The Gifts of the Magi and the Gifts Christ Gave from the Cross
賢者の贈り物とキリストが十字架から与えた贈り物
黄金、乳香、没薬。
Gold, frankincense, myrrh.
マタイによる福音書では、東方から訪れた賢者たちがイエスに贈ったものである。賢者マギの話は、マタイによる福音書だけに登場する。しかし、贈り物の名前が3つしかないので、それぞれの贈り物に対応するマギがいたものと思われる。
In the Gospel of Matthew, these were the gifts presented to Jesus by the wise visitors from the East. The story of the Wise Men, the Magi, appears only in Matthew’s Gospel. We are never told there were three Magi; but as only three gifts are named, the tradition grew that there was a Magus for each gift.
東方の三博士は、私が少年の頃から私の想像力を握っていました。私はあまり教会と関わりのないの家族の出身で、後に家族が住んでいたフロリダ州ジャクソンビルの米国聖公会で洗礼を受けましたが、教会とはあまり関係がありませんでした。しかし、年に2回、クリスマスとイースターに1回ずつ、私たちはみんなドレスアップして、ビスケット色のレンガでできた巨大な場所である家の近くのグッドシェパードバプテスト教会の礼拝に行きました。家族が庭から生花を持ってきて、チキンワイヤーのフレームワークで巨大な十字架を飾り、礼拝中に聖歌隊が輝くような歌声で賛美歌を歌っていたイースター礼拝を特に覚えています。
The Three Wise Men have had a hold on my imagination since I was a boy. I come from an unchurched family, and although I had my christening in an Episcopal church in Jacksonville, Florida, where our family later lived, we did not have much to do with church. But twice a year, once at Christmas and once at Easter, we would all get dressed up and go to services at Good Shepherd Baptist Church near our house, a huge place built of biscuit-colored brick. I especially remember the Easter service there, when families would bring fresh flowers from their yards to decorate a huge cross with a framework of chicken wire, and during the service a splendor of brass played over the voices of the choir.
数年間が過ぎました。自分で定期的に教会に通うようになったのは、1998年ごろからである。それから10年後の2008年、ドイツに行く機会があり、ケルンの大聖堂を訪れたとき、三賢者に再び興味を持った。 1880年に完成したこの大聖堂は、1884年にワシントン・モニュメントに抜かれるまで、独立した建築物としては世界で最も高いものだった。 この大聖堂は、身廊の祭壇端にある黄金の石棺の中に聖遺物を納めるために建てられたものである。
マタイによる福音書では、東方から訪れた賢者たちがイエスに贈ったものである。賢者マギの話は、マタイによる福音書だけに登場する。しかし、贈り物の名前が3つしかないので、それぞれの贈り物に対応するマギがいたものと思われる。
Many years passed. I did not regularly start attending church on my own until about 1998. And about ten years after that, in 2008, my interest in the Three Wise Men was kindled again when I had a chance to travel to Germany, and to visit the cathedral at Köln. The great cathedral, upon completion of construction in 1880, was the tallest free-standing structure in the world— until 1884, when it was overtopped by the Washington Monument. The cathedral was built, among other reasons, to house relics enshrined in three golden coffins near the altar end of the nave.
これらの遺物は、die Heilige Drei Könige「三人の聖なる王」、あるいは「三賢者」と呼ばれる人々のものだと言われています。 伝説によれば、彼らの名前さえも提供されています。 カスパー、バルタザール、メルキオール。 また、聖地で聖遺物を発見したのはローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナであり、それをビザンティウム(後に彼女の息子の名を取ってコンスタンティノープルと呼ばれ、現在はイスタンブールとして知られる)に持ち帰ったという伝説もある。 この聖遺物がどのようにしてイスタンブールからケルンまで運ばれたのか、その経緯は不明である。しかし、カスパー、メルヒオール、バルタザールの伝説は広がり始めた。そしてドイツでは、クリスマスになると、未知の旅人を歓迎するために、KMBの頭文字をのぼりだんにチョークで書き入れる。
These relics are said to be those of die Heilige Drei Könige, the Three Holy Kings, or as we would call them, the Three Wise Men. Legend also tells us it was Helena, mother of the Roman Emperor Constantine, who discovered the relics in the Holy Land, and brought them back to the city of Byzantium, later called Constantinople after her son, and now known as Istanbul. The story of how these relics made it from Istanbul to Köln is unclear, but legend has even supplied names for them: Kaspar, Balthazar, Melchior. One of them was said to have young, one middle-aged, one an old man: the dawn of the story of life, its zenith, and its sunset. And the legend of Kaspar, Melchior, and Balthazar began to grow. Even today in Germany, at Christmastime the initials KMB are chalked onto doorsteps to welcome the unknown traveler.
黄金、乳香、と没薬乳香の贈り物は特別な意味があります。 ダビデの子孫である王のための金、神のための乳香、そして埋葬の前に遺体に塗るために使われるミルラ、つまり苦しみながら死んでいく人間のためのものです。
The gifts of gold, frankincense, and myrrh have special meaning. They reflect the triple nature of Jesus– gold for the king, the scion of David; frankincense for the god; and myrrh, used to anoint bodies before burial, for the mortal man who would suffer and die.
第三の贈り物は、物語の一端、苦しんで死ぬ人を指し示しています。ヨルダン川での洗礼、砂漠での誘惑、カナでの婚礼、数百人が癒され、数千人が養われ、ラザロのよみがえり、喜びと苦しみのエルサレム入城、ゲッセマネでの疑い、ピラトとの対話、むち打ち、ゴルゴタへの道行-物語の遠端には、十字架上のイエスがいます。
That last gift points us to one end of the story, to the man who would suffer and die. After the baptism in the Jordan, the temptation in the desert, the wedding at Cana, the hundreds healed, the thousands fed, the raising of Lazarus, the triumphal and disastrous entry into Jerusalem, the doubt at Gethsemane, the interview with Pilate, the scourging, the walk to Golgotha-- at the far end of the story, we have Jesus on the Cross.
そして、十字架から、最大の労苦の瞬間に、イエス様は贈られました。 その時、自分がされたことによって他の人が負った傷を癒す贈り物をしたのです。 最大の労苦の瞬間、痛みの中で、御父からのしるしを求めているとき、イエスはまだ周りの生き物を見ることができ、彼らの必要を理解することができました。 十字架のふもとにいるローマの兵士たちに、彼は赦しの贈り物をしました。 "父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分のすることを知らないのです。" 十字架にかけられた悔い改めた盗人に王国の場所を与えました。"真実に告ぐ、今日、あなたは私と一緒に 楽園で過ごすであろう" そして、母親と弟子には、家族という贈り物をされました。母親には「女よ、これはあなたの子です」と言われました。愛した弟子には「これはあなたのお母さんです」と言われました。
And from the Cross, at the moment of maximum trial, Jesus gave. He gave gifts that healed the injuries caused to others, injuries caused by what was being done to Him at that moment. At the moment of maximum trial, in pain, seeking a sign from His Father, He still was able to see the creatures around him, and to understand their needs. To the centurions at the foot of the Cross, He gave the gift of forgiveness. “Father, forgive them, they know not what they do.” To the repentant thief crucified upon his right, He gave a place in the Kingdom. “In truth I tell you, today you will be with me in Paradise.” And to His mother, and to the disciple He loved, He gave the gift of family. To His mother He said, “Woman, this is your son.” To the disciple He loved, He said, “This is your mother.”
十字架からの言葉とともに贈り物をされましたが、これこそキリストの尊い秘義です。キリストがなさったことは、金、乳香、没薬という命のないものを超越して、生きたもの、人と人との新しい関係、罪を取り除き、恐れを追い出し、愛と家族を育む関係を創造されたことです。 私たちは、昔の主の言葉を聞き、思い出すことは正しいことです。そして、私たちは他の人々にどのような無形の贈り物をすることができるかを考えなければなりません。
With His words from the Cross, He gave gifts, and this is the precious mystery of Christ. What Christ did was to transcend those lifeless things, gold, frankincense, myrrh, and create living things, new relationships between people, relationships that clear away sin, that cast out fear, that foster love and family. It is right that we should hear and remember His words of long ago. And we should also consider what intangible gifts we might give to others.
もう一つ考えておきたいのは、受肉と復活という物語の両端がどのように関連しているかということである。初代教会には、「飼葉おけ」と「十字架」が同じ木で作られたという伝説がある。また、物語の始まりと終わりが対極にあるのではなく、つながっているという考え方は、最近、映画「アライバル」で再認識された。この映画自体が、中国系アメリカ人作家テッド・チャンの短編小説を原作としている。しかし、その問題はまた別の機会に。
One more thing we should consider is how the two ends of the story, the Incarnation and the Resurrection, are related. There are legends in the early church that the Manger and the Cross were both made from wood of the same tree. And this notion of the beginning and the end of a story connecting, rather than at being at opposite ends of a line, has been revisited recently in the movie Arrival, which itself was based on a short story by Chinese American author Ted Chiang. But that is a topic for another time.
さらに検討するための質問
Questions for further consideration:
1. 聖書に登場する人物の中で、あなたにとって特別に興味をそそられる人物はいますか?特に、「マイナー」と思われるような人物ですか?
Is there a person or persons in the Bible whose story holds special interest for you? Especially a person or persons who might be regarded as “minor?”
2. 聖書に描かれているものの中で、あなたにとって特別な意味を持つもの、またはその一群があり ますか。
Is there an object or group of objects depicted in the Bible that have special significance to you?
