20世紀末の気まぐれコラム

再録「気まぐれコラム」(1999.4~2001.7) 伊達美徳

「週刊まちづくり」というメールマガジンがある。http://w-machi.net/

全国のまちづくり活動のお知らせ、まちづくり関係書籍紹介、まちづくり関連コラムなどが載っている。2人の若者が1999年4月に創刊して、毎週配信しているが、近頃は月に1回か2回になっている。情報が少なくなったとは思えないから、当初は学生だったのがいまは社会人となて、まちづくり活動に忙しくて、さすがに息が切れているのか。

それとも始めたころと比べると飛躍的に多様になった電子情報システムによって、まちづくり情報がそれぞれの発信源から直接に届くのが当たり前になってきて、毎週発信の意味が薄れたのか。でも、いまや13年半、500号、1100人を越える発信先となっていて、まさに「継続は力なり」と思わせる。わたしはその初めのころの99年6月から2001年7月まで断続的に、「気まぐれコラム」と称して、あれこれゴタクを載せてもらっていた。

思いついて、それらを一連のコラムとして、ここに収録した。読み返してみて、20世紀末あたりの時代の空気が面白い。

週刊まちづくり/9号(99/06/12号)

■■「気まぐれコラム」その1(伊達美徳)■■■■■

今、都市の中心市街地の再生が叫ばれている。中心市街地活性化法と呼ばれるものもできた。市町村はその基本計画だ、TMOだと大忙し(ところで、TMCなる建設省のまちづくり施策が昔からあるのはご存じですか)。だが、本当のところを言えば、中心市街地が衰えても、困っている人は少ないのが現実だ。中心商店街活性化が必要だとの声も大きいが、そういっている商店主自身が郊外に暮らして、街に通っているのだから、中心市街地空洞化の犯人のひとりなのである。

店の建物はもう減価償却しているから、いつでも商売を止められるのだ。商売がうまく行っていなのだから、跡継ぎに期待もしていない。郊外住宅宅地のサラリーマンも、一家に家族の数ほども自家用車を持っていて、近くに商店街がなくとも特別に困っていない。本当に困っているのは、郊外に移転できなくて、空洞化した中心部にのこったわずかの人たちだけで、特に高齢者が問題だが、絶対数がまだ少ないから大きな声にならない。そこに問題の本質があるのだが。

これまで商店街政策は、「地域商業近代化計画」から「コミュニティマート」、そして「商業集積法」とやってきてもまるでだめ。昨日突然に中心市街地が衰えたわけではなく、もう20年も前から衰えてきているのを見つづけてながら、いったい商店街活性化策はなにやってきたのだろう。なおかつ懲りずにまたこれをやるのは、早くいえば、もうなにやってもだめ、アメリカの圧力にも負けて大店法をやめさせられた、もうこの後できることは商店街に金くれてやるだけ、ということだろうか。

これじゃ農家を安楽死させようとする農水省のウルガイラウンド対策の通産省版じゃないですか。この延長上に、都市計画が安易にのってはいけません。要するに、今回も公共投資の種づくりに過ぎないのだ。農業のウルガイラウンド対応策が生業農家を安楽死させるかように、こんどは生業商店の安楽死政策でないと言えるだろうか。

だから喜んでいるのは、大規模店舗の規制が事実上なくなったスーパー屋と、大型店にぶら下がっていて商店街活性化の報告書を書くだけのコンサルタントと、なんでもよいからトンカチ仕事さえあればよい土建屋ばかり。またモールとアーケードの作り直しだ。空家ばかりの商店街は、みてくれだけは美しいシャッター通りになるだろうが、客はあいかわらずいない状況が続くだろう。そもそも、商店街のまわりで暮らしている客となる住民が居なくて、どうして商売が成り立つのか。まず、客となる住民を作るのが先決だろう。商店主さえが郊外から通勤していて、客が来ないと嘆いても、そりゃ当然の報いというもの。

これまでもずーっと、人のよいおばかさんの都市計画は、産業の要求するままに郊外ニュータウンだ工業団地だと、街をせっせと作り直してきた。で、いまになって気がつくと妙な街になっていて、これは都市計画が悪い、ハイ済みません直しますと言っては、また産業に奉仕してしまうことのくり返しだった。

バブル経済時代に都市計画がしっかりしていないから、土地利用が乱れる地価が騰貴するのだ、規制強化強化の大号令を受けて、91年に都市計画法を大改正しましたね。それでバブル沈下に役立ったかというと、施行例だ、規則だ、通達だ、見直しだと、手間どっている内に、金融引き締めでバブルははじけ、都市計画法改正は間にあわず役立たず。そして今、土地利用規制が厳しいから景気が浮上しないのだ、都市計画と建築基準法の規制緩和カンワカンワの合唱である。世の中いったいどうなっているんでしょうか。

さて話を戻して、中心市街地の活性化は、だんじて商店街活性化なんかじゃないのだ。大見えをきるけど、中心市街地の再生は、21世紀を生きるわたしたちの基本政策なのだ。これをやらないと、生きられなくなるおそれがあるのだ。たまたま商店街問題が同じ時におきてきたので、混同しているようだが、本質的には違うのである。

では、中心市街地活性化策が中心商店街活性化ではないならば、それはなにか。ちょっとそのヒントも述べてきたが、次回はそれをテーマにしたい。読者のご意見はいかがでしょうか。

週刊まちづくり/11号(99/06/26号)

■■「気まぐれコラム」その2(伊達美徳)■■■■

=<地球人口が増える、日本人口が減る>=

前回はいま流行の中心市街地活性化施策は、商店街活性化策じゃなくて、もっと根本的な21世紀を生きるための策だと、大冗談、じゃなくて大上段にふりかぶったところまででした。では、なぜ中心市街地活性化がそんなに御大層なことか。

実は人口問題が基本にあるのですね、今回は人口の話です。これが日本社会に大転換をもたらすのだ。回り道みたいだけど、これを知っておかないと、あらゆる先のことが考えられない。地球上の人口は波を打つように、増えたり減ったりしながら、だんだんと増えてきて、今や60億人で、このスピードなら、あと50年ほどで80億人という。

これは地球が養える最大限の人口だそうで、そのときになったらどうなるんでしょうか。そのころ、日本の人口はどうなるか。今1億2千600万人で増えているが、あと5,6年したら減少を始める。一時的現象ではなくて、どんどん減っていって、100年したら今の半分くらいになってしまう。

日本の近代化・現代化の道とは、えんえんと増えつづける人口政策といってもよい。都市政策だって産業政策だって、これまで人口が増えることを前提に一生懸命に進めてきたのだ。いまさら減少するといわれたって、その対処のしかたがわからない。

それじゃ、減らないようにしたらよかろう?。そういわれたって、人口の構造をみれば高齢のほうへシフトしていって、子を生む女性が少なくなってきているんだから、人間が動物である限り日本の人口減少は止められない宿命にあるのだ。今のうちに、生める女性に生んでもらいたい?。一人の女性が一生のうちに平均して2人ちょっと超えて生まないと人口は減るだろうと算術的にすぐ分かるが、今の日本ではそれが1.38人だそうです。

その分けはいろいろとあるけど、女性は子を生む機械じゃないから、金を投入して大量生産をおねがいすると、赤ん坊がでてくるということはあり得ない(ところが実は勘違い政策もある)。地球では人口が増える、日本では人口が減る、この関係がこれからの日本社会の都市計画や産業政策に大きな影響をもつのだ。これに高齢化が重なってくる。

それが中心市街地活性化と、どんな関係があるというのだ?。ではまた次回。

週刊まちづくり/12号(99/07/03号)

■■「気まぐれコラム」その3(伊達美徳)■■■■■■

=<吉祥寺は中心市街地活性化の元祖だ>=

前回、中心市街地活性化と人口減少問題の関係やいかにで終わった。ところが、週まち11号に土肥さんのレポートに吉祥寺(東京都武蔵野市)のことが載っていました。私は実は30年ほど前、吉祥寺のまちづくり現場に数年いました。気まぐれだから今回はその話にチェンジ。

吉祥寺はいまでこそ一大商業地だが、1970年でしたか伊勢丹百貨店の開店から急上昇した街。なぜ吉祥寺まちづくりは成功したか、思い出してみる。第1に、土肥レポートにあるように、地域にまちづくりリーダーたちが居たのです。加えて、積極的にまちづくりを進める革新行政(有名な社会党市長)があった。伊勢丹のビルは実は市の公社が事業主です。ついでに、それを支えるコンサルタントがいた・・つまり私たちのこと(^^)!。

第2に、当時としてはしっかりしたマスタープランをつくって再開発を進めたこと。もちろんプランどおりにできあがってはいなけど、プランがまちづくりの羅針盤であったことはたしか。第3に、大型店の配置が、既存商店街の外周部にあること。街を楽しく回遊するように伊勢丹、近鉄、東急の3店がとり囲むようにした。アメリカ型大ショッピングセンターと同じですね。駅前で客をすべて吸収してしまうような、よくある大型店配置ではないところがミソ。

第4に、まちづくりの端緒となった伊勢丹のビル(正式には伊勢丹も含めて武蔵野市開発公社ビルという)づくりは、実は道路づくりと一体となっていること。当時バス通りが今のサンロードであったごとく、まるで道路が無い吉祥寺に2本の都市計画道路を抜いた。その道路に当った商店群をこのビル内に移転してもらうためのビル建設だったのです。

第5に、自動車を商店街の中から排除したこと。今ではあたりまえですが、当時としては画期的で、わたしはこの計画を警視庁の交通担当者に説明して、えらく怒られた覚えがあります・・なにを言うか、車でどこでも行けるのが街だ!と。第6に、これが最も重要と思いますが、吉祥寺には密度の高い暮らしの街がとりまき、緑濃い井の頭公園があること。しかも所得階層の高い世帯が多いことが特徴です。商業側から言えばしっかりした日常マーケットがあり、都市としては街を支える緊密なコミュニティベースがあることですね。
つまり、良い街はよい暮らしをする住民がいることが大前提であるということで、思えばあれは中心市街地活性化事業の元祖であったか。で、話の筋はもとに戻って、次回に。

週刊まちづくり/13号(99/07/10号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その4】=<伊達美徳>=

前回までは、日本はこれから人口が減少する、そのとき中心市街地が重要になってくる、という入り口までの話でした。さて、近代の日本は人口が増える、働き手に職をあたえよう、だから産業は拡大だ、都市は拡張だ、土地の高度利用だ、とやってきた。

だけど、これからはその真反対になる時代だ。21世紀日本は、子供や若者が減り、高齢者が増え、しかも人口は半分までも減る。いったいどうすればよいのか。これまで誰も経験がない社会だ。いや、人口減対策は過疎地ではすでにそれに直面していろいろやってきたけど、全部実験失敗。少子対策もこども生めばお金あげましょうという施策もあるけど、女性は現金入れたら子が出てくる自動(児童?)販売機じゃない。これも実験失敗。高齢化対策は、こうなるとずーっと以前から分かっていたのに、今頃にわかに介護保険だ、バリアフリーだと騒いでいる始末。

シルバープランだかゴールドプランだか、エンジェルプランだか、いろいろと政策が出されてきているのは、拙速ではあるが、とにかくよいことである。そこで、厚生省、労働省、総務庁、建設省などからでた、それらのナントカプランとかナントカ白書類に眼を通してみた。

当方はまちづくり屋だから、少子高齢社会のまちづくりの視点からどんなことが書いてあるか期待したが、これは見事に外れた。少子高齢社会のことは、例外なくどの白書類にも大命題のごとく出てくるが、例外なく都市の構造としてそれをとらえようとするものはない。昨年の厚生白書はそれまでになく迫力に満ちていたが、それにも都市の構造との関係、高齢者や子育て世代の暮らしの場についてはは4、5行程度のおざなりだ。

建設白書には、せいぜいバリアフリーで段差なくすくらいのことしか書いていない。少子高齢減少の21世紀は、私たちはどこで暮らすべきかという視点はない。労働白書にも、どこで働くかという都市の構造としての就業の場の論はまったくない。高齢社会白書もおなじこと。今、日本は人口が高齢にシフトし、減少していくという重大な社会転機にさしかかっているにもかかわらず、これを都市の構造として受けとめる考えがあまりにもないのだ。

家族が減る、高齢者が増える、そうなるときに日本の都市構造はこれでよいのか。バラバラに広がった街で、高齢者は安心して暮らし働けるか。バラバラに広がった街で、子育てしながら女性が社会参加できるか。人口減少しても産業を衰えさせては、人々は食って行けない。その労働人口の確保をどうすのか。輸入外国人でまかなうのか。少子高齢減少社会で、はたらくことも、くらすことも、これまでのような拡大拡散型の都市構造を志向していては、いまにあちこち人柱がたつだろう。そうならないと政策は変わらないのか。

というところで、次回へ。

(伊達計画文化研究所・慶応義塾大学講師)

週刊まちづくり/16号(99/07/31号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その5】=<伊達美徳>=

<カントリープランが大切だ>

このコラムは、中心市街地のことを言いたくて始まっている。だがなかなかその本質論に入らない。中心があるのは周辺があるからなんですが、どうも周辺がいいかげんになっているから、中心に問題が出るのですね。前回に政策の問題を書いたので、その続きをやりましょう。

英国では、都市計画のことをタウンアンドカントリープランというそうな。でも日本はタウンプランだけ。だから、ノープランのカントリーから、タウンプランが崩されています。いや、カントリー側から言えば、都市の側がカントリーを侵している。
 おりしも、農業基本法の改正が38年ぶり国会で成立した(1999年7月12日)。つまりカントリープランの大本であるから、都市問題としてここに紹介しよう。そこには農政の基本理念として、(1)食糧の安定供給、(2)農業の多面的機能の発揮、(3)農業の持続的発展、(4)農村振興を掲げている。

