「……いた」
非番のある日、組まれていた授業を終わった後、もう何度も来ている、梅先輩に教わった猫の集会場に、また今日も足を運んだ。空はもう夕焼けに染まって、そろそろ暗くなろうかと言う時間だけど、この時間が丁度良いって、梅先輩に教わっていた。
茂みを抜け、こっそりと開けた空き地を覗くと、今日も今日とて数匹の猫が、何やら井戸端会議をしていた。猫たちに気付かれないように、慎重に近づくも、すぐにそんな猫たちが、一斉にこちらを向いた。
まずい、逃げられるか、と思ったけれど、そんなことはなく、「また変なヤツが来た」と言わんばかりに大きくあくびをして、また興味を失ったのか、井戸端会議に戻っていった。
その隙に、梅先輩に教わった、姿勢を低くして、できる限り気配を消すのを意識して、猫たちに近づく。相手はヒュージだと思えば、こんなの――。
「……」
「……」
何やってんだ、と言わんばかりに、茶トラがにゃー、と鳴いた。やっぱりダメか。
そろりそろりと近づいた分だけ離れていく猫たちに、私はとうとう近づくのをやめて、その場でバッグから猫缶を取り出す。今日の猫缶は、いつかの梅先輩に貰った猫缶と同じ銘柄のもの。
今まで色んな種類の猫缶をあげてきたけど、これが一番食いつきが良かった。少し値段は高いけど、どうせ他にお金の使い道は無いし、そんなに気にならない。
――さて。
猫缶の蓋を開けて、そっと私と猫たちの間に置く。そうしてまたそっと戻ると、猫缶の匂いにつられて、猫缶の周りに猫たちが集まってきた。そして間もなく、先を争うようにその猫缶を食べ始めた。
「ほら猫ちゃん達……まだまだ猫缶はあるからにゃあ……喧嘩しないで食べるんだにゃあ…………」
さすがに五匹で同じ猫缶なのは可愛そうだから、用意しておいたもう一つの同じ猫缶を近くに置くと、それに気づいた二匹がそっちの方に寄っていった。
「……ぐふふふ」
もうこれも何度も思っていることだけど、やっぱり猫は可愛い。この理不尽な世界の、唯一の癒しと言っても過言ではない。というか、なんなら猫たちのために戦っている、と言っても良い。さすがにそれは言い過ぎだと思うけど、でも、それぐらいの存在意義を、この子たちは持っている。
「ふふふふ……まだまだあるからにゃあ……」
バッグから、さらにもう一個取り出しながら言うと、ぎょっとしたように猫たちが私を見た。そんな表情で見られるだなんて心外だなあ、と思いながらも、猫缶を開けようとした、その時。
「おお、鶴紗!やっぱりこんなところにいたカ!」
「わあああああああ?!ま、梅様!いるならいるって言ってください――あっ」
突然梅様が出てくるもんだから、驚いて大声を上げたら、一斉に猫たちはあちこちに散ってしまった。折角仲良くなれそうだったのに、と梅先輩を睨むと、梅先輩は悪びれなさそうに「アハハ!ごめんごめん!!」と笑った。
「でも声をかけても、どっちにせよ同じ反応するだロ?」
「それは……そうですけど……。それで、何の用ですか」
「オウ! お前に話があるんだよぅ、鶴紗」
梅先輩が、何かを企んでいる時に良く浮かべる、いたずらっ子のような笑顔でそう言ってきた。たいてい梅先輩がこの笑顔を浮かべている時は、ろくでもないことを言おうとしている時だ。
とはいえ、私を探してここまで来るってことは、今日はその限りじゃないのかもしれない。「話?」と聞くと、梅先輩は「あぁっ!」と大きく頷いた。そして――。
「その、あのナ? 鶴紗。……梅と、シュッツエンゲルの契りを結んでくれないカ?」
「……は?」
やっぱりろくなことを言わなかった。あの、シュッツエンゲルを取らないって言っていた、あの梅先輩が、私にそんなことを言ってくるとは。それに、前にもそんなことを言われて、ちょっと本気にしたら、冗談だって笑われたし、梅先輩のこの手の話は信用ならない。
「先輩、この前も言いましたけど、冷やかしならやめてください」
ため息交じりにそう言うと、作戦中でもめったに聞かないような、真面目な声で「いや、今回は本気だゾ。鶴紗」と、梅先輩が言う。
「えっ……」
「この前――新宿の件の後の祝賀パーティの後に、鶴紗に話を聞いてもらっただロ? その時思ったんダ。わたしにとって、大切な後輩は鶴紗、お前だってナ!!」
「どうしたんですか、急に。そんな……。」
確かに、この前の新宿都庁に巣食っていた、あのラージ級のヒュージを倒した後の、百合ヶ丘で行われた祝賀会パーティが終わった後、なんだか少し寂しげだった、梅先輩の様子を見に行って、そこで話を聞いたことはある。けど、その時は、そんな、私とシュッツエンゲルを結びたい、みたいな話は、これっぽっちもなかったはず……。