3. あなたが初めて教会に入った時のことを覚えていますか?どのように感じましたか?何か印象的なことがありましたか。
Can you remember the first time you entered a church? How did you feel? Did anything stand out for you?
4. 子供の頃に好きだった物語の中に、贈り物に関するものがありましたか?その贈り物は何でしたか?贈り物を受け取った人はどうなりましたか?
In any of your favorite stories as a child, were any about gifts? What were the gifts? What happened to the person that received the gifts?
5. あなたが他人に贈ることのできる無形の贈り物にはどのようなものがありますか?
What are some intangible gifts you might give others?
6. もし、あなたが説教をする機会を与えられたとしたら、聖書のどの章または節を基 に説教をしますか?
If you were given the chance to preach a sermon, on what chapter or verse from the Bible might you base your sermon?
ルカ10:27 『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを痛苦して、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい。』(朗読箇所10:25-28)
歌「にんげんって、いいな。」
「にんげんっていいな」という歌を歌いました。良い歌でしょ?「まんが日本むかしばなし」のエンディングの歌です。子どもたちも大好きで、日曜学校の礼拝で、よく歌います。私は「牧師バー」という企画もやってるのですが、そこで、この歌を、お客さんたちと一緒に歌いました。するとその中に、熱心な仏教徒の方がおられて、一言仰いました。「人間って、そんなに良いものですか?」これ、面白い質問だと思いました。仏教とキリスト教の違いが良く出てるんですよね。仏教の場合、絶対的な存在や価値観を相対化します。ですから、人間も特別扱いするのではなく、他の動植物と変わらないものと捉えます。それに対してキリスト教では、人間は神様に似せて作られたものであり、特別な使命を受けおり、そして神様から特別に愛されている、と考えます。仏教の方も、やはりどこかでは人間が特別な存在であると感じておられるでしょうし、またキリスト教でも、人間と言えど神様から創られたものの一つに過ぎない、とも考えています。でも教えとして、強調点が違うんですよね。キリスト教の人間観は、まず、神様から愛されている、と言うところから始まっていると思います。
さて、今月の主題聖句です。良い言葉ですよね。「愛する」という生き方を、とても積極的に、主体的に捉えている言葉です。「神様を愛する」というと、クリスチャンの方だと、神様を、人格的な交わりの中で捉えますので、「神様を愛する」という言葉に、感情的にしっくりきます。けれども、そこまで神様を近く感じていない人にとっては、この言葉は、何かしっくりしないものを感じないでしょうか。キリスト教で「愛する」と言うのは、相手のために良いことをすることだと考えるならば、人間から神様に何かしてあげるというのは、理屈では合わないような気がします。また、「隣人を愛する」と言うのも、とても良い教えなのですが、やっぱりどこか、しっくりこないものがあるんじゃないでしょうか。「隣人」と言うのは、いろんな深い意味があるんですが、とりあえずここでは「他人」としておきましょう。「隣人を自分のように愛する」これは、別の翻訳では、「自分を愛するように隣人を愛する」となります。「自分を愛するように隣人を愛する」と言うのは、とても良い教えです。何事も「人ごと」にしてしまうのではなく、他人の思いや状況を、自分に引き寄せて、親身になって考え、対応する、という意味でしょう。それでもどこかしっくりこない。それは、「自分を愛する」というところに引っかかるんじゃないでしょうか。
皆さん、自分を愛しています?色々だと思いますけど。慎み深さを美徳とする私たちの社会では、なかなか自分から「自分を愛してます」って言いにくいですよね。反対に、「自分はダメで」とかは、ネタでもしゃべりやすいですが。他でも、誰かをほめるよりも、批判したり、また愚痴を言ったりする方がしゃべりやすかったりしますので、なかなか、自分も隣人も、愛するのが難しい雰囲気はあるのかもしれません。
大体が、私たちは自分を愛しにくい社会に生きているのです。まず、日本と言う国自体が、自分を愛せてないと思います。どこかの偉そうな人が、「もっと誇りを持ちなさい」何て言いますが、若い人に言うのは筋違いです。元来、誇りやプライドというものは、愛と正義から生まれるものです。「自分は苦しくても間違ったことはしなかった」とか、「何があっても困っている人は見捨てなかった」というのが誇りになるのであって、お金や力は誇りになりません。今の日本で自慢しているのは、ちょっとお金を持っていることだけですよね。国全体が誇りを持てないのに、私たちが誇りを持てる訳がありません。また、小さい時からの教育でも、テストで「100点満点」っていうじゃないですか。と言うことは、殆どの人は、100点より足りない成績だということです。テストはいつも減点方式。だから、私たちはいつも「お前はどこか足りないんだ」と言われ続けてきたのです。他にもいろいろありますが、社会全体で、私たち一人一人が、あまり大切にされていないように感じますよね。
だから、あえてその中で、自分を愛することができるようになるには、自分から愛と正義を行っていくことのが良い、と言えるでしょう。確かに、誰かのために力を使うのは、大変いいことであり、自分の中にも、大きな意義が生まれることでしょう。
それはそれで良いのですが、それでも多分、それだけでは、自分を愛することが難しいように思います。自分で頑張るだけでは、ちょっとしんどいような気がします。自分で自分を愛するためには、自分が誰かから愛されている、または、愛されたという経験が必要な気がします。やはり誰かから愛された経験は、自分の中で大きなものとなり、自分が生きていく力になるでしょう。私たちは、誰かから愛されて大きくなってきました。自分を愛してくれた方々のことを、何人か思い出すことができるでしょう。遡っていくと、きっと、自分を育ててくれた親御さん、自分を生んでくれたお母さんに思い至ると思います。
とは言え、もしかしたら、自分が愛された記憶を、なかなか思い出せない方もおられるかもしれません。辛い記憶が、愛された記憶を覆い隠しているように感じる人もおられるかもしれません。その方に、あえて言います。神様は、必ずあなたを愛しておられます。これは私がキリスト教の牧師だから言うことです。聖書にはそのように書いてあり、私はそれを信じているので、神様の愛をお話しします。もちろんいろんな宗教や考え方の方もおられるでしょう。私の考えが全てではないと思います。けれども、そういう考え方の人間もいる、と言うことも覚えていただければと思います。
神様が私たちを愛して下さっている、そのことを覚えて考えますと、本日の主題聖句の前半部分も分かります。「すべてを尽くして神を愛せ」というのは、「自分を愛してくれる方がいる。自分は愛されている」と言うことを、受け入れることでもあるのです。自分が愛されている。だから、自分も誰かを愛することができる。そこから、誰かへの愛から自分の誇りが生まれ、自分を愛してゆくことができる。そのような愛のつながり、愛の交わりを生み出してゆくのが、「神を愛する」という教えなのかもしれません。
「自分を愛するように隣人を愛する。」私たちが出会う人々、特に小さな子どもたちには、ぜひ、自分を愛してほしいですよね。神様は必ずあなたを愛している、と言うことを伝えたいです。神様の愛を伝えるのに、最も良い方法は、私たちがその人を愛することです。これから、愛の交わりを生きていきたいと思います。
人間、特にその核にある個(自我)が死後再び生まれ変わることは、現代でもそうですが、聖書の時代でも広く受け止められていたようです。「イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、『人々 は人の子をだれと言っているか』。 彼らは言った、『ある人々はバプテスマのヨハネだと言っ ています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひ とりだ、と言っている者もあります』。」(マタイ 16:13~14)。同様な記述はルカ福音書 (9:18 ~27)、ヨハネ福音書 (1:21) にも見られます。キリスト神秘主義者のカルマ論を参考にしながら、死後から次の誕生までのプロセスの概略をみてみます。 死後、まず生命体(エーテル体)とよばれるものが肉体を離れます。記憶が保存されているのもこの部分なので、肉体から解放され拡散する過程で、死の直前から誕生までの人生の記憶が、走馬灯のように死者の前で展開されます。この展開は3日程度で終わると言われています。この期間、エーテル体はまだ肉体とゆるやかに結合しているので、死後3日間は火葬にふさない、という慣習はそれなりに意味があるようです。また、死ななくとも、臨死体験の場合でも同様なことが起こりえます。教会のある知人は8歳のとき、家の3階から転落し、しばらく失神したのですが、そのときやはり走馬灯を見たそうです。さいわいにしてたいした怪我を負わなかったようです。走馬灯が終了した後、次に魂の本体部分である感受体(アストラル体)が人生の約三分の一の時間をかけて死の直前から始め誕生時までを「振り返り」ます。人生の出来事を一つひとつを逆の順序で直視していきます。ただし人生のただ中では自分が中心でしたが、振り返りのときには他者の視点から、客観的な視点から自分と出来事を眺めます。それによって自分の人生の至らなかったこと、不完全であったことを魂に刻みます。また、自分がよりよい人間になるためには何が必要かを認識します。ちょうど、一日の労働が終わったら家で風呂に入ったり、シャワーを浴び、その日の汚れや汗を落とすように、一生が終わったとき、その一生の間に魂についた汚れを落とす作業とも言えます。誕生時(幼な子)まで遡ることによって魂の浄化が済むと、天界の旅路につきます。