基本施策には、(1)自給率向上を目標とする基本計画の策定、(2)消費者重視、(3)農業経営の法人化推進、(4)農産物価格の市場原理導入、(5)中山間地域への補助制度導入など。基本計画がこれから策定されるが、ようやく食糧安全保障と環境保全そして消費者への対応が政策の上に乗ってきそうである。

地域環境を保とうという視点から、中山間地の農地を保全する策として、直接補償の制度が登場した。けっこうなことですね。でも、わたしは中山間地よりも、市街地に接する地域の農地を積極的に保全することが、環境保全策としては重要だと考えている。そんな政策はどこにもないけど。

市街地に接している農地こそが、都市の環境への寄与度が高いのに、市街地かゴミやら排気ガスやら被って、生産環境を侵されやすい問題をもっている。なによりも、地価が高くなるという経済原理にさらされて、最も崩壊の危険にさらされています。

都市計画区域の中でも、地方都市の線引きしていない地域地区指定のない田畑は、目茶目茶にスプロール中。農業振興地域で開発はおきないはずなのに、農振解除なんて政治的に何とでもなるさ、という変な農政の世界。都市の方だって、人口が減ると市街地が縮まざるを得ないのに、いまだ田んぼつぶすミニ開発やニュータウンづくりをやめようとしないのも変ですね。

市街地の側からも農地の側からも、市街地の予備軍とさえ思われていて、いかにして農地を宅地にとりこむかという不動産屋的な発想が横行している。都市計画のマスタープランに、「農地が残されている」と平気で書く。これのどこがおかしいか分っていますか。

そして多自然居住なる奇妙な政策も国から出されており、農地の宅地開発はひとつの農政となりつつあるおそれもある。田んぼの中での暮らしはのどかそうだけど、実は農薬にとり囲まれた危険な生活です。買い物にも学校にも自家用車、学校から戻ったこどもが友達の家に遊びにいくのも親が自家用車で送り迎えする、そんな孤立生活の場が、これからの高齢社会に、維持していけるはずがないでしょうに。

ついでながら、これまでの減反政策もおかしい。農家の減少を促進するだけ。もう30年以上もやっていて、未だに着地点が見えない政策なんてありますかね。農政の柱の大規模農業政策も、農家の数を減らすから、農村集落が維持できなくなるばかりです。こんどの中山間地政策で、かわるのでしょうか。

いざというときに、こんなに農業が減退していて良いのでしょうか。1993年に記録的な大不作があり、明くる年は、タイからの輸入米でおお騒ぎしたのをわすれたのでしょうか。あのときは、まだ輸入できたから良かったど、この調子でアジアの人口が爆発的に増えると、むこうだって輸出できないだろう。

大輸出国アメリカやオーストラリアだって、第3世界の人口爆発国に輸出するから、日本は飢えるだけかも。いま日本人の食糧は、国内自給率は4割程度、6割も外国に頼っているんだそうです。輸入が減ったら、こわいですね。どうやって生きていくのでしょう。輸入できなったらすぐに、減反で生産やめている田んぼに稲植えれば良いと思うでしょ。そうは問屋がおろさない。稲作は初めても一年くらいではちゃんと実らない。3年目くらいから、なんとかなるもんだそうです。

農業は産業基盤というよりも、土地に根付いて生命を支える生活基盤・環境基盤となる公共財として、新たな視点でとらえなおす必要がありそうだ。というわけで、今回はカントリーの土地利用を大切にしないと、中心部どころか、みんなの命も危ない。飢えた経験の無い世代は、いまに大変なことになるぞー、という夏向きの恐いお話でした。では次回をお楽しみに。

(伊達計画文化研究所・慶応義塾大学講師)

週刊まちづくり/17号(99/08/07号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その6】=<伊達美徳>=

<恥を知れ、バイパス道路>

前回は、中心市街地を考えるには、市街地をとり囲む田園地帯、特に市街地に接するあたりの農地を守る方策が大切、という話でした。今回は、その市街地からも田園地域からもフリンジのあたり、特にバイパス道路を考えよう。

かつて街道は、すべて町と町をむすんで、街の中心を通るように配置され、街に用がある者も通りぬける者もその道を利用した。移動が歩行の時代はそれでよかったが、自動車の大量交通時代となると耐えられなくなり、交通渋滞や事故が起きるようになる。そこで、街に用のない交通は、街の外側に道をつくってそちらを通ってもらおう。これがバイパスである。だから、ただただ早く通りぬけるようにつくる道のはずである。

ところが、フリンジ地帯の田んぼに通したバイパス道路沿いを、それまで田んぼで家は建てられなかったのに、商店、住宅、工場等をつくれるように都市計画を変更するものだから、町に入っていく玄関先あたりに安売り屋と自動車屋の醜悪なる町並みができてくる。ついでに言わしてもらうと、あのどこの街にも出現したバイパス風景の醜さは、一体どういうことなんだろう。下手くそデザインの原色安物建築、、色形とりどりの看板と旗差しもの、派手なプラスチックの花飾りなど、その町の市民がよくも許しているものだと、不思議に思う、まったく恥を知れ、、。

さて、その沿道の商店や施設を利用する交通が生じるので、また用のない交通と用のある交通がまじって渋滞がおこり、バイパスのバイパス道路をつくらねければならない。これはどこかおかしい。さらにおかしなことは、バイパス道路沿いの商業が、中心市街地の商業を圧迫することだ。地方都市の小さな市場を食いあってしまうのは分かりきっているのに、沿道利用を許すのは、どうして?

それは、道路用地買収のやりやすさ(土地を売る地主・不動産屋の要望に応える)のためで、まちづくりの計画性がもなにもあったものじゃない。中心部の交通渋滞で活動に支障が出るようになっから、バイパス道路で問題解決しようとしたはずなのに、かえって中心部の衰えをもたらして問題を大きくしている。これは本末転倒も甚だしい。

道路投資の費用とその便益の効果分析は、その沿道部の地価を上昇させると効果が高い評価してきたらしい。ところが、その道路の影響で、中心街が衰退して地価下落と人口減少、農地の消滅で食糧問題や環境問題への影響、景観の悪化によるイメージの低下などなど、外部不経済をわすている。

ある研究発表で、バイパス道路の投資効果のひとつは、中心商店街に空き地ができて駐車場がたくさんできたことと、とくとくと述べた建設省の道路事業担当者がいて、あきれたことがある。まだ中心市街地の本題に入らないが、なにしろ問題は周縁部にも深く存在するのだから、しばらくご辛抱を(この項、次回につづく)。

(都市計画家)

週刊まちづくり/20号(99/08/28号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その7】=<伊達美徳>=

<郊外道路を森で囲め>

前回はバイパス道路のむちゃくちゃさを糾弾したのであった。そのつづきである。外部から都市中心部を訪ねて自動車でやってくる人々は、これらバイパス道路を通って街に入ってくるから、いわば玄関先のアプローチの位置を占めている。ところがその道沿いの商業施設なっどは、前回に述べたような恥知らずの勝手な装いで醜い風景をつくりあげている。

これから訪ねるまちが実はどんなにすばらしい美しい街でも、そのイメージが入り口のところからだいなしになっている。そもそもから考えても、バイパス道路の沿道土地利用は、交通機能のために必要な最低限の施設の外は、立地は規制するべきである。

だから提案するのであるが、その道の周りは、市街地とあるいは農地とのバッファーゾーンとして、しっかりとした樹林の緑の森で囲うべきである。ドイツのアウトバーンがそのよいお手本である。こうすれば、運転者にも憩いをもたらし、既存の田畑や既成市街地への影響を緩和し、街の玄関としての美しい風景を形成することになる。バイパス道路本来の機能も生きるはずだ。

このような提案に対して、道路を整備する関係者から、それでは農地の地主たちが道路用地を売ってくれないから、バイパス道路はつくりは難しくなり困るという声が聞こえてきそうだ。そうした「難しいからできない」として、街の中心部の道路整備を後回しにしてきた結果が、今の中心市街地空洞化という都市問題を招いたのである。

やりやすいことをやり、やるべき事を後回しにしてきたツケなのである。行うべきことは、難しくとも時間をかけて行うべきである。と同時に、農業政策としても、市街地アクセスのための道路沿いの農地に対しては、中山間部と並んで保全策を講じるべきである。いや考えようによっては中山間地よりも重要だろう。中山間地の農地は、耕作放棄したなら植生遷移(植物の生態が次第に移り変わっていく自然現象)に任せておけば、自然の樹林に戻っていくはずだ。

ありがたいことに日本の気候風土はそういうもので、ほうっておくと潜在していた自然植生に戻ってきて森になり、決して砂漠になったりはしないのだ。ところが市街地隣接農地は、保護しないでおくと、汚い安売り店舗や見苦しい駐車場や不細工な工場になり、それらが撤退するとお化け屋敷となり、まったくのところ砂漠になるよりも始末に悪い(それほどでもないか)。ここの農地保全にこそ、直接補償を入れるべきだと考えるのであるが、農業政策の方々はいかがお考えか。

今回もまだ、中心部にいたらない。ではまた。

(都市計画家)

週刊まちづくり/22号(99/09/11号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その8】=<伊達美徳>=

<21世紀日本の6大課題>

ここで、基本的な論点を、改めて整理しておく。21世紀における日本において、大きく価値の転換を促す課題を6つ挙げておく。これはそのまま都市政策に大影響をもたらすのである。

第1の課題は、日本人口の減少時代が2007年頃から始まり、21世紀末には半減に近くなる予測のなかで、拡大型の都市の構造をかえなくてはならないことである。

第2の課題は、少子、高齢社会となって、企業活動の基本である労働市場の量的縮少と質的変化が起き、女性と高齢層の社会参加が重要となり、これが都市の移動構造に大きな影響を与えることである。

第3の課題は、日本市場の成熟により、生活者にとって企業からの物質的大量供給はもう十分となる時代となり、それに替わる新たな希少かつ多様な価値の創造時代となり、発展型都市構造が変わることである。

第4の課題は、日本以外のアジア諸地域の産業と生活のキャッチアップにより、日本企業はアジア市場ねらいを転換することで、都市産業を再生あるいは創造することで、産業構造の変化が都市の構造んい変化を及ぼすことである。これまでいつの時代も産業が年を支配して生きたのである。

第5の課題は、地球資源は有限であると分かった21世紀は、20世紀に営々と投資してきたストックの中から良い物を選び出し、生かして使う時代となり、循環型の生活が循環型の都市構造を必要とすることである。

第6の課題は、私たちの生活レベルで、全地球レベルでの環境・エネルギー・食料問題に対処しなければならないために、日本の都市は農村との対立時代を終えて、都市農村蜜月時代を迎えなければならないことである。

これらの視点からの21世紀の日本の都市構造が変化する中で、伝統的な中心市街地が重要な役割を持っていることを、まず基本的に認識しておかなければならない。何が根本にあるか見ようとしないで、「中心市街地活性化は中心商店街活性化だ」と近視眼的に勘違いしているような今の日本諸都市の状況では、日本の21世紀は危ないのだ。

<人口増加策の意味>

根本問題として、まず人口減少のことを考えよう。どこの自治体の基本構想を見ても、人口が増える、いや増やすことになっている。全部を足すと日本はいったい何億人になるのだろうか。たしかに、日本全体での人口減少しても、すべての地域で減少が起きるのではなく、ある地域では人口増加もあるだろう。

それはその地域での自然増加によることもあるが、それも高齢化でブレーキがかかるから、他の地域から人々を呼び寄せての増加、つまり社会的な増加によることになる。とすれば、すでに老年人口が18から20パーセントを超えてな高齢社会となっているほとんどの地方都市では、これからの人口の自然増加は見込めない。

そこでは他地域からの、いわばよそ者たちを誘致することになる。他の地域から人がやってきて、その都市に暮らしたくなる、というほどの魅力を持っていなければやってこない。あなたの町にはそれが備わっていますか。もしなければ、その魅力をこれからつくっていかなければならない。それがまちづくりである。

それは、単に田畑をつぶして安価な住宅地をつくればよい、というものではないはずだが、あいかわらず郊外ニュータウンを作っている地方都市が多い。田畑をつぶして安価な住宅を売れば、誰かがやってくるだろう、働くところは工業団地で大企業誘致だ、といまだにやっている。そのままに都市計画マスタープランにも書いてある。

これでは過ぎ去った高度成長時代となんら変わりがなく、時代に対応する都市経営の思想がまったく欠けていることになる。ところで、人口誘致する策はどの地方都市でもやっている。地方都市どころか、超中央都市の東京中央区や港区でもやっている。

現市民にとっては、自分の街の人口が増えることは、それでなにか良いことがあるのだろうか。人口減少して何が問題なのだろうか。人口誘致するには、暮らすための住宅地や働くための工業地開発をしなければならなくなる。そうすれば、固定資産税や事業所税が増えて、市民への投資還元で、良いまちづくりをさらに進めることができるかもしれない。

しかし、その一方では、管理すべき市街地が増えたり、介護するべき市民が増えると、都市の維持管理費が増える。では、どんな人たちを誘致するか、若者か、高齢者か、金持ち階層か、サラリーマン階層か。日本全国人口減少するのに、どこの都市でも例外無く人口増加が基本構想にも都市計画マスタープランにも載っているのは、いったいなぜなのだろうか。

私たちは、経験したことの無い人口減少という未曾有の大事件におののいてしまい、ただただ眼をふさぎたいのかもしれない。今回は大上段に硬くなってしまいました。ではまた続きを次号で読んでください。(都市計画家)


週刊まちづくり/25号(99/10/02号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その9】=<伊達美徳>=

<都市における建築の保存の意義>

最近、建築保存問題にかかわって、考えたことがあるのでお話しします。
 東京目黒区に碑文谷(ひもんや)というところがあります。その住宅地の中に第1勧業銀行の社内用スポーツ施設のかなり広い土地があり、この大銀行も経営建てなおしだとかで、これを売りに出しました。目黒区が買ってスポーツ公園にするそうです。

