《新約聖書の構造》 大小の27の文書で構成されています。
1 マタイによる福音書 【福音書】…イエス・キリストの生涯について記された文書。
2 マルコによる福音書
3 ルカによる福音書
4 ヨハネによる福音書
5 使徒言行録 【歴史】…イエスの弟子たちの物語。宣教と教会形成。
6 ローマの信徒への手紙 【手紙】…パウロや他の使徒が教会、信徒にあてた手紙。
7 コリントの信徒への手紙Ⅰ
8 コリントの信徒への手紙Ⅱ
9 ガラテヤの信徒への手紙
10 エフェソの信徒への手紙
11 フィリピの信徒への手紙
12 コロサイの信徒への手紙
13 テサロニケの信徒への手紙Ⅰ
14テサロニケの信徒への手紙Ⅱ
15 テモテへの手紙Ⅰ
16テモテへの手紙Ⅱ
17テトスへの手紙
18フィレモンへの手紙
19ヘブライ人への手紙
20ヤコブの手紙
21ペトロの手紙Ⅰ
22ペトロの手紙Ⅱ
23ヨハネの手紙Ⅰ
24ヨハネの手紙Ⅱ
25ヨハネの手紙Ⅲ
26ユダの手紙
27ヨハネの黙示録 【黙示録】…終末の状況や重要な教えについて、暗号で書かれた書。
紀元60-100年ごろの間に、中東やローマ等の地で書かれ、各地の教会で読み継がれた文書が、2-3世紀にまとめられ、最終的に4世紀末に正典として確定した。
正典以外にも「外典」や「偽典」が多数あり、その中には内容的に非常に重要なものもある。
一人の人によって書かれたものではなく、多くの人々が記した。最も多くの書を書いたのはパウロ。伝わっている作者名とは作者が異なると思われる所も多い。例えば福音書の作者は教会の伝承によるもので、書の中には作者を特定する記述はない。
《イエス・キリストの生涯》
*誕生を巡る物語。(クリスマス。マタイとルカのみ。)【イエス誕生の時を紀元元年としたが、実際には紀元前7年ごろに誕生したと思われる。】
*子どもの頃の物語はほとんどない。(ルカに12歳の時の物語がある。)ユダヤ北部のガリラヤ地方、ナザレの村で、父親の後を継いで大工をしていたであろう。「ナザレのイエス」
*30歳ごろ、宣教の生活に入る。洗礼を受け、荒れ野で悪魔の誘惑を受け、洗礼者ヨハネの逮捕の時期に宣教開始。
*弟子を召命し、病人を癒し、神様の愛の教えを人々に語り掛ける。
*社会的慣習や宗教的戒律にとらわれず、自由に神様の愛を説く。時には社会的権力者や宗教的指導者を容赦なく批判した。そのため彼らから「反社会的分子」と見られ、抹殺を謀られる。
*彼らは、当時の実質的支配者であるローマ帝国総督に、イエスの言動を曲解して伝え、国家転覆を謀る重罪人として訴え、死刑にさせる。
*33歳ごろ、十字架刑により死亡。その三日後、復活する(墓が空になり、弟子たちに現れる)。復活の40日後、昇天。
《教会の物語》
*イエスの昇天の10日後、祈っている弟子たちの上に聖霊が降る。彼らは宗教的熱意に満たされ、積極的に宣教活動を行う。
*各地に教会(集会)が生まれる。ユダヤの地にも、古くからユダヤ人たち(「離散のユダヤ人」)が定住している外国の地にも広がる。当初、ユダヤ人への宣教を行っていたが、次第に外国人(非ユダヤ人、非ユダヤ教徒)への宣教も盛んになる。
*当初、キリスト教徒を積極的に迫害していたサウロは、劇的な回心を経験し、きわめて熱心なキリスト教徒となり、熱心に宣教する。後にパウロと改名し、主に外国人を中心に宣教し、最終的にローマまで行きつく。
*教会が拡大するとともに、迫害も発生。当初、ユダヤ人から、のちにローマ帝国から迫害される。殉教する者も出てくる。
《重大な出来事》
*イエス様の時代、ローマ帝国が中東地域を支配していた。選民意識の強いユダヤ人は、外国人(異邦人、異教徒)に支配されるのを、きわめて嫌っていた。不満と反抗、小競り合いが絶えなかった。
*66年、ユダヤ戦争勃発。激しい戦いの末、70年に首都エルサレム陥落。神殿破壊。ユダヤ人追放。
*エルサレム陥落、神殿破壊は、ユダヤ人にとって、きわめて大きな出来事。「世界の終わり」ほどの衝撃があった。その衝撃が聖書にも反映している。70年より前に書かれたものと、それ以降に書かれたものとは、表現が変わっている。
今後の予定。(変更する場合があります。)
第1回 マタイ、第2回 マルコ、第3回 ルカ、第4回 ヨハネ、第5回 使徒言行録、第6回 ローマ、第7回 コリント―ガラテヤ、第8回 エフェソ―フィレモン、
第9回 テサロニケ―テトス、第10回 ヘブライ―ヤコブ、第11回 ペトロ―ユダ、第12回 黙示録、
最初に概説、次に特徴的な部分を朗読、質疑応答。
*各回の最後に、【ザクっと読むために】を記しました。各書で、大切だなと思われるメッセージを選出しました。これらを読むと、一応、すべての書を、部分的にでも読んだことになります。聖書は通読するのが一番ですが、手始めにこのような形で読み進んでみても良いかもしれません。聖書の箇所は、「コリントの信徒への手紙Ⅰ 第12章31節から第13章13節まで」を「Ⅰコリント12:31-13:13」というような形で略記しています。
《福音書・イエス様の物語、教え、救いの内容》
イエス様についてのお話だが、ただの「小説」ではない。
福音「ふくいん」、福・「善い」、音・「おとづれ・知らせ」。グッドニュース。
私達の救いにとって、最も善いニュース。「イエス様の十字架によって私達の罪が贖われ、イエス様の復活によって永遠の命の希望が与えられた。私達はイエス様を信じることによって、この救いが与えられる。」
同じイエス様のお話を、四人の人が、それぞれの視点で記している。書かれた時代と、読者が違う。作者の名前は伝承によるもの(事実は分かっていない)。
《時代背景》
紀元70年に、ユダヤ戦争の末、エルサレム陥落。ユダヤ人追放。
最初はユダヤ人と仲良くしていたが、徐々に違いが明らかになり、ユダヤ人達から迫害される。後に、ローマ帝国から迫害される。
《マタイによる福音書》
紀元80年頃に書かれた。ユダヤ人クリスチャン、またユダヤ教の素養を持つ人が読者。「マタイ」はイエス様の弟子の一人。徴税人。(9:9―13)
《大切な内容》
+イエス様は、ユダヤ人が、何百年も待ち続けた救い主(メシア〔ヘブライ語〕、キリスト〔ギリシア語〕)であることを説明しようとした。(クリスマスの物語、1―2章)
+最も大切な教え・山上の説教(5―7章)
「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。」
苦しんでいる人、悲しんでいる人を、何よりも、神様は大切にされる。
+イエス様の十字架の時には、天変地異が起こった。←十字架がどれほど大きな出来事であるかを記す。
+復活のイエス様の言葉。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(28:20)
【ザクっと読むために マタイ18:21-35「仲間を赦さない家来」のたとえ】
*「赦し」はキリスト教倫理の中で最も大切なものの一つ。聖書が説く「赦し」は、心理的なものではなく、もう少し具体的なイメージ。「借金の帳消し」のようなもの。私たちは、神様に多額の負債(罪)がある身であることを思い起こし、互いに赦し合おう、というもの。「デナリオン」は日当程度(1万円ぐらい?)、「タラントン」はデナリオンの6000倍。神様には巨額の罪があるのに、お互いのわずかな罪を赦し合えない人間。
《マルコによる福音書》
紀元60年頃に書かれた。最初の福音書。イエス様の正しい教えを伝えようとする。マルコはパウロの弟子。14:51―52が作者の姿か。
《大切な内容》
イエス様の言葉だけでなく、生き方そのものが福音である。
「神の子イエス・キリストの福音の初め。」(1:1)
弟子達をしかる。教会の指導者達に絶えず悔い改めることを教える。
*5000人の養いから。「まだ分からないのか。」(8:21)
「タリタ・クム」「エッファタ」「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」
イエス様が使っておられたアラム語の言葉を伝える。
イエス様の十字架の悲惨さ。
「待て、エリヤが彼を下ろしにくるかどうか、見ていよう。」(15:36)
イエス様の復活は、日常生活の中で理解してゆくこと。
「婦人達は墓を出て逃げ去った。・・・」(16:8)突然終わる。余韻が残る。
《輪読してみよう》
マルコは、他の福音書(マタイ、ルカ)と比べて、あっさりと描写している部分と、詳しく表現している部分がある。
1:1-15、イエス様の初期の活動が、これ以上ないほど簡潔に記されている。
5:21-43、ヤイロの娘とイエスの服に触れる女。・・大変詳しく情緒深い。
【ザクっと読むために マルコ7:31-37耳が聞こえず舌の回らない人を癒す。】
*イエス様の奇跡の多くは癒し。癒しは「手当て」、人々はイエス様から直接触れられ、癒された記憶を、大切に語り継いだ。その中でもこの箇所は、最も「濃厚接触」の箇所。舌と耳に触れ、「エッファタ」と大声を出してくださった。イエス様の熱意が、癒しにつながった。
《ルカによる福音書》
紀元80年頃に書かれた。ルカはパウロの弟子。医者。外国人向けに書かれた。
《大切な内容》
イエス様の、人間としての美しい姿を示す。
→クリスマス物語から、イエス様の子どもの頃の姿。(1―2章)
一人ひとりを大切にされる神様の優しい愛。
「99匹と1匹の羊」、「無くした銀貨」、「放蕩息子のたとえ」(15章)
イエス様の十字架→最高の愛の姿を示す。
十字架を担ぎながら、沿道の女達を気遣う。一緒に十字架に掛かった犯罪人を天国に招く。「本当にこの人は正しい人だった。」
イエス様の復活。→愛と慈しみをもって弟子達に出会う。(エマオの途上)。天に昇られる(使徒言行録へと続く。)
【ザクっと読むために ルカ1:26-56 マリア】
*ルカによる福音書には、イエス様の母マリアのことが多く記されている。マリアは天使から受胎告知を受けたとき、多分十代前半。私たちの感覚ではまだ少女。ユダヤの田舎の少女が、神様の救いのご計画を告げられ、それを受け入れるには、それほど大きな決断が必要だったか。そしてそれによって得られた喜びが、どれほど大きなものであったか。
《ヨハネによる福音書》
紀元100年頃に書かれる。ヨハネはイエス様の愛する弟子。長生きし、長老と呼ばれる。他の3つとは違うイエス様の姿を、他の3つとは違う表現で記す。
《大切な内容》
福音についての、深い表現。「初めに言があった。」(1:1)旧約聖書から続くイエス様の救いを示す。
何よりも愛が一番。「あなた方に新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」(13:34)
イエス様は「良い羊飼い」(10:7)→迫害の中で、教会の信徒が互いに愛し支え合い、その教会をイエス様が導いてくださる。
イエス様の十字架→最後の晩餐で、弟子達の足を洗われる。聖餐の深い意味は、互いに仕え合うこと。
イエス様の復活→「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(11:25)イエス様を信じることで、復活の命にあずかる。
【ザクっと読むために ヨハネ7:53-8:11 姦淫の女とイエス】
*〔〕で囲まれている、ということは、後代の加筆と言うこと。けれども、ヨハネによる福音書のど真ん中に配置され、どれだけこの物語が重要であるかを示している。「罪の赦し」の実践を、最も分かりやすい形で表現。イエス様はこの時、地面に何を書いておられたのだろう?
