今回は、僕自身の話を少しだけします。
割と、ブログとかで身の上話はしてるんで、知ってる方もいると思いますが、中学三年生直前の春に、両親が離婚しました。いや、正確には、離婚することが告げられました。
当時、僕は北海道の南の函館に住んでいて、一軒家で、今と変わらず友達は少なかったんですが、それでも一軒家に住んでて、それなりに幸せだった記憶があります。でもまあ、色々と考えると、僕は幸せだと感じてたけど、今の自分を振り返ると、そんなに幸せな家庭じゃなかったのかもしれませんが。
それから、僕はみるみるうちに壊れていきました。今でこそ、誰かを失う事には慣れてしまいましたが、当時はそんな経験なんて無かったし、失うといっても、その失うものがあまりに多すぎて、僕自身が受け止めきれなかったんだと思います。
大好きだった洋風の一軒家、中古のBMW、買ったばかりのタント、そして、大好きだった一緒に住んでたお祖母ちゃんと住めなくなること。それに、自分の父親が、他人になること。
それが一気に無くなるのなら、どんなに良かったか。けれど、世は残酷で、ひとつひとつ丁寧に無くなっていきやがりました。
壊れてしまった僕は、家に帰れば喪失感で大泣きしては、母親が「周りに迷惑だから」と止めにかかって、それでも泣き止まなかった僕は、二回ぐらい児童相談所に連れていかれたりもしました。死にたくて、部屋の延長ケーブルを首に巻き付けて死のうとしたり、頭を壁に打ち付けたり、あらゆる方法で死のうとしました。けど、終ぞそれが叶うことはありませんでした。
それから幾数年。立ち直れなかった僕は、せめてもの抵抗で、遠い静岡の地にやってきて、心機一転をはかりますが、ことごとく失敗しては、いろんな人に迷惑をかけてきました。救いだったはずの創作にも、真っ黒い影が覆って、「もう創作なんてやめてやる」と泣き腫らした夜もありました。その夜は、もう終わることがないんじゃないか、と思ってしまうほど長かったです。
でも、月並みな言い方ですが、「明けない夜」はありませんでした。信じられないほどゆっくりと日は明け、何にもなかった僕のもとには、少ないながらも、嬉しい知らせがいくつか届くようになりました。そういう日が続いて、気が付けば、あんなにあった希死念慮も、消えたい欲求も抱えることは少なくなりました。それはひとえに、これを読んでいる方々のおかげです。ありがとうございます。
そして、そんな話を書けたのは、まぎれもなく、そういう日々を過ごした僕自身が今日まで生きたからであって、どこかで死のうもんなら、誰かが褒めてくれた、あの作品たちは生まれなかったんだと考えると、「生きていて良かった」とすら思います。そう言える日が来るなんて、思っていませんでした。
夜が明ける、ということは、また日は沈みます。そして今は、たぶん、また沈んできているんだと思います。それでも、僕は作品を創り続けます。これは誰かのためじゃなくて、また、そう言えるようにするために。そして、そんな作品と出会って、一人でも、「この作品が完結するまで死ねない」と、誰かの生きる理由の為です。
これは完全にエゴで、昔に知人に「自分に酔っている」とまで言われましたが、だけど、そうでもなきゃ、創作なんてやってられないです。それは今でも変わってません。
何はどうあれ、僕はあの、すべてが終わった日の僕に、敬愛するバンド、amazarashiの「1.0」という曲の歌詞を送ります。
きっとまだ、彼にとっての『明日』を見つけられていないでしょう。それでも、自分に「なんとかなるさ」って言える、自分らしく「1」となれるその日が来ることを祈っています。