By Artfarmer2026年1月12日
糖尿病治療においてインスリンは、生命維持に不可欠なホルモンである。特に1型糖尿病や、インスリン分泌が枯渇した2型糖尿病では、インスリン治療なしに生命を保つことはできない。この点はいかなる議論においても揺るがない前提である。
一方で近年、「インスリン注射の害」を示唆するかのような疫学研究や言説が流布してきた。しかし、その多くはインスリンという薬剤そのものの毒性を示すものではなく、治療戦略や研究解釈に内在する構造的問題を十分に区別できていない。本稿では、インスリン治療を否定することなく、その「罪」と呼ばれてきたものの実態を、科学的に整理することを目的とする。
疫学研究を解釈する際、最も警戒すべきバイアスの一つが**適応による交絡(confounding by indication)**である。これは、治療薬そのものがリスクを高めているのではなく、その治療を必要とするほど病態が重症であること自体が真のリスク因子であるにもかかわらず、結果として治療薬が原因であるかのように見えてしまう現象を指す。
インスリン使用者において、認知症や癌のリスクが高いという結果が得られたとしても、それは必ずしもインスリンの害を意味しない。むしろ、長期間にわたる高血糖、代謝異常、糖尿病罹病期間の長さといった背景因子が、インスリン使用と疾患リスクの双方に関与している可能性を考慮しなければならない。
インスリン使用とアルツハイマー病リスクの関連が注目された1999年のロッテルダム研究には、見過ごされがちな重大な制限が存在する。それは、平均追跡期間が2.1年と極めて短かった点である。
認知症、特にアルツハイマー病は、臨床症状が出現する数年から数十年前より、脳内でアミロイドβの蓄積などの病理学的変化が進行する慢性疾患である。したがって追跡期間が短い研究では、研究開始時点ですでに前臨床段階の認知症や軽度認知障害(MCI)を有していた被験者が相当数含まれていた可能性が高い。
このような状況では、インスリン使用が認知症発症の原因であるかのように見えても、実際には逆因果(reverse causation)、すなわち認知機能低下が進行した結果として治療強化が行われていた可能性を否定できない。
インスリンの議論において頻繁に生じる誤解の一つが、**高インスリン血症(内因性)とインスリン注射(外因性)**の混同である。
2型糖尿病初期や肥満では、過剰な糖質摂取により内因性インスリンが過剰分泌され、慢性的な高インスリン血症となりやすい。一方、1型糖尿病や進行した2型糖尿病では、インスリン注射は不足分を補う生理的補充であり、必ずしも高インスリン状態を意味しない。
この区別を曖昧にしたまま、インスリン治療全体を危険視することは、医学的にも医療安全上も適切ではない。
以上を踏まえると、インスリン注射の「罪」とは、薬剤そのものの毒性ではなく、
糖質を過剰に摂取する食事を前提とし、その結果生じる高血糖を是正するために、非生理的に高濃度のインスリン投与を行うという治療戦略
すなわち、グルコセントリック・アプローチ(glucocentric approach)そのものの弊害を指していると解釈するのが妥当である。
血糖値という単一指標の是正に過度に焦点を当てることで、高インスリン状態が慢性化し、代謝全体の健全性が置き去りにされる危険性がある。
5-1. 日本人の病態生理的特性
日本人を含む東アジア人は、欧米人と比較して肥満が軽度であっても糖尿病を発症しやすい。その主因は、インスリン抵抗性よりもインスリン分泌能の低さにある。
このため、食後高血糖が目立ちやすく、比較的早期から血糖値が上昇する傾向がある。
5-2. 細小血管症リスクと血糖至上主義
日本人糖尿病患者では、網膜症・腎症・神経障害といった細小血管症のリスクが比較的高い。これらは血糖値と強く相関するため、「とにかく血糖を下げる」治療思想が臨床現場で強化されてきた。
5-3. 医療制度と文化的背景
短い診療時間、HbA1cという評価しやすい指標、米を主食とする食文化なども相まって、食事内容を大きく変えるよりも、薬剤で血糖を是正するグルコセントリック・アプローチが合理的に選択されてきた歴史的背景がある。
重要なのは、「インスリンを使うか、使わないか」という二項対立ではない。
どのような食事・生活環境のもとで、どれだけのインスリンが必要なのか
を個々の患者ごとに考えることである。
血糖値の正常化だけでなく、インスリン需要を含めた代謝全体の健全性を評価する視点、すなわちグルコセントリックを超えた治療設計が、現代の糖尿病医療には求められている。
本記事で取り上げられている「インスリンの『罪』」とは、
インスリンというホルモンそのものの毒性や有害性を指すものではないと理解すべきだと思います。
むしろそれは、
糖質を過剰に摂取することを前提とし、その結果として高インスリン血症を不可避的に招く従来の食事療法・治療体系(いわゆるグルコセントリックなアプローチ)に対する警鐘として解釈するのが妥当ではないでしょうか。
実際、私自身は2012年時点で、
空腹時血糖値213mg/dL、HbA1c 8.2%という明らかな糖尿病状態にありました。
その後、可能な限り厳格な糖質制限を継続した結果、
現在はHbA1c 5.9%を維持しています。
この間、薬剤の服用やインスリン注射は一度も行っていません。
この個人的経験は、インスリンを否定するものではなく、
「血糖を下げるためにインスリンを追加する前に、
そもそも高インスリン分泌を必要としない代謝環境を作るという選択肢が存在する」
ことを示す一例にすぎません。
インスリンは人類にとって不可欠な治療手段であり、その価値が揺らぐことはない。一方で、その使われ方や医療の設計思想を批判的に検討することは、患者の長期的な健康を守るうえで不可欠である。
インスリン注射の「罪」とは、インスリンそのものではなく、糖質過剰を前提とした医療構造の帰結なのである。