《使徒言行録》
イエス様の復活後、弟子達の物語。教会が形成され、世界中に広がってゆく。
ルカによる福音書の続編。福音書と使徒言行録で「ルカ」の書いた人つながりの文書となっている。
《大切な内容》
+聖霊降臨・教会の誕生。(2章~)
+ステファノの殉教・教会の迫害。(7:54―8:1)
+サウロ→パウロの回心。教会が世界中に広がってゆく。(9:1―22)
+パウロは異邦人伝道の中心的な人物となる。多くの「手紙」を書く。ローマで殉教したとの伝承。
【ザクっと読むために 使徒言行録16:16-39 パウロ達、投獄される。】
*使徒たちの宣教は、復活のイエス様に出会った喜びに突き動かされたもの。この喜びは、誰にも奪えない。たとえ牢獄に入れられても。牢の中でも賛美歌を歌い、喜びの祈りを捧げる。救いの喜びは人々に広がる。
《手紙》
+パウロや教会の指導者達が、各地の教会や個人に送った手紙が書き写されて伝わったもの。質問に答えたり、課題にアドバイスを与えるだけではなく、信仰についての大切な教えが多く含まれているため、教会の間で回覧され、書き写され、礼拝で朗読されるようになった。
《作者》
+「ローマ~ヘブライ」・パウロが書いたと伝えられている。
+その他にヤコブ、ペトロ、ヨハネ、ユダが書いたと伝えられている。
《配列》
+書かれた順番に配列されているわけではない。
+最初にパウロの手紙がまとめられ、その他の作者の手紙が続いている。
+分量の多いもの、内容が重要と思われてきたものが先に配列されている。
《ローマの信徒への手紙》
+パウロが、紀元57年頃に、ローマの教会の信徒に向けて書いた。
+パウロはまだローマの教会に行ったことがない。近い内に行きたいと思っている。そのため、自己紹介を兼ねて、キリスト教の教えを説明している。
+パウロの思想をまとめたもの。量も多く、哲学的。
+ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの間に、「どちらが偉いか」という争いがあった。パウロは、どちらも神様の前では罪人であり、イエス様を信じることによってのみ救われることを教えている。
《大切な教え》
+信仰による義(3:21―26)
+アダムとキリスト(5:15)…最初の人アダム、この一人の人によって全ての人が罪人となった。しかし、一人の人、キリストによって、全ての人に救いの可能性が開かれた。
+愛の生活・「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(12:15)
【ザクっと読むために ローマ5:1-11 信仰によって義とされて。】
*「義とされる」は、神様との間の「罪の赦し」から得られる救いの教え。絶対的な「神」の概念が希薄な日本社会には、ちょっと理解が難しい?近いのは、「自信」とか「誇り」か。これらは、正しく生きることによって得られるもの。これらによって私たちは、苦難に耐えうる力を得る。「誇り」よりも「利益」を優先する社会では、とても弱いもの。イエス様の教えの宣教は、日本社会全体を正しく、そして元気にしうる。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++
超・藤原解釈…(注)一般的かどうかは分かりません。ましてや正しいかどうかは、もっと分かりません。
*聖書の引用は「聖書協会共同訳」から。
〔ローマの信徒への手紙の内容〕
○イエス様を信じれば救われる。
…心は平和になり、苦しい時にも希望が無くならない。
○救われた者は、正しく生き、善いことを行う。
(善い行いは、救いの「条件」ではなく、救いの「結果・印」。救われた者は、神様に「おかげ様」の気持ちで、人に善いことをする。)
○いったん救われた者も、その後、悪いことをすれば、滅びるかもしれないから、悪いことはしないように。
○救いに、ユダヤ人と異邦人の違いは関係ない。
…イエス・キリストは、ユダヤ教の律法を引き継ぎながら、律法を越えている方。だから、ユダヤ人も異邦人も救う。
「ローマの信徒への手紙」は、以上の内容を、手を変え品を変えしながら、説明しているもの。特に「口述筆記」なので、妙に盛り上がったり、話が飛んだりする。
順番に内容を見ていくと…
〔1章〕
1:1~自己紹介。大都会ローマにある教会に、パウロはまだ行ったことがない。
1:16~「福音」とは、この後に語られている、救いについての内容のことだろう。
1:18~「異邦人(非キリスト教徒)批判」偶像崇拝したり、不道徳だったり。
〔2章〕
2:1~「ユダヤ人による異邦人批判」を批判する。
*「自分たちは神様を信仰している」と思って、異邦人を裁いてはいけない。
2:11「神は人を分け隔てなさいません。」信仰があろうがなかろうが、良いことをした人は神様からほめられ、悪いことをした人は神様から裁かれる。
2:29「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのです。」
〔3章〕救いの連続性について。
*「ユダヤ人のすぐれている点」それは、ユダヤ人の行動の正邪ではなく、ユダヤ人が神様の救いの歴史に証人となっている点。
3:9~「正しい者は一人もいない。」1章では異邦人批判に対して弁護していたが、ここではユダヤ人批判に対し弁護している。ユダヤ人が「罪人」なのは、律法が完全には実行するのが不可能なもので、律法に基づけば人は不完全で「減点」されるしかないから。
3:21~「全ての人を救うイエス・キリスト」
…異邦人もユダヤ人も救う。3:24「贖いの業」…「罪人」である人類を救う。
その救いの方法は、
1)律法を越えたものでなければならない(異邦人を救う)…それは「律法に基づいた行動」を越えたもの。だから、「信仰」によって救われる。
2)かつ、律法とつながったものでなければならない。(ユダヤ人を救う)…3:31「律法を確立する。」
〔4章〕以上のことの説明。アブラハムを例に。
〔5章〕「信仰による義」…救いの内実。
5:8「キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました。」…イエス・キリストと神様が特別な関係であることを示す。
救いとは、
*神様との間の平和。…罪人であるのに裁かれない。
*苦難をも希望に変わる。
5:12~「アダムとキリスト」…なぜ、信じる対象がイエス・キリストでないとだめなのか、の説明。これに5:8が加わる。
〔6章〕「罪に死に、キリストに生きる。」
*5章までで言われていることは、「私たちは既に救われている」だが、では「だったら何にもしなくて良いか」となると、そうではない。
*私たちが「既に救われている」のであれば、それ以降は「救われた者として、正しく生き、愛を行う」となろう。
*「おかげ様」の精神で、神様からの「御恩を忘れず、神様と人々に仕えていく」となろう。
*そのことを、「洗礼」を用いて説明する。
…洗礼は、キリストの死にあずかるもの(今までの自分の罪が赦された)であると同時に、洗礼は、キリストの復活にあずかるもの(これから正しく生き、人を愛する)。
〔7章〕「律法」との関係。
*「救いの連続性。」
イエス・キリストへの信仰によって救われるなら、ユダヤ教からの救いの歴史は不要なのか?イエス・キリストによって今までの救いの流れは、全て断ち切られたのか?
→そうではない。
*律法は「私たちは罪人だ」ということを自覚させてくれたことにおいて有意義。
〔8章〕律法を越えるイエス・キリストが、私たちを罪から救ってくれた。
〔9章〕~10:5、ユダヤ人を包摂する。
*「律法の実行ではなく、イエス・キリストへの信仰によって救われる。」これは大原則でありながら、ユダヤ人・ユダヤ教を、切り捨てずに包み込んでいく。
*批判すべき所は批判しながらも、相手を否定したり、切り捨てたりするのではなく、何とかしてつながる部分を探そうとする(信仰的、理論的、そして感情的に)。
*パウロは結構「聖公会的」?
〔10章〕救われるための方法。
10:9~10「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白して救われるのです。」
*自分の全てをもってイエス・キリストを信じることで、救われる。
*密教では「身・口・意」と言われる。仏様と一体化するために、手で印を組み、口で真言を唱え、心で仏様のことを思う。これに近いのかも。
〔11章〕救いに、ユダヤ人と異邦人の違いは関係ない。…相互に関わり、すべての人を救う。
〔12章~〕以上のことを具体的な生活に活かす。
《コリントの信徒への手紙Ⅰ》
+パウロが、紀元55年頃に、コリントの信徒に向けて書いた。
+コリントは港町。物や人の往来が盛んで、経済的に豊かな町であったが、同時に、道徳の乱れもあった。
+コリントの町にある教会も、信徒の信仰生活が乱れがちであり、当時、教会は何らかの問題で分裂状態にあった。
+パウロは、「教会はキリストの身体だから、分裂してはいけない。一致の要になるのは愛だ」ということを教えている。
《大切な教え》
+一致の印である聖餐式を、しっかりと守る。(11:17―34)
+何よりも大切なのは愛(12:31b―13:13)。「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなる物は、愛である。」(13:13)
《コリントの信徒への手紙Ⅱ》
+「Ⅰ」と同じ頃に書かれた。
+「Ⅰ」以外の様々な質問や課題に答えた。
+罪を犯した者を赦して受け入れること、苦難の中でも信仰に堅く立って歩むこと、等。
《大切な教え》
+「土の器に納めた宝」(4:1-15)…人間という「土の器」に納められた、神様の教えという「宝」。「自分中心の思い」が薄くなればなるほど、「土の器」は薄くなって、神様の教えの光が輝き出る。
+「信仰に生きる」(4:16―5:10)…「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(4:16)
《ガラテヤの信徒への手紙》
+ガラテヤ…現在のトルコ北部。
+パウロによって書かれた。紀元57年頃(ローマの信徒への手紙と同時期)?