 そこまでは、まあ、結構なのですが、新聞によれば、買い取る条件として更地つまり今あるテニスコート、体育館、クラブハウス、管理事務所などを取り壊すことになっているのだそうです。その管理事務所は1899年日本勧業銀行の本店(妻木頼黄設計)の一部を移築したもの、クラブハウスは1937年の建築(武田吾一設計)であるということです。そこで建築家たちが気づいて、いろいろな団体が保存要望書を目黒区と議会に出しました。

 日本都市計画家協会も同調して要望書を出すことなり、わたしも区議会に陳情に行くことになったのです。区で聞いてみると、更地にするという新聞報道は正しくなく、運動公園とするので使えるものは残して買うが、管理事務所とクラブハウスは老朽建築なので壊すということでした。

 さて、出した要望書の趣旨なのですが、「妻木頼黄と武田吾一の設計だから貴重な建築である、だから保存せよ」というのが主張の主なる論拠でした。そこで考えたのですが、これをお読みのあなたは、この二人の建築家の名前をご存知でしょうか。あなたが建築学科出身で歴史の勉強が好きだったら当然ご存知ですが、そうでない方でご存知なら、そうとうの建築オタクでしょう。

つまり、この保存要望が一般市民に理解されるかなあ、と、気になったのです。出した当事者がそう言っては仕方ないのですが、。これまでに歴史的建築保存の要望はあちこちの団体が出していますし運動もありますが、成功率はどれくらいなんでしょうかねえ。そのときにたまたま奇特なお方がいて、買い取って移築するなんてことで生き残る、有名なのは明治村ですね。

でも、本当に残すべきものならば、奇特なお方に頼るのはおかしいですね。わが家の家宝のように、市民だれもがそれを残すべきと思うならば、運動しなくてもそこで残るのが正常な世の中でしょうに、。さて、そうなるには、どうすればよいか。建築家という職能が西欧諸国ほどに一般に理解されてない日本で、西欧流に建築家をもってして保存要望の柱にして大丈夫かなあ、それはそれで実に重要なことだけど、建築保存をもっと市民がわかる言葉にするのは何だろうか、社会や生活レベルでどう表現するか、都市計画でのありかたなど、考え込んでいるところです。(都市計画家・全国町並保存連盟個人会員)


週刊まちづくり/29号(99/10/30号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その10】=<伊達美徳>

<都市における建築保存の意義ーその2>

 前回は東京・碑文谷のグランドにある、記念的建築の保存運動の話でした。その件は今、区議会から銀行に、その建物が由緒あるものかどうか調査するようにと、要望したところです。そのような折もおり、JR東京駅の丸の内駅舎、通称「赤れんが駅」としてだれもが良く知っている駅舎の改築(改修?)のニュースが、最近新聞に載りました。

関東地方でない方はご存知ないかもしれませんが、石原都知事とJR東日本社長が話し合って、4,5年のうちに赤れんが駅舎を、3階建てにして、ドームを三角から丸型に直すのだそうです。10月24日の日経新聞朝刊の第1面コラム「春秋」にも言及されています。
 どうしてそのように変えるのか。ご存知かもしれませんが、1945年の東京大空襲で焼けるまでは3階建てで丸ドームだったから、それに戻すのだそうです。つまり、1914年に新築したときの姿に復元するらしいのです。

 おお、すごいじゃないかって言いたいたいけど、あの複雑きわまる昔の姿に戻すには、大変なお金がかかるでしょうね。JRさんはそんなに儲かっているのかしら?。3階建てにしても、賃貸料が入る床がたいして増えそうにも見えないし、丸ドームにしてもそれで儲かる代物じゃなし、うーむ、、?。
 まあよろしい、表も裏も中もそっくり昔の姿になさるとしましょう。それは、今の建物を改修して昔の姿にするのか、一度全部壊して昔の姿を作り出すのか、どちらでなんしょうか。
 あっ、もしかしたら、近くにある銀行協会ビルみたいに、全部壊して超高層建築の貸しビルを建てて、その窓ガラスに昔の東京駅の書き割りをかさぶたみたいに張り付けるのかしら、。まさか、そんなことを文学者たる石原知事がうんとは言うわけがないし、、。

 ここでちょっと考えましょう。どうして昔の姿になさるのでしょうか。そんな必要があるんでしょうか。
 そりゃあなた、昔の姿はなんといっても素晴らしかったですよ、明治の日本の栄光を一身に体現していましたよ、あれをなんとかもいちど見たいもんですな、と、現物見たことある人が、今どれだけいらっしゃるでしょうか。
 いや、見たことないけど、戦争で焼けて修理した今のは仮の姿、何時までもそれじゃおかしいから直すべきだ、辰野金吾設計に戻せ、文化とはそう言うもんだ、などといっていながら、もうその仮の姿が55年の半世紀以上で、昔の姿だった34年間より長いし、今の姿が東京駅と眼に焼き付いてる人のほうが断然多い。

 今の赤レンガ東京駅は、下半身は第1次世界大戦の記念碑、上半身は第2次大戦の記念碑という、日本のふたつの近代化の大波を、真正面からまともに体現している貴重な記念費的建築なのです。今の姿の東京駅は、ほんとに醜いとお思いですか、景観を壊していますか? 教えてください。

今回も問題提起の入口です。続けて考えましょう。

(都市計画家、鎌倉風致保存会個人会員)


週刊まちづくり/31号(99/11/13号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その11】=<伊達美徳>

<都市における建築の保存の意義:その3>

 東京駅赤レンガ駅舎の保存問題について、今回も続きです。どうして書くかといえば、個人的興味もさることながら、この件はプロの仕事として調査研究に携わっていて、言いたいことも資料もあるからです。ジャーナリズムによく登場してきて、世論が揺れたり進んだりしそうなので、これまでの改築修復復元論を整理しておきましょう。

 私は東京駅赤レンガ改築問題11年周期説と言ってるのですが(太陽黒点周期説と同じー関係ないか)、1966年以来4回目、その全部を詳細に述べると大変ですのでかいつまんで。この建築については、単に昔のものだから残せというには、なかなかに複雑な問題を持っているのは、前回お話ししたように、上半身と下半身の時代が異なるからです。

 もっとも、いろんな時代の建築がひとつの建物に混じっていることは、ヨーロッパの石造建築でも日本の木造建築でも珍しいことではありません。それは、その建築が人々の生活の器として、長く愛されて使われてきたという証拠でもあり、それが歴史の積み重ね、文化の重層として現れてきます。東京駅赤レンガ駅舎における「保存問題」のひとつは、その文化重層の評価にあります。

 東京駅赤レンガ駅舎"保存"に関しては、これまで多様な論がありますが、「当初形態復元論」、「現在形態復元論」、「創造的保全論」です。わたしは一般に使われている"保存"という言葉は使いたくないので、"保全"といいます。凍結的な"保存・保護"よりも、使いながら保つ"保全"がよいと思います。

「当初形態復元論」は、当初の形に戻す考え方で、先般の発表もこれのようですが、よく分からないところもあります。皇居に向かって立ち、夕日が照らすと美しく映えたあの昔日の姿こそ、日本の近代化をおしすすめた偉大な明治の精神を具現するものである。今の姿は昭和の時代の不幸によって歪められたので、3階建てに戻しドームも丸く復元すべし、という論が88年ごろ展開されたことがあります。
 建築史学者にして建築家・藤森照信氏は、日本の建築界の育ての親・辰野金吾の3部作のひとつで、様式建築の日本化を果した復元こそもっとも正しい道とされています。

「現在形態保全論」は、1945年東京大空襲によってに変った現在の形態を保するべき、とする意見。当初の姿であったのは1914年から1945年までは31年間、今の姿になって既に54年間、だから今の姿こそがみんなが知っている東京駅です。
 当初の姿がいわば第1次大戦の戦勝記念碑ならば、現在の姿は第2次大戦の敗戦記念碑となり、その意味での価値は今の姿にも十分に重い。
 特に東京では第2次大戦を記念するような建築物は全く失われたと見られるなかで、これほど貴重な建築物を失ったり変えたりすることは大問題、とする論です。
 これに私もくみします。

 建築史学者の平井聖氏は、もし復元するなら東京駅が体験した3つの姿を表現すべし、との提案をされています。つまり、3つのドームの内、ひとつは現在の角屋根のまま、ひとつは丸屋根に復元、もうひとつは戦災直後の鉄骨むき出しに復元せよと。
 「創造的復元論」は、創造活動として復元をとらえるべきとして、当初の姿を高さ100メートルの建築に伸ばして復元する案がありました。建築家・丹下健三氏の提案です。
 建築は単なる回顧趣味ではなく、都市の景観を創造するものであり、歴史的な環境としての景観を保全するなら、辰野のデザインの意図したスカイライン・街並みを現代の高層建築群の中で生かす形で継承することこそが復元である、とする提案なのです。

 これからそれぞれ勝手な超高層が立ち並びそうな丸ノ内かいわいで、特異な市風景を生みそうです。さて、みなさん、どれがお好きですか。では、公式見解はどうなっているか、それは次回に。

<都市計画家> (禁無断転載)


週刊まちづくり/32号(99/11/20号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その12】=<伊達美徳>

<経済政策で少子・高齢社会のまちづくり>

 しばらく中心市街地論から遠ざかっていましたが、ちょっと新しい政策が出たので、思い出して書きます。
 これまでのどの省庁の政策にも、これから少子・高齢社会では、われわれはどこで暮らすのか、という視点が欠落していたのですが(気まぐれコラムその4参照)、やっと、政府の重点政策に、少子・高齢社会のまちづくりに関する基本的なことが出ました。

 先日発表された「経済新生対策」の中にです。次にその部分をコピーしておきます。

[経済新生対策(経済対策閣僚会議 1999年11月11日)
1.21世紀に向けた生活基盤の整備・充実
(1)都市・地域基盤の再構築
1)「歩いて暮らせる街づくり」構想の推進
 少子・高齢社会にふさわしい安全・安心でゆとりのある暮らしを実現するためには、通常の生活者が暮らしに必要な用を足せる施設が混在する街、自宅から街中まで連続したバリアフリー空間が確保された夜間も明るく安全な歩行者、自転車中心の街、幅広い世代の住民からなる街、住民主役の永続性のある街づくりが重要となる。
 このため、「歩いて暮らせる街づくり」構想を積極的に推進することとし、全国10ヵ所程度の地区においてモデルプロジェクトを実施すべく、平成11年度中に対象自治体を選定する。](一部を抜粋しました)

 どうも舌足らずの書きぶりですが、ここに書いてあることは、街ならば当然のこと、街の定義のようなものです。なのに、しばらく忘れられていました。どこにも書いてありませんし、これ書いた人もどう考えたか知りませんが、これこそが21世紀の中心市街地活性化の基本となる政策です。しっかりやってほしいし、進めたいものです。
 でも、これがなんだかつらい感じがあるのは、経済再生政策として出てくるところです。不況だから歩いて暮らせるまちづくりで経済再生だ、というのは、どうもなにか違うんじゃないの、といいたくなりますが、まあ理由はなんでも、そんな街が戻ってくる政策を本気でやるのならうれしいことです。

 とくに、私のような「不良老人の暮らす街」待望論者には、夜中まで飲んでも自宅に歩いて帰ることができる街、なんて嬉しいことです。これから必要なのは、不良老人の町です。今後少子化で、不良青年・不良少年が減った後の街は、不良老人にお任せあれ。いや、まじめ老人にも、自宅から自転車で、仕事場や図書館に通うことができる街は素敵ですね。少子社会は、子育て女性たちがしっかり社会に参加できる町です。歩いて暮らせる町なら、歩いて働ける町なら、それも可能でしょう。

(都市計画家、日本都市計画家協会会員)


週刊まちづくり/34号(99/12/04号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その13】=<伊達美徳>

<都市における建築の保存の意義:その4>

東京駅赤レンガ駅舎保の方法について、公式見解はどうなっているか、前々回のつづきを書きます。

1988年3月に、国土庁大都市圏整備局・運輸省大臣官房国有鉄道改革推進部・建設省都市局が連名でが発表した「東京駅周辺地区総合整備基礎調査報告書」があります。
 公式見解なのかどうか難しい点もありますが、政府機関が調査したものですから、それといってもよいでしょう。これが、東京駅に関して正式な印刷物として出された最も最近のものでしょう。ここには赤レンガ駅舎ばかりでなく、東京駅全体とその周辺街区までも整備計画が示されています。では、赤レンガ駅舎については、どう書いてあるか。

***********

「東京駅周辺地区の整備方針」の章の丸ノ内駅舎に関する部分を抜粋しておく。

『丸ノ内駅舎の取扱いの方向

(1)東京駅丸ノ内駅舎は、大正3年に開業時には3階建の建築であったが戦災を受け、昭和22年に2階建に改修・復旧され現在に至っている。

(2)近年、構造、設備の老朽化が進行すると共に、土地の高度利用の要請がある一方、保存を求める声もおこっており、適切な調和点を求めることが必要となっている。

(3)以上を踏まえ、丸ノ内駅舎の鳥か使いについては、次の方針により取り扱うことが望ましい。丸ノ内駅舎は、長年にわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物であり、また、本地区の都市景観を構成するランドマークとして評価されるため、現在地において形態保全を図る方針とし、今後、具体化にあたっては次のような点に留意するものとする。

ア.建物自体の耐力診断を踏まえ、形態保全の具体的な方法を検討するものとする。

イ.土地の高度利用との調和については、駅舎の背後に形態保全に十分配慮しながら新たに建物を建築する方法、駅舎の上空の容積率を本地区内の他の敷地に移転する等の方法等により実施する。』