「幼な 子のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。」(マタイ 18:3)天の国にも ヒエラルキーがあり、低い順に、月領域、水星領域、金星・太陽領域があります。この最後 がいわゆるパラダイス、至福の時間といわれています。人間は天界に入ると、自分の生前の物質体を自分以外のものとして観ます。地上の脳意識 と霊界での意識は異なります。地上にいるときには「私はこれをする」といいますが、「お前 がそれをした」になります。「わたしは誇らざるを得ないので、無益ではあろうが、主のまぼろしと啓示とについて語ろう。 わたしはキリストにあるひとりの人を知っている。この人は 十四年前に第三の天にまで引き上げられた–それが、からだのままであったか、わたしは知ら ない。からだを離れてであったか、それも知らない。神がご存じである–。パラダイスに引き 上げられ、そして口に言い表わせない、人間が語ってはならない言葉を聞いたのを、わたし は知っている。わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分 の弱さ以外には誇ることをすまい」(コリント人への第二の手紙 12:1~)。ある時期が来ると、再び地上に受肉するため下に降りていきます。前世のあとの振り返りの時に認識した自分の不完全さが次の受肉への動機づけ、課題にな ります。死後の過程とは逆向きに、まずアストラル体、次にエーテル体をまとい、さらに適 当な両親を捜して物質体を獲得します。エーテル体を獲得したとき、そこを通して自分のこ れからの人生の予告、プレビューをみます(走馬灯と対比)。ときには大きなショックを受け て、エーテル体と物質体の結合がうまくいかず、障害をもって生まれることがあると言われ ます。自分に課した課題をもとにした人生プランを誕生前に構築します。しかし生まれた途端全てを忘れてしまいます。しかしこのプランは潜在意識に隠れた「赤い糸」として当人の自由意志に働きかけ続けます。忙しい家庭生活、職業生活、社会生活のなかにあっても自分が設定した人生の課題を実行することは、充実した人生を生きるために必須と言えます。なぜ何度も生まれ変わる必要があるのでしょうか。キリストが述べた「人間が神々になる」 (ヨハネ 10:34) という目標を実現するためには一回の人生では足りないからです。「御霊みず から、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。 もし子 であれば、相続人でもある。神の相続人である。」(ローマ 6:16,17)
マルコ12:18〜27
「復活についての問答」=夫が亡くなりその7人の兄弟と次々結婚した女について、「この人の死後の夫は誰か」イエスを問い詰め様としたサドカイ派との問答。
私は今月、龍谷ミュージアムの「仏陀とお弟子さん」展に行って来ました。その後に、仏教のことも調べたりした成果(?)を、少しお話し出来ればなあと思いました。
仏教の話から、キリスト教には無い、因縁、輪廻転生、死後の世界、運命・宿命論に話が及び、聖書の箇所はマルコ12:18~27「復活についての問答」を読みました。「復活は無い」と主張するサドカイ派の学者がイエスを問い詰める箇所です。今生きている以外の世界が有るのか無いのかは、分かりませんが 27節「神は死んだ者の神でなく、生きているものの神なのだ」、藤原先生の仰る「死後の世界があるとしても、きょうすることには変わりない」=キリスト教の、1人の人はその一生を全うすれば良いと言う考えを、私は選びたいと思いました。
また、この箇所で、「7人の夫を持つことになった女」の悲しみにイエスが共感した、、と言う先生の解釈(←記載が有る訳では無い)に、先生のお優しさを感じ、聖書の読み方には人が顕れるものだなあと、思いを深めました。
資料は、「池上彰の「国際関係がよく分かる宗教の本・仏教編」と「シュタイナーの八正道」
アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。(マルコ14:36)
輪読箇所:マルコ14章32節~42節
今回の証は自分の番かなぁと感じていました。証を分かち合うことが恵みであることも理解していました。でもお話するのが苦手なので、知らんぷりで通すつもりでした。家庭集会には何も準備しないで参加しました。聖書の箇所は藤原先生が選んで下さいました。
「日々の祈りについて」
感染症対策のために中止されていた恒例の京都薪能が、今年は3年ぶりに開催されました。私は公演日の1週間前に、ネットで別件を検索していて、偶然その実施に気が付きました。私はやりかけの仕事を中断して、着物や帯を何枚かタンスから引っ張り出して広げ、それらに合いそうな帯揚げと帯紐をいくつか帯の上に乗せて、そのまますぐに、チケットを買うために平安神宮に向かいました。
薪に灯火が入った後に見ることができるはずの夕焼け空と境内の松の木のシルエットを覚えながら、私は茜色の紬の単衣の着物と紫濃淡ぼかしの紬に相良刺繍を施した洒落袋帯を選びました。
袋帯なら二重太鼓という帯結びするしかありません。でも実はわたしはその帯結びは少し苦手でした。そこで私は能のチケットを入手したその日から、毎日、薪能に締めていく予定の帯を使って二重太鼓を結ぶ練習をしました。そして公演2日前には、概ね及第点レベルには帯結できるようになっていました。でも、やはり心配なので、公演当日の朝にも、足袋を履いて、完全に着物を着て、草履を履き、チケットとひざ掛けを入れた鞄を持つという段階までのリハーサルをしてみました。
それでも、その夕方の着付けで失敗してしまいました。帯の手を間違った所に押し込んで、その上から帯締めを結んだので仮紐を取り去ったらお太鼓部分がだらりと落ちてしまいました。私は仮紐を付けたまま鏡で点検して、出発直前に仮紐を取り去ったので、失敗に気が付かないまま友人の家まで行ってしまいました。
友人から注意されて、慌てて家に戻り、帯結びを修復し始めました。ところが、気が動転していて手が震えてしまい、修復はうまくいきませんでした。汗が吹き出して、化粧が崩れました。自分の顎から汗が滴り落ちて、絹の着物の上に落ちるのを見ると、ほとんどパニックになりました。「出来ない。着物は中止。洋服で出かけるが妥当。」その3つの言葉が頭の中をぐるぐると巡りました。
でもその時、もう1つの声が聞こえました。
「大丈夫。毎日練習したでしょう?昨日も出来たでしょう?今朝も上手に出来ていたでしょう?帯を解き、初めから結び直して。間に合う。」
私は、そのもう1人の「毎日練習を続けた私」に励まされて、帯を結び直して、無事に薪能に出かけることが出来ました。
もしかしたら、日々のお祈りも同じで、なにか不測の事態が起こって、私の心が嵐に飲み込まれそうになった時に、「神さまにお話しなさい」と、私を励ましてくれるかもしれません。
命ある限り 恵みと慈しみはいつも私を追う。 主の家に私は帰り 生涯そこにとどまるであろう。(詩編23編より)
教会は、私たちのもう1つの「家」です。いつでも帰ってき良い場所です。神様はいつもあなたを待って居られます。心を神様に開けて、お祈りをお捧げするとき、きっと神様は「お帰り、私の愛する子よ」とあなたの魂を抱きしめてくださるでしょう。
そのままのわたしを受け入れてくれる
子供の頃の私は、いわゆる「いじめられっ子」だった。体は大きいけれど、運動がダメ、内向的であまりしゃべらず、友達は少なく「暗い」子で、そのくせ成績は悪くなかったから、「(自分をいじめる)あいつらよりか頭がいい」と傲慢で、「やればできる」と根拠のない自信を持っていたりした。内面は屈折しており、傲慢さは劣等感とからみ合いコンプレックスになっていた。つまりは、自分に自信の持てない、素直になれない子供になっていたのだった。中学2年生になったばかりのある日、かわいらしい女性の声で自宅に電話があった。間もなく行われるイースター(復活日)の礼拝に来てください、という。幼稚園、日曜学校と教会に通っていながら、その後ご無沙汰していた私は、1年ぶりに教会に足を踏み入れた。かわいい声の女性は、予想よりもはるかに年上のご婦人だった。びっくりした。でも本当にびっくりしたのは、そのあとだった。「まぁ、健ちゃん、よく来てくれて。」その後、教会に行くたびに、彼女は、抱きつかんばかりに歓迎してくれた。「これは一体何なのだろう。」私は疑問に思った。私は何もしていない。教会に貢献することはしていない。彼女の役に立つこともしていない。私がしたのは、教会に行っただけ、正確に言うと、教会に"居る"だけだった。この人は、私が"居る"ことを喜んでくれるのだろうか。そんなことは初めてだった。自分が暮らしてきた世界は、「結果」が求められる世界だと思っていた。何かが「できる」から偉い、そのような価値観が当然だと思っていた。ところが彼女は違う。それは彼女の信じている神様の教えなのだろうか。神様は、人間を、何ができるか、で見るのではなく、まずその人の存在そのものを喜んでくれる方なのだろうか。そのように考え、私の求道は始まった。私の予想は、決して間違っていなかった。やはり神様は、"そのままの私"をこよなく愛してくださる方だった。様々な出来事の中から、この事の確信を得て、大いなる喜びの内に洗礼を受けたのが、高校3年生の秋だった。その喜びは、今も変わらず続いている。
【話し合い】以下、文責・大槻明子
・いじめられっだった~素直になれない子供→そのままを受け入れてくれる教会へ
(反論・自分はいじめられっ子では無かった。なので、この気持ちは分からない。)
受け入れられてもらえるから、教会にいる訳では無い。起こった様々な事で確信を得た。
・その気持ちは分かる、自分も教会の中で起こることで創られていると感じる。
・教会内の人々との出会いから、得るものが有る~続木智子さんの証を聴いて~
・浦地先生の説教集~(イラストが作品として仕上げている)浦地先生は「クリスチャンらしく、牧師らしく」と言う言葉を嫌っておられた
・「クリスチャンらしく」は難しい。何年居ても全くその様に成長していない自分を感じる。
・決まったものが有る訳では無い。人それぞれ。その時々誠実であることが大切なのでは?
◎コロナの為、教会で逝去者記念礼拝を持つことが出来なかった為、特に11月に亡くなられた浦地先生、皆さまのことを覚え1分間の黙祷。
◎「聖書を読む前の祈り」を持って始める。浦地先生の思い出などを語り合いながら、思いを深める時間となりました。
① 教会の中で。女性司祭のことについて考えることがあった。その一方「婦人会」のネーミング、いつまでもこれで良いのか、とも?