+ガラテヤの人々が、正しい教えから外れようとしていた。(誰かから、「パウロは正式な使徒ではない。」「クリスチャンと言えど、ユダヤ教の伝統に従わなければならない」と言われていたよう。)
+「パウロは正式な使徒であり、パウロが伝えた教えは正しい。」「クリスチャンは自由であり、ユダヤ教の伝統に従わなくて良い。」と伝えようとした。
《大切な教え》
+「信仰によって義とされる。」(2:15―21)…ローマの信徒への手紙と同じ。
+「キリスト者の自由」(5:2-15)…「あなたがたは、自由を得させるために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕え合いなさい。」(5:13)
【ザクっと読むために Ⅰコリント1:18-31 神の力、神の知恵であるキリスト。】
*十字架は、苦難を伴う実践。これと、神様の愛が結びつく時、最も強い力となる。
【ザクっと読むために Ⅱコリント4:1-5:10 土の器に収めた宝。信仰に生きる。】
*すべての人の内には、素晴らしい神様の力がある。それは、不思議なことに、苦難を経験するほど、表に現れてくる。
【ザクっと読むために ガラテヤ3:21-4:7 神の約束による相続人。】
*神様への信仰は、「神様の前に人は平等」という考えへと導く。信仰は、人と人との違いを乗り越え、一つとなり、互いに使え、愛し合う力を与える。
+それぞれ、珠玉の言葉が連なっている。それ単独でも私たちの心を慰め、導いてくれるものであるが、文脈を確認し、より深く理解したい。
コリントの信徒への手紙Ⅰ
課題・教会の分裂(1:10~)
*どうすれば分裂から一致へと向かえるか。
+宣教共同体としての自覚。「宣教と言う愚かな手段によって信じる者を救おうと…」(1:21)。
《メモ》旧約の宣教:律法を伝え、守らせる。イエス・キリストの宣教:神の福音。神の国の到来と告げる。使徒・教会の宣教:イエス・キリストを宣べ伝える。
+十字架を覚え、実践する(2章~)…イエス・キリストが十字架を通して人類を救ったことを覚え、自分のつまらなさをおぼえ、謙虚に生きる。「私たちは弱く、あなたがたは強くなりました。」(4:10)
+協力し、力を合わせる(3章~)…「私が植え、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させてくださったのは神です。」(3:6)
+正しい生活を送る。(5章~)…「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない純粋で真実なパンで祭りを祝おうではありませんか。」(5:8)「体は淫らな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。」(6:13)
*「使徒であるパウロ」の主張。(9章)
「私は自由な者ではないか。使徒ではないか。私たちの主イエスを見たではないか。主にあるあなた方は、私の働きの実ではないか。」(9:1)
当時、パウロに対する批判があった。内容は明記されていないが、察する所、「パウロは低い身分の者(本当はローマの市民権を持つ自由民)」「パウロは使徒ではない。(使徒とは、イエス生前からの12弟子のみという意見に対して、パウロは、自分は復活のイエスに出会っており、また宣教によって多くの働きをしているのであり、使徒にふさわしい者だと主張している。)」自分は使徒として、誰よりも熱心に働いている、という自負がある。
*10章から、後半部分。日常生活の中での信仰について、具体的に、また個々に記す。
+偶像崇拝をしてはいけない。
旧約聖書を引用して、偶像崇拝を禁じる。具体的には、偶像に捧げられた肉を食べていいかどうかの課題があった。(使徒言行録にも記されている。使徒たちの会議で禁止された。〔使徒15:20〕)それらを伝えながら、試練や聖餐について教えている。「神は真実な方です。あなた方を耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えてくださいます。」(10:13)「渡曽たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わりではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わりではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。」(10:16-17)
+すべては神の栄光のため。(「神殿に献げた肉」の問題)
+礼拝の時の被り物(男尊女卑的表現。課題はある。ただ、「女が男から出たように、男も女から生まれたからです。そしてすべてのものは神から出たのです。」(11:12)の表現は、信仰に貫かれている。時代の制約と言えるか。)
+主の晩餐について。現在の聖餐式の、もう一つの源流(もう一つは言わずもがな、最後の晩餐)。「…しかしそれでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べる事になりません。食事の時、各自が勝手に自分の食事を済ませ、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。」(11:20-21)形だけではない。聖餐式の内実を示す。(当時の聖餐式は、実際の食事である愛餐会の中で行われていた。今もそのように行う黙想会もある。)
+霊の賜物。「恵みの賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。…」(12:4~)→+一つの体、多くの部分。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。…」(12:12~)多様性と一致。
↓
+愛「…、それゆえ信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。」(…13:13)結婚式でよく用いられるこの聖句は、上記の文脈の中で語られた。「どの賜物が一番偉いか」などの論争、それによる分裂があったのかもしれない。それらの分裂を乗り越える術は、愛のみ。
+預言と異言。「私は、あなた方の誰よりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、教会では、異言で一万の言葉を語るよりも、理性によって五つの言葉を語る方を取ります。」(14:18-19)現代の教会と同じく、理性を大切にする。
+集会の秩序。上記の流れの中で語られているのだが、女性に対して差別的な発言が為されている。
+キリストの復活について(15章)。コリントの信徒に再確認させようと、キリストの復活について、力強く教える。「しかし今や、キリストは死者の中から復活し、眠りに就いた人たちの初穂となられました。」(15:20)我々の復活は、将来の希望。「こういうわけですから、しっかり立って、動かされることなく、いつも主の業に励みなさい。」(15:58)復活の希望をもって、今、この時の信仰を生きる。
+教会の宣教の内容。15:3-5
+エルサレム教会への募金。異邦人教会とユダヤ人教会和解の印として、パウロが力を入れていた。
コリントの信徒への手紙Ⅱ
+苦難と試練。「…それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるに違いないと、私たちは神に望みを置いています。」(…1:9-10)
+過ちを犯したものを赦す。
+旧約の律法さえ神の栄光を表すのであれば、新約の福音が栄光を表さないはずがない。だから私たちは、何一つ自分を隠すことなく、胸を張って、福音を宣教する。→+土の器に納めた宝。「私たちは、この宝を土の器に納めています。計り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるためです。…」(4:7~)「私たちは、見えるものものではなく、見えないものに目を注ぎます。」(4:18)パウロは一貫して、自分たちが弱いもの(土の器、見えるもの〔朽ちるもの〕)だと自覚し、その弱い自分たちを通して、神の栄光(宝、見えないもの〔永遠のもの〕)が現われると教える。
+和解させる務め。「一人の人が、すべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです。その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活して下さった方のために生きるためです。」(5:14-15)「今こそ、恵みの時、今こそ、救いの日です。」(6:2)宣教の喜び。
+自発的な施し。「主は富んできたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなた方が豊かになるためでした。」(8:9)“貧しさ”は、宣教による迫害、差別、苦難を表すのだろう。
+パウロは使徒。「さて、あなた方の間で面と向かっては弱腰だが、離れていると強気になる、と思われている、この私パウロが…」(10:1)「私は手紙であなた方を脅していると思われた句はありません。『パウロの手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者がいるからです。」(10:9-10)また、11:11-33。パウロの人となりを伺わせる文章。
+12:10、主から示されたこと。「第3の天」パウロが経験した神秘体験。それをパウロは相対化する。神秘体験よりも、自分の弱さ(迫害、苦労、病気)を通して、キリストの意志を確認し、人々と連帯することに重きを置く。
ガラテヤの信徒への手紙
+1:11-2:14パウロの前半生。使徒言行録に記されているパウロの前半生が、パウロ自身によって記されている。使徒言行録との比較が興味深い。
+ローマの信徒への手紙が、論文のように、冷静に、理知的に書かれたのに対して、ガラテヤの信徒への手紙は、ガラテヤの人々を正しい信仰へと導こうと、熱く語り掛けている。「ああ、愚かなガラテヤの人たち、十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前にはっきりと示されたのに、誰があなた方を惑わしたのか。あなた方にこれだけは聞いておきたい。あなた方が霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、信仰に聞き従ったからですか。」(3:1-2)
「獄中書簡」
「…苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較出来ないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から40に一つ足りない鞭を受けたことが5度、鞭で打たれたことが3度、石を投げつけられたことが1度、難船したことが3度、一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。…」(コリントⅡ 11:23-27)
+パウロは何度も投獄された。けれども、牢屋の中からでさえ、多くの手紙を書いて、信徒を励まし、教え導いた。(「キリスト・イエスの囚人」エフェソ3:1)
+次の手紙は、エフェソとローマの牢獄にいたときに書かれた。
*エフェソの牢獄・(パウロの第3回宣教旅行。書簡の中では比較的初期)53-57年ごろ(使徒19章、Ⅰコリ15:32「エフェソで野獣と闘った」、Ⅱコリ1:8-9「アジア州で私達が被った苦難」)…フィリピ書
*ローマの牢獄(パウロの生涯の最後。)60-63年頃。(使徒28:16「パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。」20節「私はこのように鎖につながれているのです。」)…エフェソ書、コロサイ書、フィレモン書
+投獄され、苦しむ中で、より信仰が深まった。苦しむ人々と連帯し、イエス様の十字架の意味を理解し、復活の希望を強くした。
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)
《エフェソの信徒への手紙》
+エフェソは港町。女神アルテミスの、立派な神殿があった。町は神殿中心に経済がまわっていた。パウロの宣教によって騒動が起きた(使徒19:21-40)。エフェソの教会の信徒とパウロとは、大変深い信頼関係があった(使徒20:36-28「パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。人々は皆激しく泣き、パウロのクビを抱いて接吻した。特に、自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので、非常に悲しんだ。人々はパウロを船まで見送りに行った。」)。
《大切な教え》
+神の恵みはキリストに置いて満ちあふれる(1:3-14)。
+「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(1:23)
*壮大な救いのビジョン。全世界がキリストの元に一つとなる。
+キリストにおいて一つとなる。「実にキリストはわたしたちの平和」(2:14-22)
+救われた者としての新しい生き方。「光の子として歩みなさい。」(5:8)
《フィリピの信徒への手紙》
+パウロが、エフェソの獄中からフィリピの信徒に向けて書いた。53-57年頃。
+「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピ」(使徒16:12)ローマ帝国の中でも重要な都市。多くの施設があり、活発な経済活動が為されていた(「紫布を扱うリディア」)。教会の信徒とパウロは非常に深い交わりを得た。
《大切な教え》
+苦難の中の喜び「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。…主はすぐ近くにおられます。」(4:4-5)。
+最もへりくだられたキリスト「キリストは神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く挙げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上の者、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべてのしたが、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(2:6-11)
《コロサイの信徒への手紙》
+パウロが、ローマの獄中からコロサイの信徒に向けて書いた。60-63年頃。
+コロサイは、アジア州の内陸の町。かつては盛んだったが、当時は既に小さな町となっていた。パウロはエフェソでの宣教活動の時期にコロサイで宣教したと思われる。(「このようなことが2年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、誰もが主の言葉を聞くことになった。」使徒19:10)。