************

さて、このことから何が見えるか。要点は次の通り。

・長年にわたり国民に愛着のもたれる記念碑的建造物
・本地区の都市景観を構成するランドマーク
・現在地において形態保全を図る

 まずは「現在地」であるから、明治村にもってゆくのではない。現在の東京駅のある場所ですね。
 次に「形態保全」とはなにか。「形態」とは、「長年にわたり国民に愛着」されてきた形態であるから、これは現在の形を意味するととるのが自然でしょう。
 「保全」とは、保存でも保護でもありません。一般に「建築保全」とは、建築物を使いやすいように、安全に、美しく保って、使っていくことをいいます。赤レンガ駅舎は、今も駅として生きている建物です。まさに建築保全の賜物で、これを生かして使うのだから「保全」なのです。文化財保護法による復元的保護でもないし、現状凍結的保存でもないのです。
 今の所で、今の形で、今の駅機能を生かして使うのが、「現在地において形態保全」なのである、と、わたしは理解しているのです。
 さて、大問題は、(3)のイの方法です。形態保全論についてはあれこれと世論があるのに、これについては起きないのが、本当に不思議に思っています。わかりにくいのでしょうか。

(都市計画家 自称・週まち相談役)


週刊まちづくり/37号(99/12/25号)

◆まちコラム◆<気まぐれコラム>【その14】(伊達美徳)=

<都市に工業を戻す都市計画>

週まち34号に矢崎早人さんが「大都市の工業活性化とまちづくり-工業のまち大田区を中心に-」というシンポジウムの報告をされていました。実は私もそこにいました。ちょっと違う視点から今度は私が書きます。

東京大田区には、田園調布という超高級住宅地もあれば、蒲田あたりは町工場型ハイテク工業地帯として有名で、二つの顔を持っている。

この産学共同のシンポジウムで面白かったのは、学者のレポートではなく、町工場の職人の現場話だった。

直径4メートルもあるパラボラアンテナを、どうやってつくるか。なんとアルミ円板をぶん回しながら、宛てた棒を職人数人で手と体で押していって皿みたいに立体に曲げるのです。

宇宙ロケットの筒だって、お寺の屋根の上の宝珠だって、とにかく丸い立体ならなんでもそうやってつくるのだそうだ。機械でどーんとプレスすればよさそうなものを、それじゃできないそうで、職人はすごい。そんな職人芸の技能を持った人が次第にいなくなっているとか。。

それは大量生産こそ正しい道だと思い込んだ高度成長期に誤った判断があったそうだ。機械技術がエレクトロニクスとともに発達して、これからはなんでも機械が造れると、職人をないがしろにしたのでいなくなってきた。ところが同じ物をばかりたくさん作る工業は、次第にアジア発展途上国に移っていった。日本の産業の空洞化である。

これからの日本の工業は、先端的な開発を目指すべき時代となった。新たな技術開発の新製品を生み出すためには、まずそれが製作可能かどうか試作品を作らなければならない。それを作るのは大量生産の機械ではなくて、一つ一つ作り出す職人の技能からなのだ。そこではじめて、職人がいてこそ高度技術開発が可能だったと気がついた。

そのような職人が、大田区や墨田区の町工場にはいるのだ。生活の場と仕事場とが一体となっており、思いつけば夜中までも旋盤を回して腕から逸品を作り出す。町工場相互に連携してそれぞれの腕の役割を分担しあっており、一つの製品が工程にしたがって街を回ってできあがる。町全体がコンビナートだ。

ところで、近代都市計の原理は、住宅と工場の混在を許さないようにしている。今ある町工場は都市計画が決まるよりも昔からあるので、既得権で街の中にあるけど、それを増築したり機械を大きな物に入れ替えたりしたら違反建築である。そんな街で職人は技能を養って生きて生きて、日本の先端技術開発を支えている。

本当に住宅と工場は、分離しなければならないものか。技術革新は煙や音や臭いを押さえることにも成功しつつあるから、単純に工場イコール公害という図式ではないだろう。もちろん安易に混在を認めるのも問題だが、地域ごとに産業と生活のありかたを考慮した都市計画が必要になっている。

高い技能を持つ職人たちが、良い環境で暮らしながら働く街、それが「もの・まちづくり」(国土庁)とか「ファッションタウン」(通産省)という政策となっている。特別用途地区制度を積極的に活用して、ともすればこれまで背を向けあってきた産業政策と都市政策の連携する時代が来ている。

週刊まちづくり/38号(2000/01/01号)

◆まちコラム◆まちづくり新春コメントーちかごろ困ること2つ。

○まちづくりは特別のことか?

最近はあちこちで、まちづくりの報告会があります。よいことです。

そこで良く出る話。これには寝食を忘れて本業もなげうって没頭したリーダーがいたので成功した、ありがたいことだ、という類いの話です。

それはそれで頭の下がることなのですが、そもそも、まちづくりとは、そうもやらないとできないものなのでしょうか。それではめったのことでは手が出せない。

ちょっと前まで、都市再開発には3キチが居てこそできるといわれていたことがあります。キチが差別用語に入ってしまったので説明に困りますが、ようするに地権者、行政そしてコンサルタントの3者に、寝食わすれて取り組む者たちが居なければ再開発は成功しないというのでした。

今は、だれかが犠牲になってのまちづくりはおかしいし、みんなが頑張ってこそまちづくりだから、そんなことは言うまい、という雰囲気になりつつあります。

まちづくりには、本当は、もっと気楽に取り組むべきなのでしょうね。

○まちづくりはタダのりでできるか?

それじゃ気楽にやるのだから、タダでできるか。そうはいかない。そこは関係者が身銭を切ることが重要ですね。

まちづくり運動費は行政からひっぱりだそうとか、デベロッパーをうまく使ってタダでやらせよう、都市計画家や建築家などの専門家は今仕事が無いから成功報酬で釣って使おうとか。

どうも自分のまちづくりなのに、身銭を切らない雰囲気がまだまだありますね。まちづくり懇談会を結成するはなしで会費を徴収するとなると、とたんに白けることがあります。会費出してこそ、自分の活動だという意気込みが出ると思うのですがねえ、。

土地さえ持っていれば、だれかがやってきてまちづくりやってくれるという、バブル時代のしっぽが、まだ太くころがっているようです。

【伊達美徳/都市計画家】

週刊まちづくり/40号(2000/01/15号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その15】=<伊達美徳>=

<白木屋が消える>

先週の各新聞に、東京・日本橋の東急百貨店だった建物を壊して、跡地にオフィスビルを建てる計画が、完成予定写真つきで出ました。

あの建物は、三越や松坂屋と並ぶ老舗の、江戸時代の呉服商から続いた有名な白木屋という百貨店でした。戦後高度成長期に新興鉄道資本にのっとられて東急百貨店になりました.それも去年閉店して、300年以上の歴史を閉じました。

さて、その建物ですが、実は建築の世界では、結構有名なのですが、東京駅みたいにだれも、建築家さえも、なんにもいわないのは、なぜでしょうか?

そりゃ、東京駅みたいに派手じゃないからだろうって?そうですね、なんだか灰色のコンクリ板がはりつけてある、なんの変哲もない建物です。でもね、あの建物ができたのは1928年のこと。そのときは大変な評判のデザインでした。

あんな格好がどうしてって? そうじゃないのです、あのコンクリ板は1957年に、全面改装してからの姿なのです。

戦前の姿は、クラシック様式の三越の向こうを張って、外はインターナショナルデザインとかいって直線とガラスで構成しながらも、入口やら内装は金ぴかタイル貼りのお飾り過剰のアールデコ風やら、まあ、いかにも商業建築らしくあれこれと派手な俗受けするデザインでした。設計は石本喜久治という有名な建築家。

では、それを何ゆえあんな愛想のないデザインにしたか。そこが建築界の面白いところで、1950年代頃は、あのようなある種の純粋さを求める建築デザインが主流だったのです。今見るとえらく無愛想なデザインを賞賛した時代があったのですね。

改装デザインをしたのは、これまた有名な建築家・坂倉順三です。けっこう、そのときも評判になりましたが、さすが俗受けはしなかったですね。

面白いのは、裏通りから見上げると、昔のままの姿が見えることです。でも、えらく無愛想な純粋に柱と壁だけの構成なので、これも戦後の坂倉デザインかと見間違うのですが、実は裏は戦前からの姿なのです。

これが手抜きじゃなくて、はじめからその意匠なのですが、どうしてそうなのかを語るのも結構面白い建築デザイン史になるのです。これは専門的面白さなので別の機会にします。

ついでながら、白木屋の百貨店としての歴史もその建物の歴史とともに、数奇な運命をたどっています。例えば、白木屋火事という、日本女性下着史に大きな影響を与えた大惨事がありました。

白木屋のっとり事件も、横井英樹や五島慶太など、その時代の怪しげな猛者どもが登場して、新聞沙汰になって面白かったですね。

さてと、そんな白木屋がなくなってしまうのですが、今の建物を見ても面白くもないので、だれもなにもいわないのだろうと思います。

でも、あの建物の中に込められた歴史も、東京駅に負けないものがありそうだなあ、なのに、この新築予想図は白木屋の歴史をなんら感じさせないなあ、ついに三越との競争に負けて三井軍門に下った意匠だなあと、思ったのでした。

わたしは去年の閉店売り出しのときに、この建物にお別れにいってきました。

(建築趣味の都市計画家)

週刊まちづくり/43号(2000/02/05号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その16】=<伊達美徳>=

<体験的借家論―その1>

「借家」とかいて、「しゃくや」と読むか「しゃっか」と読むか、あなたはどちらですか。しゃくやなら庶民、しゃっかなら金持ちかも、。これを書いているWPソフトは、「しゃくや」でないと「借家」と出してくれないから、庶民のつくったソフトでしょうね。最近の話題は「定期借家法」できたことです。

これがなにを意味するかか分かる人は庶民、あるいは金持ちの貸し家持ち。

ここで、わたしの体験した住み家の変転を数えてみます。

持家(一戸建て:生家)―間借り(寮)―間借り(寮)-間借り(寮)―間借り(寮)-間借り(アパート)-間借り(アパート)―借家 (公団)―借家(テラスハウス)-借家(公団中層)-持家(一戸建:現在の住居)-借家(公団高層)-借家(マンション高層)―借家(マンション低層)-借家(マンション高層)-借家(マンション高層)-借家(マンション高層)。

あらためてエーッと自分でも驚きますが、17も住まいを変えています。このスゴロクのような変転は、数回の転勤及び単身赴任と、引っ越し趣味(都市の暮らし方自主モルモット的実験)が混じっていますから、普通の人よりはずいぶん多いでしょう。

でも、この動きの順序は、日本の高度成長時代を駆け抜けて働いてきたものの典型かもしれません。

ご覧のように借家のベテランです。そこで定期借家法が喧しい世になったので、体験的借家論をこの際書いておこうと思いました。

わざと資料を見ないで書きますから、年代の誤りがあるかもしれません。

アパート-公団賃貸住宅―持ち家という、人生の住家遍歴典型的コースがある。この持ち家が人生の「上がり」になるとする政策が出たのは、60年代だった。

住宅公団の賃貸住宅は、戦後日本の都市化の中で大きな貢献をしてきた。日本のそのころわたしは公団賃貸住宅にいたが、建築・都市計画の専門家の卵として、その政策、その技術に大きな期待を持っていた。

ところが、持ち家政策に転換して、公団も分譲マンション業にせいをだすようになった。高度成長時代を流浪しながら働く都市住民として、持ち家政策は不自然な感じを持ったものである。

まず、買える金額でないこと、買えるのは職場と遠いこと、転勤に対応しないこと、安価な賃貸住宅が低質になってくることなど、生活の基本的な点で本当に困ったのである。

持ち家政策の根本のところが、政治的事情であることがその不自然さの大きな原因であった。いわゆる55年体制を維持するための保守政策に、日本人が乗せられてしまったのだ。

それが低質なアパート群と密集市街地を放置し、心の空洞化を招いたのである。そのところを体験的にしっかりと言っておきたいのだ。

この論の続きは次回に。(引越し趣味の都市計画家)

週刊まちづくり/44号(2000/02/12号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その17】=<伊達美徳>=

<体験的借家論―その2>

60年代初めに社会に出たわたしは、高度成長時代を都市漂流していた。勤めた小さな設計事務所(今は大会社になっている)に、社宅制度が整っているわけもない。仕事の場所と出身地と関係ないから、わが住家を自分で調達しなければならない。借家のベテランになるのは必然だ。

当時の日本住宅公団(今は都市基盤整備公団)はあ、賃貸住宅だけを供給していた。その集合住宅供給への態度は実に先進的であり、日本の今のマンションや住宅地づくり技術の基本は全てここにある。

60年代末から70年代前期までが、その賃貸住宅供給のピークだったろうか。都市漂流民にとっては、その賃貸住宅に結婚とともに入るのが、憧れだった。団地族という当時の流行語にはそれがこめられていた。

ところが、数十万戸にもなってくると、団地族がひとつの社会的な力を持ってくる。若くて旺盛な知識と労働力を振りかざす団地族は、身近な住宅政策をてこにして政治的な力さえ持ち始めた。それが当時の社会党の支持層と重なり、都市を漂流する団地族予備軍もこれに加わる。これはもしかすると、55年体制を危うくするという、政治的観測が表面に出てきた。

こうなると、自民党にとって55年体制を堅固にするためには、できるだけ早く団地族を分散させなければならない。予備軍には団地迂回ルートを作らなければならない。それが、持ち家政策への大転換であったと、わたしは位置付けている。以後、中流と称する小市民社会日本を生み出したのである。

公団はそれまでの賃貸住宅供給を後回しにして、分譲宅地・分譲住宅をつくることへと転換した。もうひとつの大きな賃貸住宅政策だった公営住宅も弱者対策的な方向へと変わり、供給公社という分譲不動産屋に転換する。