② 創世記2:21「アダムの肋骨からイブが造られた」に抵抗有り。女性軽視? ①にも関連?
☆聖書の中に記されている男女の役割
【否定的に感じる箇所】
・コリントの信徒への手紙一 11:3
「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。」
・コリントの信徒への手紙一 14:34-36
「婦人たちは、教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているよ うに、婦人たちは従う者でありなさい。何か知りたいことがあったら、家で自分の夫に聞きなさい。婦人 にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。それとも、神の言葉はあなたがたから出て来たの でしょうか。あるいは、あなたがたにだけ来たのでしょうか。」
・テモテへの手紙一 2:12-15
「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません。むしろ、静かにしているべきです。 なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませ んでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞 淑であるならば、子を産むことによって救われます。」
Q:聖書に書かれていることは、全部正しいのか?随分封建的だがどのように解釈すれば良いのか。勝手な解釈をして良いのか?
A:聖書の書かれた時代の封建制によるもの?聖書記述者の女性への希望。(←M元首相発言=「女性は話が長い」も、ここから?)
★今の時代の女性から男性への希望
・昭和:3高=高身長、高学歴、高収入
・平成:4低=低姿勢、低依存、低リスク、低燃費。
・令和:3生=生存力、生活力、生産力
※平成からは、女子にも同じ条件が求められている=4低女子、3生女子=既に男女平等?
【肯定的に感じる箇所】
・ コリントの信徒への手紙一 11:11-12
「いずれにせよ、主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。それは女が男から出たよう に、男も女から生まれ、また、すべてのものが神から出ているからです。
・ガラテヤの信徒への手紙 3:28
「そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あ なたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」
◎この時代にあって、神の前での男女その他、人種、身分の平等、キリストにいて一つであることを謳っている
・創世記2:18~24(イブが造られた過程・輪読)
◎「助け手」としての女性の存在。肋骨=ハートを守る、最も大切な箇所。女性はハートの司る、人の想いを慮ること、感情の起伏も豊か(一本失くして肉で覆われた男性はその部分に鈍感になった?苦手、弱点?)
・新島襄「女性は緻密なこと、人の気持ちを思い遣ることなど、男性より賢い」
【参考】女性差別撤廃条約(CEDAW)1979.12国連総会で20か国が採択。
今まで差別があったことを認め、国際社会の女性ジェンダー平等政策を方向付ける。
日本が批准したのは85年。男女別姓に反対していることも、国連からは勧告を受けている。家庭科・技術家庭の別、今は撤廃。
・肯定的差別是正措置(アファーマァテイブアクション)→日常の中で、伝統的に行われていることに疑問を持とう
地上の平和は個人や国家の努力によってつくられますが、主の平和は上から降りてくるものです。
「あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。」
(ヤコブ1:17)
しかもそれは一過性の心の状態ではなく、心の中に定住します。
各個人がなすことは、主の平和をつくることではなく、それが降りてくるときに障害となるものを取り除く事です。これは人間の内面、魂における作業です。修行とも言えます。ルカ福音書では「平和の道」と呼ばれています。
この福音書が仏教的と呼ばれるのもこの辺に理由がありそうです。
ザカリアの預言「暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。」
(ルカ1:79)
どのようにしてこの道を歩むのか、思いついた点をいくつか。
「旅のために何も携えるな。つえも袋もパンも銭も持たず、また下着も二枚は持つな。」(ルカ9:3)
有名なこの言葉は、外側の社会生活への指示と考え実際に実行してしまうと大変なことになります。むしろ正しい内面生活のあり方を示唆していると考えるべきです。この世で生きていくためには経済、仕事、家庭など多くのことに依存します。しかし内面生活では様々な依存、執着から自由になるべきです(きわめて仏教的!)。
自身の内面を直視し、余分なものを取り除きます(懺悔と同じこと)。真に重要なものを見つけたら強い集中力をもってその道を歩み、あちらこちらから押し寄せて来る情報に気を取られないようにします。「平和」とは集中した精神活動を意味し、何もしないでゴロゴロしたり、あてもなくインターネットの画面を見続けることではありません。これらは平和の欠如を意味します。平和の欠如が長く続くと、さまざまな神経症の症状がでてきます。
我々の意識をなるべく神の啓示に向けます。啓示というと大げさですが、型にはまった生き方、同じパターンの繰り返しから解放してくれる気づき、メッセージのようなものです。ちょっとした日常会話の中にも潜んでいます。相手の話を注意深く聴くとそのようなメッセージが見つかることがあります。相手もそのことに気がつかないことが多いです。
「人はすべて、聞くに早く、語るにおそく、怒るにおそくあるべきである。」「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。」
(ヤコブ1:19,4:8)
平和は上から降りてきますが、「上」とはどこでしょうか。それは復活したキリストです。
「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」
(ルカ24:36)
平和は聖パウロがいう「内なるキリスト」の一つの側面と捉えることもできるかもしれません。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」
(ガラテア2:20-21)
蛇足ですが、この平和の道を歩み始めると、一見すると不幸な出来事、試練にあうことがあります。これはその人が本気で道を歩もうとしているのか試されるからです。ですから試練のない平和な生活を送りたい人は、平和の道を歩むべきではありません。
「試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。」
(ヤコブ1:12)
*ここ数年、毎年、大きな災害が起こる。7月初旬に豪雨に見舞われ、水害、土石流等が起こる。「観測史上初の災害」という言葉は、毎年更新されるかのよう。私たちは、被害に遭った人々を覚えてお祈りし、自分にできることをしなければならない。今回は、災害に思いを馳せたい。
+災害の起こる理由…様々な要因。天災、人災。最近は、違法な土砂の積み上げ、不十分な施設の設置、避難指示や救援の遅れなど、人災的な要因で被害が増えていることが多い。また、異常気象自体が「地球温暖化」という人間が要因の事象によって引き起こされていると思われる。「天災なら仕方がない」「人災だとやり切れない」という思いをよく耳にする。
+災害は神様が起こしたのではない。…神様は、自分の目的のために、災害を起こすようなことはなさらない。神様が、手段として用いられるのは「愛」のみ。
「しかし、神様はすべてを創り、全てを治めておられるのではないか」と問われれば、「その通り」となる。神様が治める自然によって引き起こされる災害と、神様の愛とは並立しない。結局、災害の理由は「分からない」。目の前に起こった、人の力を超える力に、呆然とするしかない、というのが正直なところ。「理由はないけど意味はある」は、災害にも通用する。
+聖書のみ言葉から…ルカ21:25-29
ここで言われているのは、(1)災害が起こる。(2)イエス様が来る。(3)神の国が実現する。「この世界は苦難に満ちている」という現実認識があり、しかし苦難のただ中で神様の救いが始まる、または、始まっている、というメッセージ。神様の救いは、イエス様がこの世界に来られ、私達はイエス様との関りにおいて、救いに導かれる、というものだろう。
+災害は、自分のこととして受け止めるべきもの。被害を受けた人々に、主体的にかかわるべきもの。災害を「人ごと」として見ている限りは、自分にとって何の意味もたらさず、被害を受けた人々は放置され、苦しみは増し加わる。
+近年「ボランティア」という言葉が、特別な物ではなく、誰もができる、推奨されるものとして広がってきた。もちろん様々な課題はあるが(本来行政が行うべきことを、民間人の「好意」に甘える、マナーの悪いボランティアなどのトラブル、等々)、それでも「困っている人は積極的に助けに行く」と言うことは悪いことではない。「自分が被災した時に助けてもらったので、お返しにしている」などの、「お互い様」の考えで行うことも増えた。
+私達信仰者にとって、奉仕活動は、信仰の活動でもある。それは「イエス様に会いに行く」というもの。イエス様は、災害のただ中に来られる。そして被害を受けた人々を助けようとなさる。私達も現場に赴くことによって、イエス様に出会うことができる。
+この考えは、聖書の底流に流れるものの一つ。エジプトで奴隷として苦しむ人々のもとに、燃える柴として神様は来られた(出エジプト記)。「イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから私たちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。」(ヘブライ13:12-13)。