《大切な教え》
+すべてはキリストを通して。(キリスト賛歌、1:15-20)
+哲学や思想、形だけの「宗教」にとらわれず、イエス様の道を歩め。(2:6-19)
+キリストによって新しくされた人として、愛を生きよう。(3:12-17)
《フィレモンへの手紙》
+配置は随分と離れているが「獄中書簡」としてここで扱う。
+パウロの手紙の中で、最も短く、最も個人的な手紙。
+パウロが、ローマの獄中から、フィレモンに宛てた手紙。60-63年頃。
+フィレモンは、コロサイに住む裕福な人だった。クリスチャンである逃亡奴隷オネシモを、温かく迎えて欲しい、という内容。
《大切な教え》
+具体的な愛を示す。奴隷ではなく兄弟として迎えることをお願いする。損害があったら、代わりに自分が弁償すると言っている。
+なりふり構わず、人を愛する。
+最も短く、最も具体的な愛が示された手紙。
【ザクっと読むために エフェソ2:11-22 キリストにおいて一つとなる。】
*信仰によって、人は平和を得、違いを乗り越え一つとなり、共に歩むことができる。このような思想を、選民思想の中で育ち、外国の地で牢獄に入れられているパウロが持つに至るまでに、どのような経験、体験をしたのだろう。
【ザクっと読むために フィリピ1:12-30 生きるとはキリストである。】
*自分個人としては極めて不利益を被るが、自分の使命を果たしている。パウロの喜びは、すごいなぁと驚嘆する。私利私欲をどれだけ拭い去れるのかを自分に問い、その先にある喜びを求めてゆきたい。
【ザクっと読むために コロサイ2:20-3:17 日々新たにされて。】
*私たちが、正しく生きようとするのは、私たちが神様に愛されているから。神様からの愛に感謝して、人の罪を赦し、正しく生きようとする。何よりも「愛の喜び」が一番。
【ザクっと読むために フィレモン8-22 オネシモのため執り成す。】
*フィレモンへの手紙は、短いので、ぜひ全部読んでもらいたい。誰かのために執り成すことを、今までにしたことがあったかな、と自分で反省。イエス様は十字架の上で、「彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか分からないのです」と神様に執り成された。自分たちはイエス様に執り成された存在。
*以下、全て藤原の個人的な意見です。参考までに。
エフェソの信徒への手紙
+キーワードは「成長」
+冒頭からパウロのテンションが高い。「救いのビジョン」を眼前にして、それに向けての、自分や信徒たちの「成長」を実感している。
+「以前は…今は…」が、何度も繰り返されている。(2:1~、2:11~、3:5~、4:17~〔ここでは「異邦人」が「古い生き方をしている人々」の意味で用いられている。〕)
+パウロが見た、救いのビジョン
*私たちは選ばれている。霊的な祝福で満たされ、御国を受け継ぐ。(1:3-14)
*あらゆるものがキリストにおいて一つになる。(1:10)
*教会にはキリストの恵みが満ちている。(1:23)
*地上においては、敵対する人々が和解し、一つになる。(2:11-22)
+本書の構成。1,2章:救いのビジョン。3章:このビジョンは神様の啓示によってパウロに示された。4章:私たちがすべき生き方:「成長」一つとなる。正しい生き方を送る→「光の子」(5:8)。5:21~具体的な生活(家庭生活、社会生活)。6:10~悪と戦う。
フィリピの信徒への手紙
+キーワードは「喜び」
+エフェソの信徒への手紙に比べると、パウロはとても落ち着いている。「喜び」を強調しているが、それはパウロがはしゃいでいるのではなく、フィリピの人々を励ますため。フィリピの人々は、パウロが捕らえられて、心配し、悲しんでいた。パウロは、彼らを落ち着かせ、励ますために、深い「喜び」を教える。
+「喜び」とは、苦難を前にした「希望」であったり、「諦めない心」であったりするだろう。
+内容概観
1:3~。フィリピの信徒を覚えて喜び。
1:12~。自分の投獄が、宣教に役立っていることを喜ぶ。
1:27~。だから生活を正しく保ってほしい。そのことにより、より深く喜ぶことができる。「私と一緒に喜びなさい。」(2:18)
2:19~。テモテたちを送る。そのことで、あなた方は喜ぶだろう。
3:1~。喜びなさい。喜ぶことによって危機を乗り越えられる。
3:12~。危機の中でも、しっかりと前進しなさい。
4:10~。フィリピの人々が、パウロを喜ばせてくれたことを感謝。
+祈りによってつながっている実感。互いに祈り祈られる。(1:4,1:19)
+信徒に勧めるのは「祈り」と「謙虚さ」。→パウロの苦難に対して「何もできない」と嘆く信徒たちに、「できる事がある」と励ます。
コロサイの信徒への手紙
+キーワードは「心配」
+コロサイの人々を惑わし、攻撃する人々の存在が感じられる。1:8「闇の力」、1:21「以前は…悪い行い…」、2:21「戒律に縛られ」、3:5「貪欲を捨て去りなさい」。
+「キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。」(3:15)コロサイの信徒の間にも、対立や、堕落の危険があったのかもしれない。そのためパウロは、「平和」や「赦し」、「感謝せよ」や「家族は助け合え」と、教えているのかもしれない。
+内容概観
1:9~。信仰に留まり、福音から離れてはならない。
1:24~。「あなた方のために苦しむことを喜びとし…」。苦労を甘受。
2:6~。キリストと共に歩みなさい。人々からの批判や攻撃に惑わされないように。
2:20~。コロサイの人々が、欲望や間違った信仰に陥りそうになっている。信仰と生活を正しくしなさい。
3:18~。具体的な生活について。
4:2~。感謝と祈りを勧める。
フィレモンへの手紙
+キーワードは「配慮」
《テサロニケの信徒への手紙Ⅰ、Ⅱ》
+「パウロとシラスは…テサロニケに着いた。パウロはいつものように、ユダヤ人の集まっているところへ入って行き、…『メシアは必ず苦しみを受け、死者の中から復活することになっていた』と、また『このメシアは私が伝えているイエスである』と説明し、論証した。」(使徒言行録17:1-3)パウロはテサロニケで数ヶ月滞在し、教会を作り上げた。
+パウロがテサロニケを去って数ヶ月ほど経ってから、宣教旅行の途上で書かれた。
+パウロによって書かれた最も古い手紙。新約聖書の中で最も古い文書。
《大切な教え》
+最も古い手紙だけ合って、パウロの若々しい想いが溢れている。
+テサロニケの信徒との深い交わり(Ⅰ・1章-3章)。互いに愛し合うこと、生活を整えることの勧め(Ⅰ・4章前半)
+パウロとは異なった教えを述べる者が出てきた。彼らは「不法の者」であり、必ず裁かれる(Ⅱ・2章前半)
+【終末について】
+終末はすぐに来る。(Ⅰ・4章後半、Ⅱ・1章)
+それがいつかは分からない。(Ⅰ・5章前半)
+終末がいつ来ても良いように、いつも生活を整えておきなさい。(Ⅰ・5章後半、Ⅱ・2章後半。)
+「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(Ⅰ・5章16-18)これこそが、終末を待ち望むのに相応しい態度。
「牧会書簡」
《テモテへの手紙Ⅰ、Ⅱ、テトスへの手紙》
+「…信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子が居た。…評判の良い人であった。」(使徒言行録16:1-2)「マケドニア州に着いたとき…苦しんでいました。しかし…神は、テトスの到着によってわたしたちを慰めてくださいました。」(コリントの信徒への手紙Ⅱ 7:5-6)テモテもテトスも、パウロの弟子。パウロの伝道を助け、各地で教会を力づけていた。
+各地の教会で活動していたテモテとテトスに、パウロが牧師としての働き(牧会)についての教えを伝えている内容のため、「牧会書簡」と呼ばれている。
+パウロの弟子が、パウロの名前を使って、教会の指導者達に教えを伝えた者と考えられる。150年頃に書かれたか?部分的にはパウロが書いた手紙も使っているだろう。
《大切な教え》
+現代の教会に通じる制度が、徐々にできていた。監督、長老、奉仕者を中心とした教会形成。現在の主教、司祭、執事の制度へとつながってゆく。
+「監督は、非の打ち所が無く…、同じように奉仕者も品位のある人でなければなりません。」(「牧師」の資格について。Ⅰテモテ3:1-13)
+落ち着いた信仰生活を送り続けること。(Ⅰテモテ2章)…終末が来るのは、予想よりも遅れそう。そのため、社会の中で落ち着いて信仰生活を送り続けることが必要。「市民的キリスト教」。社会の習慣、体制に追随してしまう恐れが生まれる。
+「異なった教え」に従わないこと。(Ⅰテモテ1:3-11)
+「健全な教え」は落ち着いた生活を伴う。(テトス2章)
+生涯の終わりを見据えた、パウロの最後の教え。「み言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」(Ⅱテモテ3:10-4:8)
【ザクっと読むために Ⅰテサロニケ4:13-5:11 主は来られる。】
*聖書の中で数少ない「死後の世界」の教え。その中心は、「愛する人との再会」。死後の教えは「今をしっかり生きるため」のもの。私たちを励まし、互いに愛する力を与える。
【ザクっと読むために Ⅱテサロニケ2:13-17 救いに選ばれた者の生き方。】
*テサロニケの教会の人々の生き方が、パウロを喜ばせた。決して立派なことをしたわけではない。イエス様の救いを信じ、日々しっかり生きていただけ。小さく見える私たちの日々の生活は、いつも、神様と、そして誰かを喜ばせている。
【ザクっと読むために Ⅰテモテ4:6-16 キリスト・イエスの良い奉仕者】
*聖書は「みんなの手本となりなさい」と勧める。それは「聖書の勧めと教え」の手本。神様の愛を思い、みんなのために祈る奉仕。これは誰にでもできる。
【ザクっと読むために Ⅱテモテ4:1-8 最後の勧め。】
*宣教者は「折が良くても悪くても」神様のみ言葉を宣べ伝えなければならない。私たちは、どのような時にも愛し合わなければならない。私たちは、状況がどれほど変わろうと、いつも愛の生活を続けている。それだけの強さを、私たちは持っている。
【ザクっと読むために テトス2:11-15 健全な教え】
*私たちが正しく生きるように努めるのは、希望のため。明るい未来を、信じ、教え、分かち合うため。
《ヘブライ人への手紙》
+作者は不明。最後にパウロの弟子であるテモテの名前が挙がっているので、パウロが作者と考えられた時期もあるが、多分別人。
+内容的に、迫害が予想されること、終末感が弱まっていること等から、80-90年頃、迫害が盛んになりつつあったローマの信徒に向けて書かれた物と思われる。
《大切な教え》
+イエス様は「大祭司」である。…祭司は、人のために神様に祈る者。「とりなしの祈り」を捧げる。その際にいけにえを捧げる(5:1)。イエス様は、自分自身を、最大のいけにえとして神様に捧げてくださった。それが十字架である(9:23-28)。
+だから私達は、イエス様をしっかりと信じて、迫害にも耐えなければならない。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。」(11:1)「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」(12:4)
+そして周りの人々を愛し、奉仕しなければならない。「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい。聖なる生活を抜きにして、だれも主を見ることはできません。」(12:14)「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことをわすれてはいけません。そうすることで、ある人達は、気付かずに天使達をもてなしました。(13:1-2)」。
+私達も、「祭司」として、自分のためだけでなく、他人のために真剣に祈ることが必要。
《ヤコブの手紙》
+「ほかの使徒には誰にも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけは会いました。」(ガラテヤ1:19)。イエスの兄弟ヤコブは、初代教会の有力な指導者の一人。この手紙は、このヤコブの名前を冠している。しかし実際の作者は不明。
+ユダヤ人全般に向けて書かれた手紙とされている。特定の送り主や送り先、個別の状況を感じさせない内容なので、一般的な教えを記したものと考えられる。
+パウロの手紙について記している。パウロが手紙を書いた時期よりも後、70-80年頃に書かれたか。
《大切な教え》
+「行いを伴わない信仰は死んだもの。」(2:26)…一見、パウロの「信仰義認」と正反対に映る。しかしそうではなく、「信仰さえあれば、何もしなくても良い」という怠惰な信仰生活を送っている者に、厳しい注意を与えたもの。
+そのほかに、試練を受けても忍耐するように、貧富の別によって人を分け隔てしてはならない、富んでいる者は貧しい者の事を思いすべき事を実践すること、試練には忍耐し、祈りを欠かさないこと、等を教えている。
+それらをまとめると、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に浄く汚れのない信心です。」(1:27)
【ザクっと読むために ヘブライ11:1-16 信仰】
*信仰とは、見えないものを信じて、この地上をしっかりと歩むためのもの。地上の生活での苦難に、くじけてしまわずに、希望をもって歩み続けるためのもの。信仰は、現実逃避の道ではない。
【ザクっと読むために ヤコブ5:7-20 忍耐と祈り】
*私たちに苦難が訪れるのは、喜びがすぐそこまで来ているからか。「冬来たりなば春遠からじ」かな。希望を持ちたい。忍耐は、諦めのためではなく、希望のため。
*以下、全て藤原の個人的な意見です。参考までに。
ヘブライ人への手紙
「大祭司キリスト」
+「聖餐式の最中は、司祭の動きに注目すること。イエス様が司式しておられる。」とか、桃山基督教会の正面の十字架に、祭服を付けたイエス様の像があったり、とか、「司祭としてのイエス様」という伝統的な考えがある。それは、ヘブライ人への手紙から。
+「大祭司キリスト」の考えは、本書独自の考えではなく、新約聖書の随所に見られる。それを、はっきりと「大祭司」と言う言葉で説明したのが本書。
*ローマ3:25「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」
*1コリント1:30「キリストは…義と聖と贖いとなられたのです。」
*エフェソ1:7「私たちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。」
+「大祭司キリスト」論は、つまるところ、イエス様の十字架と復活を、改めて説明したもの。
祭司とは?