列島改造ブームを煽りたててで、山を切り谷を埋めて土建屋の仕事が郊外宅地・郊外住宅・郊外マンションの分譲が進む。分譲というように、文字どおり切り売りである。 これに団地族や予備軍が買えるようなローンシステムを用意して、借家を借金に置き換えるとともに、持ち家こそ日本人の基本的志向であるという嘘っぱちのキャンペーンもされて、小さな土地住宅持ちがやたらと増えてきた。

昔から地主は、持っている資産の大小に関わらず保守層なのだ。彼らはそれを守るために、小市民ながらも保守層あるいはその予備軍となって、55年体制は維持されることになった。

その陰には、わたしのような、この政策に乗りきれない都市標流民層と高齢者層が見捨てられ、その彼らを吸収したのが、今、問題とされている密集市街

地であり、その主役の木造賃貸アパート群である。その問題は阪神淡路地震がみごとにあぶり出してくれた。

日本の政策が変わるには、人柱が立つか、外圧(地震も一種の外圧)が必要なのである。

持ち家政策が出された当時は、これほどに住宅漂流都市難民がいるのに、なんでこうなるんだろうと実に不思議に思い、その後も何回もの転勤・移転のたびに、日本の持ち家政策に腹を立てながらやってきた。

体験的には何が腹たつといって、貸し主や不動産屋の横柄にして無礼なることには、ほんとうに辟易する。この庶民的世界の現実を知ってますか、定期借家権万能論を唱える人たちは、、。

このつづきは、また次回に。(今も漂流中の都市計画家)

週刊まちづくり/45号(2000/02/19号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その18】=<伊達美徳>=

<体験的借家論―その3>

日本で賃貸住宅がうまく行かないのは、借地借家法がおかしいからとか、日本人は持ち家志向だとか、どうも本質的でない議論、あるいは現場を知らない議論が横行しているようだ。

一度でも、個人の立場で民間住宅の借家をしてみると分かるが、その契約にあたって貸す側が示す書類内容の横暴さには、まったく腹立ちを通り越して辟易するほどだ。

業界統一らしい表向きの契約書にはとても書けないことを、念書として別の書類で出させるのだ。そこには公序良俗に違反すると思われるようなことを平気で書いている。

これは、今の借地借家法では貸した方が弱いといわれる貸し主の自己防衛であろうと、弁解されよう。

しかし、それはおかしい。そもそも良質な賃貸住宅が大量に供給されていれば、市場はそれなりに動くはずであって、一方的な片務契約でないと貸さない

といってたら、借り手がいなくなり、困るのは貸し手だ。

今は、賃貸住宅の市場が貸し手側に有利だから、こんな屈辱的条件でも借りなければならない。法律がどうであろうと、今は貸すほうが絶対的に強いと、長年の借家経験がものを言わせる。これからだって弱くなるとは思えない。

昔になってしまったが一度だけ、入居していたアパートの家賃値上げに反対したら、家主から調停裁判(というのかどうかわすれたが)に持ち込まれたことがある。

多分、家主のほうは裁判所に持ちこめば驚いて引っ込むと思ったようだが、こちらは好奇心いっぱい人間だし、その頃はヒマもあったので、喜んで裁判所に通ったものだ。

何回か通ううちにこちらが転勤でうやむやになってしまったが、面白い経験をした。

分譲住宅政策のおかげで、借金を背負った国民がどーんと増えて、銀行が大もうけして、いい気になったものだから、いまその報いを受けている(んだかどうかよくわからないなあ)。

そして、分譲価格だけが問題となって、安くするために小さな宅地ばかり増えて、都市はますます外的にも内的にも、スプロールを続けている。

ということで、賃貸住宅政策を捨てて持ち家政策にした背景と、そのもたらしたものを、わが体験的に書きました。

このたび定期借家権OKという法律(「良質な賃貸住宅等の供給の促進に関する特別措置法」という格好良く長たらしい名前)ができましたが、要は貸し主が借り主を追い出しやすい仕組みができたように思えるのですがねえ。

なにしろ、この制度の必要性を声高くおっしゃったのが、バブル景気時代の地上げ屋さんと土建屋産さんたちだった記憶があるので、どうも気になります。

これを推し進めている不動産業の方がたは、今より法律上も強くなって、あんな不真面目な念書なくして、まじめな賃貸借契約してくれるのでしょうか。

もちろん、建て前としては、これで優良な集合型の賃貸住宅が、都心部に、中心市街地に、まちづくりとして大量に建設されるようになると期待しています。

本音としては、東京中央区か港区の、安い賃貸集合住宅ができるなら、わたしが一番に入居したい。

今どうして定期借家権なんてものがでてきたか、その社会的背景をわたしなりに考えているのです。

ついでに定期借地権についても、危ないことがあるのですが、あらためて別の機会にします。

(東京都心良質安価賃貸集合住宅に長年あこがれの都市計画家)

週刊まちづくり/46号(2000/02/26号)

◆まちコラム◆書評「まちづくりがわかる本―浦安のまちを読む」

(浦安まちブックをつくる会編著・彰国社・1999年11月・1905円+税・B5版・126p)<伊達美徳>

●ご当地まちづくり本を流行させたい

"中学生にもわかる"がウリの本である。なによりも嬉しいのは、本屋さんで売る本であることだ。こんな本は行政がタダで配る本と思われている向きもあるが、メジャー出版社から定価がついて発行されたのは、まちづくりがやっと普遍的になってきたものと、素直に喜びたい。

もうひとつ重要なことは、浦安に暮らす都市計画家、教師、行政マンたちが、ご当地浦安を主題にしながら、一般化を目指して執筆していることだ。しかも執筆中には本当に"中学生にもわかる"臨床実験"をしたという。

その上で結実したこの本は、街の歴史、都市計画、自然、建築、道路、海、居住環境、合意形成、防災などまんべんなく堅く押さえながら、平易な文体とイラスト、教科書体の文字で、要領よく都市計画全般を押さえている。

その教科書臭さが、まちづくり入門書として強みであり、弱みでもある。どこからでも読める編集にしてはあるのだが、とりつきが歴史や都市計画から始まり、しかも横組みなので、書店ではどうも堅いイメージとなる。

まちづくりを語ることは、ドキュメンタリなのだ。都市論としては浦安は新旧市街の比較が興味つきないし、そこに新たなまちづくり展望を生むのだが、教科書的に言えば差別的な表現と誤解されるのかもしれない。

これで思い出して、1948年11月発行の「私達の都市計畫の話 新制中学の社会科副読本=都市を学ぶ」(石川栄耀著、兼六館、60円、B6版、126p)を、ほこりを払って再読した。

戦争直後の廃墟から復活へと都市計画を格調高く説いて、石川先生の熱っぽく中学生に期待を込める語り口と、今の成熟した時代のまちづくりを怜悧に解説する口調の浦安本の二つを読み比べて、それぞれの時代の教育と都市計画を考えさせられた。

ともかくも浦安に負けないように、ご当地まちづくり本を私も書きたくなる気にさせる、刺激的な出版である。街のおばさんおじさんにも読んでもらいたい。

<付記>

上の書評は、日本都市計画家協会発行の「都市計画家」(2000年冬号)に掲載記事の転載です。同協会会報編集委員長の伊達が、執筆者の伊達に転載を許可しました(独断で)。

ついでにお願いですが、私も浦安に負けずに「まちづくりが分かる本ー鎌倉のまちを読む」を出版したくなりました。

実は、鎌倉のまちづくり仲間8人で執筆し、もう原稿ができているのです。内容は素晴らしいと自賛しているのに、出版してくれるところが、ない。

どなたか、どうすれば良いのか教えてください。

(都市計画家)

週刊まちづくり/57号(2000/05/14号

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その20】=<伊達美徳>=

<わたしの帰る街を(連載その1)ー建築学会「建築雑誌」2000.4掲載>

○帰る家がない、帰る街がない

"ちえ子には帰る家がなかった。"

ベストセラー「鉄道員(ぽっぽや)」(浅田次郎)にある「うらぼんえ」の冒頭の一行である。この短編集を貫くテーマでもある。

映画でも泣かせてくれた表題作も、勤め先の駅舎暮らしで定年を迎えても帰る家のない主人公・乙松が、迎えにきた娘の居るあの世、つまり"究極の帰る家"に帰る話だ。

乙松には、帰るべき街はあった。老人ばかり100戸ほどが寄り合う集落は、雪の中でも乙松にはあたたかな街だ。そして、かつて炭坑町で栄えたその帰るべき街は、鉄道も廃止となる過疎地で、失われる寸前の物語である。

小説の中でなくても、いまわたくしたちは日本全体で、帰る家がない、帰る街がない、その方向へと歩いているようだ。

城下町の雰囲気を今も保つ新潟県新発田市は、中心部のかつての武家地に公共施設群、商人地に商店街、周りに住宅街と、程よい広さで安心して暮らせる街である。だが、中心部から人口がフリンジ郊外部に移って、中心部は超高齢社会、大型店が撤退した中心商店街の歯抜けも目立つ。

それなのに、県立病院と市役所が古くなったので郊外に移そうとか、市街化調整区域を区画整理開発して大型店を誘致しようとか、妙な計画もあるよう

で、帰る街がなくなりつつある。

数年前に商工会議所と総合病院が都心から移転して田んぼの中に建っている福井県武生市は、時代の先進地かもしれない。

タオルの産地で有名な愛媛県今治市は、昨年3本目の本四架橋で広島県とつながった。だが、中心部人口は激減だし、郊外商業の乱立で中心商業地の衰えは目もあてられない。

それなのに、地域公団による大規模郊外ニュータウン開発事業を始めるのだから、不思議である。ニュータウン開発は栃木県佐野市でも進んでいるが、中心部の空洞化はすごいものだ。

静岡県掛川市は、衰えた都心を美しい城下町として再生が進められているが、郊外の国道1号バイパスに一歩出るとその沿道商業施設の乱立は無残な風景を呈している。ここがあの城下町掛川へ入り口かと、わが目を疑わせる醜さだ。

それが、前述の城下町新発田市の国道バイパスでも同様だから、嫌になる。ここがわたしの帰る街です、という人がいたら顔を見たいほどだ。

東京青梅市は、奥多摩の自然に恵まれているが、市街化調整区域の山奥の狭い谷あいには、高齢者施設がいくつも点在する。

まさに現代の姥捨山であり、郊外開発の究極を見る悲しい思いが込み上げてくる。

週刊まちづくり/60号(2000/06/04号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その21】=<伊達美徳>=

<わたしの帰る街を(連載その2)ー建築学会「建築雑誌」2000.4掲載>

○土地問題は土地利用問題である

さて、これらは今、日本の地方都市のどこでも起きている現象であり、共通することはただ一つ、「そこに安い土地が手に入ったから」である。

そこには都市像や生活像をもつ土地利用計画は無い。わが都市計画の無力をなげくのみであるが、そうも言っていられない。

これを今のうちに政策転換しないと大変なことになるので、あちこちで大問題と唱えつづけているのだが、現地ではほとんど相手にされない。なぜか。本当にそれが問題か。

これを土地問題といわずしてなんであろう。そう、土地問題は土地利用問題なのである。だが、本当にそれが問題か。

一昨年、眼鏡と漆器の産地で有名な福井県鯖江市で、一般市民対象のアンケートを行った。

その中に、これからの時代の暮らしと働く場をつくるまちづくりは、郊外開発か中心市街地かと聞いた。慎重に質問を構成したが、回答の6割が郊外開発賛成だった。

現に、都市計画白地の農振農用地が、虫食い状態に宅地化されつつある。それで農業よりも高い収益をえた農民も、街中よりも安価な住宅購入者も喜んでいる。

両方ハッピーだし、一般市民も郊外開発を望んでいるのに、都市計画家はスプロールはいけないとか、中心市街地が大切だとか、勝手なことを言う、と、言われる。

でも、これからの日本で生きる次の世代のためには、やはり計画が必要なことを言っておかなければならない。これを土地問題といわずしてなんであろう。

そう、土地問題は土地利用問題なのである。これからはどこでもよいから帰る家さえあればよい時代ではない。地縁のある帰る街が要るのだ。

週刊まちづくり/61号(2000/06/11号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その22】=<伊達美徳>=

<わたしの帰る街を(連載その3)ー建築学会「建築雑誌」2000.4掲載>

○次世代のために生活者としての自覚が必要だ

なぜか、4つの要因を挙げよう。

第1には、日本人口は半減・超高齢化する。100年で倍増した人口は、次の100年以内でもとにもどる予測だ。街は拡散し人口は減少なら、加速度的に街は希薄化する。超高齢化速度もすごいから、あっというまに広い範囲にちらばって介護老人がふえて介護コストは急上昇、始まったばかりの保険は破綻だ。

街の生活は、コミュニティで助け合うことで成立してきただが、少ない高齢者だけの中心街や、郊外の希薄な街では、それも難しい。

親戚や兄弟が多ければファミリーの中でケアし合うシステムが機能するが、これから少子化が進むとそれができなくなり、替わって血縁よりも"地"縁の時代となる。

一定の土地の範囲に暮らし働きながら助け合う地域社会を再構成しなければ、生きていけないだろう。

第2に、日常生活で地球環境に対応する時代となる。モータリゼイションにのせられた人々は、買い物も通勤も車だからどこに暮らそうと問題ないという。だが、自動車の運転できない老人や子供は、病院にも遊びにも自由に行けない。毎日の車通勤は肉体疲労だけでなく、そのエネルギー消費総量は、地球環境に膨大な負荷を与えているだろう。もっと集まって、街に帰って暮らすべきだ。

