藤原司祭 からのメッセージ
藤原司祭 からのメッセージ
教会は、私たちのもう1つの「家」です。いつでも帰ってき良い場所です。神様はいつもあなたを待って居られます。心を神様に開けて、お祈りをお捧げするとき、きっと神様は「お帰り、私の愛する子よ」とあなたの魂を抱きしめてくださるでしょう。
子供の頃の私は、いわゆる「いじめられっ子」だった。体は大きいけれど、運動がダメ、内向的であまりしゃべらず、友達は少なく「暗い」子で、そのくせ成績は悪くなかったから、「(自分をいじめる)あいつらよりか頭がいい」と傲慢で、「やればできる」と根拠のない自信を持っていたりした。内面は屈折しており、傲慢さは劣等感とからみ合いコンプレックスになっていた。つまりは、自分に自信の持てない、素直になれない子供になっていたのだった。中学2年生になったばかりのある日、かわいらしい女性の声で自宅に電話があった。間もなく行われるイースター(復活日)の礼拝に来てください、という。幼稚園、日曜学校と教会に通っていながら、その後ご無沙汰していた私は、1年ぶりに教会に足を踏み入れた。かわいい声の女性は、予想よりもはるかに年上のご婦人だった。びっくりした。でも本当にびっくりしたのは、そのあとだった。「まぁ、健ちゃん、よく来てくれて。」その後、教会に行くたびに、彼女は、抱きつかんばかりに歓迎してくれた。「これは一体何なのだろう。」私は疑問に思った。私は何もしていない。教会に貢献することはしていない。彼女の役に立つこともしていない。私がしたのは、教会に行っただけ、正確に言うと、教会に"居る"だけだった。この人は、私が"居る"ことを喜んでくれるのだろうか。そんなことは初めてだった。自分が暮らしてきた世界は、「結果」が求められる世界だと思っていた。何かが「できる」から偉い、そのような価値観が当然だと思っていた。ところが彼女は違う。それは彼女の信じている神様の教えなのだろうか。神様は、人間を、何ができるか、で見るのではなく、まずその人の存在そのものを喜んでくれる方なのだろうか。そのように考え、私の求道は始まった。私の予想は、決して間違っていなかった。やはり神様は、"そのままの私"をこよなく愛してくださる方だった。様々な出来事の中から、この事の確信を得て、大いなる喜びの内に洗礼を受けたのが、高校3年生の秋だった。その喜びは、今も変わらず続いている。
管理牧師 ミカエル 藤原健久 (ふじわら たけひさ)