+一言で言うと、「犠牲を献げる人」。旧約聖書の時代、礼拝の中心は、神殿での犠牲だった。考えてみれば、「犠牲」は、古今東西、どこでも行われる。仏壇や神棚に、毎朝、ご飯やお茶をお供えしたり、秋の収穫の時には、お米をお供えしたり、時には人間を献げる「人身御供」が行われたり。どうも私たちは、「大切なものを、神様に捧げなければならない」という思いを持っているみたい。
+旧約聖書を見ていると、犠牲の意味は、1・捧げもの(「全てのものは主の賜物、私たちは主から受けて主に捧げたのです。」)、2・交わり(動物の犠牲を捧げた後、みんなで食べる。)、3・贖い(自分たちが罪深いから、犠牲によって罪を贖ってもらう)等の意味があるみたい。
+レビ1:9「祭司はその全部を祭壇で燃やして煙にする。これが焼き尽くす献げものであり、燃やして主に献げる宥めの香りである。」
+後に、犠牲の行為そのものだけでなく、その意味が強調され、イエス様もその考えを受け継ぐ。マタイ9:13「『私が求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(犠牲の教えは、愛の奉仕の教えへと、解釈される。)
「大祭司キリスト」によって救われた私たち。
1、イエス様は「一番スゴイ!」
+冒頭から、何の根拠もなしに、「イエス様はスゴイ!天使よりもモーセよりも偉い、神の子!」と説明する。その理屈は、旧約聖書のみ言葉を縦横無尽に用いて説明される。(その説明の仕方は、全編通じて。)
+イエス様のスゴさの根拠は、本書には明記されていないが、イエス様の「復活」だろう。
*使徒言行録2:32-36「神はこのイエスを復活させられた…あなた方が十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
*ローマ1:4「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって、力ある神の子と定められた。」
*1コリント15:20「実際、キリストとは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。」
2、このスゴいイエス様が、人間として大祭司になり、人を救われた。
+2:17-18「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」祭司は、神と人との仲介者だが、あくまで人間。神の子が、人間として大祭司になってくださったので、人間を救いうる。
3、イエス様は「一番スゴイ大祭司」
+5:7「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」イエス様の十字架そのものが、大祭司としての働きだった。
+そして、旧約聖書のみ言葉を縦横無尽に用いて、「一番スゴイ大祭司」を説明する。
*7:27「他の大祭司たちのように、…毎日いけにえをささげる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、ご自身を献げることによって、成し遂げられたからです。」普通のいけにえは羊等の動物を使う。イエス様はご自分の体をいけにえとされた。「最高」の犠牲
*9:15「キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません。」「新約・旧約」の名称の元になる「古い契約が更新され新しい契約になった」の考えを用いる。
*9:22「血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」モーセが、民に犠牲の血を振りかけた出来事を用いて、イエス様の十字架の死が、モーセの出来事を更新するものとしている。
4、では、私たちの「信仰」は
*2:3「私たちは、これほど大きな救いに対して無頓着でいて、どうして罰を逃れることができましょう。」
+「大祭司キリスト」の理論が完成されれば完成されるほど、私たちの「信仰」の入る余地が少なくなっていくような気がする。
*10:21-22「私たちには…偉大な大祭司がおられるのですから…信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」本書では、信仰の用語として「信仰」「忍耐」「受け継ぐ」等の言葉が用いられている。どうも、静的な印象を受ける。
+ローマ10:9-10「口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で告白してすくわれるのです。」あくまで印象だが、パウロの信仰の姿を見ると、自分が主体的に行う信仰告白によって、自分の救いを手に入れるかのような印象を受ける。それに対して本書では、既に大祭司キリストが成し遂げてくれた救いを、受け入れるしかできないような印象を受ける。
+それは、一つには、本書がパウロ文書よりも時間が経ってから書かれたものだからだろう。本書その物が「説教」と言われるが、論旨の緻密さ、旧約聖書の引用の多さを考えると、ずいぶん時間をかけて作られたものと感じられる。それだけに「落ち着いた」信仰形態になっているのだろう。(*6:2「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう。」)
+もう一つは、本書の目的が「迫害の中にあって苦しみつつあるキリスト者の信仰を励まし、強化する」(新共同訳聖書注解より)にあるからだろう。目の前の苦難の状況に際して、信仰から離脱しないために、ただひたすらキリストに信頼し、互いに助け、支え合う必要があったのだろう。
*偉そうに解説しているが、自分の信仰はどうか?「神の存在と自分とのかかわりを認める」という信仰の初歩から成長しているか?自省する。
ヤコブの手紙
信仰生活チェックリスト!
+聞くのに早く、話すのに遅く、怒るのに遅くする。
+聖書の教えを実行する。
+人を分け隔てしない。
+舌を制する。
+純真で、温和で、優しく、従順に。
+(仲間の)悪口を言わない。
+おごり高ぶらない。
+富んでいる人は反省し、貧しい人は希望を持つ。
+試練に耐え、誘惑に勝つ。
私たちが信じる神
+迫害される者に報われる神(1:12)
+全てを造り、全てを治める神(1:18)
+貧しい人を富ませ、富んだ者を空しくする神(2:5)
+行いを正当に評価される神(2:14)
+終末を治める神(5:9)
《ペトロの手紙Ⅰ》
+「イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ピティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。」(1:1)イエス様の一番弟子であるペトロが、アジア州の信徒に向けて書いたとされている。しかし、流暢なギリシア語、ローマ帝国による迫害が本格化していることから、ペトロの死後、ある程度経ってから(90年ごろか)、ペトロの名を借りて書かれたと思われる。
+「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。」(1:8)これは筆者の経験でもあるだろう。
《大切な教え》
+迫害に耐え、信仰を証しすること。それは苦しみだけでなく、最大の喜びでもある。「愛する人たち、…火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません。むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」(4:12-13)
+終末が近い。だからこそ、日常生活をしっかりと過ごしなさい。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。」(4:7)迫害の中で、終末の接近を感じているからこそ、社会の制度に従い、主従関係を守り、夫婦、家族、仲間を支え合って生活していきなさい。また教会の長老(現在の牧師、司祭)は信徒を支えなさい。
+「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。キリストも罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなた方を神のもとへ、導くためです。」(3:17-18)。…「殉教者」の礼拝の時に、必ず読まれる箇所。
《ペトロの手紙Ⅱ》
+「Ⅰ」と同様、ペトロとは別の人が、ペトロの死後、ペトロの名前を借りて書いた物。
+ただ、「Ⅰ」よりもだいぶ後に書かれたと思われる。それは、「Ⅰ」が普及しているのが前提(「私はあなたがたに2度目の手紙を書いていますが」3:1)、また、パウロの手紙が普及している(「私の愛する兄弟パウロが…手紙の中で…述べています。」3:16)
+100年から120年頃に書かれたか。
《大切な教え》
+「偽教師」が現れることを予告。彼らは滅びをもたらす。(2章)
+そのため、聖書をしっかりとと読むこと。「聖書の預言は何一つ、自分勝手に解釈すべきではない。」(1:21)
+終末の実現が遅れているが、動揺せずにしっかりと待つこと。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人達は遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」(3:8-9)
《ペトロの手紙Ⅰ》
+ペトロの名を冠してはいるが、流暢なギリシア語、ローマ帝国による迫害が本格化していることから、ペトロの死後、(90年ごろか)書かれたと思われる。
《大切な教え》
+迫害に耐え、信仰を証しすること。「キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。」(4:12-13)
+終末が近い。だからこそ、日常生活をしっかりと過ごしなさい。
《ペトロの手紙Ⅱ》
+「Ⅰ」よりもだいぶ後に書かれたと思われる。100年から120年頃か。
《大切な教え》
+終末の実現が遅れているが、動揺せずにしっかりと待つこと。「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。」(3:8-9)
《ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ》
+ヨハネによる福音書と同じグループによって書かれた。100年頃か。
+内容の強調点も、福音書と同じ。
《大切な教え》
+とにかく「愛」!「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまって下さいます。」(Ⅰ 4:16)
《ユダの手紙》
+イエスの兄弟の一人ユダの名前を用いて書かれているが、内容はもっと後期のもの。100年から120年頃か。
《大切な教え》