第3に、食糧危機問題の時代である。郊外の緑を食いつぶすのは問題である。街をとり囲んだ田畑や緑の丘陵地は、人間の生存を維持する環境であり食料確保の場である。

地価が安いという理由だけで潰して、街にとりこんでよいはずがない。

日本のような食糧自給率4割国は、もうすぐ途上国の人口爆発がおきると、食糧輸入が止まる。減反農地は簡単にもとに戻らないから飢える心配が十分にある。

農業政策で、中山間地の保全に巨額投資がされつつあるが、あえていえば、農地としての生産力が低いのだから、田畑よりも保水力の高い自然植生の山林に戻せばよい。

それよりも、街から侵されやすい市街地フリンジ部の農用地保全に公共資金を投入することこそ、食糧政策として必要な土地問題への対応である。

第4に、これからは財政的にも節約の時代である。人口減少する超高齢社会では凝縮経済となり公共投資も限られるから、既存の社会資本を大切に活かして使うことになる。

どこの都市の中心街でも長い時間をかけて、道をつくり家を建て町並みをつくり、市役所や病院などのコミュニティのための施設をつくってきている。

なのに、街の外に産業も人も流れ出しては、これらせっかくの投資が無駄になってしまう。

わたしたちは今、土地という社会資本をいかに有効に使って、待ち受ける人口減少、超高齢、少子、環境、成熟という21世紀社会に対応すべきか問われているのだ。

まちづくりは最低10年かかる仕事だから、専門家も市民も今から真剣に取り組まなければ、問題が起きてからでは遅いのだ。

30年以上も前から分かっていながら、問題が起きた今、慌てている老人介護問題のような轍を踏まないようにしたい。

それには、土地を市場経済の商品ではなく、次世代のための社会的資産として計画的にとらえる市民(企業市民も含めて)の自覚、生活者としての自覚が必要だ。(完000401)

週刊まちづくり/62号(2000/06/18号)

◆まちコラム◆先週の「気まぐれコラム」【その22】に対して(山崎義人)

中山間地域などの研究をしている立場から一言、言わせてください。

> 農業政策で、中山間地の保全に巨額投資がされつつあるが、あえていえば、 農地としての生産力が低いのだから、田畑よりも保水力の高い自然植生の山 林に戻せばよい。

>それよりも、街から侵されやすい市街地フリンジ部の農用地保全に公共資金を投入することこそ、食糧政策として必要な土地問題への対応である。

農地としての生産力だけで中山間地域を位置付けるのは非常に危険だと思われます。

そうやって、山々に人々が住まない日本の国土でいいのでしょうか?

山林に戻る前に、土砂で都市部が埋まってしまうのではないでしょうか?

だれが国土を保全していくのか?

直接支払い(デカップリング政策)は、中山間地域の田畑を国土の管理保全の視点で公共財として位置付けて管理主体に支払うものであり、

生産量の少ない地域に所得を補償する制度ではありません。

また、中山間地域にこそ、それぞれの立地環境を読みとった細やかな地域文化や物語が埋め込まれています。

これだってれっきとした「次世代のための社会的資産」だと思います。

効率第一主義的な発想は、日本全体を深みのない薄っぺらなものにしていくと思います。(早稲田大学)

週刊まちづくり/62号(2000/06/18号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その23】=<伊達美徳>=

<日本の自然はヤワではない>

率直に言って嬉しい。山崎義人さんから、コラム【その22】に対して反論を頂いたことだ。真剣に読んで論を返してくださる人を待っていた。お礼を申し上げる。そして礼儀として、こんどはこちらから論をお返ししなければならない。

わたしの論は、中山間地に大金を投入して農地を保つよりもそこは自然に戻せ、むしろ市街地縁辺部の農地を守るほうが食料政策としても環境政策としても有効だ、としたものである。

これに対して山崎さんは、第1に国土保全の視点から中山間地を管理する人が居なくなると災害が起きる、第2に地域文化としての中山間地を守るべきとして、その保全の大切さを説かれている。わたしは、前半については意見を異にするが、後半は悩みつつそのとおりと思う。

「山林に戻る前に、土砂で都市部が埋まってしまう」とおっしゃるが、日本の生態的植生復元能力は、けっしてそのようなヤワなものではない。なるほど,足尾銅山のような人為的禿山なら大変だけど(市街地も人工禿山)、肥沃な土壌のある中山間地の田畑だったところが自然に還る現象は、今はどこでも見られる。例えば、休耕田といいながら自然に戻らないように管理しなければならないのは、放置すると自然に戻りすぎて、近所の田畑に迷惑だし農耕再開が困難になるからだ。

人工林は管理できなくて山が荒れたといわれるが、それは人工林が自然林に戻る現象を言うのである。決して禿山になることではない。一般に、山は手入れしないと禿山になると誤解があるが、日本の気候は禿山になることを許さない。日本の農地や人工林は、自然に戻ろうとする土地をいかにして戻させないかという人間と自然の戦いの場なのだ。

肥沃な土壌の中山間地の山林農地に手を入れないでいると、雑草の中からパイオニア種の幼樹が生えてきて植生遷移が進み、ヤブツバキクラス域ならばいわゆる常緑広葉樹林(シイ、タブなど)に、ブナクラス域ならば夏緑広葉樹林(ブナ、ナラなど)へと進むのは、植物生態学の常識である。

この遷移を人為的に助けるために潜在自然植生種の植樹のような方法をとってやれば、自然林に戻るスピードが速くなる。それが日本の自然である。

さて後半の論であるが、その通りだと思うのだが、では誰がそれを守り伝えるか。それには、ひとりやふたりではなく、文化を保つだけの一定の規模の集落形成が必要である。

ところが、人口が減少する時代にどこの集落も保つのは不可能になるはず。それは人間も自然の産物として、集まって生きる生物の生き方があるから、やむをえないのだ。

どこの中山間地を保全するか、どこを自然に戻すか、農業や食料の問題ではなく、文化や環境のの問題として取り上げなければなるまい。

農政では集約農業を進めるから、農業集落は崩壊の方向をたどっている。これは農政とは別の次元の話であるべきだ。なぜウルグアイラウンド見かえり補償対象になるのだろうか。

というわけで、山崎さん、後半は面白いので、ぜひまた教えてください。(自称週まち営業課長)

週刊まちづくり/67号(2000/07/23号)

◆まちコラム◆気まぐれコラム(その23)に対して=<山崎義人>=

丁寧なご返答をありがとうございます。

まさか、あの伊達美徳さんから返事をいただけるとはと少々お驚きながらも喜んでいます。

伊達さんの問いかけに対してきちんと返答になっていないかもしれませんがいかのようなことを考えました。

伊達さんの論は

都市-周辺農村-中山間という空間的なヒエラルキーにおいて居住-農業-自然林という機能のモデルそのままのように思います。

本当にこうしたモデルで良いのでしょうか?僕は少々疑問です。

都市が成長する時代、人々はどこから都市に集まったのでしょうか?

それは都市-周辺農村-中山間の中では圧倒的に中山間だったと思います。

そして都市が膨張し周辺農村にスプロールしていった。中山間は過疎地域へ。

ステレオタイプにいうとこうした構図があったと思います。

こうして考えると、中山間を自然林にもどし、周辺農村を農業を行うということは、相当な高密度で都市居住も実現して行かなくてはならいということになると思います。

さて、これは人から聞いた話ですが、もっとも都市化の進んだイギリスでは人々はカントリーサイドに移りはじめています。

日本でも「定年帰農」などと言って、田舎暮らしが模索されています。

人口減少時代とともに、都市からの人口のゆりもどし現象も次第に起こっていくと思います。

その時の受け入れ先としては、周辺農村ではなくて、中山間地域であって欲しいと個人的に熱望します。それは、周辺農村が受け入れ先ならば、スプロールが肥大化するだけという結果になってしまいます。

中山間地域の農地・山林の保全も地域文化の継承も人によってはじめてなりたちます。いかにこうした人々を中山間地域が受け入れていくかが求められていると僕は思っています。われわれの研究室ではこうした人々を「農村市民」なる言葉で呼びはじめていま

す。

さて、「地域文化」として中山間地域です。

伊達さんがご指摘のように『日本の農地や人工林は、自然に戻ろうとする土地をいかにして戻させないかという人間と自然の戦いの場なのだ。』と僕も思います。

逆に言えば、この戦いの中から人間の英知や生活の知恵が生まれてきたのだと

考えます。これこそが「地域文化」なのではないでしょうか?

中山間地域は縄文時代からこうした戦いを営々と繰り返してきた日本の文化の源泉ではないでしょうか?

都市文明が近代技術によって成り立っているとするならば、地域文化はこうした自然と人間の戦いから生まれた知恵だと思います。それは「災害の回避と恵みの享受」という自然に対峙したときのリスクとリータンのせめぎあいの中から生まれてきたものだと思います。

日本列島の入り組んだ地形条件や北から南までの気象条件などが各地域で固有であるから、地域文化も個性的になっていく。

「点描のような国土像」と新しい全総に描かれています。中山間地域だって1つ点として個性を出して行くべきです。

たしかに全ての中山間地域を守っていこうということは難しいように思います。「村たたみ」も必要になるかもしれません。

でも「農村市民」を受け入れながら、中山間地域での居住するあり方を考えて行きたいと僕は考えています。

(早稲田大学)

週刊まちづくり/70号(2000/08/13号)

◆まちコラム◆

「気まぐれコラム」【その24】=<伊達美徳>=

<能登は哀しや土までも>

能登の七尾市に行ってきた。市の総合計画見直しにつき、職員の研修をするとて、講師の一人として招かれたのだ。

市内の和倉温泉(なんにもない実につまらない温泉町だ)に泊まって、周辺地区や市内を見てまわった。ここもやっぱりどこの地方都市でも起きている問題が丸見えである。

里地・里山の美しさと比べて、市街地の汚いこと,とりわけ街外れの幹線道路沿いのあまりのひどさに、「能登よ、おまえもか」と、悲しくなった。

どうして今まで育ててきた街を見放して、こんな汚い街をつくるのだろうか。

「能登はやさしや土までも」と言うのだそうだが、わたしの能登は哀しかった。

駅の観光案内所で「街の中にはなにも見る所ありません」というのを後にして、七尾の中心街を歩けば、まだまだ伝統的な美しい街並みがあり、商店街には老舗もあるではないか。汚れているけど水流もある。市役所も病院も学校もある。暮らしよさそうな街だ。

だが、人通りがない。聞けばここが人口減少一番だと言う。

七尾市郊外に新しい高速道路インタチェンジができるから、その周辺やとりつけ道路沿いの新開発を誘導するらしい。

市の人口は、これまでは奥能登地方からの流出を受け止める形だったが、これからはそれもできなくなってきたから、減少を止めようもない。

それなのに、中心市街地を空洞化しながらの拡大型都市計画が止まらない。新しい市立美術館や国立病院も、街外れに建てている。次第にうすっぺらな稀薄な街になっていく。

さて、日本でもイギリスでも田舎に暮らすことが流行になりつつあるという。人口流動の大勢からみて、それは本当だろうか。少なくとも私はあのような汚い田舎郊外街に暮らしたいとは思わない。

たしかに誰しも自然に囲まれて暮らしてみたい情緒的あこがれはあるだろうから暮らしたいのは美しくも寂しい里地なのだろう。

だが本当に田舎に暮らせる人がどれほどいるだろうか。中心街よりも更に寂しいのが里地である。そこに本当に暮らせるのか。

こどもの教育は自宅教育か、食べ物は自給自足か、老人医療介護はどうする、車しかない生活が続くか、などなど考えると、それをやれる人は金持ちか、それとも思想的にも技術的にも自然の中での暮らしを確立した人だろう。全体から見るとごく少数だろう。

もしも多くの人がそれを望んで里地に住み着いたら、それは里地環境を失うというジレンマを招くだろう。政策論としては、街暮らしが基本となり、里暮らしが特殊にならざるを得ない。

ある夏、若狭の町と村をしらみつぶしに神社を訪ねたことがある。目的は趣味の能舞台探しであったが、別のことを考えさせられた。

巡る集落に、汚いが海水浴客で賑わう漁村と、美しいが寂しすぎる農村の対比をつくづく感じた。どこでも漁村はごちゃごちゃと集まる集落をつくっており、これに海水浴客用の宿泊所を勝手に増築するから、むちゃくちゃな風景となる。

農村は農地の広がりの中にぽつぽつと集落がはめ込まれているし、人がこないから増築どころか家屋がなくなるから、風景は美しく保たれる。

どちらにいる人が幸福なんだろうか、どちらが生産力があるのだろうか、どちらが優れた人間環境だろうか、考えこんだが、未だに分からない。

なお、七尾市の研修会の話だが、人口については減少ぜざるを得ない方向で政策を見直したい旨を、市長が職員の前で発言されたので、新たな時代の都市政策が始まりそうだ。 (田舎生まれの都市計画家)

週刊まちづくり/73号(2000/09/03号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その25】=<伊達美徳>=

<右肩下がりの都市計画>

今日9月3日の神奈川新聞に、神奈川県三浦市の悩みが出ている。「"望みは高く"・・でも 人口減止まらぬ三浦市」と題して、95年まではすこしずつ増加して5万4千人までなった人口が、その後は落ち込む一方で今や5万2千人余り。

ところが90年策定の市の総合計画では今年は7万人のはずだったし、つい3年前の都市マスタープランでは2015年を7万5千人と見ているので、現実との差が著しい。

さて、市の総合計画を改定する時機が来ているが、次の総合計画では将来人口をどう考えるか。

市議会筋からは「下げどまりがみえない状況で目標の7万5千人をどう扱うかの裏付けが示されない限り、全ての計画は描けないはず」と指摘があり、これに対して行政側は「実現可能な視点で人口計画を検討すると6万人」で、そうすると「市街化区域を拡大するという従来型の計画の論理が成り立たない」と答弁したという。

