寄る辺ない魂。
映画『アプレンティス~ドナルド・トランプの創り方』から
司祭 ミカエル 藤原健久
あなたがたはもはや、…神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、…キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、…神の住まいとなるのです。(エフェソ二・一九‐二二)
私はこの原稿を、トランプ氏が大統領に就任して間もない頃に書いています。この原稿が掲載される頃には、世界がどのようになっているのだろうかという不安を、今感じています。
トランプ氏が青年の頃の物語です。いわば、大統領の「前日譚」です。破産寸前の不動産会社で働いていたトランプ青年は、大きく成功したいという野望を持っています。ある日、悪辣非道で有名な敏腕弁護士に出会います。彼はまるで師匠のようにトランプ青年を導き、大実業家へと成長させるのです。
この弁護士が教え、トランプ青年が守っている「三つのルール」が、映画の中で紹介されます。それが「一・攻撃あるのみ。二・絶対に自分の非を認めない。三・必ず自分が勝つと言い続ける。」これを聞いて、現在のトランプ氏の言動が、少し理解できたような気がしました。徹頭徹尾、このルールを実行すれば、確かに勝負には勝てそうです。けれども、「これでいいのか?」と思ってしまいます。
このルールは、間違っているように感じます。たとえ自分が悪くても、相手を攻撃し、自分の非を認めない、ということは、正義に反することです。けれども映画の中で、弁護士とトランプ氏は語ります。「正義とはなんだ?真実とはなんだ?『正義』や『真実』は人の数だけある。自分の主張だけ通せば良いんだ!」みんなが認める「正義」も、社会が定めた「法」も、無視していい、という考えです。これだと、何が残るのでしょう。最後には「私」だけしか残りません。
「正義」も「法」も無視するなら、きっと「神」も「宗教」も無視するのでしょう。そして「愛」も「優しさ」も無視していって、そして「救い」も無視するのでしょう。そうなったら「私」はどこにいるのでしょう。何のために「勝負に勝つ」のでしょうか。
私は、映画の中のトランプ青年が、寄る辺ない、不安定な存在に見えました。莫大な富を手に入れ、「欲望」すらも満たしてしまった彼は、何を目指せば良いのでしょうか。真空の中で、たった一人で彷徨う、孤独で空しい存在に見えました。
私たちは神様に寄り頼みます。たとえ孤独を感じる時でも、神様が共にいてくださることを信じます。全人類の平和という壮大な夢をもって、目の前の愛を大事にします。そんな日々の中で、私たちはたとえ小さくても「幸せ」を感じます。勝負には勝てなくても、救いは愛の道にしかないのです。