「色々考えたんダ。鶴紗が帰っていった後にナ。
鶴紗と話して、鶴紗に言われたことを考えて、そうしてわたしは気付いたんだ。夢結や、天葉や、それに依奈に千香瑠。皆、新しい自分の居場所を見つけて、その場所を守る為に、頑張ってるんだってこと。もちろん、それに今まで気付いてなかったワケじゃないゾ? でも、それがどういうものか、っていうのを、改めて感じた、っていうかナ」
「……」
「そうして、初めてわたしもそういう場所が欲しい、って思ったんダ。そう考えた時に、真っ先に思い浮かんだのが、鶴紗。お前だったんダ。それに、こんな話、前からしてただロ?」
「それは、そうですけど……」
まあ……私のほうから、梅先輩にシルトを取らないのか、っていう話をしたこともあるし、逆に、それこそ冗談でも、梅先輩のほうから、その話をされたこともある。けれど、だからと言って、本当にそんな話をされる日が来るだなんて、思わなかった。
「……本当に、冗談じゃ、ないんですよね」
「オウ!」
私の問いかけに、梅先輩は頷いた。
「今だって、いつゲヘナに呼ばれるか分からないし、いつか居なくなるかも分からないんですよ?」
そう言う私に、梅先輩は「鶴紗はいなくならないゾ! だって梅がお前を護るからナ!」なんて返してきた。
「そんな……梅先輩に、私事で迷惑をかける訳には――」
すると梅先輩は、「良いカ、鶴紗」と、私の前に座り直した。
「シュッツエンゲルって言うのは、お互いを護り合う契りだって知ってるよナ? それで、わたしがそう思ったのが、そんな鶴紗、お前だったんダ。だから、そこに、遠慮も迷惑も何も無いゾ」
「梅様……」
「お前がブーステッドリリィなんだとか、そんな事は関係ない。鶴紗は鶴紗だ。百合ケ丘の、そして一柳隊の大切な仲間ダ。梨璃もそう言ってただロ? それと一緒ダ。だから……ナ?」
梅先輩の言葉に、少し泣きそうになる。梨璃もそうだけど、なんでこうもお人好しが多いのか。これだから、私は……。
「頼む、鶴紗。わたしに、お前を護らせてくれ」
もう周りは暗くなっていたけど、梅先輩のまっすぐな目が、じっと私を見ているのは気配で分かった。梅先輩は冗談で、そう言っているんじゃない。今回ばかりは、本気だった。
「……少しだけ、時間下さい」
だから、私は梅先輩にそう言った。梅先輩が本気なら、私もしっかり考えて、結論を出したかった。いや、それもあるけど、それだけじゃなかった。
「オウ!いくらでも待つゾ!」
そう言ってくれる梅先輩に、「すみません……!」と頭を下げて、すっかりいなくなってしまった猫缶を回収して、私は猫の集会所を後にした。茂みを抜けて、道路に出て、私は百合ヶ丘に向かって走り出した。
――私は、どうしたいんだろう。
道すがら、そんなことばかり考えていた。別に梅先輩のことは嫌いじゃない。どちらかと言えば、梨璃や神琳や雨嘉のものは違うと思うけど、好きではある。
だからこそ余計に悩むのだ。そんな先輩だからこそ、私なんかのことで、気を使ってほしくはない。私なんかよりも、夢結様のことを支えてほしいと思う。だって、この前の梅先輩の話を聞いていて、どれだけ梅先輩にとって夢結様が大切な存在なのかは、痛いほど分かったから。
それなのに、どうして梅先輩は、私とシュッツエンゲルを結びたいって思ったんだろう。確かに、その理由はさっき聞いたけれど、梅先輩が思っているような人じゃきっとない。
今だって、自分の犠牲で、皆が助かれば……なんて考えが頭を過るし、ゲヘナにだって呼ばれる。いつだってあいつらは無理難題を押し付けてくるし、それがきっかけで、梅先輩を悲しませたり、怒らせたり、それに、何より心配させたくない。
それに、シュッツエンゲルになる、ということは今よりも近い存在になるわけで、そうなったら、今以上に梅先輩を苦しませることになってしまうのは、目に見えている。だから、それは何よりも嫌だった。
「……」
走る足を止める。外灯の光に自分の影が黒く落ちる。そうだ、私は影みたいな存在であるべきで、幸せになることを許されている存在じゃない。
「……あはは」
たまらなくなって座り込む。一柳隊の皆を見ていると、たまに、自分は許されたんだと、自分はもう幸せになってもいいんだ、って思う瞬間がある。だから、そんな勘違いをしていたんだろう。
――心さえなかったら、そんなことも考えないで済むのに。