+「偽教師」に注意しなさい。「疑いを抱いている人たちを憐れみなさい。…ほかの人たちを用心しながら憐れみなさい。」(22-23)。不信仰な時代での信仰生活。
【ザクっと読むために Ⅰペトロ1:3-12 生ける希望。】
*苦悩の先にある希望を語る。確かにそうかもしれない。数々の苦難によって、優しく、前向きなお人柄になった方々を、私たちは知っている。「艱難汝を玉にす」は、経験によって得られたものなのだろう。
【ザクっと読むために Ⅱペトロ1:3-15 神の大いなる約束。】
*「信仰には徳を、徳には知識を…」信仰生活も成長する。「聖書を読んだから」「洗礼を受けたから」「牧師になったから」それで何かゴールにたどり着いたわけではない。自分なりに信仰生活を深めてゆくことが必要。それはより深い喜びに出会うこと。
【ザクっと読むために Ⅰヨハネ4:7-21 神は愛】
*神様が私たちを愛して下さって、すべてが始まった。私たちは既に愛されている者。だから、愛することができる者。
【ザクっと読むために Ⅱヨハネ4-11 真理と愛】
*作者は「長老ヨハネ」と伝えられている。彼は、12使徒の中で唯一、殉教の死を遂げなかった者。老齢になるまで、多くの弟子たちに薫陶を与えた。彼の説教の中心はいつも「愛」。晩年には「神は愛、互いに愛し合いなさい」という説教しかしなかった、という伝説もある。自分の生涯をかけて、愛を説いた人がいる。
【ザクっと読むために Ⅲヨハネ1-4】
*「私の子どもたちが真理の内に歩んでいると聞くほど、うれしいことはありません。」私たちは、自分が何かを成し遂げたいと思うのと同時に、誰かに自分の大切なものを受け継ぎたい、と思う。自分が評価されるよりも、自分の後を継ぐ者の評価を求めるようになるのだろうか。
【ザクっと読むために ユダ17-23 警告と励まし】
*新約聖書には、苦難に遭う人々への励ましのメッセージが多い。それは、新約聖書が、キリスト教の迫害の時期に書かれたものだからだろう。苦難に立ち向かうには、祈りと愛と希望が良いと、先人たちは語る。経験に基づいた言葉だけに、大切に聴きたい。
*以下、全て藤原の個人的な意見です。参考までに。
ペトロの手紙Ⅰ
*本書のテーマは、「苦難の中の喜び」。私たちは、何となくこの価値観を受け入れ、理解している。その具体的な内容を、本書から見てみたい。
+苦難によって鍛えられる。(1:7)
+キリストと同じような苦しみに出会うことで、キリストと出会う。(1:8)
+キリストの十字架など、過去の出来事が、現在の私たちにつながる。(1:11-12)
+キリストは苦しまれたが、復活された。(2:4)
+今の苦しみは、将来の自分につながる。(2:5)
→過去-現在-未来へとつながる。
+苦しみが、より高い倫理性へと自分を導く。(3:9)
+自分の苦しみを通して、他者に宣教できるようになる。(3:15-16)
+今の苦しみは、終末時の栄光につながる。(4:12-13)
*「苦難の中の喜び」とは、基本的には、価値観の逆転現象。正反対のものに転換する。最悪のものが最高のものになる。そのような力が、信仰にはある。
ペトロの手紙Ⅱ
*本書のテーマは、「偽教師」つまり、後に言うところの「異端」について。
*それまでは、教会の外からの迫害が大きな課題だったが、その後、教会内部の「異端」への対応が大きな課題となってくる。
*用語の問題。「滅びをもたらす異端」(2:1)…ここでの用いられ方は、現在、我々が思い浮かべるようなものとは違う。
+「異端」の本来の意味は「選択」であり、学問や宗教の派、また分派を指すが(使徒5:17等)、後に「仲間割れ」(1コリ11:18)の同義語として「仲間争い」(1コリ11:19等)、更に「分裂」(テト3:10)を表す語となった。イグナティオス(35-107/17年)以後は、「正統」信仰に対する「異端」を指す用語となったが、ここではグノーシス主義の異端が意識されているのかもしれない(ユダ19節と比べよ)。(新共同訳聖書注解より)
*聖書の中では、まだ「異端」という用語ではなく、「偽教師」「反キリスト」などの言葉が用いられている。
*ここでは、「異端」という言葉を用いて解説する。
*「異端」とは何か?
+「みだらな楽しみ」(2:2)、「彼らは欲が深く、うそ偽りであなたがたを食い物にします。」(2:3)
+旧約聖書の引用。ノアへの迫害。ソドムとゴモラ。「不道徳な者たちのみだらな言動」(2:7)。バラム(民22:21-30):金銭欲の象徴として記される(聖書の記述とは違う気がするが…)。
+「大言壮語」で、「肉の沃野淫らな楽しみで誘惑する。」(2:17-)
*「異端」とは、「異なる教えを信じる人」ではなく、「みだらな行いをする人々」のこと。だから、同じ「キリスト教」でも「異端」であり得るし、「他宗教の人々」でも、「同信の仲間」となり得る。要は「愛」の問題。
*「終わりの時には、欲望の赴くままに生活してあざける者たちが現われ、あざけって、こう言います。『主が来ると言う約束は、いったいどうなったのだ。…』」(3:3-)
+「異端」とは、終末の希望を壊して、人々を、諦めと絶望、刹那的な生き方へと誘惑する者たち。
*私たちは、愛を忘れず、正しい行いをし、希望を失わない。
ヨハネの手紙Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ
*ヨハネによる福音書との関係。
+福音書では、ユダヤ教との緊張関係が背景にある。いわば教会の「外」との対立。手紙は教会「内」の分裂、または「異端」の課題が背景にある。
+「ヨハネの教会を襲った第一の危機ともいうべきユダヤ教との決別の時期に福音書が記され、その後、この福音書の読み方について福音理解の誤りが生じ、異端の問題が第二の危機として襲った。これに対応するために書かれたのが手紙。」(新共同訳聖書注解)
*三つの手紙の関係は、まず「Ⅲ」が、長老からの個人的な手紙として書かれ、この手紙を基にして、幾つかの小さな家の教会への回状として「Ⅱ」が書かれ、最後に勧告、または説教のようなものとして「Ⅰ」が書かれたと考えられる。
+「Ⅲ」では、正しい信仰を持つ巡回伝道者が教会を訪問し、信徒が受け入れたのだが、教会の指導者になりたがっているディオトレフェスは彼らを受け入れず、悪い影響を信徒たちに与えている。「Ⅱ」では、今度は「異端」である巡回伝道者が教会を訪れている。彼らは、イエス様の受肉を認めず、互いに愛し合うという掟を守らず、人々を惑わす「反キリスト」である。「Ⅰ」では、そのような「異端」は教会から追放されている。長老派正しい信仰を信徒たちに教える。
*この「異端」とは、「グノーシス主義者」たちだろう。
+「グノーシス主義」…トマスによる福音書を含むこれらの文書は、グノーシス主義の文書だった。グノーシス主義とは、ヘレニズム時代に世界各地に存在した思想の一つ。究極の存在である「至高者」と本来の自分とが一つである、と「認識」(ギリシア語で「グノーシス」)することによって救われる、とするもの。キリスト教に限らず、様々な宗教、思想でグノーシス的思考展開が為された。この思想は神話を持つが、それは概ね次の通り。初めに上界に至高者(「父:パーテル」、「霊:プネウマ」などと呼ばれる)がいた。至高者は女性的属性(「知恵:ソフィア」などと呼ばれる)と対をなしていた。女性的属性は中間界に降り、様々な神的存在を産む。その長たる形成者(デーミウールゴスなどと呼ばれる)は、下界と人間を形成する。形成者は、至高者の存在を知らず、自分を万物の主と誇示し、人間と下界の全てを自分の支配下に置く。人間は「無知」の状態に置かれ、自力では自分の本質に気付くことができない。そこで至高者は下界に自分の子を送り、人間たちに人間の本質を告げさせる。これにより人間は、自分の本質についての正しい認識を得、子と共に上界に昇り、至高者と一体化する。これが救いである。
*この世界を否定的に捉え、この世界を超えるより上位の世界を目指す。社会の権威や権力者たちを相対化し、富や物質や肉体を否定的に捉え、禁欲的な考え方や行動をとる。社会の中で苦しい状態に置かれている人々の中で、同時多発的に、自然に発生した考え方。
*キリスト教グノーシス主義の場合、創造主である神(三位一体論における「父なる神」)を「形成者」として捉え、イエス・キリストを、至高者から遣わされた子と捉える。そのため、聖書や聖職者を含めた教会の権威を相対化し、イエスの人間としての働きを軽視する(肉体と肉体の働きを否定的に捉える)。十字架による贖罪や救済を否定する、または無視する傾向を持つ。
*ヨハネの手紙が語る「異端」:「反キリスト」との対応。
+(1:1-)キリストは肉体を持ち、それゆえ私たちを交わりを持つ。
+(1:5-)キリストの「血」(肉体の証明)によって罪を赦す。「罪」とは、私たちが肉体をもって犯す具体的なもの。
+(2:1-)神の掟を守る。これは具体的なもので、社会的責任を伴うもの。
+(2:7-)「愛」とは「目に見える兄弟を愛する」こと。具体的。
+(2:28-)義を行うことで神の子となる。←→【グノーシス主義者(以下、グ)】真理を知る(グノーシス)ことで救われる。:行いを軽視。
+(3:1-)父なる神の愛←→【グ】父なる神を、悪い「形成者」歳て否定する。
+(3:11-)誠実に愛し合おう。←→【グ】この世での行いを軽視。
+(3:19-)互いに愛し合うことで、神がその人のうちに留まる。←→【グ】至高者を「知る」ことで、一体化する。
+(4:1-)キリストが肉となって来られた。←→【グ】キリストの本質は霊。十字架によって肉体から解放された。
+(4:11-)「イエスがいけにえとなる。」肉体が価値あるもの。具体的には地上における愛の奉仕。私たちも具体的な愛によってイエスと一つになる。
+(4:16-)「愛が私たちのうちに全うされているので、裁きの時に確信を持つことができる。」終末の裁きから救われるのは、カルト的な「信仰」ではなく、イエスに信頼して具体的に愛を行うとき。
+(5:1-)「永遠の命を得ていることを悟らせたい。」私たちは既にイエスと一つになっている。強迫観念的に救いを渇望するのではなく、既にs食われていることに感謝し、互いに愛し合いながら、終末に希望を持つ。
ユダの手紙
*ペトロの手紙Ⅱと並行している箇所が多い。(4-16節がⅡペトロ2:1-18に、17-18節がⅡペトロ3:2-3)
*テーマは共に「異端」。本書では特に、「異端」がどのような裁きに遭うかが記されている。
*以下( )内は、本書の節数。
+(5)出エジプトの民の背信。
+(6)人間の娘たちと交わった天使たち。ノアの方舟の序章。
+(7)ソドムとゴモラ。
+(9)ミカエルと悪魔との戦い。旧約聖書偽典「モーセの昇天」より。
+(11)カイン:最初の殺人犯。バラム:金銭欲の象徴。コラ:モーセとアロンに反逆(民16:1-35等)。
+(14)エノク「主が大勢の天使たちを引き連れ、裁く。」旧約聖書偽典「エチオピア語エノク書」より。