+教会の本質は、祈り、交わり、奉仕。特にキリスト教は、「愛の奉仕」を特色とする宗教。災害は無くなることはないだろう。教会は、災害において、被害を受けた人々のために祈り、奉仕をし、希望を語り、共に歩まなければならない。
「主の悩みと血の汗、十字架とその苦しみ、尊い死と葬り、栄光ある復活と昇天、また聖霊の降臨に寄り、主よ、お救いください。」
祈祷書「嘆願」より。
「聖霊降臨」の出来事は、イエス様の十字架と復活に並ぶ重要な出来事。けれども「聖霊降臨日:ペンテコステ」は「降誕日:クリスマス」、「復活日:イースター」ほどには盛大に祝われてこなかった。最近、その重要性が唱えられている。
聖霊降臨日は復活日の50日後。今年は復活日が4月4日、聖霊降臨日は5月23日。「ペンテコステ」の言葉の意味は「50日祭」。聖書に記されている、ユダヤ教の「五旬祭」のギリシア語。
「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、私たちと共にありますように。」
「父と子と聖霊なる全能の神の恵みが、常に皆さんと共にありますように。」
祈祷書の祝福の祈り。
キリスト教の信じる神は「三位一体」の神。「父なる神」:創造主、「子なる神」:イエス・キリスト、そして「聖霊なる神」を、一つの神として信じる。この中で、「聖霊」が一番理解しづらい。頭の中で整理がつき辛い。
私はいつも、「神様のお働きの中で、父なる神様の働きとイエス様の働き以外の働きの全てが、聖霊の働き」と説明している。それは私たちの信仰経験の中で、「時と場所を超えて人と祈りでつながる」、「自分の側や中に神様が居てくださる」、などの経験。
*聖書の学び:使徒言行録2:1-13
人間の言葉が様々に分かれる。この物語は旧約聖書にもある。それは「バベルの塔」の物語。人々は自分の力を誇示しようとバベルに巨大な塔を建てる。神はその計画を中断するため、人々の言葉をバラバラにした。人々は分裂し、言葉ごとに各地に散った。ここでは「人間の傲慢とその罰」が、言語の多様化の意味。しかしここでは、「人々の一致と祝福」の意味となる。
聖霊は、人々の様々な違いや課題を乗り越え、一致させる働きをする。
現代社会にあっては、ますます聖霊への祈りが重要になってきている。
*聖霊への祈り
祈祷書の中には様々な祈りがあるが、そのほとんどは「父なる神」への祈り。僅かにイエス様への祈りがある。そして聖霊への祈りはほぼ皆無。
聖職按手式の中に、聖歌として明記されている。
「みたまよくだりて、ながつくりましし、こころにめぐみを、あふれしめたまえ」
「きよきみたまよ、うえよりくだり、くしきひかりを、あまねくてらし、あいのなぐさめ、ゆたかにたまえ」
祈祷書も、聖霊への祈りは私たちの信仰生活に不可欠であることを示している。しかし、どうお祈りしたものやら。
カトリック教会で用いられているらしい、お祈りの紹介。
聖霊の続唱
聖霊来てください。あなたの光の輝きで、
わたしたちを照らしてください。
貧しい人の父、心の光、証の力を注ぐ方。
やさしい心の友、さわやかな憩い、ゆるぐことのないよりどころ。
苦しむ時の励まし、暑さの安らい、憂いの時の慰め。
恵み溢れる光、信じる者の心を満たす光よ。
あなたの助けがなければ、すべてははかなく消えてゆき、
だれも清く生きてはゆけない。
汚れたものを清め、すさみをうるおし、受けた痛手をいやす方。
固い心を和らげ、冷たさを温め、乱れた心を正す方。
あなたのことばを信じてより頼む者に、尊い力を授ける方。
あなたはわたしの支え、恵みの力で、救いの道を歩み続け、
終わりなく喜ぶことができますように。
アーメン。
とても美しいお祈り。祈る者の心を癒す。慰めと導きに満ちた祈り。この祈りは「何かを強く求める」というより、詩のように口ずさみ、歌のように緩やかな流れに乗せて、瞑想するように心穏やかに、祈るのにふさわしい。私たちが日頃慣れている「祈り」とは、少し雰囲気が違う。けれどもこれも、伝統的な祈りの一つ。
「神様」、「イエス様」とは呼びかけても、「聖霊様」とは呼びかけにくい。なぜか?慣れの問題だけではないだろう。
聖霊は、「いつもとは違う」(我々の日常の理解を超えた)神様の姿を私たちに示してくれる。それは「私たちの中に神様が居てくださる」というもの。私たちはいつも、自分たちの「外」に神様を探し求める。神様が私たちの「外」から、私たちを導いたり、守ったり、時には評価したり、語り掛けたりすることを求める。けれども神様は全知全能の神であり、なんでもできる方。私たちの中にも居ることができる。
私たちの中に、今までも、今も、これからも、神様が居て下さる。私たちの心を温め、慰めてくださる。私たちの経験を共に経験し、私たちの喜怒哀楽を一緒に感じてくださり、私たちを理解し、私たちを認めてくださる。神様は私たちの血肉にさえなり、言語を超えたより深い交わりを可能にしてくださる。
自分の中に居てくださる神様に感謝し、互いに相手の中におられる神様の存在を感じつつt、愛の道を歩んでゆきたい。
「…神よ、あなたは御子の復活により、罪と死の古い支配の力に打ち勝ち、み子にあって万物を新しくしてくださいました。どうか、私たちが罪に死に、イエス・キリストにあってあなたに生き、栄光の内にみ子とともに支配することができるようにしてください…。」「…聖霊によって罪の死から命によみがえらせてください…」(以上、祈祷書・特祷)
キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。(1コリント15:14)
キリスト教信仰の中心である「復活」とは何なのか。
【一つの歴史的事実:人生が180度変わった人々】
弟子たちは、福音書では、イエス様の十字架を前に逃げ出し、罪の意識と迫害の恐怖で縮みあがっている。使徒言行録では、前向きに、積極的に宣教し、殉教の死をも恐れない。弟子たちは180度変わっている。その変化の原因がイエス様の「復活」だと記されている。
【復活の事実:空の墓】
金曜日、朝にイエス様が十字架に付けられ、午後、絶命。大急ぎで墓に収め、夕方から翌日、土曜日の夕方まで安息日。日曜の早朝に、女性の弟子たちが墓に行くと、入り口が空いており、イエス様の遺体がなく、そばに青年が居てメッセージを伝えた。出来事としてはこれだけ。
*マルコ16:1-8…「恐ろしかったからである。」この出来事は、非常なショックを与えた。
【「肉体の蘇生」では(多分)ない。】
「空の墓」の出来事に、合理的な説明を加えるならば、それは、『弟子たちが
夜中にやってきて、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』(マタイ28:13、祭司長たちの言葉)ということになろう。
しかし、弟子たちは、合理的な説明に拘泥しない。トマスはイエス様の肉体の跡を求めるが、イエス様が眼前に現れると、傷を確認することはしない。
閉め切った部屋にイエス様が現れる、つまりに壁をすり抜けるなど、肉体を持った存在には不可能な出来事を前にしても、復活の喜びは減らない。弟子たちは、最初から、イエス様の肉体の復活にはこだわっていい。それよりも、復活の「意味」を喜んだ。
【天使たちのメッセージ:今いる場所から移動せよ。】
空の墓に居た弟子たちは「ガリラヤへ行け」と伝える(マタイ、マルコ、ヨハネ)。ルカにはそれがないが、その後すぐに「エマオの途上」の物語があるので、「エルサレムへ行け」というメッセージになるのだろう。
いずれにせよ、今いる場所から移動せよ。そうすればイエス様に出会える、というのが天使のメッセージ。
十字架のショックで身動き取れなくなっている弟子たちに、「そこから一歩、歩みだせ」と伝える。
【復活のイエス様に出会う場所:礼拝】
日曜日に弟子たちはイエス様に出会う。トマスはその「八日後」にイエス様に出会う。これは、1週間ごと、復活のイエス様に出会っているということ。これは、日曜日の礼拝を指す。礼拝の中に、復活のイエス様がおられる、というメッセージ。
エマオの途上の物語では、パンを裂く姿の内に、復活のイエス様を認めた。これは、聖餐式の中で復活のイエス様に出会う、というメッセージ。
【復活のイエス様に出会う場所:日常生活】
復活のイエス様は、弟子たちが漁師の生活に戻っている所に現れた。これは、日常生活の中に復活のイエス様がおられる、というメッセージ。
【復活の意味:穏やかな喜び】
弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。(ヨハネ21:12)漁の後、イエス様が食事の用意をしてくださっていた。温かい炎とおいしそうな香り。いつもと何ら変わらない日常の光景。言葉すらも必要でない。穏やかな喜びに心が満たされる。
大きな災害の跡などで、「当たり前の有難さ」という言葉がよく聞かれる。何気なく過ごしていた日常の中に、どれほど大きな喜びが詰まっていたかに気づかされる。復活の喜びはこれに近いものかもしれない。
【復活の意味:赦される喜び:「生きていていい」という実感】
復活されたイエス様が、弟子たちに最初に掛けた言葉が、「あなた方に平和があるように。」これはヘブライ語で「シャローム」、多分日常の「おはよう、こんにちは」の挨拶。実はこの挨拶は予想外。合理的に想定されるのは「なぜ私を裏切った!決して赦さない!」という裁きの言葉。弟子たちは罪の意識にさいなまれて閉じこもっていた。ところがイエス様は、弟子たちを裁かなかった。赦された。弟子たちは、想定外の赦しに喜び、「自分のような罪深い者でも、生きていって良いんだ」と実感しただろう。
自分がどれだけ罪深くても、また、自分の力では、これから歩んでいくのが難しいと思える時でも、イエス様の愛によって、これから生きていくことができる、という喜び、安心感、安堵。
【復活の意味:イエス様が共に居てくださる。】
私は世の終わりまで、あなた方と共にいる。(マタイ28:20)イエス様の復活は、共に居てくださること。私たちはイエス様と共に歩んでゆく。
「なぜ感染症が起こったのか?」
今まで「理由は無いけど意味はある」、「理由より意味を探す方が前向き」と言ってきた。その考えは、基本的には変わらない。しかし、どうしても「なぜ?」と問うのも、人間の正直な姿。今回は「なぜ?」に向かい合ってみたい。
