お久しぶりのコラム更新、今回は、僕のアサルトリリィ二次創作や『終焉』などと言った、「まだ若い人たちが、戦闘に駆り出されている物語」を書くにあたって、いつも考えていることを書こうと思います。
『高校生』という多感な時期と、「大切な人の死別」や「仲間との決裂」などなどの相性がすごく良い(シリアス脳)のもあってか、そういう若い人が、理不尽な戦線に駆り出される創作が、最近特に多くなってきた気がします。かくうえ僕自身も、一次創作作品である『終焉』や艦船擬人化創作などは、その傾向を汲んでいます。
そういう話を書くとき、僕はいつも「何でこの人たちが戦わなくちゃいけないんだろう」と考えています。この考えを持つようになったのは、『終焉』の前身作品を書いてた頃からあるので、割と長い考え方です。
例えば、僕が二次創作をやっているアサルトリリィを例にとりましょう。……とはいっても、分からなくても大丈夫なように書きます。
アサルトリリィは、簡単に言うと、高校生の女の子たちが、異形の怪物と戦う物語です。それでは、何で高校生の女の子たちが戦わなくてはならないのでしょうか。
もちろん、このアサルトリリィの世界観をある程度分かっている人ならば、「こういう理由があるから」ってすぐ出てくる人が多いと思います。僕も、ある程度は抑えているつもりなので分かりますが、問題はそういう所ではなく、もっと根本的な理由です。
なぜ、この年頃の女の子たちが戦わなきゃならないんでしょうか。設定を抜きにして考えれば、別に高校生の女の子たちが戦う必要はあるのでしょうか? ……っていう事です。割と破綻している考え方ではありますが、もう少し掘り下げて書こうと思います。
戦うだけであれば、別にまだ年齢的にも幼い子供たちを前線に出さずに、大人たちが戦えば良い。その方が、割と知見もあるし、過去の戦闘のデータだって、書面よりもより具体的なものとして持っているはずです。そして、万が一、戦闘に敗れようなものなら、その責任は大人たちが背負えば良い。
なのに、これがそういう若い子供たちを出すとすると、大人たちとは逆の事が起きる。教科書上の知見と、戦闘データはあるけれど、基本的には知らないことばっかりです。だから、無茶なこともするし、無謀なこともしようとする。そして、そういった因果が重なって、作戦が失敗して、領地を失った場合、大人が代わりに責任を取ることもありますが、その子供たちが最終的な責任を負わせられる。または、負わされなくとも、「彼ら、彼女らがもっと育っていれば、結果が変わったかもしれない」と言われるかもしれません。
どうでしょう。そういうアニメや漫画を読むと、ただそれが美観になることもありますが、こうして文字にしてみてみると、なかなか理不尽だと思いませんか?
前線で戦う子供たち、っていうのは、どうしようもない「大人」っていう権力に逆らえず、ありえたかもしれない、「普通の生活」と言うものを犠牲にして、そして、有事の時には大人の代わりに命をかけて戦い、その責任は後ろで安全圏にいる大人たちではなく、遠回しでも、前線で戦う彼らに押し付けられる。……まあでも、その大人たちの中でも、分断が起きているので、どっちか幸せか、っていうとどっこいどっこいな所もありますけども。
僕のそういった創作の根本には、そういう考え方があります。その上に、「大切な人との時間」だとか、「守りたい人を守る」、って言った、本当に綺麗な話を置いています。だから、割とシリアスな話が多いし、日常話の中にも、ほの暗い話がたまに入ってくるわけです。だからわいは、他の人が書けるような、普通の恋愛話が書けないんですが。
いかがでしたでしょうか。
文中でも書きましたが、割と破綻した考えではあります。けど、その考えをさらに尖らせて、毎度自分とその世界を同期するような感覚で、毎回アサルトリリィ二次創作も書いてます。「自分だったらこうするかな」「この中で最善の選択とは何なんだろう」とか。だから結構病みやすいのはある。けど、それがわいの作風だし、自分が良いと思っているものだから、それはしょうがないかな、って思ってます。
そうした苦しみの中で生まれた、出てくる人間たちの生き様とか、そういうのを楽しんでもらえれば、と思います。それでは、また。