*裁きを覚え、背信しないように。
《ヨハネの黙示録》
+信仰の故にパトモスと呼ばれる島に流されたヨハネ、が作者。ローマ帝国の迫害が本格化した頃に書かれた。90年から100年頃か。
+「黙示」とは、「啓示」あるいは「開示」を意味するギリシア語・アポカリュプシスから来ている。簡単に言うと、暗号で書かれた書物。ローマ帝国のさらなる迫害を避けるため、暗号で書かれた。
+内容は、世の終わりのことが記されている。(世の初めの事が記された創世記から始まり、世の終わりのことが記された黙示録で、聖書は構成されている。)
+悪魔や最終戦争など、ショッキングなことが記されているが、本当は、「苦難に遭っても信仰を保つ」ことを勧め、信徒を励ます書物。
+何よりも、礼拝で用いるための書物。祈祷書には多くの引用がある。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方。」(4:8)
+殉教者達は、今、神様のみ前で賛美を歌い、祈りを捧げている。地上にいる私達は、今、迫害を避け、ひっそりと礼拝している。この礼拝と天上の礼拝はつながっていて、私達の小さな賛美の声は、天上の壮麗な賛美の声と混ざり合っている。
【ザクっと読むために 黙示録21:1-4 新しい天と新しい地】
*聖書の価値観は「神様中心主義」。だから、聖書が説く人間の最大の喜びは、「神様と直接会うこと」。この地上では、見えず、触れず、声を聴くことのできない神様と、直接出会い、交わりを持つことを、人々は願い求めた。会うだけでも最大の喜びなのに、「芽から涙をことごとく拭い去ってくださる」なんてことになれば、想定外の超喜び。黙示録に記された幻は、目には見えないけれども、今、行われている事実を表している。今、神様は、直接その手で私たちの涙をぬぐい、慰め、力づけてくださっている。希望をもって歩みたい。
*以下、全て藤原の個人的な意見です。参考までに。
ヨハネの黙示録
「黙示録」は本書だけじゃない。
*ザカリヤ書、ダニエル書の後半、イザヤ書の一部、福音書の一部、また旧約聖書続編では、エズラ記(ラテン語)、外典偽典では、エノクの黙示録、モーセの昇天、十二族長の遺訓、バルクの黙示録など、黙示録は多い。
*それらは、内容に秘密のヴェールを掛け、正典以外では、作者を過去の偉人の名にして、記している。そして内容を「封印」して、時が来るまで知らせるな、としている。(「ダニエルよ、終わりの時が来るまで、お前はこれらのことを秘め、この書を封じておきなさい。多くの者が動揺するであろう。そして、知識は増す。」(ダニエル12:4))
*本書は黙示録でありながら、他の書とは違う性格がある。
1)作者を隠していない。
…作者を「ヨハネ」と明記している。どうやら彼は、全教会的に名の知れた人だったよう。責任ある指導者が、自分の名前で、各地の愛する教会に書き送った書簡。
2)内容を封印していない。
…「この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはならない。時が迫っているからである。」(22:10)時が来るのを待つのではなく、すぐに各地の教会に送られて、現在進行中の苦難の状況の中で用いられることが期待されている書。
*実は本書は、「黙示録」でありながら、その書かれた意図や用いられ方は、「預言書」に近い。今、課題に直面している人々のために、作者が責任をもって(命を掛けて)語り掛けている書。
本書の目的と表現
*目的:迫害の中で苦しみ、命の危険を感じ、身の周りに殉教者を出している教会の信徒たちに、慰めと励まし、希望を与えようとしている。
…ローマ帝国の迫害が本格化している。
*表現1:ローマ帝国の滅亡と、教会信徒の最終的な勝利を、暗号で書いている。
…「ローマは必ず滅びるぞ」と書くと、ますます迫害される。「バビロンは滅んだと天使は語る」と書くと、信徒たちは、旧約聖書の知識も用いて、その意図が分かる。
*表現2:普遍的な希望を語る。
…教会に対する勧告、死後の世界での様子、最終的な神様の慰めなど、現在の課題に関わりながらも、より普遍的な様子を記し、希望を与える。
*表現3:礼拝での慰め。
…礼拝で用いられていたであろう言葉や、「主の日に幻を見た」「突然”霊”に満たされた」などは、礼拝中に経験したことを記しているのだろう。迫害の中で人目を避けてひっそりと行っている礼拝と、今、天上で、殉教者たちが白い衣を着て天使たちに囲まれ、神様に直接相対しながら、大声で礼拝している姿とが、つながっていると実感した。礼拝が、苦難の中での慰めとなっていることを教えている。
主な礼拝的表現は、1:7、4:1-11、5:1-14、7:1-17、11:15-19、12:10-12、15:2-4、19:1-10、
新約聖書の中での特異性
*本書が正典に正式に組み入れられたのは4世紀終わりごろ。ずっと論争はあり、宗教改革者たちも本書に対しては低い評価を与えている。
*読んでみても、内容的に特異な感じがする。「ナザレのイエス」の姿は全くなく、痛々しい「十字架のイエス様」の姿も、弟子たちと共に生きる「復活のイエス様」の姿も、本書には無い。「神の小羊」として暗号化されたイエスか、「口から剣を出して、目が燃えていて」のような、視覚的表現が困難なイエスの姿しかない。
*例えば、同じ「ヨハネ」の名を持つ「ヨハネによる福音書」「ヨハネの手紙」に良く出てくる「光」「真理」「愛」「平安」「新しい戒め」などの表現はなく、またパウロ書簡のように「信仰による義」などの表現もない。
*その代わりに、本書に良く出てくるのは、「忍耐」「正しい者への報い」「悪い者への裁き」「一時的な迫害」「最終的勝利」など。これらも新約聖書の思想に含まれるが、ここまで前面に出てくるのは本書だけ。
*迫害があまりに厳しく、人間に落胆し、世界に絶望し、最後の砦である神への信仰さえも失いそうになっている信徒たちにとっては、「愛」や「平安」などが余りに遠く、現実感の無いものになっていたのかもしれない。そのような、日頃親しんでいる信仰の言葉や概念用いずに、それでも、神の救いと福音を語ろうとするとき、本書のような表現になるのかもしれない。
「幻」は、本当に「幻視」か?
*本書は、ヨハネが幻を見て、書き記したものとされている。そこに、現実を越える宗教性を感じて、未来への予告を読み取ろうとする人々もいるだろう。
*ただ本書には、視覚的に表現が難しいものが多い。「七つの目をもつ小羊」「口から刃」「人の子の様な姿」「7つの星を持つ」など。これらは、言葉としての象徴的な意味を持つものと考えれば、容易に理解できる。「小羊であるキリストはすべてを見通す」「攻撃的で厳しい言葉を発する」など。
*またこれらの表現は、旧約聖書の表現から引用してきたものが多い。(例えば、「人の子」は、ダニエル書7:13で用いられている。)
*本書は、宗教的高揚感の中で見た「幻」を基にしながらも、多くを旧約的表現で象徴的に伝えようとしたものではないか。第一印象よりも、冷静で合理的、論理的な書なのかもしれない。
内容概観。
+手紙の序文とあいさつ。(1:1-8)
+第1部:7つの教会に宛てた手紙(1:9-3:22)
+第2部:バビロン(ローマの都)に対する災いと裁き(4:1-18:24)
+第3部:聖なる都の回復(19:1-22:5)
+結び(22:6-21)
*内容が困難なだけに、ここまで整理して内容を把握しておくのが良い。
内容メモ
*(2:1-3:22)7つの教会へのメッセージ
…「初めの頃の愛から離れた」「苦難、貧しさを甘受している」「偶像崇拝に陥りかけ」「悪い信徒を放置している」「目を覚ましていなさい」「試練を耐え忍ぶ」「信仰が生ぬるい」これらは、各教会固有の課題でもあったろうが、全教会への普遍的なメッセージも含んでいよう。我々の教会だと、さしずめラオディキアの教会に送られたメッセージか。「あなたは、冷たくもなく熱くもない。…なまぬるいので、私はあなたを口から吐き出そうとしている。」(3:15-16)ドキッとするメッセージ。
*(4:1-)天上の礼拝
…「ある主の日の事」(1:10)…「私はたちまち“霊”に満たされた。すると、天上に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた。」(4:2)。主の日とは日曜日の事。教会の礼拝中に、没我状態になり、幻を見たのではないか。本書全体を、「礼拝の中で体験した幻」と捉えると、極端に奇異なものではなくなる。礼拝の中での賛美歌、熱心な祈り、牧師の説教、暗闇を照らすロウソクの炎、殉教者の墓での礼拝ならば死臭、それらを消すための香の香り、それらが背景となり、本書の表現となっているのではないか。
*(5:1-)封印を解く。
…秘密の巻物の封印を解く、と聞くと、ファンタジーやSF好きな人々は、気bんが高揚し、想像力が膨らむだろう。しかしそれらを「象徴的な言葉によるメッセージ」として読み解くと、当時の困難な状況の中で、起こりうることを記し、覚悟を決め事に当たれと言う励ましのメッセージになるだろう。
+7つの封印を、そのように解釈すると、次のようなメッセージになるだろう。「戦争の勝利」「内乱などによる流血」「深刻な飢饉や食料不足」「多くの死体」「平安」「ローマ帝国への裁きと殉教者たちの栄光」以上が、1-6の封印。第7の封印は、そこから壮大な物語となる。
*(7:1-)14万4千人の人々と、天の大群衆
…各部族から1万2千人が12部族、というのは、救われる人数の実数ではないだろう(この中に、自分たちも潜り込まなければ、ということにはならない)。これは、「迫害の中で、少数であっても、必ず最後まで残る人びと(信徒)がいる」という励ましと慰めのメッセージであろう。そして、天の大群衆は、殉教の厳しさと、けれども必ず信仰の報いがあることを示している。
*(8:1-)第7の封印。天変地異。殺戮と破壊。
…本書を「未来の予告」というなら、このあたりが一番それっぽいが、「未来の予告」につながる前後の脈絡がない。「にがよもぎ:チェルノブイリ」という言葉があっても、その前後に原発事故に至る経緯や、その後の対処が記されているわけではない。また「ヒロシマ、ナガサキ」「フクシマ」という言葉が記されている訳でもない。
またここに記されている状況は、きわめてスケールが大きい。「人類滅亡」や「地球崩壊」レベルのことで、個別の戦争や災害レベルではない。この箇所を読んで、私たちが想定しやすいのは「核戦争」や「地球温暖化の深刻化」など。そして私たちは、本書を読まなくても、これらの危機をリアルに感じている。私たちがこの深刻かつ大きな課題に直面した上で、現実に行なっているのは、緊張感をもって報道に関心を持ち、戦争の終結と和平を望み、また自然環境を少しでも壊さないような生活スタイルに少しずつでも改善し、また、これらの動きの中で、日本が、また自分の住む地域や自分の属する組織、また自分自身が、少しでも積極的な役割を果たすことを望み、少しずつでも実行している。つまりは、「希望を忘れず、自分のできることを行う」と言うことをしている。もちろん神様に祈り、聖書を学ぶが、全てを「神頼み」にして、自分の責任を放棄しようとは、考えもしない。「終末的」「黙示録的」状況の中で、私たちが行うのは、きわめて「日常的、合理的、常識的」なことであり、「愛を忘れない」生き方である。