この問いへの正解で大前提は、「分からない」というもの。感染症の発生源と感染経路は、現在も調査中。またこの問いには、医学的な原因だけではなく、「なぜ、今、我々にこのことが起こったのか?」「なぜ私たちが苦しまなくてはならないのか?」という、私たちの苦しみや不安や悩みも含めたものだと思う。それらの問いに、明確な答えは無い。
「神様の罰だ」と安易に言ってはならない。不要な宗教恐怖感と、過剰な反省、その裏返しとしても、他宗教、また背信者への攻撃を生み出す危険性がある。
「某国の陰謀だ」の情報の多くは信用できず、ましてやそこから生まれる暴力に加担しては、決してならない。
「感染症」が名を持つ。
感染症はあくまで病気。ほぼ自然に発生する。菌やウイルスは人間が作り出し
たのではない。
しかし、人間が被害に遭う時、その病気は人間とかかわりのあるものとなり、恐ろしいものとなる。(人間は、自分に害を与えるものを「怖い」「気持ちわるい」ものとみなす。北海道の人はゴキブリを見ても怖くないし、モフモフで目がつぶらでもネズミは気持ち悪い。)
また、人間は、自然を、単に自然とはとらえられない。社会が複雑になり「便利」になったため、自然災害の被害は大きくなっている(大雪で自動車は立ち往生する。昔は2階の窓から出入りするだけで済んでいた)。また、乱開発による環境破壊など、人間の欲望で自然そのものを改変してしまったため、単なる「自 然災害の被害者」とは、自分を認識できなくなっている(震災などで「これは人 災だ」というメッセージに、深く共感したりする)。
また、「地球温暖化」で顕著なように、人間が引き起こした環境の変化によって、人類が滅んでしまう危険性をも、実感している。その中で発生する惨事は、「地球滅亡の序曲」のように感じられ、絶望感を深める。病気は自然のものというだけでなく、人間に深く関わりのあるものになる。
そして、名前をもつようになる。新たな「感染症」には、「コロナ」という名前が付けられる。その名は、恐怖と、反省と、絶望の思いが込められている。
「神様がなさったことか?」
すべてのものは神様の被造物。だから感染症も神様が作られたのか。そうかもしれない。
ただ、ウイルスも、人間に害を与えるものとそうでないものがある。多分、殆どのウイルスが人類に無害で、ごくわずかな物が害を与えるのだろう。(鳥インフルエンザは鳥しかかからない)。
神様が造られたごくわずかな有害ウイルスに、当たってしまった人類の「運の悪さ」を嘆くか、「本来自然世界とは危険を含んだもの。仕方のないもの。」と捉えるか。
「本来、ジャングルの奥地の動物が罹る病気が、ジャングルの乱開発で人間にまで及んだ」などとなると、私たちの罪の問題となり、懺悔の課題となる。
「神様の罰なのか?」
「罰」は「正義」から生まれる。正義に反した言動を行ったから、罰を受ける。罰は不義の結果。逆ではない。「今、理不尽な苦しみに遭っているのは、過去の不義の罰だ」というのは、フェアではない。仮に不義を行っていたとしても、その自覚がなく、指摘もされなかったのに、一方的に罰を受けおかしい。
私たちの社会では、罰は、犯罪だと自覚していたかどうかも考慮に入れて行われる。だから、今後の「地球温暖化」は、言い逃れできないものとしてある。
「神様は悪いことは行わない。」
神様はすべてを善いものとして創造された。だから神様は悪は創造されていない。悪は人間の罪から生まれた。人間が神様から背き、悪を行った。人間が罪を犯すのは、自由があるから。自由は神様によって与えられた。なぜなら自由は人間の幸せのために必要不可欠だから。人間は自由を、罪を犯すためではなく、愛のために用いなければならない。
ただ、感染症は「悪」なのか?人間にとっての苦しみであることは確かだが、
感染症そのものが、不義の存在であると言えるか。少なくとも、ウイルスに「あなたは社会のルールから外れていますよ」と言ったところで仕方がない。
感染症の患者や陽性者を差別し、排斥するのは悪。経済格差でワクチンが公平に行き渡らないのは悪。危険性を知ったうえで、適格な対策を取らず、感染を蔓 延させてしまうのは悪。
やはり悪は人間の罪から生まれる。
感染症拡大で、不安と恐怖に包まれた時、自分が感染したら?と、自分の心配をしていると、不安は大きくなった。苦しんでいる人々のために祈ろう、と思居、実行すると、不安は収まった。他者への祈りは、他者のためだけではなく、自分
のためにすらある。
イエス様はどのように祈られたか。私たちは、どのようにイエス様に祈られているか。
*以下、全てマルコによる福音書から。
(1)祈るイエス様(1:35-39)
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈っておられた。」
後に弟子たちが探しに来るくらいだから、いつもと違う祈り。多分、いつもより早い時間に、いつもより長く、いつもより熱心に祈っておられた。
内容は分からない。ただこの少し前に、洗礼者ヨハネの逮捕があった。不義がまかり通る状況。ヨハネの後を継いだかのように始められた宣教活動は、短時間で著しい「成功」を遂げてしまう(「町中の人が戸口に集まった。」1:33)。
このままイエス様が注目されると、ヨハネと同じように逮捕され、殺されるかもしれない。安全を考えると、一時、身を隠してしまう方が得策か。
しかし、祈りの後にイエス様は言われる。「近くの他の町や村へ行こう。そこでも、私は宣教する。」
イエス様のお祈りは、自分の不安や安全に集中することから、他の人びとへの愛と奉仕へ、身と心を向けるものとなった。
不安や恐怖に苦しむ私たちの心を、イエス様は分かってくださり、私たちのために、また私たちと共に祈ってくださる。
(2)「祈りの家」(11:15-19)
「私の家は、全ての民の祈りの家と呼ばれる。」
「神殿から商人を追い出す」という物語。
「神殿で商売をするのが悪い」という話でない。両替やいけにえ用の動物の販売は、神殿の維持に必要なもの。だから、この行為は、神殿の否定であり、神殿を中心とした社会の否定。だから、祭司長たちはイエス差に殺意を抱くほど危機感を覚えた。
別の見方をすると、商売は、自分たち(神殿でお祈りをするユダヤ人)のため。イエス様の行為は、「神殿は、自分のためではなく、他の人のためにお祈りするためにあるんだ」ということを、教えようとされたのでは。
(3)私たちのために、イエス様が祈ってくださる。
「私は望む。清くなれ」(1:41)
「子よ、あなたの罪は赦された。」(2:5)
「あなたに言う。起きて床を担ぎ、家に帰りなさい。」(2:11)
「手を伸ばしなさい。」(3:5)
「自分の家族のもとに帰って、主があなたにしてくださったこと、また、あなたを憐れんでくださったことを、ことごとく知らせなさい。」(5:19)
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。病苦から解放されて、達者でいなさい。」(5:35)
「タリタ・クム:少女よ、さあ、起きなさい。」(5:41)
「その言葉で十分である。行きなさい。悪霊はあなたの娘から出ていった。」(7:29)
「エッファタ:開け」(7:35)
「『もしできるなら』と言うのか。信じる者には何でもできる。」(9:23)
「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(10:52)
これらの言葉は、すべて、癒しの奇跡において語られた言葉。
全てが、人を力づけ、励ます言葉になっている。
「あなたの内には、自分で歩みだす力がある。自分でも気づかないほどの、素晴らしい力がある。今まで病人だったあなたは、これから人のために奉仕する者になる。」
その人が自分の足で立ち、自分の考えで判断し、自分の思いで歩むことができるようにしてくださる。「自立」への促し、励まし、支え。「依存」とは正反対。
4)イエス様と共に祈る。(14:32-42)
「私は死ぬほど苦しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。…目を覚まして祈っていなさい。」
ゲッセマネの祈り。十字架の前夜。ある意味、イエス様の最後の祈り。
イエス様は、弟子たちに、共に祈ることを求めておられる。
イエス様も、共に祈ることを求められる。
私たちも、共に祈ることが必要。
イエス様も、私たちと共に祈ってくださる。
「私の望みではなく、御心のままに。」…誰かのために、祈りたい。
運命・宿命は、人間の力の及ばない世界を表す。時に災害をもたらす自然の大きな力に直面した時、また、病気や死に直面した時、私たちは運命・宿命を感じざるを得ない。
《2種類の未来。英語では》
fate…絶望的な暗い未来。「死」「失敗」「抗うことのできない未来」など、否定的なものを指す。「宿命」とも呼ばれる。
destiny…肯定的な明るい未来。「将来、秘められた才能が開花して大きな成功を収めるだろう」など。希望的観測値が高い。「運命」とも呼ばれる。
《運命論の宗教》
古今東西、人は運命と向き合ってきた。自然はあまりに大きく、強く、それに対して人間の力はあまりに弱かった。人々は宗教の形で運命と直面してきた。バビロン、ギリシア、中国、インド等々、そして日本。運命の神の多くは、人々に災いをもたらす恐ろしい神。人々は天文学、呪術、密儀などで、神々を鎮め、懐柔し、コントロールしようとしてきた。
《聖書では》
「聖書大辞典」「聖書語句辞典」を調べても、「運命・宿命」はほとんど出てこない。「キリスト教大辞典」には、それなりに出てくる。
キリスト教や諸宗教を含む人間の営みでは、運命は大きく取り上げられるが、聖書では、運命を単体として取り上げることはほとんどない。
キリスト教では、運命というものを、神様は全て抱え込んでくださる。私たちは、神様を通して運命と出会う。私たちは、信仰によって、運命から直接傷つけられることは無くなる。
《ヨブ記》
聖書にも、間接的に運命を取り上げたものはたくさんある。その代表が「ヨブ記」。
信仰篤く、正しい人であるヨブが、全く理由なく苦難に遭う。(神様とサタンとのやり取りにより、ヨブの信仰を確認するためだけに、財産と家族が失われ、苦しい病気になる。)「罪無き人が、なぜ苦しみに遭わなければならないのか。」理不尽な苦しみを直視した書。