なぜ市街化区域を拡大するかというと、「同市の苦しい台所事情を補う税収増を前提に」しているのだそうだ。つまり、新しい住宅地開発を積極的にすれば、山林田畑よりも高い固定資産税となるので、市の税収が増えるという算段であろう。全く同じ話を新発田市(新潟県)でも聞いているが、どこにでもある簡単増税都市政策だ。だが、本当にそう上手く行くか。

わたしは三浦市の隣の横須賀市で都市計画の仕事を20年近くしているが、こちらも3年前に都市計画マスタープランをつくった。それまで50万人目標としていた人口を、それでは非現実的なので44万~46万人に見直した。

このあたりで人口増加策として新住宅地開発をしても、市内ないし隣接市からの住み替え移動がほとんどで、あまり人口増加にならないのが実情である。

そもそも日本全体で人口が減り、超高齢社会になるときに、本当に人口増加する都市はどんなところか、考えてみればすぐわかる。

そうやって、郊外に新住宅地開発して上手く売れたとしても、そこにはその都市の中心部からの移動が起きて、替わりに中心市街地が空洞化する現象は、もう今現実に問題が起きていることである。たしかに新住宅地開発で山林田畑より固定資産税は上がったが、中心部の空洞化でそちらの地価が下がれば、元も子もないのだ。

そこまで考えずに、とりあえず税収が望めるのは、面倒な中心部再開発ではなくて、簡単でしかも農家が望む農地の転換だとて、郊外住宅地開発をいまだにやっているのだから困ったものだ。

右肩下がりの人口に対応しながら、よい暮らしの場と働く場を確保し、しかも財政的安定を目指す都市計画が、今問われている。それが、わたしが唱えている「コンパクトな就業・生活圏」づくりであるのだが、、。

さて、三浦市では目標人口をどう見るだろうか。目標はトレンドとは異なるものであり、都市をどのように持っていくか政策が加わらなければならないが、現実と離れすぎてはならないし、悩ましいところである。

さて、三浦市は右肩下がりの将来都市像を描けるだろうか。

(いい歳になっても悩み多い都市計画家 000903)

週刊まちづくり/75号(2000/09/17号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その26】=<伊達美徳>=

<そごう倒産とまちづくり>

老舗百貨店のそごうが倒産した。その新聞記事を見たとき、これは都市再開発の現場が大変なことになる、と思った。

そごうの全国展開は、各地の大規模な市街地再開発事業(都市再開発法による再開発事業のこと)の核店舗として進めてきたのである。

思い出すだけアトランダムにあげると、八王子、茂原、木更津、錦糸町、徳島、小倉、黒崎など、どれも都心駅前の道路や交通広場づくりと一体の大規模な都市改造の場であった。地域にとっては、保留床を買って事業資金をもってくるお客としてのそごう、そごうにとっては、都心立地の地域1番店で有利な市場占拠という、両者の思惑が一致したのである。

そごうは営業床を買いとったところもあれば、借りているところもある。それが閉店となったのだから、都心のにぎわいが消える裏には、その床の処分が大問題となっている。そごう所有分はそごうが考えるだろうが、問題は床をそごうに賃貸していた場合だ。

再開発事業の権利者が権利床を貸した場合もあるし、権利者と地方自治体が出資した法人が所有して貸したところもある。しかし、あの大きな図体が戻ってきても、他の用途に使うのは相当に難しい。借金が残っているものも多いだろう。

他の百貨店が替わりはいるような良い立地ではそごうも(いや西武か)営業を続けるだろうから、例えば茂原のような地方都市では大変である。企業インキュベーション施設やSOHOをいれようとか、現代風の起死回生の方法をみな模索しているようだ。

再開発事業の優等生は一転して、問題児になってしまった。そごうにかぎらず、再開発事業のこの構図は今も変わらないのが大問題であることを、はからずも露呈したのである。保留床売却、権利床タダ取りの仕組みには、反省しきりだ。

考えてみれば、商人という者は、景気の浮沈の中で盛衰を繰り返すのだから、このようなことはあるものだ。薄汚い郊外の安物売り店舗がその良い例であり、百貨店も銀行も実はその仲間だとわかった。

いまから30数年前に、わたしが再開発の現場にはいったころは、権利者はみな再開発の制度融資で自己資金を調達しながら、自前でビルを建てていたものだ。バブルちょっと前ころから、土地権利さえあれば、ただで新しいビルが手に入る仕掛けにおちいってしまった。それが巨艦主義のそごうを招きいれ、今日の問題を招いたとも言える。

まさかあの大きな物を壊して、ゴミにしてしまうこともできないだろう。そこで思い出したが、東京日本橋の東急百貨点の閉店で、あの白木屋の名建築が消えた。こんどは、大阪心斎橋そごうの名建築(村野藤吾設計)が消えるらしい。

そして、「有楽町で逢いましょう」のわが青春の舞台はどうなるのだろうか。ガラスブロックの緑とテッセラの白の対比が美しい三角ビルだ。もっとも、都市計画の立場から言うと、あの有楽町駅前は駅前広場であるべき場所だが、読売新聞社がビルを建ててそごうに貸してしまったのだ。

(買物しない百貨店好きの都市計画家 000915)

週刊まちづくり/77号(2000/10/01号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その27】=<伊達美徳>

<ドブ川サミットのことなど>

9月23日に能登の七尾市で、「能登国際テント村2000」なる催しがあり、その中の「全国ドブ川サミット」に野次馬で顔を出してきた。

國際vsテント村といい、ドブ川vsサミットといい、月とスッポンをわざと組み合わせたところが面白い。名前の壮大さと反対にこじんまりながら、はりきった市民団体の主催で、なかなか良かった。

ドブ川サミットを開いたゆえんは、七尾の街のまんなかを御祓川(みそぎかわ)というドブ川がながれていて、これを街の環境改善と活性化の軸とする街づくりが進められているからだ。サミット出席の他のドブ川都市は、近江八幡市、柳川市、新潟市、横浜市だった。

なかでも興味深い話題を提供していただいたのは、近江八幡市長の川端五兵衛氏だった。ゴミで埋まっていた八幡堀を復活する運動が街づくり運動へと展開していく様子を語られるとき、街づくりの持つ本質を突いていくのだった。

「なんのために堀を復活するのか」と問い返されたときに真摯に悩み、「堀をゴミで生めたのは誰の責任か」とみずからの市民生活の姿勢を問い直し、「堀を復活するには堀の"外堀"を埋めよ」つまり街づくりから迫ることに行きつくのである。

堀の将来姿を街の将来像にはめ込んでみて、復活する姿が最も美しいと知り、復活運動へとまい進したであった。

川端さんの話に「暮らし良い街をつくれば、観光客は後からついてくる」とあった。これはわが意をえた。「このところわたしの提唱している「生活観光」である。やはり先人がいたのだと、うれしかった。

柳川市の広松傳さんの話でも、柳川の掘り割り復活のための町内住民による清掃運動の時、「観光のためじゃなく、自分の家の庭をきれいにしよう」と呼びかけたのだそうだ。今の有名な柳川掘り割り巡り観光は、その一つの結果にすぎないのである。

川端語録でもうひとつ面白かったのは、「死に甲斐のあるまち」だ。生き甲斐ならわかるが死に甲斐とは、市長として穏便でない直せと、議会筋からも迫られるそうだ。

川端氏曰く、「生き甲斐はいろいろなまちで何回も探せるだろうが、死に甲斐はひとつのまちで1回だけだ、この街で死ねて本当に良かったと人生最後にいえるまち、それが近江八幡でありたいといっているのだが、わからんひとがおおいなあ、でもことごとく論破してまっせー」、なるほど。

さて、七尾の街のドブ川の御祓川だが、ふるさとの川づくり事業でハードな環境整備がおこなわれているが、水質の城下はこれからの下水道事業をまつことになる。

川沿いの街づくりは、シンボルロード事業が川に沿って事業中だし、町並みづくりは、第3セクター「七尾街づくりセンター㈱」と民間セクター「(株)御祓川」とが役割分担しながら、行政と組んで進めているようだ。

「御祓川1号館」というギャラリーと会合の場をオープンし、2号館、3号館と店舗を開いてきている。中心市街地活性化にどう展開するか楽しみだ。

シンボルロードも御祓川も街並みも計画・事業中で、姿はいまだしだが、西端には七尾駅前の大規模商業再開発、東端にはフェンッシャーマンズワーフができた。気になるのは、駅前再開発の第2弾の内容と行方だ。

今、七尾の街に必要なことは、中心市街地居住の回復である。それが中心市街地活性化の基本であり、そのためには、それを支えるコミュニティ施設を中心市街地に整備することだ。

しかし現状は、美術館、生涯学習センター、文化ホール、総合病院、短期大学、地方合同庁舎、市民体育館、社会保険事務所、警察署など、どれもこれも街はずれに持っていった。市役所が街なかにあるのが、奇跡なくらいである。

さて次はまさかと思うが、古く狭くなった中央図書館の郊外移転だろうか。これこそ駅前再開発に持っていってもらいたいものだ。

町田市や川崎市の駅前再開発に図書館をいれているが、便利だから大勢の市民や学校生徒がやってきて活発に利用されている。利用されてこそ、市民の公共施設である。

街はずれの県立七尾美術館で、ここ出身の江戸期の大画家・長谷川等伯の襖絵の展覧会が催されていた。日曜の最終日、まことにひっそり静かな会場で鑑賞しやすかったが、あれでよいのだろうか。もったいない。 (ドブ川にはまった都市計画家 000930)

週刊まちづくり/78号(2000/10/08号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その28】=<伊達美徳>

<あっけらかんの無神経時代>

これから書くことは、どうも不動産屋の手の内にはめられたかと、承知の上で書く。書けば書くほど敵の宣伝をしそうだ。

10月5日朝日新聞東京版の真ん中2ページ見開き大カラー写真、東京の名園・浜離宮の池と緑の美しい風景、その上の青空になんとドドーンにょっきり超高層ビルが2本、庭園を踏んづけて"押しかけ"借景になってしまってる。

これじゃあもう、徳川将軍家別荘の天下の潮入り池の回遊式庭園はぶち壊し、いつの間にとびっくり仰天。

見まわすと、新橋汐留開発の集合住宅の広告だった。写真は合成したもので、建物はまだできてはいないが、実物写真みたいだ。

宣伝文句に曰く「浜離宮というこの上ない借景を得て真の都市居住・・」。

うーむ、普通は庭園のほうから借景とはいうがねえ。外から庭園を借景にして、お借りした相手方をぶちこわしにすることを、これほどはっきりと宣言しているのも珍しい。

それにしてもよくマア、あれほど無神経な合成写真と宣伝文句が書けるとはねえ。つくづくと感心している。一体どういう神経なんだろうか。

と、思ったが、もしかしたら、これはどうも、広告した方は実によいことと思っているのかもしれない、と思えてきた。

だって、普通ならこれほどの犯罪的行為を、三菱地所以下8社のそうそうたる業界リーダー会社がそろって、これほどあっけらかんと正面きって宣伝するはずがないですよねえ。

普通なら、こうなることは分かっていても遠慮して、これほど堂々と写真にしませんな。実は、芝離宮庭園も後楽園も同じ憂き目なんだけど、憂き目が先例となって当たり前か、むしろ良きことになるらしい。

この駄文を書くと、ますます宣伝の片棒を担ぐ羽目になるのかなあと、心配になってきた。

と、思いながら広告をみまわすと、あった。宣伝文句の続きに「あらゆる価値観が大きく変わろうとしている、、、」と。 ふーん、あらゆるねえ、価値観がねえ、変わるんですかねえ。

「普通なら」とくり返しているこちらが遅れているらしい。いやもう恐れ入りやした。

(ただただ恐れ入ったる都市計画家 001007)

週刊まちづくり/80号(2000/10/22号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その29】=<伊達美徳>=

○IT時代に身近ないちゃもん○

実は最近わたしのインタネットサイト、つまりホームページを開いた。この「気まぐれコラム」も、そちらにも掲載している。

なにしろインタネットだから、写真がついているところが、こちらよりもサービスが良い。前回の<あっけらかんの無神経時代>には、芝離宮、浜離宮,後楽園の乗っとられた現場写真つきであるから、ごらんになってください。

まちもり通信URL URL:http://homepage2.nifty.com/datey/

まあ、いまどきホームページ開いて、わたしもホームレスじゃなくなりましたと宣伝しても、それがどうしたといわれかねない。だがキャットもスプーンも、IT、愛茶、アー痛てーと、日常生活に入りこんできて、困ったもんである。

まず、駅の切符売りが愛茶になって、自動販売機に向かうと、あれこれ操作の注文が多い。注文の多い切符売りである。

「東京駅」と一言いえば、さっと切符が出てきた無愛茶時代の昔が懐かしい。

その前に、バスに乗ってもカードで決済だから愛茶である。ところが,わたしの乗る京急バスの「カード型料金支払い機」は、変な言葉を使う。

カード支払い時に料金が残金が不足していると、女の声でこうしゃべる「このカードは料金不足です。なんらかのお支払い方法をご申告下さい」。

いかがです、「なんらかの」ですよ、「お支払方法」ですよ、「ご申告」ですよ。たかが100円程度のことで、申告書を書いて、はんこ押して、決済とって、支払うんですか、といやみの一つもいいたくなる、いかにも役所的な言葉つかいですねえ。

どうして、「バス代が足りません。追加して払ってください」と、簡単に言えないのかなあ。

ついでに、なんでバス会社ごとにカードの入れ方が違う機械なんだよお、乗るごとにおたおたするじゃないか。バス愛好者は頭に来る。

同様なことは、今これを書き込んでいるコンピューターの使う言葉のひどいことも、いつも頭に来る。

自分がフリーズしておいて、仕方ないから電源切って立ち上げると、不正な処理をしないでくれ、なんてイチャモンをつけてくる。

ついでに、メイルとかワードとかの発音を、尻上がりに関東なまりか東北弁で言うのも、なんとかしてほしいもんだ。

なにが言いたいかというと、人間との接点における基本的なところが抜けてるよ、それじゃなんのためのITだかわからんじゃないの。

日本語の言葉づかいもろくに知らないIT屋に任せておくと、これからバスにも電車にも乗れなくなって、どうなるものか分かったもんではない。

ここは分別ある高齢者がたちあがって、愛茶社会を牛耳る必要がありそうだ。

(愛の茶で一服する年計画化ーこのコンピューターは都市計画家と言ってくれない 001021)