*(10:1-)天使が小さな巻物を渡す
…「秘めておけ。書き留めてはならない。」(10:4)何を聴いたのか、何を書こうとしたのか、興味があるが、多分それは重要なことではないのだろう。ここにも、旧新約聖書の象徴的な言葉が用いられている。「食べると苦い巻物」は、エゼキエル2:8-に出てくる。これは、語るに辛く、聴きがたい、厳しい預言、ということだろう。また、2コリント12:2に、パウロが第3の天まで上った時「人が口にするのを赦されない、言い表し得ない言葉」を聞いたと、記されている。またダニエル12:4,9には「封じておきなさい」とある。これらは、神の国の成就まで、真理は完全に理解することはできず、私たちが生きているこの時は、真理に向かう中間点なんだ、ということを記しているのだろう。
*(11:1-)第7の封印、以降。
…「42ケ月」アンティオコス・エピファネス(旧約における最悪の迫害者)が、エルサレム神殿に偶像を設置し、礼拝することを強制した期間。「1260日」1ケ月を30日とし、42を掛けた数。これらは、迫害の激しさと長さと同時に、あくまでもこの迫害は一過性のものなのだ、と言うことを教えている。
*(12:1-)女と竜。
…竜で、女で、天使で、悪魔で、と、とても奇異な部分。しかし、これも象徴的表現が用いられている。「神的な子どもが、混沌の時代に生み出され、戦いに勝利する」という神話は、古代社会に沢山あったらしい。エジプト神話もホルス物語、ギリシア神話のアポロ物語、等。
+「太陽をまとい、月を足の下に、12の星を頭に」というのも、視覚的表現としては困難。これは、古代の人々が、信仰の対象としていた太陽、月、星などを、アクセサリーにすぎないものにしてしまうほど、この「女性」で表現されるものは偉大、ということを表現したいのだろう。
+この「女性」を、「救済者の母」として、マリアとする理解は、深くからあり、そのような視覚的表現も伝統的にある。ただし、ただし、本書そのものをみると、「子孫の残りの者たち」という表現や、イエスの信者のような表現もあるので、この女性を「教会」と理解すべきであろうと思われる。
*(13:1-)二匹の獣
…最初の獣は皇帝ネロ(666は、ヘブライ語を数字に置き換えた時、ネロと読める)、第2の獣は、皇帝崇拝を強制する任務を与えられたローマ帝国東部の総督と考えられる。
*(14:1-)以降に出て来る象徴的な言葉を、少しピックアップすると
…(14:6)「大バビロンが倒れた。」:ローマ帝国が倒れ、我々が勝利する。(14:14)鎌…ヨエル4:13、(15:1)7つの災い…出エジプト、過越しを思い起こさせる。新たな出発、新たな信仰的ステージ。(17:1)淫婦…淫らなことをする、というのは、偶像崇拝の表現。7つの頭…7人のローマ皇帝。(17:9)7つの丘店ローマの都。10本の角…10人の王。
*(18:1-)バビロンの滅亡
…「彼女の仕業に応じ、倍にして返せ。彼女が注いだ杯に、その倍も注いでやれ。」(18:6)。地の通りの「倍返し」。読んでいて衝撃的なのは、バビロン(ローマ帝国)の滅亡ではなく、これを語る人びとの復讐心の強さ。これだけの激しい報復心を、仮にも「クリスチャン」が抱いて良いものなのだろうか。「復讐するは我(神)にあり」ではないのか。そんなことに疑問を持つ私の認識が、まだまだ甘いのだろうか。彼らの受けた苦しみは、私では到底理解できず、苦しみに対する共感や同情を行うだけの心の力も、私には無いのかもしれない。当時の彼らの苦しみを考えると、これが人間としての正直な気持ちだったのかもしれない。
*(19:1-)ハレルヤ
…ただ、すぐさま場面は天上での神への賛美に移る。この場面を読んで、私の心も落ちつく。やはり、どれほど恨みを抱こうとも、神への信頼へと移行していくのが、私たちの歩むべき道なのだろう。もしかしたら、これを書いた作者ヨハネ自身も、同じように感じていたのかもしれない。
*(20:1-)千年間の支配。
…「千年王国」の話は、新約聖書の他の書には無い。それゆえ、長年、多くの人々の関心を呼んできた。しかし、同時代のユダヤ教の黙示文学では、終末の来るべき神の支配の前に、過渡的なメシア王国が起こるという考えが広がっていた。(たとえば「わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、遺された人々には四百年にわたる喜びがあるだろう。」【エズラ記(ラテン語)7:28】)
+過渡的メシア王国の考えは、終末における救済者についての二種類の考え方を、合わせたものと言える。一つは「民族的メシア」:救済者がイスラエル国家を復興し、主教的、政治的、軍事的に統治する。もう一つは「終末的救い主」:この地上の国家を超える超越的世界の統治者。
+この箇所は、信仰に関するもの、というより、理屈や説明と言った印象を受ける。大変興味深く、劇的な物語でありながら、そこに信仰的な高揚感や救い、喜びはあまり感じられない。
*(21:1-)新しい天と新しい地
…それよりも、この箇所に、深く、大きな信仰的喜びを感じる。「神が共に居てくださり、直接慰めてくださる。」これは、ローマ帝国の過酷な迫害に直面していた、当時のクリスチャンたちが切実に求めていた者であると同時に、新旧約聖書を貫いて、聖書が語る最大の慰めのメッセージ、救いの指針である。神は、奴隷のイスラエルのために燃える柴に現れ、荒れ野の四〇年間は雲と火の柱で民と共におり、苦しみにあえいだヨブに直接対面した。イエス・キリストは「私は世の終わりまで、いつもあなた方と共に居る」と約束して下さった。この箇所は、現代の私たちに、全ての人々に、喜びと希望を与える。
*(21:9-)新しいエルサレム
…「地上の王たちは、自分たちの栄光を携えて都に来る。」(21:24)天上の神の国と、地上の歩みとが結びつく。
*(21:6-)結び
…最後の短い箇所で、私たちが現実に戻される。現実に向けてのメッセージは、私たちにとって、現実的であり、実行可能であり、私たちを力づけるもの。
私たちがすべきは
+天使を礼拝するのではなく、神を礼拝せよ(22:9)
…現実から遊離した宗教的言説の中に逃避してしまうのではなく、日常の生活の中で信仰生活をしっかりと送ってゆく。
+預言の言葉を秘密にするな。(22:10)
…「忍耐」「希望」「正義」などを宣べ伝えてゆく。
+希望を忘れず、正しく生きる。(22:11)
ローマからの迫害に直面した人々ほどの苦しみを、私たちが経験することはないかもしれない。けれども、誰もが、その人なりに、苦しみや悩みに直面する。それから免れる者はいない。そのような私たちに、本書のメッセージは力強く輝く。
+12月25日は「降誕日」。教会の暦は伝統的に、前日の夕方より日付が変わるので、12月24日の夜も降誕日の一部(正式には「降誕日前夕」)。
+祈祷書の「降誕日特祷」には、「…再び生まれ、神の子とされた私たちを、常に新しくしてください…」とある。赤ちゃんであるイエス様が生まれたことを覚えて、自分たちも信仰を新たにする、という意味であろう。
+伝統的には「平和を祈る日」というイメージがある。最も大切な祝日の一つで、クリスマス休暇もあって、家族で共に温かい時を過ごす日。世界中の人々が、このような団らんの時を持てるように祈る。「クリスマス休戦」などは好例。
+同様に「貧しい人々、苦しむ人々」を覚える時でもある。冬の寒さ、年末年始に仕事や家のない人の厳しさを覚え、困っている人々への奉仕が促される。「ホームレスの人びとへの炊き出し」は、年末年始に最も力を入れて行われる。聖書には、馬小屋で出産したマリアを始め、貧しく苦しむ人々が多数登場する。そのことを覚えて。
+日本だと、イメージ的に近いのは「お正月」か。落語にあるような「丁稚奉公も藪入り」の平和なイメージと、「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくありめでたくもなし」との一休さんの狂歌にもあるような、自戒の思い(社会福祉的な要素は薄いが)の、両面がある。
《クリスマスの喜び:自分のためではなく》
博士さんの喜び:マタイ2:1-12
+「占星術の学者たち」は、今でいう「天文学者」であろう。より正確な暦を作成するため日夜研究する。暦は、農業や治水に必要であるので、為政者にとって重要。学者たちは重用され、富も得たであろう。(ページェントで学者の衣装が王様のようなのは、そのためか。)今でいう、IT関連企業の社長、またはシステムエンジニアか。
+しかし彼らは、現世的な富を求めていない。というか、「世間ずれしていない」ようなところがある。「真の王」の誕生した場所を、「この世の王」であるヘロデ王に聞いてみたり、貧しい馬小屋を意に介さなかったり。
+何よりも「黄金」「乳香」「没薬」を幼子に捧げた。現世的な富に全く執着がない。
+自分たちの研究が、権力者のみに利用されている現状を、彼らは苦々しく思っていたのかもしれない。自分たちの研究が、人類の救いのために用いられたことを、心から喜んだのではないか。
羊飼いの喜び:ルカ2:8-20
+羊飼いの生活は厳しい。昼は熱く夜は寒く、新鮮な空気を好む羊たちのために、野原で野宿しなければならない。狼、盗賊と戦わなければならない危険。羊が失われたら賠償しなければならない。また、遊牧生活のため、宗教的戒律を守ることができず、「汚れた者」として差別される。
+そんな彼らに天使からの御つげ。「民全体に与えられる大きな喜び。」
+「その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に伝えた。」彼らは、初めてのキリスト教宣教者になった。…「聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。」ただ彼らの活動は人々から評価されなかった。
+「神を崇め、賛美しながら帰っていった。」羊飼いたちは、大きな喜びに包まれた。
…しかし、この出来事は、彼らには何の得もないこと。この救いの約束は、それから30年後、イエス様が成人してから成就した。つまりその時には、何も叶っていない。
+羊飼いたちの喜びは、「自分たちの人生が、神様の救いに計画に位置付けられている」事への喜びだったのではないか。自分たちの人生には大きな意味がある。自分たちは、人類の救いの橋渡しをしたんだ、という思いが、彼らの喜びの源だったのではないか。
《クリスマスの喜びは、自分が利益を得るものではなく、みんなが幸せになる事への喜び。みんなの幸せのために役立つことのできる喜び。》