ヨブの元に友人たちが見舞いに来る。あまりの惨状に言葉を失い、ただ側に寄り添う。しばらくしてから、友人たちとヨブとの議論が始まる。議論は行ったり来たりしながら行われるが、基本的な主張は以下の通り。
友人たち。…「因果応報」何かヨブに原因があるのだろう。ヨブが何か罪を犯したのだろう。この苦しみは、罪に対する罰だ。
ヨブ…「神様は正しくない」自分は、ここまで苦しまなければならないほどの罪を犯していない。神が不当な罰を与えているんだ。
議論は平行線をたどるが、最後に、神様が直接現れ、ヨブと対峙する。そのことによって、ヨブは救われる。
聖書の記述は強烈。
ヨブの訴え・19:6-20
神の言葉・38:1-11
ヨブの応答・42:1-6
大変興味深いのは、神様は、「なぜ人は苦しむのか」という疑問には答えていないこと。その代わりに、神様が全てを治め、常に人の側に居る(つまりは、神様が運命を握っている)ことを、強烈な存在感で表す。そしてそのことによって、ヨブは救われる。
信仰的救いは、理屈や整合性、合理性とは違うところで成就する。
ヨブ記で明らかになったのは、「信仰とは人間中心ではなく、神様中心である」ということ。友人たちの語る「因果応報」は、人間の行いによってすべてが決まるという、人間中心の考え。それに対するヨブの主張は、「神は正しくない」にしても「神様の御業は人間の理解を超えている」にしても、神様中心の考え方。
《福音書では》
マタイ7:7-12「求めよ、さらば与えられん。」この宣言によって、キリスト教は運命論から決別した。運命は恐ろしいものではなく、克服できるものとなった。近代日本に入ってきたキリスト教は、運命論に苦しむ人々に、大きな喜びをもたらしたことだろう。
ただし、信仰をもっても、全てが自分の意のままになるわけではない。自分の力ではどうしようもないものもある。その意味では、クリスチャンも運命を逃れ得ない。
そこで、信仰の大前提である「神様中心」を思い起こさなければならない。自分の思いが具体的に必ず成就するとは限らないが、神様が、必ず、私たちにとって最もいい形に(私たちを救うために)してくださる。
「求めよ」は、虚空に叫ぶのではなく、神様に求める。そうすれば、必ず神様が、最も良い形で与えてくださる。
《運命から自由が生まれる。》
哲学者ニーチェの中心的な考えの一つに、「運命への愛」がある。 運命は人間の外にあって抗うものではなく、運命を自分のものとして愛する時に、私たちは真に人間らしい愛を得ることができる、と言う考え。
ニーチェの言葉に、自由意志は自らの運命を自らに引き受けるところに生まれる、ともある。
人間の力の及ばない運命から、自由が生まれた。理不尽な悲しみを生み出す運命があるからこそ、運命を克服する自由が生まれた。
同様に、「苦しみから愛が生まれる」と言えないか。私たちの心を引き裂き生きる力を奪うかのような苦しみがあるからこそ、人を思いやり人を支え、人を大事にする愛が現れると言えないか。
これらは、理屈よりも経験によって得られた知恵。
マタイ5:3-12「心の貧しい者は幸いである。神の国はその人たちのものである。」
福音の根幹を占めるこのみ言葉は、そのような知恵に基づく真理を教えてくれるものではないか。
+12月25日は「降誕日」。教会の暦は伝統的に、前日の夕方より日付が変わるので、12月24日の夜も降誕日の一部(正式には「降誕日前夕」)。
+祈祷書の「降誕日特祷」には、「…再び生まれ、神の子とされた私たちを、常に新しくしてください…」とある。赤ちゃんであるイエス様が生まれたことを覚えて、自分たちも信仰を新たにする、という意味であろう。
+伝統的には「平和を祈る日」というイメージがある。最も大切な祝日の一つで、クリスマス休暇もあって、家族で共に温かい時を過ごす日。世界中の人々が、このような団らんの時を持てるように祈る。「クリスマス休戦」などは好例。
+同様に「貧しい人々、苦しむ人々」を覚える時でもある。冬の寒さ、年末年始に仕事や家のない人の厳しさを覚え、困っている人々への奉仕が促される。「ホームレスの人びとへの炊き出し」は、年末年始に最も力を入れて行われる。聖書には、馬小屋で出産したマリアを始め、貧しく苦しむ人々が多数登場する。そのことを覚えて。
+日本だと、イメージ的に近いのは「お正月」か。落語にあるような「丁稚奉公も藪入り」の平和なイメージと、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくありめでたくもなし」との一休さんの狂歌にもあるような、自戒の思い(社会福祉的な要素は薄いが)の、両面がある。
《クリスマスの喜び:自分のためではなく》
博士さんの喜び:マタイ2:1-12
+「占星術の学者たち」は、今でいう「天文学者」であろう。より正確な暦を作成するため日夜研究する。暦は、農業や治水に必要であるので、為政者にとって重要。学者たちは重用され、富も得たであろう。(ページェントで学者の衣装が王様のようなのは、そのためか。)今でいう、IT関連企業の社長、またはシステムエンジニアか。
+しかし彼らは、現世的な富を求めていない。というか、「世間ずれしていない」ようなところがある。「真の王」の誕生した場所を、「この世の王」であるヘロデ王に聞いてみたり、貧しい馬小屋を意に介さなかったり。
+何よりも「黄金」「乳香」「没薬」を幼子に捧げた。現世的な富に全く執着がない。
+自分たちの研究が、権力者のみに利用されている現状を、彼らは苦しく思っていたのかもしれない。自分たちの研究が、人類の救いのために用いられたことを、心から喜んだのではないか。
羊飼いの喜び:ルカ2:8-20
+羊飼いの生活は厳しい。昼は熱く夜は寒く、新鮮な空気を好む羊たちのために、野原で野宿しなければならない。狼、盗賊と戦わなければならない危険。羊が失われたら賠償しなければならない。また、遊牧生活のため、宗教的戒律を守ることができず、「汚れた者」とし差別される。
+そんな彼らに天使からの御つげ。「民全体に与えられる大きな喜び。」
+「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に伝えた。」彼らは、初めてのキリスト教宣教者になった。…「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」ただ彼らの活動は人々から評価されなかった。
+「神を崇め、賛美しながら帰っていった。」羊飼いたちは、大きな喜びに包まれた。…しかし、この出来事は、彼らには何の得もないこと。この救いの約束は、それから30年後、イエス様が成人してから成就した。つまりその時点では、何も叶っていない。
+羊飼いたちの喜びは、「自分たちの人生が、神様の救いに計画に位置付けられている」事への喜びだったのではないか。自分たちの人生には大きな意味がある。自分たちは、人類の救いの橋渡しをしたのだ、という思いが、彼らの喜びの源だったのではないか。
《クリスマスの喜びは、自分が利益を得るものではなく、みんなが幸せになる事への喜び。みんなの幸せのために役立つことのできる喜び。》
11月1日は「諸聖徒日:All Saints' Day」2日は「諸魂日:All Souls' Day」、この2日が死者を覚える日。また11月全体を、死者を覚える月としてお祈りすることもある。
ヨハネの黙示録7:9-17…諸聖徒日の聖餐式における使徒書。
誰にも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。「救いは、玉座に座っておられる私たちの神と、小羊とのものである。」
天国では、逝去者が、喜びにあふれて神様を礼拝している。全ての悲しみ、苦しみは去っている。
*先月の集会でも説明したように、神様との交わりこそが最大の喜び。地上では直接神様と交わることができないが、天国ではそれが実現している。「神が彼らの目から涙をことごとく拭われるからである。」(7:17)
《聖書は「死後の世界」を語らない。》
*今回は「死後の世界」について学ぶ。但し、聖書は死後の世界のことをあまり語っていない。また語ろうとしていない。それは、信徒が死後の世界のことばかりに気を取られて、地上での信仰生活がおろそかにならないように。
+パウロは「第3の天≒天国」を見たが、あえて、他人の経験としたり、「思い上がることのないように」と、自分を戒めている(2コリント12:1-10)。また、終末時の復活について語りながら、「その時と時期についてはあなた方に書き記す必要はありません」とする(1テサロニケ5:1)。死後の世界を気にするよりも、まず、この地上において、信仰生活に励むことを勧めている。
+死後の世界に気を取られずに、地上の信仰生活を誠実に送ることが、最も大切。
信仰が深まれば、肉体の生と死も相対化される。「この二つのことで板挟みの状態です。一方ではこの世を去ってキリストと共に居たいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では肉体に留まる方が、あなた方にもっと必要です。」(フィリピ1:23-24)
*聖書の中で、控えめに、断片的に記されている記述から、「死後の世界」について考えたい。
《死後の世界のタイムスケジュール》
1)まず、死者は「陰府(よみ)」の世界で終末を待つ。何もできず、ただ待つ。
「死の国へ行けば、誰もあなたの名を唱えず、陰府に入れば、誰もあなたに感謝を捧げません。」(詩編6:6)
2)終末の時、まず殉教者、熱心な信徒たちが復活し、キリストと共に1000年間地上を統治する。「第1の復活」
3)その後、サタンとの戦いを経て、全ての生者、死者が、「命の書」に記された生前の言動に基づいて裁かれる。悪い者は「火の池」に投げ込まれる。「第2の死」(第1の死は肉体の死)。
4)正しい者は、新しい天と地に招かれて、神様との愛の交わりに入る。(以上、ヨハネの黙示録20-21章)。
5)1テサロニケによると、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえ、神のラッパが鳴り響き、主イエスの降臨。まずキリストに結ばれて死んだ者が最初に復活し、そして生き残っている信徒が、彼らと共に雲に包まれ、引き上げられ、空中で主と出会う。(4:15-18)