色々なものを、私は奴らに奪われた。平穏な日常も、人並な幸せも、私らしさなんてものも、根こそぎ奪われた。なのに、この心ってやつまでは、あいつらは奪ってはくれなかった。だから、いつも苦しまされる。今日も、あの、梨璃や夢結様達に助けられた、あの日だって。
――クソが。
やり場のない怒りを、横のフェンスに思いっきり殴る。ガシャン、という音が響く。
「そんなに腹を立てられて、どうしたんですか? 鶴紗さん」
「……っ?!」
振り返ると、少しずつ誰かが近づいてきた。その声は聞き覚えがあって、そして、段々とその姿が見えてきた。
「神琳……? どうして」
「いえ……、少しお茶っ葉が切れそうなだったので、買出しに出ていたんです。そしたらついつい遅くなってしまいました」
「……そうか」
なんだか少しバツが悪くて、歩き出した私に、神琳が「ちょっと待ってください、鶴紗さん」と声をかけてきた。
「何」
「私でよければ、お話聞きますよ? 丁度新しい茶葉を買ってきたので、試してみたいのもありますし」
「いや――」
いい、と言いかけてやめる。このまま一人で悩んだっていいけれど、それで納得できる答えが出るとは、思えなかったから。
「……聞いてもらえるなら」
すると、神琳は「分かりました。まだ開いてるか分かりませんが、カフェテリアでよろしいですか?」って聞いてきた。私は、それにこくり、と頷いた。
+++
「お口に合うかわかりませんけど……どうぞ」
「……ありがとう」
結局カフェテリアの電気が消えていて、私たちは、いつもの一柳隊の控室に来た。この時間帯なら、周りのレギオンの皆も部屋に帰っている頃だろうし、誰かに聞かれる可能性のあるカフェテリアよりも、こっちのほうが都合が良かったかもしれない。
「それで、どうされたんですか?」
「……」
改めて神琳に聞かれて、どう説明したものかな、と少し悩む。そのまま梅先輩に、「シュッツエンゲルの契りを結んでほしい」って言われた、とストレートに言えばいいのだろうけど、そういった話題に疎い私にとっては、なかなか言い出しづらかった。だから。
「……神琳は、雨嘉のことを、どう思ってるんだ?」
すると、お茶を飲もうとしていた神琳が、ぽかんとした。……聞き方を間違えた。完璧に間違えた。やっぱり、私にはこの手の話は向いてないな、と立ち上がろうとした時、神琳がふふふ、と笑った。
「やっぱり、鶴紗さんは面白い方ですね。何を言うのかと思えば、そんなことを聞くだなんて」
そんな神琳の言葉を聞いて、顔が熱くなった。もうすぐにでも部屋を飛び出したくなった私に、「そうですね……」と神琳は黙り込んだ。さすがにここで席を立つのも申し訳ないから、淹れてもらったハーブティーを飲む。ハーブのスーッとした匂いが、落ち着かせてくれる。
「……私にとって、雨嘉さんはかけがえのないものですね。無くなったら嫌だな、って、そう思うぐらいには」
「そうだろうな、二人を見ていてそれは思う」
「ふふ。鶴紗さんにそう言われるなんて、少し恥ずかしいですね」
「……いつも見せつけられてる身にも、なってほしいけど」
「でも、梨璃さんと夢結様ほどではないでしょう?」
「同じようなもんだろ」
そう返すと、神琳は「相変わらず手厳しいですね」と笑った。
「でも、心の底からそう言えるようになったのは、佐世保のあの作戦があってからですね。もちろん鶴紗さんや梨璃さんたちにも、たくさん助けて頂きましたが、特に雨嘉さんには色々と心配をかけてしまいましたから」
「まあ……確かに」
あの時のことは今でも忘れられない。というより、後にも先にも、あんな神琳は見ないだろうな、と思うぐらいには、あの神琳は、神琳じゃなかった。そんな神琳を、雨嘉はずっと不安そうに見守っていたのも、また。
「それが、どうか?」
神琳が首をかしげて聞いてきた。まあ、もうここまで来たなら、普通に話してしまったほうが良いだろうな、と思って口を開いた。
「……梅様に、シュッツエンゲルを結ばないか、って言われたんだ」
「あら……それは」
神琳も、少し驚いたように目を見開いた。
「けど、まだ返事を返せてないんだ。私にとって、梅様がどういう存在なのか、よく分からなくなってしまって」
「そうだったんですね。だから、さっきの質問を?」
「……あぁ」
なるほど、と神琳はお茶を啜った。変にのどが渇いたような気がして、私も一口お茶を飲む。
「それで、返答は決められたんですか?」
「いや、それが、まだ……」
「あら、鶴紗さんにしては珍しいですね」
「……そうかな」
「えぇ」
神琳がそう頷く。