週刊まちづくり/90号(2001/1/1号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その30】=<伊達美徳>=

<怖い21世紀がやってきた>

10年、100年、1000年と時間を区切るのは、自然現象にはなくて、人間の文化所産である。日、月(ただし月齢の)、年までは、わたしでも分かるけど、それ以上のdecade,century,millenniumとなると、これはなんであるか分かりにくい。

素朴に考えてみると、頭の悪い人間にとって覚えやすいからだろう。もっとも、それ以下のhour,minute,secondとなると、頭の良し悪しに関係なく、なんでこんなに分かりにくい単位なんだろう。

さて、その区切りの覚えやすさが重なった21世紀がやってきた。で、それがどうした、と言うので、このところ20世紀は怖かったなあという回顧がはやってるので、それじゃ21世紀は怖くないのか、と考えてみた。

それが、新世紀も怖い世紀であることがわかりましたぞ、特に日本人にとっては。思い返して20世紀がナンで怖かったかと言うと、要するに戦争の時代だったからですね。

戦争がナンで怖いかと言うと、とにかく食糧がなくなること、これは体験済みだからはっきりといえる。食料が無いから戦争になるとも言える。

今も昔も、人間は"食うために生きている"ってのは、人間が動物であるかぎりは、これだけは真実なんですね。どんな高尚なこと言っても、戦争がそれをはっきりと剥き出しにしてくれました。

では、21世紀も戦争かというと、それがそのとおり。地球上で人口爆発が進んでいるので、いずれ世界の食糧が足りなくなるから戦争が起きるに決まっています。例えば、今は中国は食糧の自給が可能ですが、このまま人口増加と消費拡大を進めると、2025年には世界中の穀物を全て輸入しなければならなくなるそうです。インドも同じだそうです。そうなると食糧戦争です。

さて、21世紀日本に食糧はあるか。それがまるで無いのですね。いま、エネルギーベースで日本の食糧自給率は40%程度、穀物はナント29%しかないありさまです。先進国では最低、そして輸入量は最大です。これから大丈夫なんだろうか。

参考 http://homepage2.nifty.com/datey/jikyuritu.jpg

ここから、まちづくりの話になる。日本各地で都市政策として、ミニ開発、ニュータウン、工業団地、郊外ショッピングセンターと、どんどん田畑をつぶしている。その一方、農業政策側では休耕田を増やしてばかりでいるから、国土の食糧生産能力を下げるばかりである。

なーに、食糧輸入が足りなくなったら、休耕田を耕作田に戻せば大丈夫、というかもしれないけど、そうは問屋がおろさない。いいですか、田んぼは決して自然じゃなくて、あれは人工の極致の工場です。だって、1種類しか植物が生えない自然なんて、沙漠だってありえない。

その工場の機械に手入れしないでいて、さあすぐ動かせと言っても無理、錆ついた田んぼは急には米は作れない。しかも機械と違って1年サイクルだから、元に戻るには数年かかるのです。その間に飢え死にしなければよいが、。

というわけで、21世紀まちづくりは食糧問題に思いを致して行わないと、本当に怖いことになるのです。これからは、田畑をつぶした開発をする場合は、代替となる田畑を設けることを条件とするミチゲイションの時代ですね。

「食い足りて 目出たや怖や 新世紀」 本年もよろしく。

(2025年にはあの世にいるハズの都市計画家 010101 なんだかデジタルっぽい日づけだ)

週刊まちづくり/94号(2001/1/28号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その31】=<伊達美徳>=

<雪が降って、だからいったじゃないの>

先週のこと、南関東のわがまちにも、久し振りに雪が積もった。15センチ以上はあったろうか、まことに風情のある街になった。喜んで家のまわりをかけまわり、雪かきと称する雪遊びをしたら、風情ならぬ風邪をひいた。

今日(010204)の朝日新聞・地域総合欄に、「車社会のもろさ見え隠れ」とて、雪による悪影響のしわ寄せは子供と高齢者に大きいことを報道している。

要するにスプロールした街では、除雪車が行き届かないから、車に頼ったいつもの生活ができなくなって困っているということである。

青森市でも、除雪車が来ないとの苦情が、役所にわんさと来ているそうである。ところが道路に不法駐車があって、除雪車が動けないし、街が広がりすぎて、とても行き届かないのである。

中心街の人口密度は、40年前の半分になっているそうであるが、昔からの中心街に市民が住んでいれば、除雪も効率的に行き届くだろうにと、よそ者は思う。

雪は、昔から青森には降っているのであって、その街の人はよく知っているはずなのに、自動車屋の口車に乗せられて、郊外に郊外へとスプロール住宅地に移った、いわば自分から選んだ災害なのである。

そこが地震災害とは大いに異なる。どうも、知らず知らずかも知れぬが、市民が自ら招いた災害である。

長距離物流が途絶えるから、スーパーやコンビニに食料が少なくなっているとも報じている。だから、地域の生産構造や生活構造を失うような、拡大分散型まちづくりをやってはならないのである。

「もの・まちづくり」や「ファッションタウン」の原点を見たような気がしている。

除雪対策費で、年間行政予算を食い込んでいる状況も報じられている。雪をどかすのは、公共事業だから地元土建業はちょっとは潤ったろうが、それ自体はなにも生まないで元の状態に戻すだけだから、はっきり言えばどぶに捨てるカネである。

とにかくドブ捨てカネを少なくするには、スプロールしている市街地を凝縮することである。

このことは、前から言っていることだが、人口減少、高齢社会、食糧危機、エネルギー危機の21世紀日本が、今からとりかかるべき都市政策である。はしなくも、久し振りの大雪が、その問題を浮き彫りにしてくれた。

しかし、また直ぐ忘れて、自動車と田んぼ住宅を売りつけ、買うような気がする。

この大雪で、介護が行き届かなくて多くの犠牲者が出るとでもいうよな、人柱が立たないと、人の心も政策も変わらないか。

外圧と人柱が日本を動かすなんて、なさけない。

(また同じこと言ってる都市計画家 010204)

週刊まちづくり/101号(2001/3/18号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その32】=<伊達美徳>=

<やっぱりソフトに金払わない日本>

今朝(2001.4.1)の朝日新聞によれば、介護保険制度による介護支援専門員(ケアマネージャー)の6割以上が、もう辞めたい、と思ったことがあるそうだ。その理由がなんと、報酬が安すぎてやってられないのだそうだ。

なぜ安いか、その理由がまたなんと、厚生労働省の言うことには「プラン作成部門単独で収支が成り立つ金額設定にしていなかった」のだそうだ。

だから、専門員は介護計画作成だけではやっていけないので、看護婦などと兼任している人が6割以上もいて、労働過重になる。それでも税込み月収が30万円未満が7割も。そりゃひどい。高齢社会の一大事である。

これって要するに建築方面に例えて言えば、工事業もやることを前提に設計業だけでは食えないような安い報酬規定を決めてある、ということか。

都市計画方面なら、計画策定報酬だけじゃなくて道路工事で土方して日当もらうのを前提の報酬規定か。

そういえば先日、母の住む集合住宅(マンションともいうなあ)で段差なくする改装をした件で、ケアマネージャやっている弟からきいた話。

住宅をバリアフリー(この言葉嫌いだけど)改造する費用に介護保険からの補助制度があるそうだ。それには改造のための計画料が数千円(安い!)つくそうだ。それは良いのだが、肝心の設計料補助の規定はないそうだ。

介護専門員が建築家であることは稀だろうが、もしも建築家が設計したとしたらその報酬は工事業者からもらえ、ということらしい。

やれやれ、やっぱり日本では、こんな最近の制度にも、ソフトに金をだす、という考えはないことが分かった。まったく世の中一体どうなってるんだ。

介護保険制度の運用の過ちで人柱が立ってはじめて、計画や設計にお金出さないと大変なことになる、と、世の中がわかってくれるのかなあ。

前回と同じ結論になった。まさかエイプリルフール記事じゃあるまいなあ。

(週まち200号頃は人柱の都市計画家 010401)

週刊まちづくり/108号(2001/5/6号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その33】=<伊達美徳>=

<三十年後のまちなみは今>

●商店街は夜の街になっていた

ほぼ30年ぶりだろうか、東武伊勢崎線の太田駅南口におり立った。

夜十時を過ぎていたが、駅前は暗いが商店街の中ほどから向こうが、やけに明るい。

ホテルに行く前に、ちょっと回り道して見たら、なんと夜のお遊びの街なのである。アジアエスニック系のネオン看板が立ち並び、呼び込みのおにいさんが立ち並んでいる。

1970年に、この長い駅前商店街を大勢の地主たちが共同してつくりあげたときは、ごく当たり前の健全な商店街だった。街がにぎやかなことはよいことだが、いつからこうなったのだろうか。

このコリアンキャバレーはたしかレストランだった、このナントカエステは蒲団屋だった、このスナックはミニスーパーだったなど思いながら眺め歩くと、入店を期待する呼び込みの声が次々とかかるのだった。

あの時、みんなあんなに頑張ってつくった、この街がねえと、ちょっと呆然とした思いでもあった。

●まちなみ変貌の背景を知りたい

翌朝、明るい中をひっそりと開店前の街を歩いてみて、その変貌の様相を「鑑賞」した。

全体としての姿に大きな変貌は見えないが、個別に見ると、姿も内容もあまり変わらない、本体はそのままだが外装も内容も大変化、姿は変わらないが内容が大変化、壊されて建て直された、壊されて空き地になったなどなど変化がある。

一つ一つにその理由を探ると、社会学・民俗学として実に興味深いだろう。

特に駅に近いほど空き地・空き店舗になって寂しく、駅から離れるほど夜の街として栄えているのは、どういうわけだろうか。

中心市街地の空洞化問題は、ここにも明らかに押し寄せている。駅前でありながら、自動車の街太田に対応するように、広い道路や駐車場を備えた街をつくったのだった。

当時としては先進的な、電柱のない道にもした。建物は改変しやすいように、構造体は単純に、ファサードの取り替えも考えておいた。

だが、そのようなハードウェアが町を支えるには限度があるようだ。太田のような今も発展段階にある都市でさえも、都市構造全体の再編、町の使い方のソフとウェアなど、次に打つ手を考えさせられた。

そのソフトウェアとして、エスニックムードの夜の街へ変貌をとげたのだろうか。それはそれでひとつの道だろうが、うーむ、、。

(こちらも変貌したい都市計画家 010503)

週刊まちづくり/116号(2001/7/1号)

◆まちコラム◆「気まぐれコラム」【その34】=<伊達美徳>=

<ユニバーサルスタジオとチボリ公園>

5月に西に行く機会があり、途中で思いついて大阪此花区の「ユニバーサルスタジオジャパン」と、倉敷駅裏の「チボリ公園」に行ってきた。と書けば、いいトシしてテーマパークかいと笑われそうだが、どっこい、そこはへそ曲がり、どちらも門の前まで行って、回れ右して帰ってきた。

見たかったのは、それらがどんな所にあるのか、だった。入場ゲートの前で、中を覗き込みその別世界の様子に感心し、次にくるっと首を回して外を見る。すると、なにが見えるか知ってますか?

ユニバーサルスタジオジャパン(長ったらしいので大阪人流にUSJ)では、外ははなんと大工業地帯で、スレートや鉄板葺きの大きな工場が立ち並ぶ。塀はあるが、さして隠そうともしないで、工場群やら大ガスタンクが丸見えだ。 建築中の超高層マンションだって丸見えで、上から中を覗き込んでいる。その内に、蒲団も洗濯物も見えるだろう。

それから、チボリに行ってみる、これはまた門の前は、あの有名な倉敷のイメージなんてなにもない、ただのありふれた日常の近隣商店街と新興住宅地である。ありゃ、そうなのか、あの有名な倉敷イメージと絶縁とは、結構いい度胸だなあ。

ふーむ、テーマパークはいかに非日常性を偽造するか、その非日常性の中でいかに日常性を偽造するか、それが勝負どころなんだけどなあ。

昔、東京ディズニーランド(TDL)計画にタッチしたことがあるが、もともとなにもない埋立地だから、計画的に外と内の関係をコントロールできている。TDLの外周は人工の深い森で囲んでいるし、周りの土地には中から見えるような高い建物を建てない様に規制している。

さてその3テーマパークの経営といえば、TDLは別格、USJはまだ分からないが良さそうだ。チボリはつい先日の新聞に、経営立て直しで社長の首のすげ替えとのこと、やっぱりだめか。

そう思いつつ、USJの立地を考えてみると、周りが工業地帯だからあれはあれで、非日常性も極まっていると言えそうだ。その工場に通う人にはともかく、ほとんどの人には見知らぬ世界だ。

向こうに見える本物のガスタンクも吊り橋も、USJの出し物に見えてくる。建築中のマンションも、妙にハデハデペンキ塗りで、それもUSJの一部と思えなくもない。

JR電車も映画の書き割りペインティングで、殺風景な工場地帯をかけぬけると、映画のシーンらしくみえないこともない。

チボリは、チボリ「公園」となっているが、もしかしたら都市公園の免許事業なのだろうか。公園とテーマパークの違いが、日常性と非日常性の差になって現れているようだ。日常性だけでは、巨大投資回収の金が稼げないのが現実であることがわかった。

今日も、親子連れと若いカップルは、偽造の日常と非日常を求めて、偽造の街へとくりだしている。

(偽物の街も好きな都市計画家 010630)