6)以上が、時系列で整理したものだが、死後の世界がこのように整理されたものかどうかは分からない。この時間感覚は、生きている私達人間社会のものであり、死後にまで適用されるかは分からない。「主の元では一日は千年のようであり、千年は一日のようです。」(2ペトロ3:8)。また、ルカ16:19-31「金持ちとラザロ」の話では、死後、すぐに天国と地獄に行っているように読める。死者の体感時間は、順序を踏むものではなく、即時に最終局面に至るものかもしれない。
《天国ではどのような姿になるのか。再会した時に、その人だと分かるのか。》
*天国に行っても、各自の個性は残る。生前の人格の特徴が、天国でも現れる。
「地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都(天国)に入る。」(黙示録21:24)
*死後の姿は、必ずしも、死亡した時の姿と同じとは限らない。復活したイエス様は、いくつかの場面で、生前とは違う姿をしていた。(エマオへの途上「しかし二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」ルカ24:16。
岸辺で待つイエス「既に夜が明けた頃イエスが岸に立っておられた。だが弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。」ヨハネ21:4)
*ヴァチカン、システィーナ礼拝堂に描かれた「最後の審判」(ミケランジェロ作)の中心は、裁き主イエス様。その姿は、筋骨隆々、髭もなく短髪で、元気はつらつな青年の姿をしている。きっと、生前の外見ではなく、イエス様の内面が現れているのだろう。見慣れた姿ではないのに、私たちは、その立ち姿、そこでの働き、周りの人びととの関係から、その人がイエス様だと分かる。違和感はない。
*多分、天国では、その人が、最もその人らしく、最も生き生きとした姿になるのだろう。年老いた者は壮健だったころの姿に、赤ちゃんや子どもは青年の姿に。姿は変わっても、その人の個性は十全に発揮されている。天国で再開した時に、見間違うことはない。
《地獄はあるのか》
*今までの聖書の記述を見ると、「火の池」のように、裁きの後に悪人が苦しめられる場が存在することが分かる。
*ただし私たちは、地獄には関りを持たない。地獄は私たちの関知しない場所。
*「愛するあの人が天国に行ってほしい」という祈りは聞かれるが、「憎いあいつは地獄に行ってほしい」という祈りは聞かれない。前者は愛の祈りであり、後者は呪いである。私たちは、ただひたすら愛に生きる。
*イエス様の教え「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
*パウロのメッセージ「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)
*神の律法「復讐し、報いるのは私だ。」(申命記32:35)
*地獄はあるが、私たちは関わらない。悪人への報いは、神様にお委ねする。
《他宗教の信者は天国に行けないのか。他宗教の人とは、死後の世界が違うのか。》
*答えは「分からない。」
*どの宗教もそうだと思うが、それぞれの宗教における世界観はその宗教内で完結しており、他宗教と共有されない。
*場合によっては「他宗教」の「存在」すらも想定されていない。
*だから、こちらの「天国」とあちらの「極楽」や「浄土」などとが、どのような関係にあるかは、整理されていないし、これからも整理されないだろう。
*ただ、「一神教」であるキリスト教の信仰を突き詰めていけば、全ては神様の元に一つになるはず。「たとえ天や地に神々と呼ばれるものが居ても、私たちにとっては唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神に帰ってゆくのです。」(1コリント8:5-6。ここで大切なのは、「私たちにとって」という言葉。「仮に他の神々が居ても、私たちにとってはこの神様だけ信じる」というのが「一神教」。「他の神は存在してはならないから攻撃する」というのは、正しい一神教ではない。)
*一神教の信仰を突き詰めると、最終的には宗教の違いはなくなり、ついには「キリスト教」すらもなくなる。「全てが御子に服従するとき、御子自身もすべ
てをご自分に服従させてくださった方に服従されます。神が全てにおいて全てとなられるためです。」(1コリント15:28)
*私個人の考えだが、神様は、人を宗教の違いによって判断するような、心の狭い方ではない。イエス様の掟が「互いに愛し合うこと」であるように、神様は、人を、宗教の違いによってではなく、愛によって判断される。愛を行ってきた人を、神様は喜んで天国に招かれる。
『最後の審判』ミケランジェロの代表作 バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の祭壇に描かれたフレスコ画
フィリピの信徒への手紙4:4-9
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。」
フィリピの信徒への手紙は、「喜びの書」と言われるほど、喜びについて多く書かれている。けれどもこの時、著者のパウロは投獄されていた。(「獄中書簡」の一つ。)とてもじゃないが喜べない苦しい状況の中で、けれどもパウロは喜んでいた。私たちも苦しい時がある。そのような時、どのようにして、喜びに転じることができるのだろう。
《結論》神様との人格的な交わり。
聖書の特徴は、神様の存在感。神様は、しっかりと存在し、感情を持ち、私たちを対話をし、私たちの人生に関わってこられる。神様との豊かな交わりこそが、人間の幸せ、というのが聖書の考え。ここまで強い考えは、日本文化にはない。なじみが薄い。「どんなときにも、神様が共に居てくだり、私たちを見守ってくださる。悔い改めを説きつつも、まず、そのままの私たちと対峙して下さり、受け入れてくださる。」このような確信があれば、確かに私たちは勇気づけられる。クリスチャンは、大なり小なり、このような確信を持つ人々。
《具体的には》
一足飛びに、神様の交わりに行くのは難しいかもしれない。具体的な考え方、モノの見方を考える。
1)表面上のものの奥を見る。「知る力と見抜く力とを身ににつけて」(1:9)
…世間の見方、「常識的な捉え方」が全てではない。「このような時は悲しむべき」「このような時は苦しむべき」などに流されない。「まぁ、気のな」とい価値観は、絶対的なものではない。
2)災い転じて福となす。「私の身に起こったこと(監禁、迫害)が、かえって福音の前進に役立った。」(1:12)…ものの捉えようによって、評価は変わる。マイナスと思っていたことが、プラスに捉えられることもある。
3)人生の模範を見つめる。「キリストは神の身分でありながら…死に至るまで従順でした。」(2:6-8)…「自分もこう生きたい。こうありい。」と思うような模範を見つけて、見倣う。最近は「偉人伝」などは流行らないかもしれないが、誰かの生き方を参考にし、勇気づけられることは大切。困難の中にあっても、思いやりを忘れず、前向きに生きている人を、模範として見つけることができれば。十字架を見つめてお祈りするのは、十字架の苦しみを乗り越えて、復活の命へと至ったイエス様を、自分の模範として、希望を持つこと。(仏像を前にしてお祈りするのは、どのような困難があっても心の平静を忘れず、自分を見失わない仏を、模範にするため。)具体的な模範は、具体的な参考になる。
4)喜びは、力。喜びは生き方。「主において喜びなさい。これは…あなた方にとって安心なことなのです。」(3:1)…喜びは、実は、感情の問題ではない(愛と同じ)。生き方の問題であり、人生を歩み続ける力。喜びは、前向きな生き方の表現。喜ぶことは、希望を持つことであり、絶望に陥らない力になる。感情として、喜べないような時にも、喜びを生きることは可能。
5)もっと具体的には、「歌」。歌を歌うと幸せな気分になる。「チコちゃんに叱られる。」…礼拝で聖歌を歌うのは理にかなったこと。キリスト教は「歌う宗教」。悲しい時には、悲しそうな歌を歌うことで元気になることもある。(悲しみには悲しみが寄り添うことが良い時もある。)怒りながら歌えない。絶望しながら歌えない。歌えば、少しでも気持ちが上向きになる。
病気は人間の根源的な課題の一つ。病気はそれその物と取り組まなければならないもの。病気に罹ると、本人は苦しみ、周りの人は心配し、回復を祈り、回復すれば喜ぶ。そして回復に関わった人(医者、看護者等)は感謝される。これが、当然あるべき姿。しかし実際には、この「当然」がなされないことが多い。
ヨハネによる福音書9章「生まれつきの盲人をいやす」
1-12節 プロローグ。病気を「誰かの罪」と捉える発言に、病気が病気以外の意味を持って作用しだす予感を感じる。これ以降、「病気が癒された」にも拘わらず、誰も喜ばない事態が発生する。
13-17節 癒しの出来事が、「安息日」つまり、「宗教的戒律」の問題とされる。
18-23節 同じく、「会堂から追放」の問題、つまり、「共同体の安定」の問題とされる。
24-34節 「えん罪」の成立。
…癒した人を「犯罪人」とし、癒された人を「共犯者」とする。「生まれつきの盲人が癒された」という出来事が、「病気の癒し」の問題ではなく、「宗教的戒律を破った」「世間を騒がせた」問題とされてしまう。
35-41節 絶望から希望へ
「その方を信じたいのですが」…これは「イエス様を信じたい」だけでなく「人間を信じたい」という叫びだったのではないか。目が見えなかったときは、物乞いをせざるを得ない等の苦しみにさらされ、病気を癒された時には、誰も祝福しないばかりか、断罪され、追放される。このような不条理に、彼は絶望したのでは?
ただ、この物語全体で興味深いのは、イエス様が、最初と最後に登場している、と言うところ。中間には姿は見せていないが、彼と人々ととのやり取りを、人知れず見ていたと思われる。彼は、最後にイエス様と出会い、喜びに満たされた。どのような時にも、必ずイエス様がそばに居てくださる。それが私たちの希望になる。